1.「師匠」「先生」
侑人がこの世界に来て3週間…いや、一カ月が経過した。現在この世界での朝7時頃である。
街の近くは危険がないと教わった侑人は今、体力作りの為に街壁の周りをランニングをしていた。始めた頃はすぐに息が切れてバテていたが、続ければ伸びるものである。
異世界サバイバルを経て、シェリルと出会い、彼女の厚意…もしくはイタズラから領主の館に呼ばれ、そのまま領主宅でお世話になる事となったのだ。
無理やり放り込まれると適応できるもので、言葉を覚え始めた侑人はそれなりの会話は可能となっていた。
その中で侑人が聞いたこの世界の事を少しだけ説明する。
・1年は約365日で周期は地球とほぼ変わらない。ひと月は30日で12カ月に区切られ、新年の祝いを5日前後で行うらしい。1年のズレを新年に整えるので、約365日となる。新年の祝いが3日の年もあれば7日の年もある。
・1週間は10日間区切りで、曜日というものは割り振られていない。
・季節は春頃を水、夏頃を火、秋頃を風、冬頃を土と呼ぶ。土の季節と水の季節の間に新年が入る、日本で言うと3月頃だろうか。
・1日の時間の刻み方は地球と同じで、24時間60分60秒である。
なんとも都合が良すぎる…と侑人は思った。偶然にしては似過ぎていて、出来過ぎている。しかし、なんとなくちぐはぐだ…とも思った。
これほど似ていながら、1週間が10日刻みであったり、1年の12カ月とは別に新年の5日間が存在したり、その新年の時期も違う。
これらはその昔に召喚された勇者の影響であるとミュリアルは言った。長く生きるエルフは、その移り変わりを知っていたのだ。…エルフでなくとも、知っている者は知っているのだが。
今の形になる前は、1年を4カ月で区切り、ひと月を90日、1日の時間の刻み方を10時間としていた。日の出を0時とし、1日を10時間100分100秒で過ごしていたという。その頃に合わせれば、朝食なら1時、就寝なら7時頃となる。
侑人が興味本位で計算してみると、当時の1秒が今の0.86秒となった。「へぇ~」と唸った侑人だったが、「…どうでもいいか」と思い至り、さっぱり忘れることにした。…本当にどうでもいい情報である。
☆
説明を続ける。脱線したわけではない。侑人のせいである。
・この世界の名は分からないらしい。逆に「そちらの世界の名は?」と聞かれた侑人の方も答え方が分からなかった。「世界の名前…。強いて言えば太陽系…銀河系…?」としか思いつかないものである。
・この星には名前がある。マギカネリアという名で、国の名前はルクセウス、領地の名をジャガーバルトという。つまり今侑人がいるのは、マギカネリアという惑星にあるルクセウス王国のジャガーバルト領、ジャガーバルトの街にある領主宅となる。
・領主の名は、ラルフ・ジャガーバルトという。妻のミリア、娘のシェリル、王都にいる兄のアランとの4人家族だ。
・ラルフは元冒険者で、とある褒美として叙爵され、この領地を任されたのだという。ちなみに侑人と同い年であった。
・エルフの少女は、名をミュリアル・ユースウッドと言い、ラルフの元冒険者仲間だ。普段は王都にいるが、たまにジャガーバルト領へと来ていた。
ちなみに領主であるラルフと侑人が出会ったのは、ミュリアルにドッキリが行われた10分後であった。
目の前の情報と思考が噛み合わなかったミュリアルがやっと再起動し、興奮気味に知っている限りの日本語を侑人に伝えながら詰め寄っていた場面に、妻のミリアと共に食事から戻ってきたのだ。
タジタジになっている見知らぬ男と興奮する元冒険者仲間の組み合わせに、警戒も忘れキョトンとなったラルフ。我が家の玄関でそんな光景が繰り広げられていれば、そうなるのも仕方ない事だろう。
侑人はその後、通訳となったミュリアルと共にジェスチャーを交えながら会話を試みた。
異世界人かもしれない事、領へ来るまでの出来事、日本へ戻りたいという目的、シェリルとの出会いも…。「死刑だー!」とはならなかったようで、当時の侑人はこっそり胸を撫で下ろした。
そしてこの領主宅に住むことを許可してもらった。ミュリアルの興奮がいい働きをしていたのかもしれない。
それから三週間…一カ月が経ったところである。
…説明から漏れてしまったが、もう一件伝えておこう。
街から見える森。そこに群生する木には多少の静音効果を持つものがあり、そのせいで異世界サバイバル中の侑人の所まで街の音が届かなかったのだ。
森には他にも、堅さを持った木、火のつきやすい木もある。それぞれが街の生活資源として、建築材、武器、薪等に使われている。
火のつきやすい木と聞けば容易に森林火災が起きそうだと連想してしまうかもしれないが、どの木も伐採されていないものはその特性が顕著には現れない。なので火事の心配は低く、堅さを持った木でも伐採は苦労しない。
火のつきやすい木は炎木と呼ばれており、侑人が焚き火をする際にお世話になったものだ。…その時は木というより枝だったが。
☆
侑人は日課のランニングを終え、門番と挨拶を交わし領主宅へと歩いてゆく。家の前に着くとミュリアルが待っていた。
『おはようございます、ユート先生』
『おはようございます、ミュア師匠』
朝の挨拶を日本語でやり取りする侑人とミュリアル。これはいつもの光景となっている。
シェリルのいたずらがきっかけで初めて出会った2人は、お互いを「師匠」「先生」と呼び合うようになっていた。マギカネリア全般に関する「師匠」、日本語の「先生」だ。
彼女の愛称はミュア。「名前を呼ぶときはそう呼んでほしい」と頼まれたのだ。
『日本語、とても上手になってきましたね?』
『そう、かな? そうだとしたら、嬉しい、です』
そんな会話をしながら領主宅へと戻っていく。
難しい言葉や言い回しはまだ無理だが、ミュリアルの日本語は初めて会った頃よりもかなり流暢になっていた。
カタコト気味な『タダイマ』はともかく、『コンニチワゴザイマス』はすぐさま直さなければと、侑人は謎の使命感に燃えた。
ミュリアルに言葉を教えつつ、矯正しつつ、侑人も言葉を習いつつ。お互いに言葉を教え合う関係は、なかなかに良好だった。
ある日、なぜ『コンニチワゴザイマス』になっていたのかと聞けば、『おはようございます』から取ってきたという答えが返ってきた。
「『おはよう』に『ございます』が付けば…丁寧?…親切?になる…? だから『こんにちわ』と『こんばんわ』にも『ございます』をつけたの」
とはミュリアルの談。丁寧な日本語を心掛けていたようだ。
ミスター〇〇さん、エントリーナンバー〇番など、似たような間違え方を日本でも聞いたことがあった侑人は、『…あ~~…』と若干ズレた考えをしながら納得した。
☆
「おかえりにゃさいませ!」
「ただいま帰りました」
侑人はメイドである猫人族のミルに出迎えられ、宛がわれている部屋へ戻り、汗を拭いて服を着替えた。ランニング時の服装も、着替えた服も靴も、この街で購入したものである。
侑人はミュリアルへの日本語講座代と、冒険者としても活動する事で稼ぎを得ていた。
まだ領主宅に住み始めて間もない頃、ミュリアルに日本語を教える事に対して、報酬…授業料を払おうとされた。
この世界での共通語であるマギ語を教わり始めた侑人としてはwin-winの関係。追加の報酬提示に「本当にいいんですか?」と聞いた侑人に対し、ミュリアルは…興奮しながら答えた。
「この授業はいくら金貨を積んだとしても受けるべきもの! 本物を教えてもらえる機会なんて今までに無かった! 受け取ってもらわないととっても困る! もし報酬を受け取る事が不服なら、それに見合う授業をわたしにして欲しい! あぁ夢のよう…直接言葉を交わす機会が訪れるなんて…。披露できる喜び、更に学べるという期待。…それも書物ではなく直接教われるなんて! はぁ~!」
何を言っているか当時の侑人にはまだ分からなかったが、印象ががらりと変わってしまいそうな程のとてつもない勢いに押されて、若干引きながら報酬を受け取る事を了承した形となったのだった。
その光景を見ていたラルフ達もミュリアルのそんな姿は初めてだったようで…割と引いていた。
その日の授業終わりに1日の報酬としてミュリアルから渡されたのは、3枚の金貨。侑人がこの世界に来て初めて見た現地の硬貨であった。
人の横顔が描かれた金色の硬貨。モデルとなっている人物は、この世界で神と崇められている女性…女神アナスタシアであるという。
横顔が描かれているのは金貨だけのようで、他にシンプルなデザインの銅貨とサイズ違いの大銅貨、剣が描かれた銀貨とサイズ違いの大銀貨、城の描かれた王金貨がある。
お金の単位はリオルというらしいが、金貨や銀貨等の枚数で表現される事の方が多いという。
10リオルが銅貨
100リオルが大銅貨
1,000リオルが銀貨
10,000リオルが大銀貨
100,000リオルが金貨
10,000,000リオルが王金貨である。
大金貨はないらしい。銅貨より小さい額のもの…10リオル以下は、鉄くずを目算で当てるというもの。…形式としてはあるが、使われる事はまずない。
一般的な食事1食が大体銀貨1枚、安宿1泊で銀貨3枚、それがジャガーバルト領の物価だった。1リオル=1円と考えても誤差は無さそうだ。
物価が日本とジャガーバルト領とで然程変わらない事と、金貨の価値をその日の夕方知った侑人は…ミュリアルに金貨を返した。
『お気持ちは嬉しいですけど、さすがに多過ぎますよ』
『………えっと』
『あ~っと…気持ち、嬉しい、でも、多い、ダメ』
その当時はまだミュリアルに通じる日本語は少なかったので、侑人はゆっくりと、怒ったように見えないよう気をつけて、しかし真剣な顔で伝えた。
日給…しかも3時間程度の授業で30万円渡されたようなものだ。ラッキーと思うには時給10万円は額が大きすぎた。
…正直なところ、勿体ないと思う気持ちが無くもない侑人だったが、教える度に30万円支払われる事を思えば…プレッシャーの重さはえげつない。とても報酬に見合った物を彼女に返せないのだ。
『ダメ』と言われたミュリアルは、午前中の勢いは見る影もなく…耳が元気の無さを表すように下がっている。
『ゴメン、ナサイ…』
その言葉にも元気が無かった。
言葉がちゃんと伝わったのか、何かは分からないが『ダメ』と怒られた気がしたから謝ったのか。
『お金、話し合う。そのあと、決める。いい?』
目線を合わせるように中腰で話しかける侑人。怒ってないよ?という雰囲気を全力でアピールするかのように笑顔だ。
返された金貨をバッグにしまい、メモ帳を取り出して捲っていくミュリアル。どうやらメモ帳は日本語の載った手作りの辞書のようだ。
伝わったようで、コクコクと頷いた。
こうして侑人による日本語講座は、銀貨5枚…日給5,000リオルに落ち着いたのだった。
この男、紳士であった。
☆
当時の事を思い出し笑いしてしまったが、幸い誰にも見られていなかった。
侑人は表情を落ち着かせて、食堂に向かうために部屋を出た。