待状09 -家庭教師サークルの小さな世界 21
鄭愷苑はまず一瞬呆気にとられた。湯志傑が突如としてそんなことを尋ねてくるとは思ってもみなかったのだ。彼女は一拍沈黙し、やがて頷いた。「その方が良いでしょうね。少なくとも目を覚ませば、肉体側が自分の状況に気づけるわ。何も知らずに『自分は平気だ』と思い込み続けるよりずっと良いもの」
潘穎嫆も思索にふける表情を浮かべ、言葉をつないだ。「本来的にはダンジョン内って、計画的に動く必要がある場所でしょう? でも彼女はただ周りに流されるままついていくだけだった。時間が経てば、それが不全な習慣として定着して、その不気味なシステム自体を強化してしまうわ。そうなったら問題の存在にすら気づけなくなってしまう」
鄭愷苑が同調する。「その通りよ。修行とは自ら悟るべきものであって、誰かの言いなりになって動くことじゃないわ」
二人の意図を大まかに理解した湯志傑は頭を掻き、気まずそうに、けれどサバサバとした調子で打ち明けた。「二人の話を聞いて、自分がどれだけ浅はかだったか思い知らされたよ。俺はそこまで深く考えてなくてな、純粋に彼女が意気消沈するのを心配していただけなんだ」
彼が言い終えるやいなや、鄭愷苑が口元に指を立てて制した。彼らはすでに下の階に到着しており、防火扉を押し開けると、そこに広がっていた光景は顧長安が言っていた通りだった——すでに『人』が配置されている。
ただし、もう少し注意深く観察すれば、違和感に気づくはずだ。時間的に、こんなに早く人がいるはずがない。ここには幼稚園もなければ、オフィスとして借りている企業も多くない。通常の営業時間なら午前十時か、それ以降のはずなのだ。
彼らがその人々の脇を通り過ぎた瞬間、やはり焦点の定まらない視線が一斉に彼ら三人へと向けられた。だが誰も口を開かず、まるで意に介す価値もない路人に過ぎないかのように静まり返っていた。
しかし鄭愷苑がある店舗に灯りがついているのを目にし、好奇心から少し近づこうとしたその時——背中に刺さる強力な視線に耐えかね、彼女は思わず振り向いた。そして本来なら遠くにいるはずの二人を直視した。その二人はいつの間にか、自分たちからわずか数歩の距離に迫っていたのだ。
心臓が早鐘を打つ。鄭愷苑は確信した。これらのNPCは、単なるNPCなどではない。
潘穎嫆も周囲に気を配っていただけに明確に驚いていた。一方の湯志傑はすさかず二人のかばうように前に立ち、落ち着いた声で問いかけた。「何か用か?」
その二人は何も答えず、ただじっと見つめてくるだけだった。
潘穎嫆は姿勢を低くかがめた。先ほどの一瞬で、二人の瞬移(瞬時移動)がまるでクモのように素早く異常であることに気づいていたからだ。明らかに善意の客ではない。もし本当に戦闘になるなら、いつでも動けるよう準備しておかなければならない。彼女はアクリル製バインダーを両手で抱え込み、戦いになれば即座に仕掛ける腹をくくった。
鄭愷苑は周囲を見回した。ここで無駄に力を消耗する局面ではないと判断し、湯志傑の服の裾を引っ張って言った。「行きましょう」
だが彼女も無意識のうちに潘穎嫆と同じく、金属製拡大鏡をしっかりと握りしめていた。反対側の階段までは、走れば一分もかからないはずだ。
湯志傑は二人に合わせてゆっくりと後退した。三人が非常階段に入り、扉を閉めて安堵の息を漏らそうとした——その瞬間。
三人ともピタリと息を呑んだ。
目撃したのだ。大勢の『人』が、まるで紙人形(紙紮公仔)のように非常階段の中に佇んでいる姿を。その姿態は不気味なほど整然としており、一具残らず彼らの方を向いていた。目、耳、口、鼻の輪郭は揃っているものの、呼吸による胸の上下も、筋肉の微細な震えすらない。まるで誰かに一列に並べられ、壁際に固定された展示物のようだった。階段の蛍光灯が頭上で明滅し、それらの顔面に冷たい光を落とすと、ワックスを塗りたくられたような不自然な白さが浮かび上がった。空間には何の音も存在しない——足音も、衣擦れも、塵が落ちる微かな音すらない。七、八対の瞳が一斉に彼らを凝視していたが、その瞳孔には光の反射すら存在しなかった。
鄭愷苑は無意識に唾を飲み込んだ。喉が砂を呑んだように乾ききり、『これはマズい』と直感した。
ところが次の瞬間、紙人形たちは一斉に揃って下方を見つめると、まるで影のようにあっけなく消失した。
階段を上がってきたのは顧長安だった。彼は言った。「さっき劉張三が上で強い動悸を感じて、あなたたちを心配して上がってきたんだ」
彼の背後には唐衍之と劉張三が続いていた。
劉張三は三人の青ざめた顔色を見て、耐えかねて尋ねた。「無事か?」
湯志傑は長年の親友の顔を見るなり、思わず叫び声を上げて愚痴をぶちまけた。「老劉! 死ぬほどビビったぞ! さっき階段に紙人形が七、八体も突っ立ってたんだ! 一対一対の目が俺たちをじっと凝視しててさ、俺はその時『式神か? 式霊か? それとも小鬼か?』って冷や汗かいてたら、突然消えやがった! 壁に溶け込むみたいにな! それが一番怖いんだよ、いつまた現れるか分かったもんじゃない!」
湯志傑の一陣のまく立てに、周囲からは何の反応もなかったが、鄭愷苑と潘穎嫆はようやく心底ホッと息を吐いた。
二人は無意識に顧長安を見上げたが、何も言わなかった。
代わりに唐衍之が尋ねた。「どうして突然消えたのか分かりますか?」
湯志傑は手を打った。「良い質問だ、兄弟。残念ながら、俺にも分からん」
いずれにせよ、劉張三は呆れ顔で湯志傑を見た。「さっき上で凄まじいエネルギーの波動と冷気を感じたから上がってきたんだ。悪戦苦闘を覚悟していたんだが、一体全体どうなってるんだ?」
唐衍之は少し考え、探るような口調で言った。「人数のせいでしょうか? 今の僕たちは六人いますから、以前ほど圧倒的な差ではなくなったのでは?」
湯志傑は頭を掻き、笑った。「本当にそうなら万々歳だがな。だがこのダンジョン全体を合わせれば、潜んでいる奴らの数は俺たちの総数より遥かに多いはずだぞ」
顧長安は応じなかった。彼はただ体を少し斜めに向け、非常口の扉を指さした。「単にやり方を変えただけだろう」
一行は彼の指さす方向へ視線を向けた。防火扉に嵌め込まれた細長いガラス窓に、今や数枚の紙人形めいた顔がぴったりと貼り付いていた。それらの輪郭は平坦で、五官はまるでハサミで適当に切り取られたかのようだったが、どの顔もまったく同じ狡猾な狂笑を浮かべていた——口角の弧度は耳元まで大きく引き裂かれ、刻み込まれた鋸歯のように一本一本の歯が剥き出しになっていた。ガラス窓の外に風など吹いていないというのに、それらの顔はまるで水に浮いているかのように微かにゆらゆらと揺れていた。
「くそっ!」湯志傑は悪態をつき、急いで印を結んで真言(呪文)を唱え始めた。
顧長安は前方へ進もうとする劉張三を手で制し、落ち着いた声で言った。「下から何か上がってこないか警戒してくれ」
続けて、彼は大股で階段を上り始めた。
すると紙人形たちはさらに興奮した。その表情は歪み、口角の亀裂は一層広がって歯茎まで露わになった。鄭愷苑が即座に一喝した。「下がって!」
顧長安は引き返すほかなかった。階段の死角に入り、彼の姿が見えなくなる位置まで退くと、紙人形たちは再び静まり返った。狂笑は収まり、元の狡猾な引きつりに戻った。
「踏み込んではこないのか?」唐衍之が耐えかねて尋ねた。顔にはあからさまな恐怖が張り付いていた。
その問いに答えるかのように、紙人形たちは突如としてドアを押し開けた。彼らは露骨に足を踏み入れ、同時にいくつもの幻聴が四方八方から染み込んできた。まるで誰かが一人ひとりの耳元にへばりついて囁いているかのようだった。
——『ご招かれ感謝します、お邪魔いたします』
鄭愷苑の腹底から激怒が湧き上がった。彼女は金属製拡大鏡を先頭の紙人形の顔面へとまっすぐに叩きつけた。渾身の力が乗った一撃は、「パァン!」と甲高い打撃音を響かせた。「誰が招いたって!? 失せなさい!」
彼女の怒気に圧倒されたかのように、紙人形たちは次々と防火扉の向こうへと退いていった。
潘穎嫆も先ほどバインダーで別の紙人形を叩いていた。ただ彼女は「ハッ! 死ね!」と声を張り上げただけだった。紙人形たちが本当に後退していくのを目にし、彼女は心底驚いた様子で手にしていたバインダーを見つめ、次いで鄭愷苑を見返した。
劉張三と思わず呆れ顔で鄭愷苑を見た。「音声認識(声控)か?」
「そんなわけないでしょ!」ほぼ悲鳴に近い声で、鄭愷苑は開いた口が塞がらないといった様子で反論した。
ここで顧長安が口を開いた。分析を経た規則正しいトーンだった。「意識と言語の相互作用か。唐衍之が奴らを恐れ、それを口に出してしまったことで事態を誘発した」彼は『家に入る』といった言葉を意識的に避けて語った。「そして今、鄭愷苑は紙人形の言葉を直接否定し、出ていけと命じた。これもまた意識的な拒絶であり、言葉をもって状況に干渉したということか?」
湯志傑は一段目の結界を完成させた。防火扉から目を離さぬまま、突っ込みを入れずにはいられなかった。「そんなことが可能なのか!? 本当にできるのか!?」
劉張三は少し考え、真剣な口調に切り替えた。「結界だ! 俺たちが普段使うのは護身印で、気を全身に凝縮させ周囲に巡らせる基本の術だ。だが範囲を拡張する場合、それは呪力の結界となる。精神力を通じてエネルギーを対象領域まで放出するんだ!」
湯志傑は明らかに振り向きかけたが、紙人形への警戒から首を動かせずにいた。怒鳴り散らす。「老劉! 勘弁してくれ! 俺にそんな芸当ができるわけないだろ! 俺ができるのは自分を護ってせいぜい奴らを追い払うことくらいだ! そんな領域を覆う結界なんて張れるかよ!」
湯志傑の頓珍漢ぶりに呆れた劉張三は苛立ちを隠さなかった。「お前のことじゃない! 思い出さないのか!? 『赤い糸』の時の神様は、日本の神様だっただろ!」
湯志傑は弱り果てた。「すまん老劉、やっぱりさっぱり分からん」
鄭愷苑は二人のやり取りを見て、耐えきれずにクスクスと不気味さを忘れて笑った。
潘穎嫆は紙人形の気配が引いていくのを見て安堵し、「ひとまず落ち着いたみたいね」と呟いた。
しかし三人とも振り返る勇気はなく、視線は固く扉に釘付けにされたままだった。
劉張三は説明を続けた。「日本において『言霊』とは古代からの信仰であり、言葉には霊力が宿ると考えられている! 言葉によって表明された思念や望みは、現実世界において相応の結果を引き起こすんだ!」
湯志傑は二人がまだドアを凝視しているのを確認し、後ろを振り向いた。「老劉、一体何が言いたいんだ?」
湯志傑の飲み込みの悪さに、劉張三は目から火が出そうだった。「日本人が崇拝する『言霊』には固定された神体(ご神体)が存在しないことが多い。『霊』の本質は言葉そのものに宿る……つまり言語そのものが一種の神霊となるんだ! 俺たちが真言を使う際、真言を唱える必要があるのと同じ原理さ!」
湯志傑は眉をひそめた。「だが真言だって単なる『引き金』や『スイッチ』に過ぎないだろ? 古さんや于さんが真言を唱えているのを見たことがないぞ」
続けて彼は鄭愷苑と潘穎嫆を指さした。「この二人だってそうだ」
鄭愷苑は気まずそうに言った。「唱えられないだけよ」
潘穎嫆も不安げな顔を浮かべていた。
劉張三は言った。「俺が言いたいのは、俺たちは今まで音節と文字を組み合わせ、意識を通じて天上の神々や地下の鬼神と交信してきただろう? 日本の神様が現れたのは、言葉そのものにエネルギーが宿るという事実(言霊)を示唆していたんじゃないかってことだ!」
唐衍之は勇気を振り絞って尋ねた。「ということは……僕が恐怖を感じて、奴らが……その……足を踏み入れてくるのを危惧したから、さっきの事態を引き起こしてしまった……と?」
劉張三は頷いた。「概ねそういうことだ。さっきの奴らは『招かれて感謝する』と言っていたが、お前は招いていない。俺たちもだ」
ここで鄭愷苑が口を挟まずにはいられなかった。「でも私にそんなエネルギーなんてないわよ。絶対にあるわけがない。ならどうして私の拒絶が効いたの?」
劉張三は珍しく慈愛に満ちた眼差しで鄭愷苑を見つめた。「安心しろ、お前にそんな力がないことくらい俺も知っている。だからこそ思っているんだよ……前回の日本の神社での副本で、何らかの『連結』が生まれたんじゃないかって。俺たちの間だけでなく、神々との間にもな。俺たちが代々の祖師様と繋がるように」
劉張三がそんな結論に至るとは予想しておらず、湯志傑は叫んだ。「冗談だろ!? 俺は真に受けるぞ! あれは縁結びの神様なんだろ!? じゃあ俺の春(モテ期)がついに訪れるってことか!?」
劉張三は湯志傑をぶち殺したそうな目を向けた。「寝ぼけたことを抜かすな! 俺が言っているのは加護や見守りの可能性があるって意味だ!」
---
彼らの眼前に現れたのは、巨大な鉄籠だった。
檻は床から天井までまっすぐに達しており、腕ほどもある太い鉄格子は暗赤色の光沢を帯びていた。まるで何らかの液体に何度も浸されたかのように。格子の隙間は極めて狭く、手一本すら差し挟む余地がない——しかしその隙間の奥には、ぎっしりと人々がひしめき合っていた。
生徒たち。保護者たち。
彼らは何重にも重なり合って檻の中に押し込められており、肩を寄せ合い、背中を貼り合わせ、まるで缶詰に詰め込まれたオイルサーディンのようだった。俯く者、格子にもたれかかる者、口を開けながら何の声も発せない者。彼らの表情は気味が悪いほど均一だった——同じ虚無、同じ空洞、同じ焦点の定まらない瞳。
于奕孺が檻の前に立っていた。彼女は彼らに背を向け、身動ぎひとつせず、檻と外界とを隔てる壁のように佇んでいた。彼女の少し先には古珞鸒と程晉陽たちの姿もあったが、一定の距離を保ち、何かを待っているようだった。
顧長安は考えるより先に駆け出していた。
彼の動作は速すぎた。鄭愷苑が反応するより早く、彼はすでに数歩を踏み出していた。彼女は一拍遅れて追いかけ始めたが、足取りは焦りで乱れ、歪んだ床タイルの上で何度も足を取られそうになった。
「くそっ、脚長男め! 本物かどうかも怪しいくせに……ムカつく……!」彼女は息を切らしながら低く悪態をついた。一字一字を歯の隙間から吐き出し、荒い呼吸と混ざり合っていた。
潘穎嫆も後方から追いかけてきた。彼女の息遣いは鄭愷苑以上に乱れており、額には薄っすらと汗が滲んでいたが、脚を止めることなく歯を食いしばって前進した。アクリル製バインダーを胸に抱え、走る揺れに合わせてカタカタと揺れていた。
唐衍之がその後に続いた。スピードこそ出ないものの、足取りは安定していた。彼は二人を一瞥し、悪意のない直球なトーンで言った。「お二人とも、普段あまり運動されませんか?」
鄭愷苑は猛然と彼を睨みつけた。殺気を孕んだ一瞥だったが、息が上がっていたため迫力は半減していた。彼女は何も答えず、ただ視線を戻して走り続けた。
(心の中で『古さんの体力はもっと酷いんだから、この男には絶対教えないわ』と思いながら)。
劉張三と湯志傑はガテン系(肉体労働)の出身であり、この程度の運動量は何の問題にもならなかった。湯志傑は鄭愷苑と潘穎嫆の後方を走り、息ひとつ乱さず、やってきた道を振り返る余裕さえ見せていた。
劉張三は足を緩めなかった。彼は湯志傑の肩を叩き、簡潔に命じた。「二人についていてやれ」
湯志傑は頷き、半歩速度を落として女性二人の斜め後方に位置取った。劉張三は速度を上げ、顧長安の背中を追って駆け抜けた。
顧長安の接近に真っ先に気づいたのは于奕孺だった。彼女は首を微かに傾けて彼を見やり、呆れたような声を漏らした。「一人で突っ走ってきたの?」
顧長安は答えなかった。彼の視線は于奕孺を通り越し、さらに前方で佇む古珞鸒の上に落とされていた。
その視線に気づいたのか、古珞鸒が振り返り、顧長安を見つめた。彼女の唇が微かに動き、声もなく二文字を紡いだ——『お疲れ様』。そして再び前を向き、遠くを見つめ直した。
顧長安は彼女の視線を追い、一歩前に進み出た。ここまで来て、彼はようやく古珞鸒たちが凝視していた対象の正体を視認した。
それは、常人を遥かに凌駕する巨大な女性の躯体だった。
彼女は極めて不気味な姿勢で吊り下げられていた。頭部が下、脚部が上。剥ぎ取られて逆さに吊るされた皮のようでもあり、あるいは吊るされた処刑者のようでもある。上下が逆転しているがゆえに、遠目からは一瞬で人型と認識することが難しかった。彼女の長い髪は地面まで垂れ下がり、黒い水たまりのようにのぐろを巻いていた。両腕は無力に両脇へ垂れ下がり、指先は今にも地面に触れそうだった。彼女の身体は微かに揺れていたが、風のせいではない——空気は完全に停滞していた。それは内部からの震動であり、動力を失いながらも慣性で最後の余震を放ち続ける機械のようだった。
彼女は眠っていた。あるいは、極めて睡眠に近い状態に落ちていた。
「誰だ?」顧長安は思わず問いかけた。
顔面が逆さになっているため、一瞬で顔立ちを判別することは難しかった。五官は歪んだ角度によって変形し、倒画布のように見慣れた輪郭のすべてが異質に変貌していた。
古珞鸒が数回咳き込んだ。声は大きくなかったが、掠れを含んでいた。「おそらく……葉僑彤よ」
顧長安は眉をひそめた。彼は言葉を発さず、ただその逆さの巨体を見つめ続けた。その名前と眼前の形体とを頭の中で合致させようとしているかのようだった。
そこへ劉張三も追いついてきた。彼はまず于奕孺に声をかけ、次いで顧長安に向き直り、注意を促す口調で言った。「後ろに女性二人も続いていることを忘れるなよ」
顧長安は己の不手際に気づいたらしく、淡々と「すまない」と口にした。
しかしその表情を見る限り、劉張三は(次回があってもまた同じ真似をするんだろうな)と半ばあきらめ顔で思った。
続いて、残りの面々も到着した。
潘穎嫆はその逆さ吊りの女を目にするや、まず息を呑み、次いで明確な嫌悪感を伴う鼻鳴らしを漏らした。彼女の視線はその懸吊された躯体の上に数秒間留まり、眉間を固く寄せた。まるで他の者には見えない情報を読み取ろうとしているかのようだった。
「……まるでサナギ(蛹)ね」彼女の声は小さく、慎重な分析を含んでいた。「けれど外部のエネルギーは表面的なものに過ぎないわ。内部で魔を運用、あるいは育成している最中よ」
劉張三はあからさまに驚いた。彼は潘穎嫆へ振り向き、眉を高く跳ね上げた。「お前、そんなことまで解るのか!? 俺には内部のエネルギーが静まり返りつつも蠢いていて、隠蔽されていることくらいしか解らんぞ」
潘穎嫆は彼の驚きに応えず、ただ逆さ吊りの影を凝視し続けた。自身の見立てが正しいか確認するように。
于奕孺が興味深そうに尋ねた。「あなたたちの目には、これが何に見えるかしら?」
湯志傑が即座に口を開いた。早押しクイズに答えるかのように威勢よく。「巨人!」
于奕孺は言葉を失った表情で彼を見つめた。一拍の沈黙の後、半ば呆れ、半ば解説するような調子で言った。「巨人……大半の神話において、巨人は原始的かつ未馴化の自然秩序を象徴し、しばしば神々や新秩序の祖先、あるいは最大の敵対勢力として描かれるわ。あなたの言い分も一理あるわね……人間の集体的無意識が具現化した以上、相応の理由が存在するはずだもの」
湯志傑は頭を掻き、素直に答えた。「ただデカいから巨人に見えただけなんだが?」
直球すぎる思考回路を目にし、于奕孺は思わずツッコミを入れた。「あなたという人間は、実に気楽に生きているようね」
鄭愷苑が頷き、実感のこもった調子で言った。「確かに、付き合いやすそうな性格をしているわ」
一方、普段なら鄭愷苑に同調することの多い潘穎嫆だったが、今回は口を開かなかった。彼女は逆さ吊りの女から一度も目を離そうとしなかった。その表情には不確かな困惑が浮かんでおり、記憶の断片を必死に手繰り寄せているかのようだった。
「どこかで見たことがあるわ……」彼女はついに呟いた。「既視感があるの」
古珞鸒はその言葉を耳にし、振り返って潘穎嫆を見つめた。彼女の顔の上で一瞬視線を止め、発言時の表情を確認するように見つめた。そして直言する確信を込めて、静かに言い放った。「彼女はこの集団的エネルギーを象徴するイメージ(器)よ。当然、同じ心境を抱く人々の中から、一人が『代表』として押し立てられたのね」
潘穎嫆はハッとして言った。「じゃあ、彼女が象徴しているのは……過度な期待を子供に投影し、相手のためという名目で己の支配欲を満たそうとするエゴね。ここに渦巻いているのは、そうした集団的エネルギーを形成した『念』そのものなんだわ」
彼女のトーンは確認するようであり、同時に思考を整理しているようでもあった。一字一字がしっかりと落とされ、散らばったパズルのピースを正しい位置へ嵌め込んでいくかのようだった。
潘穎嫆が何を言わんとしているかを察し、陳硯之は言葉を失った。「……じゃあ、どうして巨人になんて変貌したんですか? あまりにも巨大すぎる! 暴れ出したらどうするんですか!?」
古珞鸒は首を横に振った。「今は動かないわ、封印されているから。けれど消滅させるとなると話は別よ。彼女が存在し続ける限り、私たちが副本を出ても、現実は再び元通りの構造へと収束していってしまう……」
程晉陽は低く溜息を吐き、逆さ吊りの巨躯へ二度視線を往復させた。「……少なくとも六メートル以上はあるな」
于奕孺が会話を引き取った。基本原則を述べるかのように淡々とした調子で。「なぜならこの物体は単なる『容器』に過ぎないからよ。このエネルギーを動かしているのは別の生命体だわ。修行を積んだ者なら知っているはずよ——『巨大であれば良い』というわけではないことをね」彼女は一拍置き、より正確な比喩を探した。「技術の発達が最終的に『圧縮』へ行き着くのと同じよ、空間には限りがあるのだから。当然、エネルギーの総量は膨大だけれど、運用法を知らなければ密度を圧縮することはできない。だから内部のエネルギーは必然的に無秩序で散漫になるの」
湯志傑は于奕孺をじっと見つめた。彼の瞳は困惑から茫然自失へ、そして諦めへと変化していった。彼は挙手し、教室で先生に平易な言葉を求める生徒のように言った。「……日本語で話してくれないか?」
程晉陽が半歩前に踏み出し、遠くの巨人の歪んだ躯体へ視線を固定した。その声は思慮深く重厚で、まるで建設現場で施主に複雑な構造図面を解説するかのように、霊的な概念を誰もが理解できる物理的ロジックへと変換してみせた。
「世俗の工学的表現に置き換えるなら、あの巨人は遠隔操作される超大型モビルスーツ(搭乗機体)と同じだ」彼は膨大な輪郭を指さした。「メイン制御を行う本体はこの器の中に存在しない。ただ集積された念のエネルギーを絶え間なく流し込んでいるだけだ。エネルギーの総量自体は確かに莫大だが、エネルギー密度が著しく低い」
陳硯之は眉をひそめ、不審そうに尋ねた。「エネルギー密度が低い? それがどんな結果をもたらすんですか?」
「第一に、膨大なエネルギーが無秩序に漏れ出し、無駄に消費される。第二に、内部応力が錯乱し、器自体に無数の不可視の亀裂が生じるため、集中打撃に耐えられない」程晉陽は穏やかに解説した。「体積を膨張させることでエネルギーを保持し、巨体によって恐怖を演出しているが、実際の出力は乱雑で、精密かつ壊滅的な攻撃を打つことはできない。制御に失敗したプラズマ装置と同じさ。エネルギーを閉じ込められず、外殻を押し広げるに任せている状態だ」
劉張三は腕を組み、思索を引き継いだ。「では、エネルギー密度を高めるにはどうすればいい?」
「二つの工程が必要だ。拘束と、提純(精製)だ」程晉陽は確信を込めて言った。「第一に、境界拘束場を構築し、拡散しようとするエネルギーを狭小な体積内に閉じ込めること。第二に、ノイズを濾過し、混入している乱雑な雑念の破片を取り除くこと。この二つを達成すれば、同じ総量のエネルギーであっても威率は跳ね上がる。修行の文脈に置き換えるなら、己の意念を錬成し、収束させる工程だろう。詳しいメカニズムは古さんや于さんでなければ分からないが」
鄭愷苑の眉間のシワが深くなった。「けれど今、私たちはあの容器に手を焼いているわ。本当に厄介なのは背後に潜む操作者でしょう? エネルギー信号を追尾して本体を直接叩く以外に、操作者を無力化する術はあるのかしら?」
于奕孺はここで緩やかに口を開いた。瞳の奥に冷酷な光を宿して。「方法は三つあるわ」
彼女は指を一本立てた。「第一に、エネルギー供給ルートへの干渉。容器である巨人を破壊する必要はないわ。送信されてくるエネルギー経路を直接切断、あるいは汚染するのよ。供給を断たれた容器は自壊し、同時に遠隔操作者へ強烈なバックドラッシュ(逆流)を与えることができる。電源のショートによって供給モジュールを焼殺するようなものね」
二本目の指。「第二に、流路の逆引き追尾。放たれたエネルギーを受け止め、その流向を遡ることでメイン制御の座標を特定する。ただしリスクは極めて高いわ。双方向のチャネルを自ら開くことになるため、相手もまたそのラインを伝って私たちの精神を侵食できるのだから」
三本目の指。「第三に、エネルギー源そのものの解体。この力の根本は、塾に押し寄せる膨大な保護者たちの集団的執念よ。もし『我が子を成功させたい、コントロールしたい』という共通の念を無力化できれば、発電所そのものを引き抜くことに等しいわ。操作者の手腕がどれほど巧みであろうと、無用の長物と化す」
陳硯之はそこまで聞いて息を呑んだ。「三つ目……難易度が跳ね上がりませんか? それは生きている人間たちの執着そのものですよ」
于奕孺は静かに頷いた。「その通りよ。だから三つ目は理論上の上策であって、現実的にはほぼ不可能なの。私たちが選べるのは、最初の二つか、あるいはその双方を併用する道だけね」
提案を聞いた鄭愷苑の第一反応は、古珞鸒へ視線を向けることだった。古珞鸒の顔の上で一瞬視線を止め、彼女が濁気に侵されていないことを確認して、ようやく安堵の息を漏らした。
「もし直接突っ込んであのサナギを突き刺したら」彼女はすでに推論を終えた結論を語るように真剣な調子で言った。「昨日琪と対峙した時のように、濁気が爆発するでしょうね。でも私とアパンの打撃方法じゃ、夜が明けても終わらないわ」
彼女は一拍置き、巨人と于奕孺の間で視線を往復させた。「彼女の消化・融合の度合いを見極めて、葉僑彤とこの集団的連結を直接断ち切るラインが存在するか探るべきかしら」
古珞鸒は于奕孺へと振り向いた。彼女の瞳は先ほど以上に重みを増していたが、トーンは変わらず静かだった。「……あなた、やれる?」
于奕孺は肩をすくめた。彼女らしい素直さを込めて。「私一人じゃ無理よ。けれど、ここにいる四人のエネルギーを借りられるなら、問題ないわ」
『四人』が誰を指しているのか察しがつき、湯志傑は興味津々に尋ねた。「俺たちはダメなのか?」
于奕孺はすかさず言い放った。「年寄り(中年男性)は自分を酷使しようと企まないことね」
劉張三は不満そうにした。「それ年齢差別だろ!」
于奕孺は気にする様子もなく無視を決め込んだ。
唐衍之が気にしたのは別の点だった。「エネルギーを借りるとどうなるんですか?」
古珞鸒の声が少し和らいだ。深刻な事態ではないと言いたげに。「少し疲れるだけよ。『Shadow』に貸し出された時ほど酷いことにはならないわ」
陳硯之は左右を見渡し、自分を指さした。「じゃあエネルギーを貸すのは僕、陽兄さん、衍兄さん、それに顧おぼっちゃまですか?」
顧長安は自分の呼び名に反応したものの、明らかに気まずそうだった。彼は首を少し傾げ、反論することなく巨躯へと視線を戻した。
古珞鸒は静かに頷いた。




