黒服
車に乗り、イタリアン・レストランまで移動中、マーテンスは看板のことを忘れていた。シンシア・バーネットが、既に相談事を初めていたからだ。
「兄が……」
とシンシア・バーネットが言った。
ジーンズにカジュアル・ジャケットという私服に着替えると、シンシアは如何にも普通の若い女性のように見えた。
「わたしの口からいうのもなんですが、兄は実は神経を病んでおり、でもそれほど酷くなくて、仕事には――雑誌のデザイン関係なんですが――通ってまして、通院は……ええと、これは別の病院の神経科なんですが、週に一度くらいなんです。それで、先先週だったと思いますが、薬を――確かLLS204という薬に――代えてもらったようで、それ以来、ちょっと、上手く言えないんですが、怖い感じがするんです」
「怖い……って、どういう風に?」
とマーテンス。
「目つきが異常とか、そんな感じ……」
「ええ、言われてみれば、目つきも怖い感じがしますが、どちらかというと、全体の態度なんです。何処か、何かに脅えているような感じで、それが過剰防衛っていうんですか、翻って、対応するに人に恐怖感を与える、というか……」
「それが、投与する薬が代わってからだと?」
「……と思うんですが」
考えながら、歯切れ悪くシンシア・バーネットが答えた。急に思い出したように、
「そういえば、これは関係ないかもしれませんが、今朝の会話に黒服の男の話題が出ていたんですけど、その話題が出るようになったのも、薬を代えてからかもしれません」
「黒服の男とは?」
とマーテンス。
「見てるんだそうです、兄を……。一人なのか、実は複数なのかはっきりしないんですけど、黒いスーツに身を包み、黒い帽子を被り、手袋も黒で、背は平均身長くらいで……。あっ、ちょうど、あの人たちみたいな」
言って、シンシア・バーネットは歩道を歩いていた二人組みの男たちを指差した。
「兄の話から、わたしがイメージしたのは、あんな感じの人たちでした」
指摘されてみれば、歩道には全身黒づくめの二人組みの男がいた。怪しいといえば、確かに怪しい。が、街で決して見かけない姿というわけでもない。シンシア・バーネットの話に影響されたのか、マーテンスはその二人組から監視されているような感じを受けた。もちろん、錯覚には違いないが……
程なく、車は目指すイタリアン・レストランに到着した。
「話は伺ったので、とにかく落ち着いて食事をしましょう」
言って、マーテンスは馴染みのウェーターを呼に、コースをオーダーした。途中、癖のある料理のときは、いちいちシンシアに問いかけ、食べられるかどうかを訊ねた。
「ええ、わたしは大丈夫です」
彼女には、あまり好き嫌いはないようだった。
食前酒にはイタリアン・ワインをオーダーしたが、車もあるので、マーテンスは殆ど口をつけなかった。食事中は、先の話は話題に上らず、もっぱら最近流行のポップスの話で盛り上がった。食後、
「医者の守秘義務がありますから、問題は簡単ではないのですが……」
と、前置きしてからマーテンスが言った。
「この街は大きくないし、きみのお兄さんが診療を受けている医師はわたしも知っているから、それとなく話を聞いてみることにしましょう」
「ええ、宜しくお願いします」
深深と頭を下げ、シンシア・バーネットが答えた。
駐車場まで歩いたところで、ふと上を見上げると、看板があった。結構大きい。マーテンスは話の種のつもりで、シンシアに看板の話をした。看板を指差しながら、
「きみは、あれが何だと思う?」
マーテンスが尋ねると、
「あれ? あの二人、さっきの……」
看板とは別の方角を見、シンシア・バーネットが呟いた。マーテンスがその方向を見ると、果たして先ほどの黒服の男たちが駐車場の端を歩いていた。
「奇妙だな?」
とマーテンスは口に出して言った。
「何だかわからないが、まるで何かが伝染しているようだ」
「偶然、でしょうか?」
僅かに脅えながらシンシアが訊ねた。
しかし黒服の男たちは、マーテンスたちには興味も示さず、レストランの中に入っていった。
「とにかく、お宅までお送りしましょう」
言って、マーテンスはもう一度ちらりと看板を見つめた。
気がつくと、小雨がぱらつき始めていた。