第2話 運命の記録
昭和十六年十一月二十一日
広島県 呉海軍工廠
眠れなかった。
宿舎の窓から差し込む朝日を見つめながら、秋月誠は一睡もできないまま夜明けを迎えていた。
昨夜、自分が見たものは何だったのか。
炎上する艦隊。
海へ沈む大和。
そして――日本の敗戦。
夢にしては鮮明すぎた。
幻覚と片付けるには、あまりにも現実味があった。
「……考えても仕方がない。」
そう呟いて軍帽を手に取る。
今日は大和での本格的な勤務初日だ。
軍人である以上、私情を任務へ持ち込むことは許されない。
午前七時。
工廠へ到着すると、既に多くの工員と艤装員が持ち場へ向かっていた。
就役を目前に控えた大和では、連日、各種装備の点検と乗組員の教育が続けられている。
岸壁では補給資材を積んだ貨車が次々と到着し、艦内へ運び込まれていた。
「秋月少尉。」
昨日案内を担当した中佐が声を掛ける。
「本日から砲術科の勤務に入る。」
「了解しました。」
「まずは砲塔内を見てもらう。まだ工事中の区画もある。足元には十分注意しろ。」
「はい。」
二人は再び舷梯を上がる。
昨日よりも工員の数が多い。
主砲塔周辺では測定器具を手にした技師たちが忙しく動き、電気系統の確認を行っている。
巨大な砲身は水平に固定されたまま、静かに空を向いていた。
秋月は砲塔の装甲へそっと手を触れる。
冷たい。
分厚い鋼板の向こうには、多くの技術者たちの努力が詰まっている。
「四十六センチ主砲。」
中佐が言った。
「口径だけを見れば世界最大級だ。しかし、砲が大きければ勝てるほど戦争は単純ではない。」
昨日も聞いた言葉だった。
秋月は頷く。
「兵学校でも、同じ教えを受けました。」
「そうか。」
中佐は満足そうに微笑んだ。
「艦は人が動かす。砲も人が撃つ。忘れるな。」
砲塔内部へ入る。
鋼鉄の階段を降りるたび、外の光が遠ざかっていく。
機械油の匂い。
配線の並ぶ壁。
無数の配管。
工員たちが最後の調整を続ける空間には、完成間近ならではの緊張感が漂っていた。
「こちらが揚弾機構だ。」
担当の兵曹長が説明を始める。
「主砲弾はここを通って砲室へ送られる。」
秋月は熱心に耳を傾けた。
兵学校で理論は学んでいる。
しかし、実艦を見るのは初めてだった。
図面と現物では、受ける印象がまるで違う。
巨大な歯車。
油圧装置。
一つひとつが人の背丈を超えている。
「少尉。」
兵曹長が笑う。
「初めて見る者は皆、同じ顔をする。」
「失礼しました。」
「いや、それでいい。この艦を見て驚かない者はいない。」
その言葉に周囲の工員たちも小さく笑った。
少しだけ張り詰めた空気が和らぐ。
秋月も笑みを返した。
しかし、その笑顔は長く続かなかった。
壁際に積まれた砲弾を見た瞬間だった。
頭の奥で、昨日と同じ激しい耳鳴りが響く。
砲弾が燃えている。
砲室が爆炎に包まれる。
誰かが叫ぶ。
『総員退艦――!』
見知らぬ光景が一瞬だけ脳裏をよぎり、すぐに消えた。
「少尉?」
兵曹長の声で我に返る。
「……申し訳ありません。少し立ちくらみが。」
「無理はするな。慣れない艦内で気分を悪くする者は珍しくない。」
「ありがとうございます。」
秋月はそう答えたが、本当の理由を口にすることはできなかった。
これは体調不良ではない。
未来の記憶。
そう呼ぶしかない何かが、自分の中で目を覚まえ始めている。
もし、あの映像が真実なら。
もし、本当に未来なら。
自分は何を知っているのか。
そして――何を変えられるのか。
秋月は静かに拳を握り締めた。
昼食後、秋月は砲術科士官として担当区画の確認を命じられた。
居住区から弾薬庫へ続く通路。
非常時の退避経路。
消火設備の配置。
兵学校では何度も学んだ内容だったが、実際の艦内で歩いてみると印象はまったく違う。
迷路のように入り組んだ通路は、一つ道を間違えれば現在地すら見失いそうだった。
「就役すれば、これを身体で覚えなければならん。」
案内役の兵曹長が言う。
「夜間、停電、浸水。そのどんな状況でも、自分の持ち場へ辿り着けなければ意味がない。」
「はい。」
「戦艦は大きい。それだけ危険も多い。」
秋月は真剣な表情で頷いた。
戦艦は巨大であるがゆえに、一人の判断の遅れが艦全体へ影響する。
それは兵学校でも繰り返し教えられてきたことだった。
午後になると、砲術科の顔合わせが行われた。
年齢も経歴も様々な士官や下士官たちが集まる。
互いに敬礼を交わし、簡単な自己紹介を済ませる。
「今日から世話になる。」
「よろしくお願いします。」
短いやり取りばかりだ。
だが、その表情には皆、自分の任務への誇りが滲んでいた。
誰一人として、自分が世界最大の戦艦へ乗り込むことを軽く考えてはいない。
その日の訓練を終え、秋月は再び甲板へ出た。
夕暮れの瀬戸内海は穏やかだった。
岸壁では工員たちが一日の作業を終え、帰路につき始めている。
大和は静かに海へ浮かんでいた。
まだ一度も戦場を知らない艦。
しかし、昨日見た未来では、この艦は炎に包まれていた。
「……。」
秋月は拳を握る。
考えれば考えるほど分からなくなる。
未来が本当に起こることなら、自分は何をすべきなのか。
だが、答えは出ない。
その時だった。
制服の胸ポケットに入れていた手帳が床へ落ちた。
拾い上げようとした瞬間、また映像が流れ込む。
今度は昨日より鮮明だった。
海図。
無数の赤い駒。
そして、一つの島。
その横に書かれた文字。
『ミッドウェー』
聞いたことのない地名だった。
さらに映像は続く。
炎上する飛行甲板。
空へ逃げる黒煙。
海へ飛び込む搭乗員たち。
四隻。
四隻の大型空母が、次々と炎に包まれていく。
「やめろ……。」
思わず声が漏れた。
だが映像は止まらない。
最後に、一人の男の横顔が映る。
軍帽を深く被り、静かに海を見つめる将官。
秋月には名前は分からない。
しかし、その背中から伝わるのは、言葉では表せないほどの重圧だった。
次の瞬間、映像は消えた。
「少尉、大丈夫か。」
振り返ると、中佐が立っていた。
「顔色が悪い。」
「申し訳ありません。少し疲れが……。」
「慣れない環境だから無理もない。今日はここまでにして休め。」
「ありがとうございます。」
敬礼を交わし、中佐は去っていく。
秋月は一人、夕暮れの海を見つめ続けた。
未来は断片的にしか見えない。
知らない地名。
知らない海域。
知らない戦い。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの未来では、多くの命が失われていた。
もし、自分だけがそれを知っているのなら。
何もしないことは、本当に正しいのだろうか。
まだ答えは出ない。
それでも秋月は、胸の内で静かに決意していた。
――まずは知ろう。
未来を変えるかどうかではない。
何が起きるのかを知らなければ、何一つ守ることはできない。
その夜。
宿舎へ戻った秋月は、机の上へ白紙の大学ノートを一冊置いた。
表紙を開き、一行だけ書き記す。
『未来の記録』
そして、その下に震える手で最初の文字を書いた。
『昭和十六年十二月八日――』
インクが静かに紙へ染み込んでいく。
それは、未来へ抗うための最初の一ページだった。
――続く。
あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本作は史実を尊重し、当時を生きた方々への敬意を大切にしながら描く歴史IF架空戦記です。史実を土台に、「もし未来を知る一人の士官がいたなら」という視点で、少しずつ歴史が分岐していく物語を目指しています。
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次回 第3話「未来への誓い」




