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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
47/158

<四>静の夜に惜別を(弐)



 ※



 朔夜の家に身を置いて幾日。

 日数を数えるのも億劫になっていた翔は、押入れに篭る生活をやめていた。幼馴染達が稲荷寿司を作ってくれた夜から、用意された布団で眠るよう心がけようと決意したのである。


 このまま、押入れに篭る生活を繰り返してもよかったのだが、幼馴染達が懸命に自分の警戒心を解こうと努力している姿を目の当たりにし、自分の態度が彼等を一喜一憂させ、時に傷付けるのだと知ってしまった。


 翔は気付いたのだ。種族のことで区別されたくないと心の底から願っていたくせに、現実の自分は、彼等をヒトだの、妖祓いだの理由をつけて、相手と区別していた。


 それではきっと何も変わらない。

 考えを思い改めた翔は、恐怖心こそ残っているものの、敷かれている布団に身を置き、昇る朝日と共に眠りに就くことにした。体はすこぶる布団を欲していたようで、柔らかな敷布団に身を置くとすぐに眠気が襲れ、夕暮れまで熟睡してしまう。


 それこそ朔夜の母が、食事の届けに来たことすら気付かず、深い眠りに落ちてしまった。


 これが大きな前進だと、向こうの両親は思ったようだ。その日から、翔は何もない座敷から出る許可をもらう。無論、条件付きではあるが、妖祓にも情がある。いつまでも閉じ込められている翔を不憫だと思ったようだ。


 とはいえ、翔は強い警戒心を持った狐。のうのうと妖祓の家を歩き回ることなどできず、座敷を出る時は朔夜に付き添ってもらった。なんとも情けない話だが、これも本能なのだから仕方がない。


「ショウ。風呂に入るだろ。母さんが沸かしてくれているよ」


 真っ先に座敷を出て、提案されたことは入浴であった。

 そういえば、幾日も風呂に入っていない。ゆえに獣臭いかもしれない。翔は自分の体臭を気にし、朔夜の案に乗った。が、脱衣所でちょっとした事件が起きる。


 それは翔が風呂に入るため、服を脱ごうとした時のこと。


「なんかっ、さっきから背筋が寒い。視線も感じるような」


 何気なく振り返った目の先に、青白い肌を持った、見知らぬ男の人間が立っていた。所謂、霊と呼ばれる存在が、翔の背後にいたのである。じつは化け物を見たことあれど、幽霊を見るのはこれが初めて。当然、驚くし、騒ぐし、悲鳴を上げる。


「ショウっ、どうしっッ……」


 声を聞きつけた朔夜を見るや、翔は泣きつき、鳴きつき、飛びついた。

 よって、彼が見事に転倒してしまうが、大混乱している翔はそれどころではない。下敷きにした彼に、幽霊が出たと半べそになって訴える。


「さくや、さくや、朔夜! お前っ、祓い屋なんだろ! あれ、どうにかしろよ! 出たんだけど、幽霊が出たんだけど! 早く成仏させてくれよっ!」


「ショウ、重い。重いから」

「なななっ、南無阿弥陀仏って言えばいいのか? なあ?!」

「たぶん、君が言うのはまずい。半妖の君が言うのはまずいから」


「んじゃあ、どうしろってっ、ぎゃぁああああ出たぁああ!」


 喚いている間に、幽霊が移動したようで、いつの間にか翔の背後に立っていた。尾っぽと耳の毛を逆立てた翔は、これまた悲鳴を上げ、脱衣所から飛び出してしまう。

 その出先で、別の幽霊と鉢合わせとなり、ついに腰が抜け、眩暈を起こしてしまったのだからお笑い種である。


「あれは浮遊霊と言ってね。成仏せず、この世をさまよっている、ヒトの霊魂なんだ。特に悪さはしないよ。如いて言えば、霊力を持つ人間に集まりやすいかなぁ。ていうか、ショウ。今まで霊を見たことなかったの? 僕は初めて見たよ。幽霊に怯えて、気を失いかける妖……いや半妖」


「しょ、しょうがねーだろ。普段は妖だって、視えないんだ。ビビるもんはビビるんだ。なあ、朔夜。風呂から出るまでそこにいてくれよ」


「はあ。幽霊にビビる半妖って……」


「うっせぇな! 俺は妖にもビビるんだ。悪いか!」

「はいはい。分かったから、早く済ませてくれよ」


 仕舞には、ひとりで風呂に入ることができず、朔夜には脱衣所で待機してもらった。まさか、この歳になって、ひとりで風呂に入れない日が来ようとは。翔は別の意味で、我が家が恋しくなってしまった。


 入浴後は、居間で朔夜の母から手当てを受ける。呪符のせいで、火傷したかのように腫れ上がっている手足首は、所々皮膚が爛れていた。

 翔としては、呪符を取ってもらいたい一心なのだが、塗り薬を施してもらったそこには、無慈悲に清潔な包帯と呪符が巻かれてしまう。直に貼られなかっただけ、マシと言うべきだろうか。良い気持ちではない。


「翔くん。痛くない?」

「痛くはない、けど……重たい感じがする」


 苦々しい顔を作る翔は、申し訳なさそうに眉を下げる朔夜の母に、恐々と胸の内を明かす。家に帰りたい。学校に通いたい。いつまで此処にいればいいのか、と。


「それとも、俺は祓われるの? おばちゃん」


 すると、ありったけの力で抱き締められた。


「大丈夫。帰してあげるから、きっと帰してあげるから」


 震える声音で何度も繰り返された。

 結局、答えは得られず、翔は自分の立場を思い知らされる。今の自分は、捕縛された妖の身分。ヒトの世界に危害が及ばぬよう、監視下に置かれているのだ。


 もっと暴れ回って、帰りたい気持ちを曝け出せば、なんらか状況が変わるかもしれない。が、翔はそれができずにいる。相手の罪悪感にまみれた表情を見ていると、感情を表に出せないのだ。向こう家族のことは、よく知っている。だからこそ、翔は相手の傷付く顔を見たくない。

 寧ろ、暴れることで妖と妖祓の関係で成り立つ、自分達の環境が悪化してしまう。極力それは避けたかった。



 幼馴染達との関係は、正直微妙である。


 食事等の世話を焼いてくれる彼等は、何かしら用事を付けては翔の下にやって来るが、心はべつにある。それに気付かない翔ではないが、表に出すことはしなかった。

 これ以上、関係を崩したくなかったのだ。きっと、それは彼等も同じ気持ちなのだろう。本心を隠して接することが多い。しかし、並行して今までどおり、翔を幼馴染として扱いたい気持ちもあるのだろう。


「ショウ。油揚げを買って来たよ、起きて」


 夕方に帰宅してくる朔夜が、毎度のように飛鳥を連れて、座敷にいる自分に土産を持ってくる。大抵、日が沈む頃まで眠りについているため、彼等が訪問する時は寝起きが多い。


「ほら、ショウくん。もう夕方だよ。いつまで寝ているの」


 起こされることも多く、飛鳥に布団をひっぺ剥がされることも少なくない。

 その都度、翔はまだ眠いと尾っぽで毛布を奪い、窓に目を向けて、まだ夕方であることを指摘。日が暮れたら起こしてくれ、と言って布団に潜ってしまうため、二人をおおいに呆れさせている。


 ただ、彼等は妖狐の生態を頭に入れてくれている。翔が夜行性だということを考慮し、必ず夕暮れ時に起こしてくる。油揚げを手土産にして。

 その心遣いが嬉しい反面、学校に通っている二人が羨ましくて仕方がない。口にすれば、今の均衡が崩れるだろうから、何も言えないが。



 時に座敷を出て、朔夜の部屋に入ることが許される。


 翔はこの時間が、なによりも大好きだった。部屋に入ると、真っ先に彼の漫画やゲーム機を借りて羽を伸ばす。それだけ、あの座敷は退屈で仕方がないのだ。娯楽に触れると、つい饒舌になってしまう。


「朔夜、久しぶりに対戦しようぜ対戦。あ、こっちのロープレもしたい。飛鳥も一緒にするなら、パズル対戦とかどうだ? なあなあ」


 ご機嫌になる翔に、部屋の主である朔夜も、遊びに来ている飛鳥も安心しているようだ。三人でゲームがしたいと言えば、その要求に呑んでくれる。盛り上がっている時間は、種族の問題が忘れられるから楽しいものだ。


 いつまでも、朔夜の部屋に居られたら最高なのに。


 片隅で思えど、さすがに、その我儘は大人達が許さない。幼馴染達が座敷から朔夜の部屋に身柄を移すよう直談判してくれるが、問答無用で連れ戻されてしまう。それが朔夜と飛鳥の怒りを煽っているようで、翔が戻される度に廊下で口論を繰り広げていた。気まずいったらありゃしない。


 さて、夜行性の化け狐は、夜が更けていくと手持ち無沙汰なる。

 先ほども述べたように、娯楽のない座敷は退屈である。何もない座敷で時間を潰すのも大変で、することがない翔は毎夜、ぼんやりと過ごしている。人間は夜に眠る生き物。対照的に妖は、夜に活動する生き物。夜が深まれば、家の中は静まり返る。


「いま、何時だろう。暇だな」


 窓辺に腰掛け、妖の世界ばかり考える。

 おばば達は今頃、何をしているのだろう。誰一人、音沙汰がないということは、自分のことなど、とうに忘れてしまったのだろうか。心配はしていないのだろうか。妖の世界に帰りたい気持ち、一方で鬱々とした気持ちを抱いてしまう。それは常に相反する感情であった。


 考える度に落ち込んでしまうので、慰めの歌を自分に掛ける。

 口にする歌は、決まって同じ。比良利から教えてもらった、妖狐のわらべ歌だ。これが不思議と癒しになる。


「一尾お前さんに向ける笑みくりゃさんせ」


 その夜も、翔は妖狐のわらべ歌を口にしていた。


「二尾お前さんと悲しむ涙くりゃさんせ」


 闇が広がる座敷の中。ゆらゆらと尾っぽを揺らし、窓辺から見える夜空を見つめ、妖狐の歌で落ち込む己を慰める。


「三尾慕情の花が咲き、四尾別れを惜しむ情もあり五尾切なさ時にあれども、六尾怒りで我を忘れることもあれども、あるいは七尾弱き心に打ちひしがれることもあれども」


 時刻は(うし)の刻。

 まだまだ夜明けまで遠い空を、飽きることなく瞳に映す。

 自分を愛してくれる家族を思い、自分を世話してくれた妖を思い、これからも同族だと言ってくれたヒトを思い、そして、これからの未来に思いを寄せる。


「八尾強き心が芽吹き、九尾お前さんと生きる喜びに目覚めぞよ」


 片膝を抱え、翔はそれに額をのせた。歌声が萎んでいく。


「嗚呼、九つ尾っぽにゃ情がある。まことに嬉しきかな嬉しきかな……歌い終わっちまった。やることなくなっちまったよ」


 こうして、何もせず一人で過ごす時間が一番辛い。妖にとって今の刻は眠るには未だ早く、最も活発的に行動する時間帯だ。翔も例外ではない。だからこそ、暗い思考を巡らせては落ち込んでいくのである。

 クンと小さく鳴き、仲間の妖を恋しく思う。


「みんな、あんなに世話を焼いてくれたのに……俺だけだったのか、仲良くしていたの」


 嗚呼、妖の器の自分なんぞ不要だと思ったのだろうか? 必要としていたのは、自分が宝珠の御魂を観に宿しているから? 駄目だ、気持ちが沈んでいく。

 ぺたりと耳を頭につけ、畳の上に尾っぽを放って翔は泣き言を漏らした。どんなに気丈に振る舞おうと、やはりこの現状は精神が蝕まれる。


「もう、祓うなら、さっさと祓ってくれよ。こんなの、あんまりだ」


 蛇の生殺しとはいったもの。

 それまで抑えていた感情が爆ぜ、自暴自棄になる。相手を気遣うだとか、罪悪感だとか、そういうものすら念頭から消え、ただただこの現状に嘆いた。消えられるものなら、今すぐ消えてしまいたい。楽になりたい。自由になりたい。死にたくはないが、漠然と死を考えてしまう。


 その時であった。窓の向こうから、にゃあ、と微かな鳴き声が聞こえた。


 幻聴だろうか。のろのろと顔を上げ、窓の方を見やる。瞠目してしまった。

 こんこん、と尾っぽで窓枠を叩き、自分の存在を主張するキジ三毛猫が、確かにそこにいたのだ。四つの尾っぽは、正体が猫又だということを教えてくれている。


『坊や。わたしだよ。おばばだよ』


 しゃがれた声で鳴いてくる猫又の存在に、夢でも見ているのかと呆けていた翔だが、二度、三度、心配そうに鳴いてくる猫又の鳴き声により、くしゃくしゃっと顔を歪めた。夢ではない、これは夢ではないのだ。


「おばばっ、おばば!」


 呪符が貼られている窓ガラスに触れないよう努めつつ、けれど窓枠に縋って、翔は久々の再会に体を震わせた。

 見る見る泣き顔を作る翔に、おばばがより一層心配して鳴いてくる。


『坊や。やつれたねぇ。ご飯はちゃんと食べているかい?』


 大丈夫か、と声を掛けてくる猫又に、何度もかぶりを振り、大丈夫じゃない。ちっとも大丈夫じゃない。どうして今まで姿を現してくれなかったのだと、相手を責めてしまう。

 子供染みた八つ当たりだとは分かっていたが、感情をぶつけずにはいられず、翔は鼻を啜りながら、おばばに薄情者と毒づいてしまう。


 一つ一つに相槌を打ち、悪態を甘受するおばばは、翔の気が済むまで言わせた後で、申し訳なさそうに謝罪を述べた。


『もっと、早くお前さんのところに行きたかった。一緒に捕縛される道も考えたけれど、周りから止められてしまってねぇ』


 なにせ、翔を捕縛したのは、妖の不倶戴天の敵。

 近付くことは勿論、下手に捕縛される道を選べば、調伏されかねない。此処に来るだけでも、体を張ったと苦笑いするおばばの毛並みは乱れていた。翔に会うため、少々無茶をしたようだ。


『翔の坊や。お前さんの傍に行けない、小物の猫を、どうか許しておくれ。祖母として情けないったらありゃしないねぇ』


 何を言っているのだ。十分すぎるではないか。

 翔は一粒、二粒、涙を零し、もう良いのだと返す。自分こそ、おばばに八つ当たりしたことを謝罪し、心配してくれた祖母に感謝を述べる。孫として、こんなに幸せなことは無い。


「俺、おばばの孫で本当に良かった。なんか、すっげぇ安心した。まだ孫だって思ってくれてるんだな」


『何を言うんだい。わたしは言ったじゃないか。坊やのことはわたしが面倒を看てやる、と。この節介ババアが、幼い坊やを放っておけるわけないんだ。まあ、随分と手の掛かる孫だけどねぇ』


 おどける猫又の言葉に、やっと笑みを浮かべることができた。つられて笑うおばばだが、翔の手首に巻かれた呪符に気付き、ヒゲを垂らしてしまう。


『予想はしていたけど、お前さんをすぐに此処から出すことは難しいねぇ。見たところ、強い霊気を宿した呪符のようだ』


 それだけではない。白狐の逃亡を懸念し、この家屋自体に結界が張ってある、とおばば。それこそ、なんびとも妖を寄せつけないよう、分厚い結界に覆われているのだと言う。


『いま、青葉とオツネが家屋の外で、結界封じを発動している。あの子達のおかげで、わたしは結界の隙間から、此処に来ることができたんだ』


「青葉とギンコも、近くにいるんだな」


 うん、おばばが一つ頷く。


『あの子達だけじゃない。雪之介の坊やも、翔の坊やを救うために奔走している』


 翔はそこで表向き、自分が意識障害になっていることや、入院していること、形代が身代わりを務めていることを知る。そして、その形代の様子を毎日見てくれているのが雪之介ということも。


 また、彼が妖力を暴走させてしまった翔のために、危険も顧みず妖祓と接触して、薬を渡したことも知った。ああ、彼には感謝してもし切れない。みんな、自分を心配してくれている。


『一件は、比良利の逆鱗にも触れている。何が何でも、妖祓から坊やを奪い返すつもりだと明言していた。それこそ、妖祓と一戦交えようとも』


「一戦……妖祓と戦うつもりなのかよ! そんなっ」


 血相を変えてしまう。自分が囚われているせいで、双方が血を流すかもしれないのだ。聞き捨てならない。


『妖祓は坊やを幽閉しただけでなく、鬼門の祠に妖除けの結界を張り始めたんだ。神職も簡単には寄せつけないほど、強い結界を。当然、北を統べる比良利は憤った』


 北の神主は、皆に言った。

 妖祓は何を考えている。罪なき妖を捕らえるだけでなく、鬼門の祠に手を出すとは。

 あれが此の地の妖にとって、どれほど価値のあるものなのか、知らないわけではないだろうに。妖祓がそのつもりならば、此方もそれ相応の姿勢でいく――場合によっては、妖祓を滅することも()さない、と。


「ま、マジギレじゃんか。比良利さん……どうしよう、おばば。俺はもう純粋なヒトだとは言えないし、此処から出たいし、妖の世界に帰りたい。だけど、妖と人間が衝突するなんて見たくねぇよ。ましてや、原因が俺とか、決まりが悪すぎだろ」


 どうにか、此処から出られないものか。翔は窓を観察する。


『坊やの気持ちは分かる。だけど、妖祓も、それなりに覚悟を決めて行動を起こしているはずなんだ。何を考えているんだか』


 そこで、翔は妖祓の会話を思い出す。

 自分を捕らえているのも、宝珠の御魂を狙っているのも、すべては人間のため。暴走する妖達を食い止めるため。だから、翔は此処に閉じ込められている。


「封印。おばば、封印だ。宝珠の御魂を使って、鬼門の祠ごと封印するとか、なんとかって言っていた。聞く限り、最終手段っぽいけど」


 途端に、猫又は素っ頓狂な声を上げた。とんでもないことのようで、低い唸り声を漏らしている。


『なるほどねぇ。だから坊やを。こりゃまた、比良利の怒りの油になりそうな話だ』

「おばば。俺、妖の世界に帰るよ。そしたら、この騒動も少しは落ち着くだろ?」


『そう上手くいく話じゃないんだ。確かに、近い戦は坊やを取り戻すためのもの。坊やがこっちに帰って来ることで、同胞と宝珠の御魂も取り戻せる』


「だったら!」


『坊や。お前さんは、すべてを捨てて、わたし達と一緒に来る覚悟はあるかい?』


 翔が妖の世界へ戻るためには、ヒトの世界に背を向ける覚悟が必要だと言う。それこそ家族、友人、住み慣れた町に背を向ける覚悟を持たなければならない。面を食らう翔をよそに、おばばは話を続ける。


『坊やは、妖祓に正体を知られてしまった。彼等はヒトの血を宿す子供の坊やに、手荒な真似はできないだろう。ましてや顔見知りだから、穏便に事を進めたいはず。坊やのことも封印という道でなく、宝珠の御魂を渡すよう要求してくるだろうさね。他に目論見があるかもしれない』


 遅かれ早かれ、妖祓は白狐の翔に捕縛の目的を伝え、自分達に手を貸すよう協力を求めてくるだろう。

 悪く言えば、利用してくるかもしれないが、子どもの翔を悪用することは決してないだろう。親元に帰してやりたい気持ちも強いはずだ。


 しかし、妖祓の手から逃れ“妖の世界”へ行くということは、自分を妖と完全に肯定し、ヒトの自分と決別する意味に値する。それだけ、翔はヒトの世界に戻ることが難しくなるのだ。妖の世界へ飛び込んだ翔に、今後、妖祓が容赦する保証もない。


『比良利も、坊やをヒトの世界に帰すつもりはないんだ。坊やの身の安全を考えると、妖の世界で暮らしていく方が良いと思っている』


 理屈は分かる。分かるが。


『坊やは選ばないといけない』


 妖の自分を受け入れ、此方の世界に身を寄せるのか。それとも妖祓の下で、ヒトの世界に居続けるのか。どちらにしろ、選択しなければいけないのだと、おばばは哀しげに鳴く。


 そんなもの選べるわけないではないか。

 妖の世界に帰りたいと思えど、人の世界を斬り捨てる覚悟はできない。どうやって家族や友人、住み慣れた町を簡単に捨てられるのだ。


 かぶりを振って弱音を漏らすが、これは翔自身にしかできないのだと猫又は諭す。過酷な判断を下さなければいけないのは、もちろん分かっている。それでも、これは翔にしかできないことであり、選ぶ権利は翔自身にあるのだと告げる。


「無茶苦茶だ」


 自分で何かを選ぶことが、すこぶる苦手な翔は、誰かに答えを求めたくて仕方がなかった。


『もう一刻の猶予もないんだよ』


 妖祓に正体がばれた日を境に、翔の運命は劇的に動き出した。選ぶしかないのだと、おばばは翔に何度も言い聞かせる。


『坊や、よくお聞き。もうすぐ新月だ。満月が“祝の夜”に当たる坊やにとって、“静の夜”は最も妖力が落ちる日。半妖のお前さんはにとって、“静の夜”は完全に人間に戻れる日なんだ』


「人間に?」


 項垂れていた翔が顔を持ち上げると、こくんと猫又が頷く。


『わたし達はこの日を狙い、坊やを迎えに来るつもりだ。戦になるとは言ったけれど、坊やが妖祓の下にいる以上、わたし達は下手に手出しができない。比良利ですら、妖祓の手腕には警戒心を抱いている。それだけ強力な相手なんだよ』


 ならば、手は一つ。

 翔が自力で此処を出て、少しでも妖祓から遠ざかってもらうことだ。あくまで此方の狙いは白狐である。取り戻すための戦なのだから、白狐さえ奪い返すことができれば、妖側の勝ちだ。


『人間の坊やなら、容易く呪符の結界を潜り抜けられる。魔封の呪符は妖にしか効かないのだから』


 比良利と何度も話し合って、出された最善の案だとおばば。他にも手がないことはないが、より被害を最小限に抑えるためには、この方法が一番だという。


『人間が宝珠の御魂を狙っている。その理由も、薄々と見えてきた。事を知れば、比良利は妖祓だけでなく、人間そのものに刃を向けることだろう』


 そうまでしても、妖の安寧秩序を守るために動きだす。それが一頭領としての役目なのだから。しかし、本音のところ言えば、あまり望まない展開である。ヒトを傷付ければ、必ず妖も傷付くことになる。些少の諍いが、大きな惨事を招く可能性があるのだ。


「なんだよそれ。俺、ものすごく面倒なことに巻き込まれているじゃんか」


 翔はただ妖となる自分を、いつか受け入れられたら、と思っていた。そして、幼馴染の彼等に自分を受け入れてもらい、雪之介と語り合った二種族の友情が築き上げれば良いな、と淡い理想を抱いていた。

 その夢すら見させてくれない、非道な現実に、打ちのめされそうである。


『翔の坊や。お前さんは、お前さんの行きたい道を行けばいい。わたし達の心配をするんじゃあないよ』


 思いがけない言葉に、翔はおばばを凝視してしまう。


『わたしはね。坊やが妖祓の手を取っても、正直良いと思っているんだ。坊やがどんな道を選んでも、それは坊やの道。わたし達は口を出せない。どんな道を選んでも、坊やが、ヒトの世界で生きていくと決めたなら、わたしは何も言わないさね』


「だけど、宝珠の御魂を持ってるんだぜ。俺……ヒトの手に渡ったら」

『なんてことない。取り返せば良い話だよ』


 最悪、宝珠の御魂がヒトの手に落ちたとしても、それは奪い返せば良い。双方に血が流れるかもしれないが、それは覚悟の上。北の神主が手を尽くすだろう。


 それよりも、おばばは翔の体内から宝珠の御魂が取り出されないかどうか、それが心配なのだと訴えた。何故なら、いまの翔は宝珠に生かされている。取り出されてしまえば、ああ、口にするのも恐ろしい。


『坊や、わたしは人間でも、妖の味方でもない。坊やの味方でいたいんだ。だから余計なことは考えず、お前さんの行きたい道を行くといい。どの道を選んでも、坊やはわたしの可愛い孫だよ』


 宝珠の御魂よりも、孫の方が千も万も価値がある。どのような道を選ぼうと、節介ババアは子供の味方だとおばばが誇らしげに笑った。


『老いぼれの願いは、お前さんが長生きしてくれることさ。生き急ぐことはしてはいけないよ。宝珠の御魂のことも、取られそうになったら、ちゃんと事情を説明しなさい』


 胸を突かれてしまう。じわりじわりと浸透する、おばばの心配と、切な思いに泣き笑いを零してしまった。


 おばばは宝珠の御魂ではなく、妖達のことでもなく、翔自身を選び、大切に思ってくれている。その気持ちだけで胸が一杯になった。


「どうしよう。俺、根っからのばあちゃんっ子になりそう」


『だったら婆孝行に、そこから出たら煎餅でも買って来ておくれ。ちゃんとお茶に浸した、やわらかい煎餅じゃないと嫌だよ』


 照れ臭い気持ちを隠すように、頬を掻く。この猫には本当に敵わない。


「静の夜はいつなんだ?」

『三日後だよ。静の夜に、わたし達は此処を訪れる。もし、坊やがわたし達と来るのなら。此処から出ておいで。いつまでも坊やが来ない時は、また出直してくるさ』


 機会は三日後、静の夜しかないのだと教えてくれる。この機を逃すと、次の静の夜まで待たなければならない。

 しかし、次の静の夜までに妖祓はなんらかの行動を起こすだろう。良くも悪くも三日後の夜が、勝負どころなのだと猫又は言う。


 言い換えれば三日以内に、覚悟を固めておかなければならないということだ。急すぎる申し出に、ふたたび弱音を吐きたくなった翔だが、グッと堪えることにした。これ以上、おばばに甘えても仕方がない。


「おばば様!」


 巫女装束を身に纏った少女と、銀の体毛を持った狐が、おばばに駆けてくる。青葉とギンコだ。おばばの背後に立つ青葉は、一つに束ねた緑の黒髪を揺らし、険しいかんばせで、猫又を抱き上げた。傍では、ギンコが懸命に飛び上がって、少しでも翔と目を合わせようとしている。


「妖祓めが、此方の動きに気付いたようです。家屋から、慌ただしい気配がします」


 どうやら妖祓にばれてしまったようだ。耳を澄ますと、静まり返っていた家の中から、喧しい物音が聞こえてくる。


「一時的に、結界を解除しましたが、すぐに張り直されます」

「おばば。行ってくれ。俺は大丈夫だから」


 すると、青葉が此方に視線を投げてくる。無事かと、怪我はないかと、食事をしているかと確認してくる、彼女の優しさに、はにかみ、翔は平気だと笑った。

 大層な強がりだと、おばばからは笑われてしまうが、聞き流しておくことにする。


「ギンコ。お前も元気そうで良かった。いい子にしてたか」


 ぴょんぴょんと跳ねて、少しでも自分に近付こうとする銀狐に微笑む。すると、恋しそうに尾を振って鳴いて来る。元気そうでなによりだ。


 再会の余韻に浸る間もなく、足音が座敷に近付いて来る。


 翔は急いで、座敷の襖を押さえた。魔封の呪符が全身をめぐり、痛みがほとばしる。感電したら、このような痛みに襲われるのだろうか。堪らず悲鳴を上げそうになったが、必死に下唇を噛みしめ、時間を稼いだ。

 此処が開かなければ、妖祓達は白狐の異変に気付き、無理にでも開けようとするだろう。少しでも、妖祓の気を、おばば達から逸らさなければ。


『坊や!』

「頼む、はやく行ってくれ。長くは持たなっ……来やがった」


 がたがた、と襖が揺れる。そして聞こえてくる、人間の声。朔夜の母だろう。柔らかな声質が、焦ったように開けるよう指示してくる。

 痛みが脳天を貫き、体が震え始める。限界なのか、鼻血が出てきた。毛細血管が切れたのだろうか。まったくもって軟な体である。もう少し耐えてもらいものだ。


「母さん、退いて!」


 ああ、おまけに朔夜の声まで。

 ちらりと窓に目を向けると、青葉が会釈し、ギンコが一際強く鳴き、おばばが翔の身を案じて、そこから姿を消す。代わりに朔夜の父が、姿を現した。錫杖を持っているところかして、妖達の気配に気付き、調伏しに来たのだろう。そうは問屋が卸さない。


 翔は間もなく蹴破られるであろう、襖から離れ、窓に向かって体をぶつけた。

 二度、三度、ぶつけることで彼の注意を此方に向けることができる。あとは、野となれ山のなれであった。


「朔夜っ、翔くんを押さえろ! 早く!」


 逃げると勘違いした妖祓が、座敷に入って来た息子に声を掛け、一室は騒然となる。この間に、どうか無事に逃げて欲しい。逃げ切って欲しい。祈るように願いながら、翔はその場に崩れた。やはり、体は限界だったようだ。




 次に目を開けると驚くべきことに、朔夜の部屋に寝かされていた。はて、どうして。いつもであれば、座敷の布団に放られているはずなのに。


「言わんこっちゃない。だから、ショウは僕の部屋に移すべきなんだ。あんな部屋に毎晩いたら、精神的に参るに決まっているのに」


 枕元から文句が飛んでくる。頭をずらすと、斜め上で朔夜が腕を組んでいた。深い灰色のスウェットに身に包ませ、眉をつり上げている。一目で憤っていることが読み取れた。気まずい。


「気分はどう? 鼻血は止まっているみたいだけど、一応ティッシュはあるから」


 言葉に棘を感じる。相当怒っているようだ。あのような騒動を起こしたからだろう。

 ゆっくりと体を起こす。脳天を揺さぶるような、強い痛みが襲い、思わずこめかみを両手で押さえてしまった。頭が割れそうに痛い。吐き気が襲ってくる。魔封の呪符の効力は伊達じゃないようだ。


「おとなしく寝てろよ。無理できる体じゃない……ショウ。なんで、あんな無茶をしたんだ。魔封の呪符の痛みは、よく分かっているだろ」


 もちろん、分かっていた。しかし、ああでもしなければ、妖祓の注意は引けなかった。やったことについては悔いもない。おばば達は、無事に帰れただろうか。


「……妖が君に会いに来たそうだね。ショウのことだ。仲間を逃がすために、時間稼ぎを作ったってところかな」


 大袈裟に体を震わせてしまう。何もかもお見通しのようだ。返事を待つ無言の空気に気圧され、翔は目を伏せた。そして、その通りだと、蚊の鳴くような声で告げる。


 瞬く間に、胸倉を掴まれた。

 此方の不調など念頭にないのか、力の限り揺さぶられ、「だからって!」と、声を荒げられる。珍しい朔夜の姿であった。


「魔封の呪符に、自ら突っ込むなんて馬鹿だろ! どんだけ危なかったと思っているんだ! 下手すればっ、死んでいたかもしれないんだぞ、お前!」


 だったら、それだけ強い呪符を座敷に張り巡らせるな、と思う。その中に閉じ込めているのは、まぎれもなく妖祓なのだから。


「ああでもしねぇと、みんな捕まると思ったんだ。あいつ等は、俺を心配して会いに来てくれたのにっ。俺のせいで怪我を負わせたら……悪いじゃんか」


 胸倉から手を放した朔夜に、体を突き飛ばされる。まだ、感情的になっているようで、翔の行動に納得がいないと返した。

 妖を助けようとしたことも、庇おうとしたことも、今までの態度も、全部納得がいかない。そう訴える朔夜が、鋭く睨んでくる。


「ショウ、どうして半妖になったことを、僕達に言わなかったんだ。今まで、どうして隠していたんだ。そんなに信用が置けなかったのかい? 言えば、祓うとでも思ったの?」


「ち、違う!」

「違わないじゃないか! 現に、今まで黙っていただろ!」


「お前達だって黙ってただろ! ずっと、俺に隠していたじゃないか!」


「それはショウが、ただの人間だったからだ。言ったところで、視えない存在だ。不安にさせるだけと思った。けど、ショウの場合は違う。僕達は妖が視えている。なのに、何も言わなかっただろ!」


 それが気に食わないのだと朔夜。根底には、自分達を差し置いて、妖達と繋がりを得ていたところが腹立たしいのだろう。彼は妖祓、そう思うのも仕様がないことかもしれない。

 だが、翔にも言い分がある。


(何も知らない癖にっ)


 どうして、黙っていたか?

 そんなの、決まっているではないか。言えば、関係が崩れると思ったからだ。これまで築き上げてきた、三人の関係が決壊してしまう。それを恐れて、黙っていたのだ。

 なにより、自分は怖かった。二人から、どう思われるか、それが怖かった。


 なのに、責められてしまうだなんて、馬鹿みたいではないか。種族が変わり、うんぬんと悩んでいた自分が馬鹿みたいではないか! 翔は朔夜の両肩を掴み、「知らねぇ癖に!」と、怒鳴り返す。もはや、制御が利かなかった。


「朔夜に何が分かるんだよ! 妖に襲われた俺のっ、死にかけた俺のっ……人間じゃなくなった俺のっ、何を……」


 昂った感情が声を震わせる。翔とて、好きで妖になったわけではないのだ。もしかしたら、死んでいたかもしれないのだ。あの時、ギンコが助けてくれなかったら、自分はこの世にいなかった。ああ、想像するだけでも恐ろしい。


 人間でなくなったことを知り、心底落ち込んだ。いつか、本物の化け狐になるのだと聞かされた時には、目の前が真っ暗になりそうだった。

 それでも、翔なりに前を向こうとしていたのだ。大丈夫だと言い聞かせていたのだ。


「今日から化け物だとか言われても、受け入れられるわけがない」


 ずっと人間でありたい。その気持ちは誰よりも、本人の翔が強く感じている。


「だけど、俺は狐になっていく。俺の意思とは関係となく!」


 戻れるものなら、とっくに戻っている。


「どう足掻いたって、俺は化け狐になっていくんだよっ!」


 これは運命なのだ。腹の底から叫んだ後に待っていたのは、崩れるような脱力。


「……前に言っただろ朔夜。俺達はいずれ、変わるって。言えば、お前達が離れて行くって」


 両の腕から力が抜け、それらは朔夜の肩から、するりと滑り落ちる。


「変わった時点で、本当は離れるべきだったんだな。俺、馬鹿だから間違えちまった」


 空笑いが出た。

 何もかも、虚しくなってしまった。懸命に前を向こうとしていた自分も、雪之介と語り合った種族観も、いつかのことを夢見ていた自分も、すべて無意味だと思えた。二人の間に、決して埋まることのない。深い溝が出来たようにすら思えた。


「言い過ぎた。ごめん、ショウ。頭に血がのぼってたよ」


 先に沈黙を破り、詫びてきたのは、朔夜であった。翔も謝罪を口にする。成り行きで怒鳴り返してしまったが、半ば八つ当たりであった。


「隠し事をしていたのは、お互い様だね。僕にショウを責める権利なんてない」


「その本人は隠し事をするな、って我儘を押し付けていたのに、このザマだ。笑えないな」


「僕はショウに、頼みたかっただけなんだ。妖狐にならないでくれって。それなのに」


「朔夜、それは無理だ。いずれ、俺からヒトの血は消える。俺は遅かれ早かれ妖になる」


 既に体内に流れる妖の血は、ヒトの血を食らい、姿かたちを変え始めている。頭に生えた三角形の耳も、三つの尾っぽも、時々漏らしてしまう鳴き声も、妖狐になりつつある証拠。今更、人間でいてくれと頼まれても、翔にはどうしようもない。

 しかし。朔夜は諦め悪く言うのだ。妖にならないでくれ、と。


「ショウは僕達とずっと一緒に過ごしてきた。ヒトの家庭で生まれ育った、人間だ。体は妖狐になってしまうかもしれない。でも、心だけは……ショウの意思がそこにある限り、ショウの心は人間のままだ」


 面を食らってしまう。まさか、そのように言われるとは、思いもしなかった。


「僕はこれ以上、ショウに妖と関わって欲しくないんだ。奴等と関われば、関わるほど、ショウは戻れなくなってしまう。身も心も化け物になってしまう」


 今まで数多の妖を祓ってきた朔夜だからこそ、強く訴える。妖はヒトにとって、災いになりかねない存在。下手をすれば、妖祓が調伏しなければならない。そこに、どんな事情があろうとも。

 それが怖いのだと朔夜。呆ける翔に、気を強く持つよう告げ、心を食われないよう懇願してくる。


「ショウ、お前は人間なんだよ。体は妖になろうとも。そうだろ?」


 同意を求められ、翔は目を白黒させてしまった。

 いずれ、化け狐になると思っていた翔である。ゆえに、心身化け狐になる覚悟を固めつつあったのに、まさか、心と体を分けられて主張されるとは。


「俺は人間、なのか?」


 両手を持ち上げ、そっと見つめた。こんな姿になっても、まだ“人間”と言えるのか? 相手に尋ねると、「ショウ次第だよ」と、返された。


「ショウの行動一つでヒトにも、妖にもなれるんだ」


 幼馴染は力なく笑い、持ち上げた手を軽く叩いた。


「姿かたちが変わっても、ショウは人間の心を持ち続けられる。僕達と同じ人間のままだ」


 どうかヒトのままでいて。どうか妖に流されないで。大丈夫、友人の妖は絶対に祓わないと約束するから。幼馴染の切な訴えに、翔はぎこちなく視線を合わせる。

 自分は妖になることが怖かった。できることなら、ヒトであり続けたいと願っていた。正直、心のどこかで今も願い続けていることだ。


 けれど。体はどんどん妖に染まり、その心も妖と化している。ああ、自分はどっちだ。ヒトなのか、妖なのか。


「お前が、俺を人間だって言ってくれるのは嬉しいよ。でも、おじちゃんやおばちゃんは、他の妖祓はどう思うだろう。こんな俺を、人間だなんて」


 汗ばむ手を握り締める。動揺が隠しきれない。


「何度だって言うさ。ショウは人間だって。そこに人間の気持ちがある限り。何か遭ったら、僕と飛鳥がショウを支える。約束する」


 だから、どうか妖と関わることをやめて。今までのように、人間の暮らしを保って。声なき声が、人間のままでいて欲しいと願ってくる。裏を返せば、それは、妖の翔は見たくもないと主張するもので。


 翔は人知れず奥歯を噛みしめ、こみ上げてくる苦い感情を嚥下すると、やわらかに頬を緩めた。いつの間にか、うそをつくことに躊躇いがなくなった。あんなに不得意だったというのに。


「桜が散るまでに、俺は家に帰れるかな。お前達と花見がしたいや」


 ああ、それから、ゲーム機を貸してくれないか。夜中の座敷は退屈でしんどい。何もない部屋で過ごすだなんて、さみしいし、孤独に堪えられそうにない。あれやこれや、座敷にいる時の苦痛を訴えた。


「朔夜。俺からのお願いだ。閉じ込められ続けると、自分が何者なのか、忘れちまいそうなんだ。だからさ、もしも俺が人間であることを忘れそうになったら、お前が思い出させてくれよ」


 ここで否定を、拒絶を示せば、きっと彼を傷付けるだろう。上手く気持ちは隠せているだろうか?


 翔の頼みごとは、朔夜の頷きによって受け止められる。忘れそうな時は、必ず自分が思い出させると。それは、どことなく安堵した表情であった。


 ふたたび枕に頭を預けた頃合いを見計らったかのように、廊下から声が聞こえた。朔夜を呼ぶ声であった。

 襖に背を向けて狸寝入りする翔を余所に、彼は部屋から出てしまう。早速、人間扱いするか、妖扱いするかで揉めているようだ。座敷に戻すと主張する父親と、自室で休ませると主張する朔夜の口論が聞こえてくる。耳の良い翔には、まる聞こえだ。


 そう。現実はこんなものだ。翔が人間でい続けるなど、本当は無理がある。


(心だけは人間のままでいて、か)


 ならば、心まで妖に染まった自分は朔夜にとって、飛鳥にとって、どのような存在なのだろうか。憎々しい化け物で、終わる存在なのだろうか。


「朔夜。俺、座敷に戻った方が良いか?」


 荒々しく襖を閉める朔夜に、おかえりと微笑み、いたずら気に尋ねる。彼は不機嫌のまま返事をした。


「冗談。また怪我をされちゃ敵わないからね。今夜は、嫌でも僕の部屋にいてもらうよ」


「もうしねえよ。痛い思いなんて、本当はごめんなんだから。このまま幽閉が続くなら、朔夜の部屋に移れないかなぁ。此処なら、しゃべる相手もいるし、娯楽もあるし。実は言えなかったんだけど、夜中腹が減るんだよ。なにせ、いまの俺は夜行性だから」


 いつもの調子を発揮すると、彼の眉間の皺が薄くなった。


「そういうことは、早く言ってくれよ。夜食を用意したのに……ショウ、ごめん。閉じ込めて。必ず、前のような生活に戻すから」


「なんだよ急に。お前のせいじゃねえって」


 苦笑いを零すも、朔夜はかぶりを横に振り、「妖祓の血が嫌になるよ」と吐露して、窓辺に立つ。開けられたカーテンの先には、暗い空。朝まで時間がありそうだ。


「ショウ。僕もね、君と似たような気持ちを抱いているんだ。なりたくもないのに、妖祓として生きなければいけない。これからも、ずっと」


 はじめて聞く、朔夜の心に翔は目を細め、ゆるりと天井に視線を移した。語りだけで、朔夜が妖祓として生きる道を強制されていることが分かった。


「僕を人殺しだと思うかい?」


 正しくは妖殺し、だろう。

 同族の翔にとってみれば、それは確かに殺生であり、恐怖すべき存在だが、相手が相手だ。結局のところ、幼馴染には甘くなってしまう。


「ここで、俺がお前を否定したって何も変わらないだろ。朔夜は朔夜だ。よく分かんねーけど、俺の知らないところで苦労してたんだな。いまなら、約束すっぽかされ続けたことも許せそう」


 振り返ってくる朔夜が、小さく笑声をこぼした。翔らしい返答だと思ったのだろう。


「朔夜、少し寝たら? 昼がつらくなるぞ」


「いいんだ。今日は寝たくない。ショウも、まだ寝ないだろ?」


「ばか、俺は夜行性の狐だぜ? 俺に付き合ってたら、体壊すぞ」


 まるで、あの頃の時間を取り戻すかのように、二人の間に会話が飛び交う。それは心地が良いものであったが、どこか、いびつなものでもあった。

 翔は幼馴染達の願いを汲みながらも、どこかで、ゆがんでしまった溝は埋められそうにないと、いつまでも感じ取っていた。



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