招待状02 - 尊重されない愛 -17(エピローグ)
後日譚・程晋陽
程晋陽が目を覚ましたとき、窓の外では雨が降っていた。
雨音は小さく、細やかにガラスを叩く音は、無数の静かで確かなメトロノームのようだった。彼はベッドに横たわったまま、目を開けてじっと天井を見つめ、急いで起き上がろうとはしなかった。天井の亀裂は、相変わらずそこにあった。照明の縁から部屋の隅へと伸びるその線を、彼は暗闇の中で幾度となく見つめてきた。
胸元に手をやり、鼓動がそこにあるかを確認するようにそっと触れる。脈拍は、確かに打っていた。
体を起こし、枕元のスマートフォンを手にとる。通知はなく、連絡先が増えることもなく、通話履歴にも変化はない。アドレス帳をもう一度読み返してみたが、どこにも「宋知行」という名前はなかった。スマホを置き、明かりもつけずにヘッドボードに背をもたせかける。
あの青年の顔が思い浮かんだ。痩せこけ、青白く、涙に濡れながらも笑っていた顔。あまりにも軽やかなその笑みは、練習したことすらない表情のようだった。けれど、あれは本物だった。
「自分に使わないなら、確かに価値のないものね」と言った渝姉さんの言葉が蘇る。人を慰める風でもなく、ただただ一つの原則を宣告するかのような、静かな声だった。
「俺も一回分のダンジョンのポイントしか持ってないんだ」と答えたとき、迷いはなかった。あのときは何も考えていなかった。けれど目覚めた今、彼は自分が下した決断の重みを実感していた――自分のポイントを引き換えにして、他人の転生を買い取ったのだ。後悔しているかどうかはわからない。だが、取り消すつもりがないことだけは確かだった。
再びベッドに横になり、雨音で部屋を満たしていく。
(俺は、本物の『巣』を見たんだ)
心の中で自分に語りかける。
(怪物なんかじゃない。あれは、もう限界だった一人の人間だ)
彼はそっと目を閉じた。もし次に彼女と会えたなら、きっと「どうしてあんなことをしたのか」なんて訊きはしないだろう。代わりに、こう尋ねるはずだ。
「いつから……そんなことができるって知っていたんですか?」
窓の外の雨は降り続いている。カーテンの隙間から灰 whiteの光が漏れ差し、どこか見覚えのあるダンジョンの光を思わせた。彼は寝返りを打ち、次に顔を合わせるとき、何を尋ねるべきかを頭の中で整理し始めた。
後日譚・宋知行
宋知行が目を覚ましたとき、自分が机に突っ伏しているのではなく、ベッドの上に横たわっていることに気づいた。
いつベッドに戻ったのか、記憶がない。最後の記憶はあの教室で止まっていた――だんだんと薄れていく青年の姿。「書いたよ」と言って笑い、消えていった瞬間。その後は、真っ白な光に包まれた。
体を起こし、書斎の机に目をやる。開かれたままのノートには書きかけのページがあり、その脇にはたった今置かれたばかりのようにペンが転がっていた。近づき、紙面に目を落とす。新しく付け加えられた文章はなく、もともと書かれていた言葉だけが残っていた――『怪文書――魔道――我が道』。
しかし一番下に、書き残した覚えのない一行が付け加わっていた。半分夢うつつのなかで殴り書いたような、歪な文字だった。
『彼女があの言葉を言ったとき、あれは本物だった』
その「あの言葉」が何を指すのか、彼には分からなかった。「すぐには良くならなくても、少しずつ良くなっていくなら、受け入れてみない?」だったかもしれない。「あなたが見えたわ」だったかもしれない。あるいは「人はまず自分自身を愛さなくちゃ」だったかもしれない。
だが、具体的にどの言葉かを確かめる必要はなかった――その一行が何を伝えようとしているのか、彼には分かっていたからだ。
デスクの前に立ち、腰を下ろすことも、ペンを取ることも、明かりをつけることもしなかった。窓の外から滲み出てくる雨音はどこまでも繊細で、決して人を濡らすことのない水霧のようだった。青年の笑顔が、感謝を口にしたときの声が思い浮かぶ。そして、裂けた光の中に立ち、一度も振り返らなかった渝姉さんの姿が。
やがて、カードに記されていたあの一行が脳裏をよぎった。
『善行が記録されました。この行為は今後のダンジョンマッチングメカニズムに影響を与えます』
それが何を意味するのかは分からない。ただ、彼の心の中に一つの思いが浮かび上がっていた。
(おそらく、これが彼女との最後の別れではない)
スマホを取り出し、連絡先を一通り確認する。「程晋陽」という名前はどこにもない。疑問に思うこともなく、ただ静かにスマホを置いた。
もし招待状が届いたなら、迷うことなく手に取るだろう。もしまた程晋陽が現れたなら、何が起きたかを知りながらも言葉を交わす必要のない者同士として、軽く頷き合うだろう。
そして、次に彼女と会えたなら、彼はこう伝えたいと思っていた。
「あなたのことを、理解したいんです」
けれど、それを口に出すことはないと知っていた。窓辺に立ち、沈黙を雨音で満たしていく。空はまだ暗い。すべては、いつも通りだった。
後日譚・劉張三
劉張三が目を覚ましたとき、脳裏にはすべての文言が鮮明に残っていた。『巣主への協力承諾:-500 Pt』を見たときの胸の締め付けられるような感覚も、『情けは人の為ならず・引導の道:+520 Pt』を目にしたときの「そうだったのか」という意外性と歓喜も、すべてを覚えている。
そして『隠しミッション:初の魔導き』という言葉。
彼は少し考え、寝返りを打った――思い返せば、これがいわゆる「魔導き」というものを初めて成功させた瞬間だった。
ヘッドボードに背をもたせかけ、あの青年の顔を思い出す。自分が涙を流したとき、親友が何も言わずに肩を叩いてくれたことを思い出す。「俺たちのなけなしのポイントなんて恥を晒すようなもんだ」と言ったとき、自分の心が嘘をついていたことも。与えたかったのだ。ただ、それを誰にも知られたくなかっただけで。
「人はまず自分自身を愛さなくちゃ。それが第一よ」
あの女がそう言ったとき、劉張三は心の中で思っていた。もし昔、自分にそう言ってくれる人がいたなら、自分は今のような道を歩んでいただろうか、と。答えは出ない。けれど、だからこそ自分はダンジョン史上最高のポイントを獲得できたのかもしれない、とも思えた。
彼はおもむろに立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。空が白み始め、雨上がりで濡れた街路が鈍く光っている。
長考の末、彼はぼそりと呟いた。
「……ありがとな」
宛名のない感謝だった。けれど、その言葉が行くべき場所へ届くことを、彼は知っていた。
後日譚・奕
奕が目を覚まして最初にしたことは、ポケットの中に手を伸ばすことだった。
ペンデュラムは、そこにあった。やはり、まだ使える。
取り出して確認してみる――壊れてはいない。石の表面に極めて細い亀裂が入っていたが、まだ使える。ただ、そろそろ替え時かもしれなかった。ペンデュラムを仕舞い直し、彼女はしばらくベッドの端に腰掛けていた。
あの青年の表情が眼裏に焼き付いている――涙に濡れた顔から、少しずつ涙が引いていき、震えが収まり、穏やかさへと変わっていく様を。彼女はついに彼を見届けることができた。そして「あなたが見えたわ」と告げたあの声は、確定した事実を淡々と口にするかのようだった。
「彼を一人の人間として見てくれた人がいたからだ」と自分が口にしたときのことも覚えている。心底、驚いていた――自分自身が、そんな言葉を吐く人間だとは思ってもみなかったからだ。
スマホを取って画面を見る。通知はない。誰の連絡先も聞いていないのだから、当然のことだ。けれど彼女は数秒間、画面の上で指を止めていた。来ることのないメッセージを待つかのように。
やがてスマホを置き、立ち上がってキッチンへ向かうと、グラスに水を注いだ。
「今度会ったら」
誰に言い聞かせるでもなく、低く呟く。
「あのやり方を、教えてもらうわ」
それが「ポイントを使った取引」のことなのか、「一人の人間として向き合うこと」なのか、あるいは「光の中に立ち、振り返らずに進むこと」なのか、自分でも判然としなかった。
けれど、次にカードが届いたとき、彼女はペンデュラムを手に、もう一度挑むだろう。
なぜなら――彼女はついに、あの方を見つけたのだから。
後日譚・湯志傑
湯志傑が目を覚ましたとき、夢を見ていたことに気づいた。けれど起きてしまうと、その内容を思い出せなくなっていた。
よくあることだった。彼は勘が良いほうではない。けれど、昨日自分が全力を尽くしたことだけは分かっていた。記憶に残っているのは、たった一つの言葉だけ――「自分に使わないなら、確かに価値のないものね」。
ベッドの端に腰掛け、その言葉を反芻する。
これまで自分が潜ってきたダンジョン、目にしてきた巣、退治してきた魅。そして、救えた者と、救えなかった者たちのこと。
「俺も……自分に使うべきなのかもな。もし、できるなら」
ぽつりと呟き、彼は立ち上がって洗面所へ向かった。明かりをつける。鏡に映る自分は至って普通で、どんなダンジョンに入っても誰の記憶にも残らないような、平凡な顔立ちをしていた。
けれど、鏡の中のその顔を見つめていると、以前より少しだけ悪くないと思えた。
劉張三が自分の肩を叩いてくれた、あの軽い力を思い出す。彼はふっと口元を緩めると、電気を消してキッチンへと歩き出した。窓の外では、夜が明け始めていた。
後日譚・結び
六つの魂、六つの異なる朝。
彼らはそれぞれ違う街、違う部屋、違う天候の中で目を覚ました。
全員が、あの青年の同じ笑顔を覚えている。全員が、すでに白紙となった同じ招待状を抱えている。現実世界で互いの連絡先を見つけられた者は、誰もいない。
けれど、彼らは皆知っていた――あの男が「ありがとう」と口にし、自分たちが深く頷いたことを。
あらゆる救いが記憶に残るわけではない。けれど今回ばかりは、確かに届き、記憶に刻まれたのだ。




