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01.ウォルジー伯爵家のお姉ちゃん



 振り返れば、私の人生はいつもこの言葉の言いなりだった。



『お姉ちゃんだから』


 この言葉は、ウォルジー伯爵家における万能の『魔法』だ。

 同時に、私をこの家に縛り付ける逃れられぬ『呪縛』でもある。




 無能な父が責任から逃れるために(のたま)い、虚栄心の塊である継母が贅沢のために叫び、傲慢な義妹が当然の権利として喚き散らす。


「お姉ちゃんだから、領地経営はやっておいてくれよ。お父さん、数字を見ると頭が痛いんだ」

「お姉ちゃんだから、伯爵夫人である私に一番素敵なドレスを用意して! 当然でしょ?」

「お姉ちゃんだから、妹のお願いを聞くのは当たり前よね。デザートには甘いイチゴが食べたいわ!」



「……わかったわ」


 私は視線を伏せ、力なく頷く。




 伯爵家長女、ソフィー・ウォルジー。

 鏡に映る私は、貴族の令嬢とは程遠い、みすぼらしい姿だ。


 かつては光をたたえていたアイスグレージュの髪は、手入れを放棄されて毛先まで傷み、見る影もない。

 侍女のお下がりのような古びたワンピース。その袖口から覗く指先は、日々の重労働で赤く腫れ、あかぎれが痛々しく刻まれていた。


 代々風魔法の使い手に受け継がれる薄緑色の瞳は輝きを失い、目の下には化粧でも隠しきれない、色濃い隈が刻まれている。




 立派な女伯爵だった母が亡くなり、もうすぐ十年。


 婿養子だった父シラスは、母の死後、わずか八歳だった私が必死に領地を守ろうと奔走する傍らで、あろうことか新しい継母イザベルを連れてきた。

 生来の気の弱さから当主代理の重責に耐えかねた父は、ただ自分を御してくれる「主」を求めて、再婚に逃げ込んだのだ。


 その二年後に義妹が産まれると、父の現実逃避は加速した。

 継母の派手な社交に引きずり回されることを免罪符に、いよいよ仕事を投げ出し、私にすべてを丸投げするようになった。



 継母は、父の沈黙をいいことに、贅を凝らしたドレスで社交界に繰り出す日々。


 彼女は「未成年の私の代わりに社交を担っている」と嘯くが、実態は違う。自分を軽んじてきた実家の子爵家を見返したいという、浅ましい自尊心を充たすために、伯爵家の財に甘え食いつぶしているに過ぎない。



 そんないびつな大人たちに囲まれて育った義妹フルールは、私のことを「何でもしてくれる便利な使用人」だと思い込んでいる。


 私の手が教育にまで回らないことをいいことに、彼女は貴族の教養どころか、一般常識すら知らぬまま、順調に我がままな怪物へと成長を遂げていた。





 毎日必死になって、領民のために家族のために駆けずり回る。

 そんな私の心の支えは、執務室の奥、小さなセラーの中で静かに眠っていた。


 領地の名産であり、私が生まれた年のガーネット色のヴィンテージワイン。母が私の瞳の色をなぞるように選んだ、柔らかな若草色のリボンがかけられた特別な逸品だ。


『あなたが誰からも頼りにされる立派な当主になったら、一緒に飲みましょうね』


 それが、亡き母が遺した私への期待。

 冷たい瓶の感触を指先に確かめ、私はひとり、折れそうな心を叱咤する。




 私がいなければ、領民が路頭に迷ってしまう。

 私がいなければ、家族は朝食のパンを口にすることすらできない。


 私が支えなければ、この家も、お母さまが守ってきた領地も、熟成を待たずして腐り落ちる果実のように、すべて無に帰してしまう。



 ――まだ、やれる。

 だって、私は『お姉ちゃん』だから。


 それは家族の口癖であり、私を奮い立たせる魔法の言葉だった。


 



 ……それでも、ときどきすべてを放り出したくなる。

 そんなときは、幼い頃の夢のような約束を思い出す。


 母が亡くなる前によく一緒に遊んでいた少年。絵物語の王子様のように儚く、優しいけど少し泣き虫だった男の子。


『大人になったら、絶対に結婚しようね』


 十八歳の成人を迎えるまで、あともう少し。

 その甘い呪文をお守りにして、私は今日も『お姉ちゃんだから』という呪縛に耐える。



 さあ、今日も頑張らなきゃ。


「……大丈夫。私が全部、上手くやるから」

 そう自分に言い聞かせるように呟き、私は指先に微かな魔力を(まと)わせた。






 伯爵家長女、ソフィー・ウォルジーの朝は早い。

 日が昇る前、まだ薄暗い部屋で起床し、貴族令嬢のそれとは程遠い質素な身支度をたった一人で済ませる。


 鏡を覗き込む余裕も、自分の惨めな姿を確認する気力もない。ぱさぱさに傷んだ髪を一つに括り、幾度もの洗濯で生地がごわついたワンピースを頭から被る。ただ、それだけだ。


 井戸から汲み上げた冷水で顔を洗えば、準備は終わる。家族が起き出し、「お姉ちゃん」への身勝手な要求が降り注ぐ前に、屋敷の掃除を済ませておかなければならない。



 ウォルジー家の家計は火の車、毎月が綱渡りの状態だ。

 祖母の代から仕える老執事夫妻と、継母たちのための数人の侍女を維持するのが精一杯で、下働きの使用人など雇う余裕はどこにもない。


「お嬢様はあんなにボロボロになりながら……ああ、可哀想に」


 寮から出てきた侍女たちの、薄ら笑いを孕んだ囁きが聞こえる。


 彼女たちは憐れみの視線を向けてはくれるが、決して手を貸そうとはしない。余計な仕事を抱え込みたくないのだ。


 私が帳簿の上で数字と格闘し、血を吐く思いで捻出した賃金。それを当然の権利のように受け取りながら、彼女たちは最低限の仕事以外には見て見ぬふりを貫く。


 そうして安全な特等席から、この歪んだ家族の行く末をまるで娯楽のように眺めているのだ。




「……まずは掃除ね」

 私はあかぎれで荒れた手のひらを、天井へと掲げる。


「風魔法――家具を浮遊。気流操作、埃を一斉排除」


 指の動きに合わせ、幾つもの小さな竜巻が発生した。重厚なソファやテーブルがふわりと重力を失い、その隙間を鋭い風の渦が潜り抜け、埃を吸い取っていく。


「……ふふ、まるでオーケストラの指揮者になった気分ね」


 今度は翼を広げるように腕を横に伸ばす。見えない掌で雑巾に風圧を叩きつけ、一気に滑らせれば、重労働な水拭きも一瞬で終わる。

 出力が強すぎれば床板を剥ぎ、弱すぎれば汚れは落ちない。初めは失敗してばかりだったが、今や雑巾は意図した通りの軌道を描き、床の上を鮮やかに踊る。



 重いバケツを運ぶ労力も、膝をついて床を磨く時間も、今の私には惜しい。


 だから、魔法を使う。


 かつての戦乱期、魔法は戦場を支配する強大な武力だった。けれど平和な現代において、それは貴族の権威を示すだけの、美しくも無益な「装飾品」に成り下がっている。

 故に、生活のために魔法を酷使することは、貴族社会における最大の恥辱(はじ)



 けれど、追い詰められた私にはこの道しか残されていなかった。


 緻密に術式を編み上げ、巨大な家具を操り、一気に汚れを排除する。この狂気的なまでの魔力コントロールこそが、私の真骨頂。


 魔力操作に没頭している間だけは、自分が家族のための「便利な道具(お姉ちゃん)」であることを忘れ、ただ一人の「人間」に戻れる気がした。





 次は朝食作り。


「風の(やいば)による、超高速薄切り(スライス)。……うん、今日も均一ね」


 洗い物を増やしたくないので、包丁は使わない。宙に浮かせた野菜を、目に見えぬ風の刃で精密に切り刻んでいく。

 細胞を壊さないように、風の刃の厚みを零点一ミリ以下に固定。こうすることで安物の不揃いな野菜も、王宮の料理人が作るかのように口当たりが劇的に向上する。


 父は食事にだけはこだわり、「繊維を損なわない切り方こそが一流の証だ」などと贅沢を抜かすが、それを実現しているのが、本来は戦場を切り裂くべき攻撃魔法の転用だとは夢にも思うまい。



 髪を振り乱し、感情を置き忘れたような顔の女が、空中でスパッスパッと刻まれていく野菜を凝視している。

 その異様な光景を他人が見れば、悲鳴を上げて逃げだしてしまうかもしれない。


 一般市民にとって、魔法とは祭典で仰ぎ見る華やかな芸術だ。掃除や炊事に酷使する私の姿は、彼らにとって不気味を通り越して軽蔑の対象になり得る。


 だから魔法は、必ず一人のときにしか使わない。私がどうやってこの広い屋敷を、たった独りで維持しているのかを知る人は誰もいない。



 鍋の中で踊る具材と、立ち上がる湯気をぼんやりと眺める。

 あの約束を思い出してしまうから、「待つ」時間だけは少し苦手。


 時間のかかる煮込み料理は嫌いだけど、素材を分解し再構築するプロセスは実験そのもので、私のささやかな愉しみでもあった。



「……今日は風魔法で酸素を送りこんで、燃焼効率を上げてみようかしら」


 薪の節約にもなるし、何より――魔力の計算だけに没頭している間は、余計な雑音を忘れられるのが心地よかった。




家族のために、領民のために、今日も私は自分を削る。

けれど、私が守っている「家族」の実体は――。


保身のために娘を差し出す父。

劣等感を埋めるために財を食いつぶす継母。

姉を「可哀想な玩具」として愛でる義妹。


次回、ソフィーを待ち受けるのは、あまりに身勝手で「役立たず」な家族の日常。

次話は、本日19時半頃に更新予定です。

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