34.兄が見ている世界 —久しぶりの兄目線—
『あいちゃん』
久しぶりに、兄がわたしの名前を呼んだ。
あの日、兄を怒らせてしまってからは、ずっと「お前」呼びだった。
『あっくん……?』
兄が、少しだけ優しく笑う。
『久しぶりに、おいで』
兄にそう言われた瞬間、わたしの意識が兄の中へ沈んでいく。
兄とわたしは、意志を通わせることは出来る。けれど、普段は見える景色も、体を動かす権利も兄のものだ。
わたしは、ただ兄の世界を隣で見ているだけ。
『さあ、行くか』
兄が静かに語りかけた。
『わたしの本体は大丈夫なの?』
『そこまで意識しなくても、生きるために必要なことは出来るよ。呼吸とか、排泄とか。うわ言くらいなら話してると思う』
『ただのヤベーやつじゃねえか!』
わたしが思わずツッコむと、兄は少しだけ肩をすくめた。
『嫌ならやめようか?』
『きょ、今日のわたしは時間に余裕あるし? 少しくらいなら付き合ってあげても――』
調子に乗りかけた瞬間、
『やっぱ、もう戻れよ』
兄が真顔で言った。
『あっくん、ごめんなさい!』
わたしは慌てて叫ぶ。
兄は小さくため息をついてから、
『……それじゃ、行くよ』
『うん!』
わたしは、嬉しさを隠しきれなかった。
病院の外へ出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
『今って、いつなの?』
ふと疑問が浮かび、わたしは兄へ尋ねる。
『11月だよ』
『えっ!? もうそんなに時間経ったの!?』
わたしは思わず声を上げた。
『わたし、浦島太郎の気持ちちょっとわかったかも……』
病室の天井しか見ていなかったわたしには、季節が変わった実感なんてほとんど無かった。
『急に“今”を見せられても困るからさ、あっくんの記憶を見せてよ』
『あんまり昔まで見るなよ』
兄が嫌そうに眉を寄せる。
『えー、わたし、まり姉チェックの記憶とか見たいんだけど』
少し調子に乗って言った瞬間、
『よし、病院戻ろう』
兄が即答した。
『わー! ごめんごめん! この二ヶ月を見せてください!』
『……わかったよ』
そう言うと、兄の体の主導権が、わたしへ移った。
見える景色も、指先の感覚も、今だけは全部わたしのものになる。
同時に、兄の記憶が少しずつ流れ込んできた。
――わたしを病院へ置いて帰った、あの日。
兄は、自室でひどく落ち込んでいた。
『あいちゃん、ごめん……』
机に突っ伏したまま、兄は泣いていた。
『自分自身で起こしたことで、罰を受けることになった。その罰から逃げたら、誰も納得しない。
これが正しいのかは、わからないけど……俺には、こうすることしか出来なくて……』
兄の声は震えていた。
わたしは、その時の兄の胸の苦しさまで、一緒に流れ込んできて、少し息が詰まりそうになる。
『あっくんよー、この二ヶ月、泣いてばっかじゃねーか』
わたしは呆れ半分で声をかける。
『わたしが退院したら、ヨシヨシくらいしてやるよ』
そう考えた瞬間――
突然、ありさのおっぱいに顔を埋めるように抱きつかれ、頭を撫でられている兄の記憶が流れ込んできた。
『うわっ、びっくりした!』
わたしが叫ぶと、
『急に変なこと思い出させるな!』
兄が本気で嫌そうな声を出す。
『変じゃないよ! めちゃくちゃ気になってた!』
『時間を追って見ていくんだよな?』
兄が確認する。
『うん。そうしたい。続きを見せてくれたまえ』
わたしが偉そうに言うと、兄は呆れたようにため息をついた。
それでも、続きを見せてくれた。
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