6.九死に一生
「………」
ギチチチチ…、広場へと戻ってきた侑人の耳に、キラーアントの声…らしきものが聞こえた。通ってきた通路の先は広場の高所にあり、そこから見下ろすと先程と変わらずキラーアントが1匹だけいるのを確認できた。体勢を低くしながら足場を伝い、左手側の壁に沿うように下りていった。
気付かれやしないだろうか、音が鳴ったらどうしよう、この足場に隠れてやり過ごす案もあるんじゃないか? でもこっちまで来られたら詰む。集中しているはずなのに雑念が湧いてしまい、それを追いやって進んでいく。
これが本当に正しいのか、もっと…最良の行動があるのではないか、…それを考え込んで結局状況を悪くするのではないか。追いやった雑念が形を変えて再び湧いてくる。
足元、足音、呼吸にも衣擦れにも気を遣いながら、30秒もあれば下へ辿り着けそうな足場を3分以上かけて下りている、その距離はまだ3分の1程度。
もどかしく思いつつ広場にいるキラーアントにも注意を向け、気付かれていない事に安堵し、後ろを向いて気付いていないフリをしているだけかもしれないと疑心暗鬼になり、しかし進むしかないと腹を括る。
不思議なもので、それでも卵を手放そうという考えは一切浮かばなかった。
(あと少し…)
足場とは言ってもスロープのように歩き易くなっているわけではない。日本の波止場でよく見かける消波ブロックが積み重なった感じ、と言えばイメージしやすいだろうか。…というかまんま消波ブロックだった。
なぜこんなものがここにあるのかと疑問には思った侑人だったが、積み重なった岩よりも消波ブロックの方が下りるには楽なのは確かだ。突起の形も見た感じの素材もまんま見覚えのある物で、地球と関わりでもあるのだろうか、転移者や転生者でもいるのだろうかと考えが浮かんでも致し方ないだろう。
三度雑念を振り払い、次に足を置く場所を確認し、陰に隠れながら無事広場まで下り切った。見上げてみても高所にある通路からキラーアントが出てきた様子はまだ無い。
広場には身を隠せと言わんばかりの大きさの岩がある。侑人の進もうとする方向には岩が間隔をあけて3つあり、その先には通路へと繋がっていそうな横穴がいくつか見えている。
岩陰から岩陰へ進…む前に広場のキラーアントの様子を確認し、静かに…だが急いで1つ目の岩陰へ移動した。
本来なら足が竦んで、恐怖で動けなかっただろう。グルードの無茶苦茶なジェットコースターを体験した後だったのが効いたのかもしれない。それでも恐怖心がドクンドクンと主張していたが。
無事に到達した1つ目の岩陰で音を漏らさないように深呼吸、2つ目の岩陰へ移動「カツーン、カッカツン、カツン」…している最中に、後方の高い位置から石が落ちる音が広場に響いた。
「………」
侑人は進むにも戻るにも中途半端な位置。
「………」
広場のキラーアントと目が合ってしまう。
「っ!」
「ギチチチチ!」
進む先にある通路へとダッシュする侑人と、獲物を見つけたキラーアントA。後方を確認すれば、侑人が入ってきた高所の通路からキラーアントBの姿が見えた。石はBの足に当たって転がってしまったものだった。
侑人とキラーアントAの追いかけっこが始まってしまった。
「嘘やん!?」
「! ギチチチチ!」
キラーアントCが現れた。目的の通路に入ろうとした所で、その奥から広場に向かって来ていたキラーアントに遭遇した。その距離およそ5m…侑人はすぐさま方向を変え、次に見える通路へ向けて走った。
(あ~もう! なんで3匹目の可能性を考えなかった! 2匹だけしか居ないなんて事あるわけないのに!)
侑人の経験不足はこのような形で顕わになってしまった。先程のキラーアントBの接近を感じた時に気付けたはずの、3匹目以降のモンスターの存在。
キラーアントBが石を転がしてしまわなければ、キラーアントCに遭遇するタイミングもズレていたかもしれない。もしかしたらニアピンで遭遇せずに済んだかもしれない。もう少し臆病になって時間を数秒使っていれば、キラーアントAにも見つからずにやり過ごせたかもしれない。
全てはたらればの結果論。言ってしまえば、侑人に運が無かったという事だ。
(キラーアントっ、特徴は覚えてるけどステータス、戦闘方面の情報まではっ、さすがに覚えぎっ!?)
「っづぅ!?」
右手に持った短剣を必要以上に強く握りしめながら、卵は左脇に抱えて全力ダッシュ。その背後から投擲された槍が侑人の右脇腹を抉った。槍はそのまま侑人の前方、石の壁に突き刺さった。
足が止まり、膝をつき倒れ込む。…もしくはそのスピードのまま地面を転がる。以前の侑人だったならそうなっていただろう。激痛と熱さを感じた右脇腹に一瞬膝が抜けそうになったが、それを堪えて走り続けた。
(くっそ…! あぁいってぇ!)
堪える事が出来たのは生きたいという執念か、背後から背中を斬られた経験があったからか、卵を守りたい一心か。歯を食いしばって心の中で痛みに毒づきながらも、走る足だけは止めなかった。
「「ギチチチチ!」」
キラーアントAとCが合流して侑人を追う。
(あの声が仲間を呼んでるのかっ、違うのかも分からん。ただまだぁあ~っ!? ぐぉぉ…いってぇ! まだ走れる! 次の通路までもうすぐっ、通路からもう1匹来てたらどうする? …戻るのは無理っ、なんとか通り抜けて先に進む!)
侑人の息はあがり、ハァハァと口から苦しさが漏れる。痛む脇腹を庇って走っているので速度は落ち、最初感じた熱さは今ではズクンズクンと痛みだけを主張していた。
傷口は見ていない、見れば心が折れるかもしれないという本能的な行動だ。走れている、その事実があれば今はいい…と。それでも着ている服を…痛む右脇腹付近から右足を赤く染める血はチラリと目に入っていた。
通路へと入り込み、不安だった新たなキラーアントの出現は無く、真っ直ぐ続く通路を走った。少しでも生き残る可能性を上げるために…。
後ろからは「ギチィ!」「ギチチチチ!」とキラーアントの声がしていた。侑人にはその声が…嗤っているように聞こえていた。
☆
侑人はキラーアントを撒くことに成功した。
キラーアントの足の速さが特質すべきものではなかった事と、AとCが侑人の後を追いかけて通路に入ろうとした際、Cの持っていた槍が通路入り口に引っかかってセルフ通せんぼをし…罠にかかったのだ。キラーアントは侑人を追う事に夢中で、槍を横向きに持っていた事を失念していた。…おつむが残念なモンスターだった。
セルフ通せんぼにかかった1匹のキラーアントの体がくの字になり、その衝撃に「ギチィ!(グホォ!)」と声をあげ、それを見たもう1匹が「ギチチチチ!(だはは!間抜けめ!)」と笑ったのだった。嗤っているように聞こえたという侑人の感想はある意味合っていた。…自身に向けられたものではなかったが。
AとCが笑った笑われたでケンカになり、その時には既に侑人の事は忘れてしまっていた。…本当におつむが残念なモンスターだった。
九死に一生を得た侑人だったが、後ろでそんなコントが始まっているとは知る由も無く、ただひたすら走っていた。運が悪かったのか良かったのか…。
九死が続いているという点では、まだ運が悪いと言っていいのかもしれない。
「はぁっはぁっ、っくぅ! …はぁっはぁっ」
走った距離はどれくらいだっただろう。必死だったために走った体感距離さえ分からなかった。300mか400mか、或いはその半分か。走っているその先に小さめの広間が見えた。
(っ!? マジかっ! マジかぁっ!)
その空間は、ダンジョン内を移動していた時よりも明るく、日の光がどこかから反射して入り込んでいるのではないか、侑人にそう思わせる程の明るさだった。
初級ダンジョンにも存在する、ミュリアルに連れて行ってもらい実際に見た事もある、モンスターが入って来ないとされている場所…セーフエリアだ。
(あそこまで行けば一息つけるっ、モンスターは入っては来ない…はず。警戒はまだ緩めるなっ)
転がり込むような事はしなかった。広間へ入ると振り返り、肩で息をしながら右手に持った短剣を通路に向けた。息は苦しいが、音を少しでもよく聞くために口は閉じている。
日々のランニングやミュリアルとの訓練は、ちゃんと侑人の力になっていた。タバコで弱っていた肺も、走る事がめっきり減って筋力の落ちていた足も、見る程度だった格闘技のような体の動かし方や武器の扱いも。それに座学での知識や実戦の心構えも、マギカネリアで過ごした3カ月が生きるための力となってくれていた。
…惜しむらくは侑人にステータスが無い事か。
徐々に呼吸が落ち着いてきたが、キラーアントの声は聞こえて来ず…短剣を通路に向けている事も辛くなり、侑人は通路に視線を向けたまま壁に寄っていって腰を下ろした。
否応なしに、通路から続く血痕が目に入る。
「はぁっはぁっ、うっ…」
侑人はそこでやっと傷口を見た。斬られた…というには深すぎる、抉られた傷口。
(こんな状態で走ってたのか? あの時見なくてよかった。…ただ、これどうすれば…というか、血の量やばくね…)
流れ出た血で右足は真っ赤に染まっていた。今も座った場所に赤い水溜まりを作っている。
傷口を見た事で痛みが増した感覚がした。傷口から生気が抜けていく感覚がした。
血の匂い、止血、包帯、手遅れ、死。
そんな考えが頭に浮かんだ時だった。
「…誰だ」
「っ!」
声が聞こえた方向に咄嗟に顔と短剣を向けた。そこには岩陰からこっそり侑人を見ている…黒髪の青年がいた。




