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戦艦大和は、歴史を書き換えられるか。 ~未来を知る帝国海軍士官の決断~  作者: 春野ケイ


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第16話 聯合艦隊旗艦

昭和十六年十二月十七日


広島県 呉軍港


 夜明け前の呉軍港は、凍えるような静けさに包まれていた。


 昨日、戦艦大和は正式に帝国海軍へ引き渡され、就役を果たした。


 しかし、その翌朝だからといって、港の景色が劇的に変わるわけではない。


 沖には巡洋艦や駆逐艦が静かに停泊し、岸壁では補給用の貨車がゆっくりと走っている。


 冬の澄んだ空気の中、工廠からは相変わらず鋼鉄を打つ音が聞こえてきた。


 新しい艦が完成すれば、また次の艦が造られる。


 海軍に終わりのない仕事があるように、工廠にも終わりはなかった。


 秋月誠は、昇る朝日を受ける大和を見上げた。


 昨日までは「就役を控えた戦艦」だった。


 今日からは違う。


 帝国海軍戦艦「大和」。


 その名を背負い、任務へ就く一隻である。


 舷側に掲げられた軍艦旗が、冬の北風を受けてゆっくりとはためいた。


「少尉、おはようございます。」


 兵曹長が歩み寄り、敬礼する。


「おはよう。」


 秋月も敬礼を返した。


「艦の雰囲気が変わりましたね。」


 兵曹長は艦橋を見上げながら言う。


「昨日までは工廠の船でした。」


「今日はもう、海軍の船です。」


 その言葉に、秋月は静かに頷いた。


 同じ艦。


 同じ甲板。


 それでも、就役という節目が、人の意識をこれほど変えるものなのかと驚かされる。


 二人は舷梯を上がり、上甲板へ向かった。


 昨日まで見慣れていた工廠技師たちの姿は少ない。


 代わって、海軍士官や下士官が各部署で指示を出している。


 艦内に流れる空気が、わずか一日で引き締まっていた。


 朝礼では艦長が乗組員たちを前に立った。


 張り詰めた静寂の中、その声だけが甲板へ響く。


「諸君。」


 短い一言で、全員の視線が集まる。


「昨日、本艦は正式に就役した。」


 誰一人として身じろぎしない。


「だが、就役は終わりではない。」


「海軍軍人として、本当の任務はここから始まる。」


 その言葉は静かだった。


 しかし、一つひとつが胸へ深く響く。


「本艦は今後、聯合艦隊旗艦としての任務を担う。」


 一瞬だけ、甲板の空気が変わった。


 聯合艦隊旗艦。


 その言葉の重みを知らない者はいない。


 秋月も思わず姿勢を正す。


 兵学校で何度も学んだ。


 聯合艦隊とは、日本海軍の主力艦隊であり、その旗艦は全艦隊へ命令を発する中心となる存在だ。


 艦長は続ける。


「旗艦とは、最も強い艦という意味ではない。」


「最も重い責任を負う艦という意味だ。」


 甲板へ冷たい風が吹き抜ける。


 誰も口を開かなかった。


「一人の油断が艦の信用を失わせる。」


「一人の怠慢が、多くの将兵へ影響する。」


「諸君には、その自覚を持って勤務に当たってもらいたい。」


「以上。」


 短い訓示だった。


 しかし、その言葉だけで十分だった。


 朝礼を終えると、各部署は通常勤務へ戻る。


 砲術科では主砲塔内の点検が始まり、秋月も兵曹長とともに計器の確認を進める。


「異常ありません。」


「照準装置、正常。」


「通信回線、良好。」


 報告が次々と重なる。


 砲術長は黙って聞き、最後に一つだけ言った。


「慣れるな。」


 全員が顔を上げる。


「就役したから終わりではない。」


「今日の点検が百回目でも、初めて確認するつもりで見ろ。」


「確認不足は、戦場で取り返せない。」


「はっ!」


 力強い返答が艦内へ響いた。


 秋月は点検簿へ記入しながら、その言葉を胸に刻む。


 未来を知っていることに頼ってはいけない。


 目の前の事実を積み重ねること。


 それが今、自分にできる唯一の務めだった。


 その時、艦橋方向からラッパの音が聞こえた。


 甲板にいた兵たちが一斉に動きを止める。


 誰かが小さく呟いた。


「……長官がお見えになるのか。」


 秋月は思わず艦橋の方へ視線を向けた。


艦橋付近では、当直士官たちが慌ただしく動き始めていた。


 「総員、服装を整えよ。」


 「通路を確保。」


 簡潔な号令が飛ぶ。


 秋月は兵曹長へ小声で尋ねた。


 「どなたがお見えになるんですか。」


 兵曹長は声を潜めて答える。


 「聯合艦隊司令長官、山本五十六大将です。」


 その名を聞いた瞬間、秋月の胸が大きく脈打った。


 山本五十六。


 海軍航空戦力の重要性を早くから説き、真珠湾攻撃を立案した人物。


 そして未来では、前線視察中に搭乗機を撃墜され、戦死する運命にある男。


 秋月は無意識に拳を握っていた。


 (この人を失えば、日本海軍は……。)


 そこまで考えたところで、自ら思考を断ち切る。


 まだ何も始まっていない。


 今は昭和十六年十二月。


 その未来は一年以上先の出来事だ。


 やがて、岸壁へ一台の軍用車がゆっくりと止まった。


 周囲の士官たちが一斉に姿勢を正す。


 車の扉が開き、一人の将官が姿を現した。


 やや小柄な体格。


 落ち着いた足取り。


 鋭い眼差しの奥には、不思議な穏やかさがあった。


 山本五十六大将である。


 派手な威圧感はない。


 それでも、その場の空気が自然と引き締まる。


 将兵たちは一斉に敬礼した。


 山本も軽く答礼すると、ゆっくりと舷梯を上がる。


 歓迎式典のような大げさなものではない。


 就役したばかりの旗艦の状況を確認するための視察である。


 山本は艦長と短く言葉を交わし、そのまま艦内へ入っていった。


 秋月たち砲術科員は持ち場を離れることなく勤務を続ける。


 しばらくすると、視察の一行が砲術科区画へ姿を現した。


 砲術長が敬礼する。


 「砲術科、異常ありません。」


 山本は静かに頷き、主砲塔の内部を見渡した。


 巨大な装填機構。


 整然と並ぶ計器。


 油の匂いが残る鋼鉄の空間。


 その一つひとつを確かめるように目を配る。


 やがて山本は、近くにいた若い水兵へ声を掛けた。


 「勤務には慣れたか。」


 「は、はい! まだ緊張しております!」


 水兵の返答に、周囲の空気が少しだけ和らぐ。


 山本は微かに笑みを浮かべた。


 「緊張するのは悪いことではない。」


 「慣れたと思った時ほど、人は失敗する。」


 秋月はその言葉に、先ほど砲術長が語った言葉を思い出した。


 誇りに慢心するな。


 慣れるな。


 立場は違っても、本質は同じだった。


 山本は秋月の前で足を止める。


 「少尉。」


 「はっ。」


 「大和は新しい艦だ。だからこそ、誰も完成形を知らん。」


 秋月は真っ直ぐに山本を見つめた。


 「諸君が、この艦を育てるのだ。」


 短い言葉だった。


 しかし、それは艦そのものだけでなく、乗組員一人ひとりへ向けられた期待でもあった。


 山本は再び歩き出し、視察の一行は通路の奥へ消えていく。


 その背中を見送りながら、秋月は静かに息を吐いた。


 史実の中でしか知らなかった人物が、今、確かに目の前を歩いていた。


 未来を知る自分に何ができるのか。


 その答えはまだ見えない。


 だが一つだけ確かなことがある。


 歴史は本の中にある文字ではない。


 目の前で息づき、人が歩き、人が決断し、その積み重ねで形づくられていくものなのだ。


 その日、大和の艦内には、冬の日差しが静かに差し込んでいた。


 ――続く。


あとがき


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、就役直後の大和に流れる緊張感と、「聯合艦隊旗艦」という重責を描きました。また、山本五十六大将を初登場させましたが、史実で知られる英雄としてではなく、当時を生きる一人の海軍軍人として表現することを心掛けています。


次回は、旗艦として初めて本格的な艦隊訓練に臨む大和を描きます。巨大戦艦を動かすために必要な技術と、将兵たちの息遣いを丁寧に追っていきます。


次回 第17話「初めての艦隊訓練」

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