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四章 名推裏


      ∴      ∵


「お、おいどういう事だよ。なんで橋本が犯人なんだ?」

 私は脇役の水倉さんを無視して、深夜の名前を呼びます。

「え? あ、なに?」

「昨日見つけた、アレを持ってきて下さい」

「……アレ?」

「ええ、お願いします」

 深夜は若干何か解らないような様子ですが、例のアレを取りに行きました。その様子を、橋本さんに水倉さん、嘉川さんも見守ります。深夜は、ゆっくりと、間違わないように緊張した足取りで、安西さんの机に向かいました。そして……、

「こ、これ?」

 あの、何かが付いたシャベルを取りました。先に、黒い液体がついている。私はもってきてくれた深夜に感謝の眼差しを向けます。ジッと、睨むように。

「………」

「じゃ、ない……よ、ね……」

「………」

「は……はは……」

 深夜に任した私が馬鹿だったのでしょうか。いえ、深夜は馬鹿ですからしょうがない。

「これは私の判断ミスです。完全無欠に完璧を目指す私にミスをさせるなんて、深夜凄い」

「はは……」

「おかしいですか? そうでしょうね、今の私はミスをしたうつけ者です。さぁ! 思う存分笑うがいいですよ!」

 私が大声で言うと、深夜の顔は引きつったまま、申し訳なさそうになります。

「ご、ごめん……」

「ふ、今度は哀れみですか。笑うまでもない、ということですか。深夜は私をとことん貶めたいのですね。そして私はその策に嵌まっていく……さすが元詐欺師の深夜です」

「覚えのない前歴なんですが!?」

「もう何も言わないで下さい! これ以上私を虐めて楽しいですか!? 鬼畜という言葉が大好きな深夜は!」

「嘉川さん違うから! 徐に手錠を出さないで!?」

「深夜! 私は貴方の為に何度心と体を傷つけられればいいのですかっ! 深夜は私の事なんてどうも思ってないのですね! 都合の良い女と思っているのでしょう!」

「何度も傷つけられているのは俺の方だと思うけど!?」

「嘘です! 深夜は私の事なんて味噌汁の味噌くらいにしか思ってないのでしょう!?」

「味噌汁の味噌って結構重要じゃねぇ!?」

 そうかもしれませんが、私は味噌汁なら味噌、深夜は味噌汁に入る部屋の埃みたいな感じです。目に見えない埃。腹が立ちます。

「もう……深夜は一体、私の事をどう思っているのですか!?」

「好きだよ! 本当だから落ち着いてくれっ」

「そんな短く安い言葉だけでは私は騙されませんっ!」

「好きです! めちゃくちゃ好き! 愛してる!」

 深夜が私の手を握り顔を近づけてきます。これはちょっと予想外というか、顔、近い。

 思わず見惚れちゃいそうになるのを自制します。

「……本当?」

「小首傾げて上目使いとか可愛すぎる! めちゃめちゃ愛してるぜ燈莉!」

「解りました」

「ほ……」

 安堵の溜息を漏らしますが、私は何も気づかない愚かで可愛い深夜の名前を呼びます。

「ねぇ深夜」

 私はちょっと拙い口調で、甘ったるく可愛く深夜の名前を呼びます。照れますが我慢です。

「な、何?」

「見て見て」

 私の後ろには橋本さん、水倉さん、嘉川刑事がいます。皆さん今のやり取りを恥ずかしそうに、嘉川刑事は青春だなぁと小声で呟きながら見ていました。

「え? それがな……に……か……」

 気づいたようです。何処で何をしたのか。段々と顔を赤くしていく深夜は可愛いです。食べちゃいたいです。

 私の思惑に気付いた深夜は、耳まで真っ赤にして身体を震わします。小動物みたいに可愛いです。抱きしめたい。

「……わざとか」

「あんなに愛してるって言われたの、初めてです。ぽっ」

「っっっ!」

「もう一回言って欲しいなーです」

 深夜は私の手を離し、肩をガシッと掴みました。大胆です。きゃー。でも深夜の顔は半笑いの真っ赤な顔です。

「頼むから……事件の事を早く、教えてくれ……っ」

「一日に一回、愛してると言うと約束したじゃないですか」

「してないし! 燈莉は俺に言ってない!」

「アイシテマスヨー」

「終いには泣くぞコンチクショウ!」

 瞳に涙を溜めた辺りで許してあげることにしました。もとはと言えば、間違えた深夜が悪いので私は悪くありません。

「しょうがありませんねぇ。そこの戸棚から本を取ってきて下さい。解りますよね?」

「……ああ」

 深夜も気がついたようです。深夜に頼んだ物。一冊の本を戸棚から取り出します。

「ご苦労様です」

「今度からはもうちょっと穏便にお願いします」

「無理です」

「無理なの!?」

 深夜から受け取った本を、三人に見せました。それは安西さんの日記帳。丁寧に包装された、豪華な一冊。

「これが何だか解りますか?」

 嘉川さんはもちろん知らず、首を横に振ります。水倉さんは、「知らん」と一言。

 本当ですかね、まあ今はいいでしょう。そして、橋本さんは……、

「………」

「橋本さん、これに見覚えありませんか?」

 青い顔のまま、私を、本を見つめます。 これはあの時、深夜と見つけた物。

 安西さんの言葉が、締沢さんへの言葉が載っている―――一冊の日記。

「これが証拠で、動機です」

 橋本さんは手を口に当て、ただ青く、立ち尽くしていました。

 解りやすい反応。これだけで捕まえることができるんじゃないかと言うくらい、バカみたいな反応。でも私は、追撃の手を緩めません。

「どうかしましたか? 橋本さん」

「………」

 無言のまま、橋本さんは私の持つ本へと視線が向かいます。この日記のような本。そして、あの言葉が、書かれているページを開きました。

「これは、どうやら二ヶ月前に書かれているようです」

 水倉さんは何も言わず、橋本さんは、そろそろいい加減に違う反応をしてくれと言いたくなるほど、顔を青ざめて、小さく震えています。私は、穏やかに尋ねました。

「これを、知ってますね」

 けれど、

「し、知らない……」

 橋本さんは、否定しました。

「知らない、私は何も知らない……何で? 何で貴方が、それを私に見せるの?」

 知らないといいながらそれという橋本さん。墓穴を掘る、とはこのことでしょう。橋本さんは激しく頭を振って否定します。本当に、全くというほど、

「いい加減に、してくれませんか?」

 呆れました。怒りなんて、湧き出る程にもなく。

「貴方はこれを読んだのでしょう? 貴方が知らないと言っても、警察が指紋を調べたら解りますよ。ああ、今触ろうとしないで下さいね。貴方は、これを読んだ」

 橋本さんは頭を抱え、目を見開いて、私の話を聞いています。ああ、橋本さん。貴方は、これから私が壊しましょう。治らないくらい、直らないくらい、完全無欠に、粉々になるまで。まぁ壊さなくてもいいんですが、私は貴方を許せない事が一つだけあるので、思う存分、今は苦しんで下さい。私はそれを、止めはしません。

「書かれたのは締沢さんが失踪した後、文脈からして後でしょう。この『言葉』を、見た」

 あのページを見せる。それは、一つの愛。けれどもそれは、人間の愛とは認めない。ただ狂気が同属嫌悪するが如く、人はこれを、愛とは認めない。こんな発想を、認めない。

「貴方は、これが誰に向けられた『言葉』かすぐに気がついた」

 そうでしょう。貴方は、知った。

「これは『締沢』さんに、向けられた『言葉』だから」

 そこで、橋本さんは私を見つめます。

 幼児のように、純粋な瞳を浮かべて、私を見据えます。

「そうでしょう?」

 私は、橋本さんを見て、言いました。

「成り損ないの『締沢』さん」

 息を飲む音が、聞こえます。

 それが橋本さんなのか、水倉さんなのか、嘉川刑事なのか、それとも深夜なのか解りません。

 解りませんが、皆が一様に驚いているのは、解ります。

「何を、言ってるんだ……?」

 水倉さんが、引きつった笑みを浮かべて言います。

「こいつは橋本だぞ? なんなら学生証を見てみろ、ちゃんと名前が書かれている。意味解らないことを言わないでくれ」

「はい、そうですね」

 私は水倉さんの言葉を肯定します。肯定しますが、

「ただし、位置的には、橋本さんは『締沢』さんなのですよ」

「意味が解らないんだが……」

 水倉さんと同様に、深夜も嘉川刑事も納得のいかない顔をしています。だから私は、何も話さない認めない橋本さんの代わりに、伝えます。動機となる、橋本さんの心情を。

「橋本さんは、締沢さんのように安西さんに愛されたかったのです」

 すとん、と水倉さんは呆けた顔で私を見ます。そして、橋本さんも。

 続けます。一人を壊す為に、一人を捕まえる為に、私は話を、終わらしません。

「橋本さんは締沢さんを、知っていますよね」

 音はまだ聞こえない。瓦解の破壊音も、束縛の鎖の音も。

「これから話す事は私の妄想です。私の想像です。ですから間違いがあるかもしれません。ですが、今ここに橋本さんと水倉さんがいるという事実が、私の考えた物語が、事実となる可能性が出てくるのです」

 私は前置きを一つ、語り出しました。

「橋本さんは、締沢さんの知り合いだったのではないですか? 篝さんの高校時代の知り合いだと伺いました。そこから、貴女は篝さんを通じて知り合ったのではないですか?」

 この間に篝さんはいなくてもいいです。ただ、人と人との結びつきは、何かきっかけがあればいとも容易く結びつき、そして解かれる。重要なのは、橋本さんと締沢さんの、結びつき。

「これは警察が片っ端から調べれば自ずと解るでしょう。例を挙げるなら、橋本さんと締沢さんの授業で同じものがあれば、そこで貴方達を見た人、即ち友人同士のように話している姿を目撃している人間を探せばいいんですから。では、次の問題です。安西さんはいつ、締沢さんを知ったのか」

 いつから恋心が生まれ、いつから狂気に変わったのか。

 いつから始まり現われ、いつから終わりに向ったのか。

「締沢さんが失踪する当日、篝さんは締沢さんと会う約束をしていました」

 安西先生に詰問していた篝さん。しかし、

「どうして篝さんは、二ヶ月も経った今、安西先生に聞いたのでしょうか?」

 何故締沢さんが消えたすぐにではなく、二ヶ月も経ったのか。

 受付のお姉さんの証言があった諍いの場面。あれは、どうして、今更行われたのか。

「少し考えれば解る事です。安西さんが締沢さんにしつこく求愛していたという情報は、何処から出て、誰が知っているのでしょうか?」

 誰が、よりも、誰まで、が。

 原因ではなく過程。

「橋本さん。私は回りくどい説明が嫌いですし面倒です。率直に言わせて頂きます。貴女が、情報を提供したのではないですか?」

「………」

 無言。唇を噛み締め、決して口を開けないようにと、食い縛っている。口を開いてしまったら、すべてをぶちまけてしまうとでも言うかのように。

 そんな事、私には関係ありません。すみませんね、橋本さん。私は貴女如きで、止まるわけには行かないのですよ。今回の話は貴女が主役じゃありません。私は嘉川刑事に同じ質問を尋ねます。

「情報提供者は、誰ですか?」

 嘉川刑事は橋本さんを見て、言いました。

「確か、兎警部の話だと……橋本さんだった気が……」

 さて、さてさてさて、どうしましょうか。

「あとで、篝さんにも聞いてみましょうか。一体誰から、安西さんが締沢さんに好意を抱いたと聞いたのか」

 橋本さんは何も言いません。言う必要がないと、沈黙を、保ったまま。

「では、何処までが真実なのか?」

 私は橋本さんに構わず、続けます。

「安西さんが締沢さんを好いていた事は確かでしょう。しかし、締沢さんの気持ちは何処までが本当なのでしょうか? 本当に嫌がっていたのか? 本当に迷惑していたのか? 私は締沢さんがどういう人なのか知りません。もしかしたら、単位目当てで付き合う人かもしれませんし、一般的な人かもしれません。ただ、安西さんに好かれて、同じく好きにならないということに、ならないと言い切れません」

 私は橋本さんを見ます。昨日会ったばかりの橋本さん。貴女も同じなのですね。人の皮を被った、私達と同じ振る舞いをしておきながら、根本的にも、表面的にも違う存在。それが、安西さんと貴女のような、存在。でも、それはきっと貴女の願望なのでしょう。

 出来る事なら愛する人と同じになりたい。

 出来る事なら愛する人と一緒にいたい。

 そんな勘違いをしている貴女を、私は壊しましょう。

「橋本さん、橋本さん。貴女は何を隠していますか? 貴女は何を望んでいますか? 貴女は何になりたいのですか? 貴女は、安西さんにはなれませんよ」

 その言葉に、橋本さんは反応しました。顔をあげ、私を見ます。

「安西さんは貴女と違う。人を殺すただの人。漆黒に佇む、ただの闇です」

 橋本さんの瞳には、悲哀と涙の雫が表れました。しかし、それは自愛のモノ。

「貴女は、違うでしょう?」

 私は、尋ねます。答えなど期待せず、構わずに。

「貴女は殺人者です。貴女は人間です。暗黒に彩られた町並みで、光を手に欲望を探し彷徨う人間です。そんな貴女が、ただ存在するだけの闇になろうとなど、腹立たしい」

「わたし、は……」

「貴女は殺人者ですよ。誰に憚る事もなく、誰に臆する事もなく、誰に恥ずる事もなく、貴女は正真正銘、一片の曇りも影も霞さえない、殺人者」

「私はっ!」

 初めて、橋本さんが大きな声を出しました。

「私は先生と同じに愛していたのっ!」

 それがどんな滑稽な台詞だとしても、それは、橋本さんの、心の声。震える体を抱きしめて、一直線に私を睨むその視線に晒されながら、私はただ、最初からずっと心に抱いていた感情が、変わることもなく。なんて、下らない……と。

「灯夜逆さん、貴女なら解るでしょう?」

「何がですか?」「人を愛するという事よ」

 笑いが漏れてしまうような歯の浮く台詞。橋本さんは私を見つめ、続けます。

「私は愛していたの、安西先生を。でも安西先生は、貴美枝のことしか見てなかった……貴美枝も安西先生とずっと一緒にいて、まるで私なんか見てなかった……その気持ち、貴女だって想像できるでしょう?」

 俯き口を閉ざします。折角喋り始めたと思ったら、もう終わりですか。

 さて、私はこの問いに答えなきゃいけないのですかね?

「な、なぁ……」

 と、突然深夜が耳打ちしてきました。なんでしょう?

「なんで、橋本さんが安西さんのことを好きだって解ったんだ?」

「いえ、解んなかったですよ」

「はぃ!?」

「勘ですよ、勘」

 私は事もなさげに言い切ります。堂々と言えば案外問題ないものです。

「……うそ、だよな?」

「………」

「……え? マジ?」

「冗談です。気になったのは、水倉さんの発言です。最初に会った時、水倉さんは橋本さんと安西さんは仲が良かったと言っていました。なのに、橋本さんは涙一つ零しませんでした。仲の良い人、なのに。ただただ、死体を怖がるだけでした。引っかかったのはそこです。涙を流さない理由を考えて、橋本さんが殺したとしたら、ある程度納得がいきます。覚悟を決めて、殺した。だからこそ、流すべき涙は先に流してる。それに、どっちかだろうな、と思いまして」

「どっち?」

「憎しみか、愛情か」

 もし安西さんが、締沢さんにしつこく付きまとっていたということだったら、橋本さんは安西さんを問い詰めて、その時に間違って殺してしまったりや、疑心暗鬼になり安西さんを殺してしまったりと、考えることも出来ました。でも、

「でも私は、噂が、締沢さんが本当に嫌がっていたのか、疑問に思いました」

「なんで?」

「もし、噂が本当なら、もっと具体的な、それこそ付きまとっていた現場を目撃されていたり、証言が出てくるはずです」

 たとえ隠していたとしても、何処で誰に見られているか解らない。誰にも相談してないはずがないでしょう。サークルや友達、誰からでもそのような情報が入っても、おかしくない。大学で見られてなくても、もし学外でも安西さんがストーカー的な行為をしていれば、目立つ。

「だから、噂は嘘だったんじゃないか、と思いました」

 私は、橋本さんを見て言います。まだ先ほどの問いに答えていませんが、私は皆に聞こえるように、はっきりと、勝手に話を続けます。

「もし噂が嘘なら、どうしてそんな嘘をついたのか疑問に思いました。わざわざそんな嘘の噂を言うという事は、締沢さんか安西さんに恨みがあるんじゃないか、そう考えましたが、それだと、どうも、辻褄が合わない」

 何故か、それは、

「もし恨みや何かで中傷の嘘を流すなら、大学全体の噂になってなくてはおかしいですし、その嘘が解ったのが、事件があってからというのを考えると、もしかしたら橋本さんは、安西さんについて、私達に間違った認識をさせたかったんじゃないかと思いました」

 全体を歪ませる事は出来なくても、小さな所だったら、ほんのちょっと力を加えるだけでいいのなら、出来なくはない。

 私は持っている日記を掲げます。

「そして矛盾の日記。この日記は安西さんが締沢さんを愛していたという証拠になりますが、橋本さんはこれを処分したい、そう考えています。ここにいるのが証拠です。噂を補強できる真実を、橋本さんは何故隠したかったのでしょうか? それはきっと、私達の認識の矛盾だけで橋本さんはよかった。本当に愛していた真実の証拠なんて、いらなかったのです」

 橋本さんは、安西さんが他に愛している人がいる事実が嫌だった。橋本さんの反応は、殺人者といっても、普通の人間と同じ。罪を犯した事を自覚して、それに潰されそうになっている、哀れな犯罪者。

「あの日、橋本さんは安西さんの研究室、つまりこの部屋に来ましたよね。あれは、この日記を持ち出すためだったのではないですか?」

 私と深夜が安西さんを待っていた時、ノックもなしに橋本さんは入ってきました。まるで中に誰も、安西さんも誰もいないことを知っているようです。普通に考えて、先生の部屋に入るのにノックをしないというのはおかしいです。

 しかし、誰もいないと解っていたら?

 いるはずの安西さんは、エレベーターの中で死んでいるのを知っていたから、ノックもせずに入ってきたのでは?

「橋本さんにとって、この日記は安西さんが締沢さんを愛していた証拠。安西さんの愛が締沢さんに向けられた言葉が詰まっているモノ。それを、処分したかったのではないですか?」

 想像でしかない、妄想の域に入る私の話を聞いた橋本さんは、口を開きます。

 肯定する、言葉を。

「……そんなもの、いらない」

 橋本さんは、ポツリと語りだしました。

「私は篝と一緒に、ここに来たの。篝には下で待ってもらって、私はエレベーターに乗って、安西先生に会いに行こうと思った」

「何故、会いに行こうと?」

 嘉川刑事が聞きます。やっと刑事の仕事を思い出したようです。

「約束……安西先生が、来てくれって。だから私は、返事を聞く為に、会いに行ったの」

「返事?」

「私、好きだって伝えたの。貴美枝はもういない。だからきっと、今なら振り向いてくれるって。貴美枝が死んだ今、私だけが慰めてあげられるって。その返事を、あの時するって……でも、安西先生は途中でエレベーターに乗ってきたわ……そしていきなり、言ったの」


『ああ、橋本さん、こんにちは』

『この間の事なんですが、すみません。やはり私なんかでは貴女とつり合いませんよ』

『貴女はもっといい人を見つけて下さい。それに……』


「それに、私には恋人がいるんですって言ったのっ!!」

 橋本さんは大声で、髪を乱しながら言います。

「貴美枝の事だってすぐ解ったわ。だって、いつも貴美枝から聞いてたんだもん。安西先生と何処へ行ったか、安西先生と何をしたか。私はいつも、貴美枝から話を聞いてたの!」

 もの凄い剣幕で橋本さんは叫びます。安西さんに聞かせるように。橋本さんの気持ちは、私には解るかもしれません。でも、解らないかもしれません。私には、深夜がいます。だから、その気持ちは解るけど、同時に解らないでもあります。でも、例え想い人が自分を向いていなくても、例え自分の一方通行な想いだとしても、

「殺してしまうのは、如何でしょうか?」

「……え?」

 驚く橋本さんに、私は続けます。力強く、力強く、想いの言葉を、重い言葉を。

「殺す、という事は、人を支配する事ではありません。殺したから、貴女の物になるわけでもない。それは、それは決して人が思っていてはいけない、思想」

 それは私達の愛ではない。私達の想いは、そんな簡単な、そんなつまらない、形ある物と同じように、移り気ではいけない。

「貴方は安西さんのようになりたかった。愛する安西さんのような、異常を異常と気づかず思わず、世界の全てが自分と変わらないと勘違いしているような、安西さんのような一歩、日常からはみ出ている人間に」

 でもそれは、選ばれるわけでもなく、選ぶわけでもなく、

 それは当然に、

 それは必然に、

 遺伝子に刻まれた刻印、魂に宿った信念、持ちえる者だけが持つ事を許される、存在。

「だから、貴女が………え?」

 そこで、そこで気づいてしまった。あれ、今、何を言った?

「……? 燈莉? どうした?」

 突然喋るのをやめた私に、深夜が不思議そうに見つめてきます。深夜だけではありません。水倉さんも、嘉川刑事も同じく私を見つめています、が。気づきました。今頃、私の台詞に。

 私は橋本さんを、どう定義しました?

 私は安西さんを、どう定義しました?

 そう、私は安西さんと橋本さんを、違うと言った。

 同じになる事はなく、なれる事はない、決して染まる事も染める事も出来ない存在だと。

 橋本さんを、ただの殺人者と言ったのは私。

 ならば何故―――何故、橋本さんが安西さんを殺すのですか?

 安西さんの愛は、超えてしまったから、そんな異常に異質に異端を含み孕む愛。でも、橋本さんはただの殺人者。私たちと何も変わらない。ただの人。どんなに望んでも、どんなに願っても成る事はない。それが、二人の関係で、二人の違いのはず、なのに。

「ちょっと待って」

 混乱している私に、さっきまで混乱していた橋本さんが言います。

 黙ってて下さい。沈黙してて下さい。貴方は喋らないで、貴方は語らないで。

 じゃないと何もかも、今までの全てが、私は、私は……、

「私、安西先生を殺してないよ」


 崩れる。


「………………は?」

 私は引きつった笑みを浮かべ、橋本さんが何を言ったのか、理解しようとしました。

 何を、何を言っているんですか、この人は?

 さっきまでの態度は?

 さっきまでの激昂は?

 さっきまでの会話は?

 今の今まで、今更ながらを、無駄に無為に、どうしようもないほど、意味のないものだとでも言うのでしょうか。じゃあ何故、ずっと黙って聞いていたのですか?

 何故最初から犯人じゃないと言わず、黙って黙して私の話を聞いていたのですか?

 貴方が犯人でしょう?

 逃げられるとでも?

 この期に及んで、逃げられるとでも、思っているのですか?

 汚らしく、醜く、体面も何も気にせず、貴方は逃げるというのですか?

 まるで無残な逃亡兵の如く。

 まるで愚かな敗残兵の如く。

 脇目もふらず自己の保身を追い求めて、逃げ出すと?

「ふざ……けないで、下さい」

 私は、震える声を抑えて、怒りに震える声を抑えて、戸惑いに震える声を抑えて、抑えて抑えて抑えて抑えて抑えて抑えて!

 橋本さんに、話しかけます。

「貴方は、今まで黙って、私の話を聞いてきたじゃないですか。それを今更、私が貴方を犯人だと言った時に言うならともかく、今更、今更何を言って……」

「だ……」

 橋本さんは、怯えたように、怯えた子猫のように、言います。それは、橋本さんの本質。

 けれど、その瞳は、何かを決意した、覚悟した瞳でした。

「だって、私の安西先生の気持ちが、知られたと思って……私だって、私だって私の愛は普通じゃないことくらい解ってる。だから、混乱しちゃって……それに、私が犯人って言われた時も、なんで灯夜逆さんがそんな事を言うのか、解んなくなっちゃって……」

 橋本さんは、泣きそうに、いえ、もうすでに涙を浮かべて言いました。

 混乱?

 気持ちを知られたから、混乱?

 そんな、意味の解らない、下らない理由を、言うのですか?

 そんな言葉で、そんな事で、逃げ切れると、思っているのですか?

 こんなにも腹が立つとは。こんなにも気分が悪いとは。

「何を言っているのか、解りません」

 私は、正面から真っ直ぐに、橋本さんに言い切ります。

「貴方は、エレベーターに乗ったと、途中で乗ったと、言ったではないですか」

 一緒に乗って、そして告白を拒否されて、そして、貴方は安西さんを。

「い、言ったけど、断られた後カッときちゃって……あの、その本を捨てようと思って、私は真っ直ぐ、ここに来たの」

「安西さんを、刺した後に、ではなくですか?」

「ち、違う!」

 橋本さんは力いっぱい否定します。

「それに、凶器持ってない! その後すぐ、警察が来て身体検査をやったじゃない!」

 そう……橋本さんは、第一発見者。そして、その後すぐに警察が呼ばれ、完全包囲。ちょっとジュースを買いにいくのも、何人もの警官に聞かれる程に、それは厳重に。

 まして、私たちは全員身体検査をやりましたから、凶器なんて持っていたらすぐにばれてしまう。

 けれど。だから、だから私はこの部屋に来た橋本さんを疑っています。なぜなら、ここに凶器を隠した、もしくは、凶器はこの部屋の、凶器に見えない何かではないか。私は、そう考えました。例えば、あのシャベル。先端についていた、黒い血。しかしそれは、残念ながら違うでしょう。警察が調べた結果では、ナイフのような鋭いものらしいのですから、さすがに、無理がある。というより、最初から殺そうとしていない矛盾の、凶器の所持が私の中に生れ出る。

「私は、橋本さんがこの部屋に隠した、あるいは凶器に見えない凶器を使ったのではないかと考えています」

 私は正直に伝えることにしました。ここで捻っても、今は無駄。認めない橋本さんは、捻っても、それに反応しないでしょう。

「じゃあ、灯夜逆さんは何がそうだっていうの?」

 困惑顔の橋本さんは、弱気ながらも、まるで自分が犯人じゃないから何も怖くないとでも言うように、はっきりと言います。

「それは……」

 それは、なんでしょう。ナイフのような、凶器。そしてそれが見えないように、なっている。ましてやそれが警察の捜査に見つからないような、完璧な物。

 それは……それは……っ!



「あら、ここまで?」



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