検波
その日の夕刻は俄雨が降り、街はすっかり湿気を帯びた。雨音が遠くなったので、マーテンスは診療室の窓から外を眺めた。
すると、何やらキラキラと光るものが見えた。
思わず立ち上がり、窓辺に寄ると、マーテンスは窓を開け、外を眺めた。
虹が出ていた。
身を翻すと、マーテンスはエレベーターに乗り、屋上に向かった。
霧雨が残っている屋上には数人の患者と医師、看護婦たちがいた。みな一様に空のドラマを眺めている。中には、傘を差しているものもいた。
「きれいな半円じゃないか!」
感嘆して、マーテンスは言った。虹を見ながら屋上の手摺りまで歩いてゆく。
すると、
「先生、素敵ですね」
背後から声が聞こえた。振り返ると、シンシア・バーネットが立っていた。やはり虹を見に屋上に出て来たのだろう。
「先生のご意見通り、昨日の夜、兄にココアを入れてみたんです」
マーテンスと並んで手摺りに手をかけ、空を見上げながら、シンシアが言った。
「そうしたら、とても喜んでくれましたわ」
まるで子供のように無邪気な顔で語るシンシア・バーネットを見、マーテンスは複雑な気持ちに囚われた。たった一つの、所謂中傷・誹謗で、こうまで人間の印象が変わるものなのだろうか、と。
今のマーテンスにとって、傍らのブロンド美女は、ただ煩いだけの存在だった。
わずかの騒めきが起こった。それに気圧されるようにマーテンスが再び空を眺めると、虹の合間にゆらゆらと何かの影が揺れていた。
街だった。……というより、街の一部か、とマーテンスは見て取った。どういう物理現象なのか不明だが、虹の中に街が映って見えたのだ。が、それは一瞬の内に消え去った。後には、空の色が黄昏るにつれ薄くなっていく半円の虹だけが残った。
診療室に戻ると、トッド・ジェイルズ医師が尋ねて来ていた。
「文献を見つけましたよ」
マーテンスの姿を捉えると、開口一番、ジェイルズは言った。
「LLS204ですが、あのタンパク結合型三環系抗鬱剤は脳関門を通過して脳にまわる分解生成物がカテコールアミン類と妙な結合をする場合があるんですね。そして、脳梁に一時堆積する」
カテコールアミン類とは神経伝達物質のことだ。種類は種々だが、基本的に同じ分子骨格を持っているので、そう呼ばれる。が、それが脳に堆積するとは?
マーテンスは訝しんだ。
「で、その意味は?」
とマーテンスが問うと、
「わたしにも詳しいことはわかりません」
トッド・ジェイルズがあっさりと答えた。
「ただ――物質の内容は違いますが――前例があるんですね。商品名ブランドNという薬剤の分解生成物は脳内電流の中継装置として働いた、という別の文献の記載を読んだことがあります。ずっと以前のことですが……。この薬剤の場合、著者は、右脳と左脳の間でやり取りされる電流――コミニュケイト電流と名づけられていました――の変化を観測できたと述べています」
すると、間髪を入れず、
「電流変化というのは胡散臭いな」
とマーテンスがコメントした。
「確かにシナプス(神経接合部位)の電圧変化が化学物質とともに脳内の情報伝達に預かるわけだから電流は流れるだろう。だが、それはかなり微弱なはずだ。もっともシナプスの電圧変化は脳内のかなり広い範囲で同時に起こるから、脳は外界に向けてパタンを持った電磁波を放射していることになるがね。しかし、これもごく微弱だよ」
「著者はSQUID(超伝導量子干渉計)を利用したようですね。あれなら微弱なものに対応できますし……」
「うーん」
とマーテンスは唸った。
「それで?」
「これは単なる想像ですが」
と前置きし、トッド・ジェイルズは続けた。
「それを媒介して脳から外に向けられた……というか漏出した電波を捉えることができるなら、逆も可能だろう、と考えてみたわけです。電波の受信物質ですね」
「きみはまさか……」
と驚いて、マーテンスが語気を荒らげた。
「いわゆる電波系の人間が実際に存在するっていいたいわけか? それで、円盤か政府の洗脳電波を受け取っていると……」
「まさか!」
とすぐに、ジェイルズはマーテンスの言葉を否定した。
「それじゃ、こっちが精神異常者ですよ。まさに妄想の類ありませんか」
「しかし」
とマーテンス。
「仮定なんです」
地に足が着いた低い声でトッド・ジェイルズが言った。
「仮定としても」
とマーテンス。
「誰がそれを発信しているんだ?」
「誰も発信していないんですよ。……というか、すべてのものが発信しているというべきですか」
ジェイルズの言意を汲み取り、マーテンスは己に問いかけた。
すべての生物の脳は電波を発信している。その周波数が凡そ合致している、とでも?
「……とすれば、その受信ラジオの選択性は高くないだろうから、それが脳内に蓄積/堆積した患者の脳には雑多な他人の思考が聞こえてくる……といいたいわけか?」
「もしかしたら、選択性――電波ですから検波ですね――の精度は悪くないかもしれないんです」
トッド・ジェイルズが指摘した。マーテンスが首を傾げる。
「LLS204に含まれる抗鬱剤成分は――体内にはない物質でもありますし――一定時間が経てば必ず体外排除=排泄されます。鬱病に効果があるのは三環系の方ですから、これは与え続けなければならない。しかしLLS204の分解生成物は、先ほど述べたように、脳内に一時堆積する場合がある。おそらく排泄速度は三環系分子の方が速いでしょう。それに実際、三環系分子がこれにどう関係するかはまったくわからないんです。ですが……。LLS204の臨床例を調べてみると、こんな記述に出くわしたんです。『この薬剤を投与された患者は、その継続を望む傾向にある』」
「つまり、きみは」
とマーテンス。
「投与患者が自分で検波能を調整できるようになるかもしれない、といいたいんだな」
「事実かどうかはわかりませんよ」
とジェイルズ。
「マーテンス先生は、次回、リック・ヘンスンに投与を控えようと考えてはいませんか?」
マーテンスが無言なので、ジェイルズは一呼吸入れ、話を続けた。
「リック・ヘンスンは担当医変更を願い出る常習者ですから、これは単なる偶然かもしれません。でも、彼がそれとなくわたしに願い出たんです。『もしかしたら先生に、隣街の病院の医者をご紹介してもらうことになるかもしれません』と」