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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【参章】其の狐の如く
46/158

<三>静の夜に惜別を(壱)


 ※ ※



(腹が減ったなぁ)



 翔は夢を見ていた。それは自分がいま、切に欲しているもので、キツネうどん、カツ丼、天ぷら、それらをたらふく食べている、大層贅沢な夢であった。


「めし……」


 目覚めた翔は空腹であった。

 寝起きの声は、かすれており、なんとも情けない。

 しかし、そんなことよりも、起きて何か食べたかった。喉も渇いていた。胃がからっぽで、とても切ない。翔は飢えていた。鉛のように重たい体をどうにか動かし、寝返りを打つ。額から何か滑り落ちた。


(なんだろう)


 瞬きを繰り返して、それをじっと見つめる。タオルのようだ。商店の名が刻まれたタオルを観察していると、枕元から声が聞こえた。


「良かった。翔くん、起きたのね」


 うつらうつらと首を捻る。そこには中年の女が柔和に微笑み、えくぼを作っていた。母ではない。けれど見覚えのある顔だ。

 彼女は濡れたタオルを拾うと、側らに置いていた洗面器に浸し、かたく絞って翔の額に戻した。


「待っててね。すぐにお粥を持ってきてあげるから」


 そう言って、女は部屋から出て行く。背を見送っていた翔は、あの人は朔夜のお母さんだと、ようやく思い出すことに成功した。


 はて、何故、朔夜の母が。自分はどうしたっけ。


 仰向けとなり、高い天井を見つめる。見覚えの無い木造の天井。視線を落とすものの、部屋には白で塗られた土壁以外なにもない。部屋は一面、畳張りのようだ。イグサの香りが翔の鼻腔を擽る。


「だるい。体もいてぇし」


 身を丸め、己の尾を顔元まで持ってくる。三尾の一本を抱き寄せ、体毛に顔を埋めた。疲労困憊しているせいか、何も考えたくない。

 朔夜の母が戻って来る。けれども入ってきたのは、彼女だけではないようだ。いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げて、二つ目の気配を確認する。朔夜の父がそこにはいた。


 此処は朔夜の家なのだろうか。それにしては見覚えのない部屋だ。これでも、幼馴染の家には行き尽くしている。知らない部屋など、無いに等しいのに。


 無理やり上体を起こして、二人と向き合う。

 枕元にお盆を置いた朔夜の母が腰を下ろし、朔夜の父が憂慮ある眼で見つめてくる。どことなく、罪悪感の宿った眼に戸惑ってしまった。


「翔くん。怪我の具合はどうだい? 熱は七度まで下がったようだが、無理はしていけないよ」


 怪我、熱、翔は己の身を確かめる。そこには生傷だらけの腕。手首には見知らぬ呪符、足首にも貼られているようで、じんじんと疼く。それを剥がそうとすると、朔夜の父から止められた。無理に剥がせば皮膚が破れてしまう、と。


「妖には苦しいだろう。後で、痛みを和らげてやるからな」


 優しく肩に手を置き、子を安心させてやるように語りかけてくる。

 しかし、その一言が、翔の意識を完全に覚醒させた。弾かれたように、もう一度部屋を確かめる。何も無い部屋、土壁、窓、そして押入れ。


「あ、」


 押入れを目にした翔は、恐怖に青ざめた。

 思い出した。あの夜、突然、腹が熱くなって白狐に変化したことも。見知らぬ雑木林で、幼馴染達に会ったことも。妖祓達に捕縛されたことも。押入れでの三日間のことも。何もかも、はっきりと思い出した。思い出したのだ。

 肩に乗っていた人間の手を尾っぽで弾き、翔は布団から飛び出した。窓辺近くの四隅に避難すると、体を震わせながら威嚇するように唸る。


「翔くん。落ち着くんだ。動いては駄目だ」

「来るな!」


 歩み寄ろうとする朔夜の父に怒鳴り、強い警戒心を向けた。足を止めて困惑する人間に怯え、自分を捕縛して、また閉じ込めるのだろうと叫ぶ。実質、今も自分は閉じ込められている。この部屋はそういう部屋だ。三日間で嫌と言うほど思い知らされた。


「絶対にも何もしない。約束するよ、翔くん」


「信じられるか! 妖祓はっ、俺達の敵だ! 本当に何もしないなら、此処から出せよ!」


「それは……それは、できないんだ」


 ああ、では、やはり祓うのだ。妖祓はいずれ、自分を祓ってしまうのだ。翔は悲鳴を上げた。狂ったように鳴き、人間の与えてくれる優しさを突っぱねた。

 逃げなければ。翔は窓辺に目を向け、飛びつくように手を伸ばす。


「駄目だ翔くん!」


 窓ガラスに触れた瞬間、呪符から霊気がほとばしる。もはや声すら上げられなかった。体に霊気がめぐりめぐって、その場に倒れてしまう。投げた手の指先が痙攣する。まるで、感電したように、いつまでも震えている。

 血相を変えた朔が体を起こしてくれるが、その手すら、翔には恐ろしい凶器に思えた。あれが自分に呪符を投げ、錫杖を振るった。ああ、殺されるやもしれない。


「嫌だ。助けてっ、死にたくないよ。おばばっ、青葉っ、ギンコ」


 みんなに会いたい。仲間の下に戻りたい。それが叶わないなら、せめて家族に会いたい。涙声になる翔の口から、ヒトの言葉が消える。代わり、出てくるのは狐の声ばかり。


「ああっ、翔くん。すまない、本当にすまない。怖い思いをさせて、本当にすまない」


 抱きしめてくれる人間すら、もう識別できない。熱と怪我で弱り切った体を、無我夢中に動かし続け、翔は助けを求めた。意識が遠くなるまで、助けを求め続けた。

 このような騒動を起こしたせいか、次に目を覚ますと、座敷には誰もいなかった。何もない、さみしい部屋に、つくねんと翔だけが寝かされていた。


「正体が、あいつらにばれちまった」


 心身疲れ果てているせいか、零すひとり言も、抑揚がない。空腹も原因の一つに挙げられるだろう。だが、胸はいっぱいだった。張り裂けそうなほどに、いっぱいだった。

 ゆるりと布団から抜け出し、覚束ない足取りで窓辺に歩む。ガラスに触れないよう、枠に手を添えると、そこに額を置いた。


「もう、どうすりゃいいか分かんねーや。俺、これからどうなるんだろう」


 翔の脳裏に当時のことが蘇る。必死に逃げ出そうとする自分を、痛いほど押さえつける妖祓達を。術を掛けてくる人間を。容赦ない一蹴を繰り出す顔見知りを。相手がみんな、好い人達だと知っているからこそ、翔はショックでならなかった。

 妖祓達が交わしている会話すら、脳内にこびりついている。彼等は宝珠の御魂を狙っている。鬼門の祠とやらに白狐ごと、これを封したいことも翔は知っていた。自分の前で会話していたのだ。嫌でも知ってしまう。人間は、こんなにも怖い生き物なのか。同じ人間だった筈なのに、いつの間にかヒトに畏怖の念を抱いてしまった。


「おばば……ばあちゃん、どうしよう。捕まっちまったよ」


 常に味方でいてくれる、妖の保護者に助けを求め、置かされている状況に嘆いた。いまの翔にできる、精一杯であった。


 それからの翔は、自ら押入れに閉じこもるようになる。上段に身を寄せ、ヒトと接触しないように努めていた。それだけ妖祓に恐怖していた。顔を合わせると、どうしても法具を構えてくる人間達を思い出してしまう。


「翔くん。出てこなくてもいいから、食事は取ろう。身が持たない」


 食事も拒んでいた。これには朔夜の両親、並びに飛鳥の両親が、押入れを開けては説得をしたり、そこにお盆を置いたりして、なんとか食べてもらうよう対策を取っていたが、すべて拒んでいた。

 確かに、かれこれ四日は何も口にしていない。付け加えるように暴れていたので、体は多大に栄養を求めている。喉も渇いた。何か食べたいし飲みたい。切に思うが、捕らわれた現実に疲弊しているせいで、食べる行為がひどく億劫に思えた。


 飢えているが、水なしでもまだいける。揺るぎない自信もあった。それは自分が妖だからだろう。ヒトであれば、ひとたまりもない環境だが、今の翔には乗り切れるだけの力があった。


(暇だな。寝ることくらいしかやることないし。でも、動きたくないし)


 常に狭い闇の中で身を丸くし、己の尾に顔を埋めて現実逃避をする。

 思うことはひとつ。妖祓の家から逃げ出し、妖の世界に帰りたい。未完全な妖であろうと、もうヒトの世界に自分の居場所はない。倒錯的な感情を抱いた。それならば、同胞として扱ってくれる、妖の世界に身を寄せた方が心置けない。


(みんなに会いたい)


 家に帰してくれないのは、雰囲気で察した。きっと彼等の最終目的は、白狐を祓うことだろう。


 だからこそ人間達の優しさを拒んだ。例え、朔夜の父が押入れから出て布団で寝ようと手招いても、朔夜の母が押入れに食事を置いてくれようとも、飛鳥の両親が何もしないからと説得しに訪れようとも翔は妖祓を拒み続けた。


 彼等は妖を祓う人間。もし自分が白狐のままだったら、みんな、ここまで優しくはしてくれなかったことだろう。現に散々な扱いを受けたのだ。どうしても、厚意を素直に受け取れない。皆が優しくしてくれるのは自分がヒトの子だから。妖の自分に優しくしてくれているわけではない。


(不思議だな。押入れが落ち着くなんて)


 夜行性の翔にとって闇こそ暖かな世界だった。光よりも闇を拒むようになった自分は、確実に妖へと近付いているのだろう。


 そういえば、もう学校は始まっている頃ではないだろうか? 許されるのならば、もう一度だけ学校に通いたい。そんなことを思いながら翔は狭い闇に息を潜め、眠りに就く。


 最後に脳裏に過ぎった思いはひとつ、妖の世界に帰りたい。




 ※



 三日が過ぎた。学校から帰宅した朔夜は二階の自室に入ると、鞄をその場に転がし、畳の上に腰を下ろす。

 ぼんやりと天井を仰いでいた彼は、力尽きたように寝転がり、持ち前の四肢を放った。言い知れぬ虚無感に襲われる。


「妖祓、か」


 学ランのポケットから数珠を取り出し、それを翳して眺める。

 幼少から妖の知識を叩き込まれ、優秀な妖祓になるため、厳しく躾けられてきた。


 それが、この家に生まれてきた運命(さだめ)


 血統を絶やさぬよう、妖祓として暗躍することが。和泉家の人間の宿命だった。自分はそれに不服を抱きながらも、懸命に応えてきたつもりである。人の暮らしを脅かす妖達を祓い、人間たちを守ってきた。まだまだ未熟ではあるが、一人で妖を祓えるまでに成長している。


 これからも、そうやって生きていくのだと思っていたのに、まさかこんな試練が待ち受けているなんて。

 やり切れない。眼鏡を取り、数珠を持った腕で視界を隠す。じゃら、耳元で数珠が鳴る。慰めにすらならない。


「ショウが妖だったなんて」


 幼馴染は、生粋の人の子だった。なのに、どうして。

 人間も妖になることがある。知識として頭に入れても、まさか身近な人間が妖になるとは思わないではないか。もう自分は、妖祓としてやっていけないかもしれない。兄達がいるのだ。自分が妖祓にならなくともいいではないか。


 白狐と対面したのは過去に二回。一度目は白狐を捕縛しようと傷付け、二度目は白狐に救われ、結局は父達が捕縛した。朔夜は罪悪感に駆られる。自分は白狐に対して、何をしようとした? もしかしたら、この手で幼馴染を葬っていたかもしれない。嗚呼、自分は妖の幼馴染を手に掛けようとしたのだ。


 現実に打ちのめされる朔夜と同じように、いや、それ以上に飛鳥は落ち込んでいた。登下校を共にする彼女は、自分に胸の内を明かしてくれた。


 自分は白狐に呪符を放り、身を傷付けてしまった。好意を寄せてくれている男の子を傷付けてしまった。もう嫌だ。妖祓なんてやめてしまいたい。好きで妖祓になったわけではないのだ。自分は降りる、降りたい、降ろさせてもらう。自分が妖祓だから、幼馴染は避けていたのだから。飛鳥は涙声になっていた。


『どんな顔で、ショウくんと会えば良いんだろう』


 彼女の嘆きに同調してしまう。

 今も、白狐はあの部屋に閉じ込められているが、朔夜はどうしても会いに行く気になれない。怖いのだ、幼馴染にどんな眼を向けられるのか。

 鬱々とした気持ちを抱きながら、自室で何をするわけでもなく、寝転んで時間を過ごす。


 いつの間にか、うたた寝をしていたようだ。朔夜は空腹で目覚めた。何か口にするために、台所へ向かう。


「また、翔くん。ご飯を食べなかったんだな」


 幼馴染の名にどきり、と心臓が鳴る。入り口手前のところで足を止めてしまった。

そっと中を覗き込むと、夕飯の支度を終えた母が、帰宅した父と話し込んでいた。掛け時計は八時を指している。


 両親はテーブルを囲み、深い溜息を零していた。そこにはお盆が一枚、その上に三角おにぎりが二つ、行儀よく並べられている。握られてから随分経っているようで、米の表面がカチカチに固まっていた。


「いい加減、彼に食事をさせないと……もう一週間は呑まず食わずだ」


 盗み聞きする朔夜は瞠目してしまう。幼馴染は、水すらも口にしていないだなんて。水なしで一週間も生きられるのか。純粋な疑問は、母によって打ち消される。


「今のあの子は妖。だから平然としていられるんでしょうけど、このままじゃいずれ倒れてしまう。ただでさえ傷を負った体なのに。傷薬も塗らせてもらえない、食事も食べてくれない、このままだと衰弱してしまうわ」


「しかし、翔くんは妖狐の血を持った妖。簡単に心を開く獣じゃない」


 狐はとても用心深い生き物で、一度警戒心を持たれると、なかなか近付いてくれない。妖狐の器を持つ翔も、その習性があると父。


「その証拠に翔くんは、特に自分と時貞に、警戒心を抱いている。錫杖を振るった記憶が、刻まれているんだろう。姿を見るだけで、狂ったように鳴いて助けを求める」


「……いつ自分が祓われるのか、怖くて仕方がないのね。まだ、あの子は半妖。妖狐の血を抜くことができたら」


「君枝。それは夢物語だ。お前も知っているだろう。一度、妖の血を体に入れた人間は、二度と元には戻らない」


「分かっている。分かっているけど、あの子は、白狐なのよ。分かっている? 朔さん。祠に封印される対象なのよ……南条さんにも、なんてお詫びすればいいのか」


 早く家に帰してあげたい。親御さんを安心させてやりたい。なのに、長の許可がない限り、あの部屋から出してやることもできない。


 母は胸を痛め、涙声で父に訴え、両の手で顔を覆ってしまった。父は何も言わず、母の肩を抱きよせる。それしか、慰める方法がないのだろう。


(このままだと衰弱してしまう。ショウが、死んでしまう)


 朔夜は空腹も忘れて、その場を後にした。抜き足差し足で座敷の前に立つと、少しだけ襖を開けて中を確認する。


(あれ)


 驚くべきことに、座敷には妖狐の姿がなかった。

 何処へ行ったのだろう。明かりを点け、呆ける朔夜だが、押入れから微かに物音が聞こえた。理解する、幼馴染は押入れに隠れているのだ。


 どうしても幼馴染の様子が知りたい朔夜は、押入れを開けてみようかと迷ったが、無闇に入っても翔は押入れから出てきてはくれないだろう。長年の付き合いだ。彼の行動は読める。


(とはいえ、簡単にショウが出てくるとも思えない)


 そこで朔夜は自室に向かい、目覚まし時計を持ち出す。三分後に鳴るようセットすると、急いで座敷に戻り、敷きっぱなしの布団の上に置いた。その足で玄関から外へ出ると、物置の方に回り、明かりの点っている座敷の窓から中を覗き込むことにした。座敷には、カーテンすら掛かっていないため、隅々まで部屋を見渡せる。


 間もなく、目覚まし時計が鳴り響く。それに伴い、押入れから怯え切った獣の鳴き声と、大きな物音が聞こえた。飛び上がった、というところだろう。

 幼馴染は、耳の良い狐の五感を持っている。いつまでも鳴り響く目覚ましに耐え兼ね、押入れから出てくるに違いない。


 案の定、翔が押入れから顔を出した。


「うるせぇよ。なんの音だ」


 のそりのそりと部屋に姿を現す彼は耳を押さえ、眉を寄せている。ただの耳ではない、それは三角の形をした獣の耳であった。尾てい骨から生えた三尾は、非常に新鮮な姿である。彼は布団の上に放置されている目覚まし時計を持ち、恐々とスイッチを押した。


「なんで、こんなところに目覚まし時計が? しかも、微かに朔夜の匂いがする」


 さすが狐。鼻も良いらしい。動いている耳は、常に音を拾おうとしているようだ。朔夜は音を鳴らぬよう努めた。


 古着姿の幼馴染は腹部を擦り、敷かれている布団の枕元に注目する。

 そこはお盆、そして母が新たに握ったと思われるおにぎりが置かれている。大層空腹のようで物欲しそうに見つめているが、ぶるぶるとかぶりを振り、それを尾で四隅まで除けてしまう。怖くて食べられないのだ。喉が渇いているだろうに、茶の入ったペットボトルを尾で倒してしまうとその場で膝を抱え、クンクンと鳴き始める。


 一頻り鳴いた後、部屋に出たいと言わんばかりに、座敷の中をぐるぐると歩き回る。

 しかし、すぐに疲れてしまったようで、布団の上に寝転んでしまった。


「腹減った……喉渇いた。帰りたい。家に帰りたい」


 部屋を満たす声で欲求を口にする彼は、自分の尾を抱き締め、鼻を啜っていた。


「どうして妖祓は、俺を閉じ込めるんだろう。危険な妖だと思われたのかな」


 このまま祓われるのだろうか。正体もばれた。もう駄目なのかもしれない。彼は嘆きを口にすると、弱々しく本音をもらす。祓われるとは痛いのだろうか。それとも、痛みすら感じさせずに安らかに逝けるのだろうか。


「俺、死ぬのかな。妖として消されるのかな……怖い。死にたくない」


 だれか、たすけて。

 彼の、翔の声なき声に、思わず顔を背けてしまう。


(……ショウ)


 その場に佇んでいた朔夜は、いても立ってもいられず、家に戻ると自室へ飛び込む。

 妖狐の生態について調べた後、パソコンで料理サイトに飛び、ページをプリントアウト。コートを羽織ると、それと財布を持って玄関に向かう。

 スニーカーの紐をしっかりと結び、外へ出た朔夜は一目散に夜道を走った。


 向かう先はスーパーマーケット。大量に油揚げをカゴに入れ、みりんや醤油、砂糖と一緒に購入する。帰宅した後は、プリントの手順で、油揚げを対角に切り、湯を沸かして油抜く。鍋に調味料を入れ、油揚げを一晩寝かせた。


 こうして下準備を整わせた翌日、朔夜はいつも迎えに来てくれる、飛鳥を迎えに行く。これには彼女を大いに驚かせてしまったが、構わず、朔夜は今晩家に来てくれるよう開口一番に願い申し出る。

 突然の申し出に尻込みする彼女だが、どうしても来て欲しいのだと朔夜は頼み込んだ。


「ショウが食事を取らないんだ。このままじゃ、衰弱してしまう。彼の警戒心を解くために、協力してくれないかい。飛鳥」



 ※



「まじ死にそう……頭がくらくらする」


 飲まず食わずの生活八日目。今日も押入れに閉じ篭っていた翔は、さすがに限界だと腹の虫を鳴かせ、小さな溜息をつく。

 空腹のせいで手足の感覚がおかしい。眩暈はするし、渇き切った喉は焼けるよう。唾液を飲み込む度に、粘膜が張り付くような感触がして気持ち悪い。


 このままでは本当に飢えて死んでしまう。人生の中で、こんなにも空腹を感じたことがあるだろうか。嗚呼、どうして自分は、こんなにも相手の厚意に意地を張っているのだろう。とにもかくにも腹が減った。これ以上の断食は危険過ぎる。翔の頭の中は、食を満たすことで一杯だった。


 とはいえ、部屋に出る気にもならない。妖祓達の気持ちがどうしても受け入れられず、押入れに閉じ篭ってしまう。動くのも億劫だ。気だるい。体が栄養不足だからだろう。


「おばば。ギンコ。青葉。比良利さん……俺、死んじまうよ。腹減ったよ」


 妖の皆に会いたい。喧嘩友のツネキでもいい。誰でもいいから、妖に会いたい。さみしい、人恋しい。いや、妖恋しい。

 自ら作り上げた環境とはいえ、誰とも接することなく、閉じ篭るだけの生活にも限界だ。翔は唸り声を上げる。家族は今、どうしているのだろう。形代で身代わりを作っているが、きっとあれも限界は近いことだろう。家族の目を誤魔化し通せるとは思えない。


「俺なんか悪いことしたかよ。あんまりだろ、こんなの」


 涙ぐんで自分の尾を毛づくろいしていると、翔の耳にヒトの足音が聞こえた。朔夜の母親だろう。定期的に食事を持ってきてくれる、幼馴染の母親には罪悪感を抱くも、どうしても怖くて食せない。驚くほど、今の自分は臆病になっている。


 聞き耳を立てていると、部屋の扉が開かれた。足音が迷うことなく、押入れに向かってくる。急いで壁際に避難する翔の背後で、引き戸が遠慮がちに開かれた。


 ぶわっと尾を膨らませ、恐怖と緊張の両方を抱く。耳ごと頭を押さえ、相手の声を耳に入れないようにしていた翔だが、「ショウ」と、聞き覚えのある声に、思わず手が離れてしまう。


 意を決し、ゆっくりと振り返る。そこには誰もいない。聞き間違えだろうか。空腹のあまり、幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか。


 瞬きを繰り返していると、鼻腔に酸っぱい香りが纏わりついてくる。これは酢の匂い。


(酢? なんで、こんなところに匂ってくるんだよ)


 翔は開きっぱなしの引き戸をじっと見つめ、恐々とした動作で押入れから顔を出す。

 驚愕してしまった。そこには、幾日ぶりに目にする、幼馴染達がいたのだから。


 自分の正体を知って、何か思うことがあるだろうに、それを面に出さず、彼等は敷布団を畳んで、部屋の中央を陣取っていた。どうやらボウルやトレイ、皿を並べて、せっせと何か作っている様子。油揚げを目にした翔は、つい生唾を飲んでしまった。あれは妖狐の大好物ではないか。


 朔夜が三角に切った油揚げの口を広げ、飛鳥が人参の細切りが混ざったすし飯を、素早く詰める。綺麗に形を整えて皿に盛るすし飯は、手作りの稲荷寿司だった。


(ご、拷問だ。極限まで腹が減っている中の、稲荷寿司は、やばいくらい拷問)


 何もこんなところで作らなくとも。鼻腔を擽る美味しそうな匂いに、腹の虫を鳴らしてしまう。しかも、それは一度に留まらない。


 幾度も座敷を響かせる、大層な音に恥ずかしくなり、いそいそと押入れに戻ろうとしたが、「ショウ」「ショウくん」と、二人に呼び止められて、それが叶わなくなる。


(ああくそ。なんで呼ぶんだよ)


 引き戸の枠にしがみ付いてしまう翔は、極力二人と視線を合わせないように努めた。恐怖心を表に出さないように努力するものの、生えている耳と尾は非常に正直で、自分の感情に伴った反応を起こしてしまう。


 こういった反応が、二人を傷付けるのだろう。だから正体を明かす時機を見計らいたかったのに。


 聞こえてくる物音に、ますます身を萎縮していると、畳の上を何かが滑ってくる。そして、それらは押入れの下段へ勢いよく入ってしまった。


 いまのは何だろうか? 頭だけ突っ込み、逆さになって覗き込むと、そこには数珠と呪符の束が転がっていた。あれは、二人が妖を祓う時の法具ではないか。大切な物だろうに、どうして自分の方に滑らせたのだろう。


「ショウくん。これ、一緒に食べよう。私達の手作りだよ」


 視線を戻すと、飛鳥が突然、稲荷寿司の説明を始めた。油揚げの下ごしらえは朔夜が、すし飯は飛鳥が作ったらしい。


 やたら明るく振る舞う、意中の彼女は無理をしていた。皿にも盛った稲荷寿司を見せ、美味しそうだろうと笑顔を作る。泣きそうな笑みであった。それに気付いてしまった翔は押入れに戻る。引き戸に尾を掛けたところで、先程よりも大きな声が飛んできた。


「味は保証するから! ショウくん好みに味は濃くしたよ!」


 動きを止めてしまう。追い撃ちを掛けるように、彼女に代わって朔夜がこう告げた。


「僕達の祓う道具は、君がいる押入れの中一つだ。今の僕達は丸腰だよ。誰も君を祓うことはできない。約束する、僕等は君を絶対に傷付けない」


 ほら、一緒に夕飯を食べよう。自分達も、まだ食べていないのだと朔夜。

 未だに動けずにいる翔は何も言えず、答えられず、すとんと、その場に座り込む。

 大好きな二人に対して、分厚い心の壁を築いてしまう。それは相手がヒトであり、妖祓だから。数々の仕打ちを思い出し、自ら二人と心の壁を築いてしまう。こんな思い、一抹も抱きたくないのに。


 すると焦れた飛鳥が、早く来ないと食べてしまうからね、と涙声で訴えた。彼女は本当に美味しいのだと伝え、素手で稲荷寿司を掴むと自分の口に放った。


「出来立てで美味しい。ほら、見て、毒なんて入っていないよ。私達がショウくんのために作ったんだから」


 口いっぱいに頬張り、飛鳥は目尻に涙を浮かべながら微笑んでくる。それを直視してしまった翔は後悔した。そんな表情をされると、どうして良いか分からなくなる。

 飛鳥に倣って、朔夜も稲荷寿司を口に入れる。らしくもない声の明るさで美味しいと笑う彼は、あっという間に一個を食べてしまうと、おかわりに手を伸ばしていた。


(……美味そう)


 警戒心を持って観察をしていた翔の目が、物欲しい目に変化していた。かすかに聞こえる咀嚼音、酢の香り、手作り稲荷寿司の姿。どれも食欲をそそる。連動するように、きゅるると腹の虫を鳴らせてしまい、苦い顔を作ってしまった。少しずつ、恐怖が食に押されている。


「おいでよショウくん」


 空腹の音を聞いた飛鳥が、懸命に手招きしてくる。絶対に美味しいから。どうしても食べられないなら、自分の物と半分しよう。そう言って、彼女は新たに取った稲荷寿司を、手で半分に割る。


「これにもし、毒が入っていたら私も危ないってことになるよ。先に食べて見せるから、ね? ちょっとだけ。一口でいいから」


「なら、僕のも半分にしよう。ショウ、君と同じ条件だ」


 各々の手で割られた稲荷寿司が、皿の真ん中に置かれる。そして、先に彼等が実食し、それに毒がないことを証明してみせた。どちらも美味しそうに噛みしめている。


 そんな姿を見たものだから、翔に大きな迷いが生まれた。自分のために、食事を取らせようとする二人の気持ちは嬉しい。けれど、二人は人間で自分は妖。もう自分は人間ではないのだ。告げる前に正体が暴かれてしまった、その現実が翔の腰を重くさせる。

 あ。引き戸の向こうを一瞥した翔は、思わず声を上げそうになった。


 一向に動かない自分の態度に、幼馴染達が酷く傷付いた顔を作っている。あの顔は自分と同じ怯えに近い顔だ。自分も、正体がばれたらどうしようと怯え、常に恐怖心と闘っていた。その気持ちが痛いほど分かるからこそ、意表を突かれてしまう。


 そして気付く。自分もまた、ヒトだの妖だのと理由をつけている、と。

 雪之介と、種族を超えた関係になりたいと語り合っていたというのに、いまの自分はどうだ?


 ふと、脳裏に過ぎる――あの夜、朔夜と飛鳥が自分を守ろうと、法具を投げていた姿が。あれは真実だった。確かに、翔がいつも心許している、真の彼等の姿であった。

 静かに二人を見つめていた翔は、意を決しゆっくりと引き戸の影から出る。三つの尾っぽと耳を立て、人間の動きを観察した後、押入れを右往左往した。そうして自分なりに心を落ち着けると、恐々畳に足を付けた。


 稲荷寿司と翔の距離は、目分、大また三歩。幼馴染達は五歩といったところ。忙しなく耳を動かし、相手の様子を窺っているのにも関わらず、彼等の表情は俄かに明るい。


 半歩、近付いて二人を窺う。もう半歩、様子は変わらない。勇気を出して一歩、稲荷寿司との距離は、目と鼻の先。手を伸ばせば届く。


 極限の空腹にいた翔は、大好物である油揚げと、寿司飯の良い香りに、瞬く間に屈し、それを掴んだ。最初は表面をぺろぺろと舐め、食べられるか確認する。醤油の甘辛さが舌にじんと伝わり、空腹が増す。堪え切れなくなり、とうとうそれを口に入れる。


 咀嚼すると、溢れるすし飯の酸味、仄かに香る人参と白ごま。それから煮付けられた油揚げの甘味。噛む動きが速くなる。もう一口齧ると、静かに涙が零れた。


 自分がどれほど空腹だったのか、心寂しかったのか、そして恐怖していたのか、食を通して実感させられる。涙を拭うことも忘れ、恐怖も意地も自尊心も彼方に投げ、一心不乱に稲荷寿司を食べる。

 やっと、人間の優しさを受け入れることができた。信じることができた。思い出すことができた。


「ショウ。ほら、沢山あるよ」


 両手を舐めていると、皿一杯の稲荷寿司を持った朔夜が歩み寄ってきた。


「もう大丈夫。ショウを傷付ける人間は、此処にはいない。法具を向ける奴は、どこにもいないよ。もし、誰かが君を祓うような真似をしたら、僕と飛鳥が全力で守るから」


 だから、信じて欲しい。その言葉が届いた時、翔の気丈は跡形もなく崩れ、子どものようにしゃくり上げた。その強い安心感に満たされ、笑みも零れ始める。もう笑いたいのか、泣きたいのか分からない。


「はらっ、へった」


 躊躇いを忘れた翔は、空腹を満たすために食事を再開する。手づかみで食べているため、それはそれは汚い食べ方だったが、気にする余裕などなかった。数日ぶりの食事が堪能できる、この時間が至福で仕方がない。


「そんなに急いで食べたら、喉に詰まっちゃうよ」


 翔の食べっぷりが信用の度合いを、彼等に示したのだろう。涙目のまま、飛鳥が嬉しそうにペットボトルの入ったお茶を差し出す。そういえば、喉が渇いていた。水分補給の存在を思い出した翔は、それを受け取って、胃に流し込む。


 こうして三合分の稲荷寿司を、ほぼ一人で平らげた翔は、余っていた油揚げを食べたところで満腹となる。久しぶりに飢えから解放されためか、表情は穏やかだった。肩の力も抜くことができる。伴って、ドッと疲労も襲ってきた。体が安息を求めているようだ。


「ああもう。また、押入れに行こうとする。ショウくん、眠いならお布団で寝よう」


 半ば強引に布団へ押し込まれてしまうが、不思議と逆らう気持ちは芽生えなかった。長い尾を丸め、それに顔を埋める。


「ショウくん。寝る前に、お薬を塗ってもいい?」


 耳を立て、顔を持ち上げる。

 枕元に腰を下ろした飛鳥は、漆塗りの小さな器を見せてきた。曰く、これはヨモギをすりつぶした塗り薬とのこと。妖にも効力があるらしく、これを傷口に付けたいそうだ。


「傷が膿んでいるかもしれないから。ね? ちょっとだけ。大丈夫、染みるだけだから」


 飛鳥が蓋を開けて、 深い緑色(りょくしょく)の塗り薬を人指しで掬い取る。

 人間が触っても毒はない。勿論、妖が触っても大丈夫だと熱心に説明をする彼女に、翔は眉を下げ、彼女と薬を見比べた。せっかく消えていた警戒心が出てくるのは、心のどこかで人間に怯えているせいだろう。


「これは食べても害はないんだ。心配なら食べて見せるよ」


 朔夜が話の間に割ってきた。

 その目が本気だったため、翔は信用を置くことにする。


 体を起こし、傷ついた腕を相手にそっと差し出す。

 嬉しそうに腕を取る飛鳥だったが、自分の両の腕を見るなり、一変して泣き顔を作ってしまった。

 呪符によって火傷したように赤く腫れ上がっている手首に眉を下げ、「痛いよね」と問う。下手に誤魔化しても、きっと彼女達の心を傷付けるだけだろう。翔は素直にうん、と首を縦に振った。


「せめて呪符だけでも……取ってもらいたいんだけどな」


 苦笑して己の手首を見つめる。


「それだけ、危険な妖だってことなんだろうな。なあ、白狐はいずれ祓われるんだろ?」


 胸につっかえていた疑問を二人に投げる。

 これが失敗だったと後悔するのは、幼馴染達の反応を直視してからだ。

 手首を見つめる飛鳥と、背後に立っていた朔夜の呼吸が止まった。


「そんなことないっ! そんなことはさせないっ」


 声音を張ったのは朔夜で、


「大丈夫だよ!」


 手を握り締めてきたのは飛鳥だった。

 反射的に片恋の手を握り返しつつ、親友の言葉を受け止めつつ、翔は苦笑いしか零せない。彼等を信じていないわけではないが、今の状況では信じ切ることは叶いそうにない。


 ただ傷付いた二人の表情は見たくない。飛鳥の体を押しのけると、翔は押入れに向かう。下段に半身を突っ込み、その辺に転がっている数珠と呪符の束を拾う。それを持って二人の下に戻ると、そっと両手を差し出した。

 目を丸くする朔夜と飛鳥から視線を逸らす。


「大事なものなんだろ? だから返す」


 翔は数珠と呪符の束を受け取るよう催促した。


「例え祓われることがあっても、お前等は俺を祓わない。俺は二人を信じる。朔夜と飛鳥が俺を傷付けるわけないもんな」


 小さく頬を崩すと、泣き笑いする二人の顔が垣間見えた。嗚呼、やっぱり二人も怯えていたのだ。自分の抱く感情に。


 数珠を朔夜が、呪符の束を飛鳥が受け取る。

 例え妖にとって凶器となる、それ、を持っていようとも、二人は自分を決して祓いはしないだろう。揺るぎない自信があった。

 翔にとって彼等は、誰より信じることのできる人間であり、大切な者達なのだから。




 二人の目的は翔に食事を取らせること、そして治療をすることだったのだろう。

 それらが終わると、幼馴染達はボウルや皿を持って一室から出て行った。さみしい反面、心なしかホッとする。

 彼等は翔の気持ちを優先させてくれたのだ。

 翔も、今は一人になりたい。

 先ほどまで、襲っていた強烈な眠気は、遥か彼方へ飛んでいってしまった。


(あいつ等のおかげで、落ち着くことはできたけど……どうすっかな。これから先)


 大好きな人間に正体がばれた今、向かい合う勇気は持てずにいる。情けない己を自嘲したい一方、これからどうしようと現実に返っては落ち込んでしまう。

 結局、翔の心の拠り所は妖達であった。同胞に会いたくて仕方がない。部屋の四隅で膝を抱え、翔はみなを思う。


「妖の世界に帰りたい。皆に会いてぇよ」


 と、耳に懐かしい鳴声が飛び込んできた。

 耳を立たせ、窓の方に顔を向ける。誘われるがまま窓辺に近付き、硝子に触れないように夜空を見上げた。


「あ」


 零れんばかりに目を見開く。

 聞こえる、狐の鳴き声が。同胞の声が。懐かしい声が。

 まるで自分の行方を捜すような、狐の鳴き声。これは誰の鳴き声だろうか? 青葉、ギンコ、比良利、紀緒……はたまた、ツネキか。誰でもいい。声が聞こえる。同胞の声が。


 気付けば翔も、窓の外に向かって鳴いていた。

 募る会いたい気持ち。さみしい気持ち。恋しい気持ちが溢れ、懸命に同胞に向かって鳴く。自分は此処にいる、居場所を教えるように何度も鳴く。その鳴き声は、まぎれもなく狐だった。 

 窓枠を引っ掻き、会いたい、さみしい、恋しいと態度に出した。誤って硝子に触れてしまい、手中に痛みが襲う。構わなかった。皆が気付いてくれるよう、ただひたすらに鳴く。


「しょ、ショウくん!」


 鳴き声を聞きつけた人間が駆け寄って来るが、翔は気付かない。窓硝子を叩き、狂ったように鳴き叫んだ。見る見る手当てされた、両の手が傷付いていく。皮膚が焦げていく。皮膚が爛れていく。

 それを止めるように背後から抱きしめられ、ようやく翔は我に返った。

肩で息をし、窓の向こうを見つめる。いつの間にか、狐の鳴き声は聞こえなくなっていた。顔をくしゃくしゃにしてしまう。言い知れぬ絶望感が襲った。


「ショウくん。お願いだから落ち着いて。ね?」


 誰も傷付けないから、安心していいから、自分達が傍にいるから、背後から声を掛けられ、状況を把握するために振り返る。

 驚いてしまった。飛鳥が、自分の身に抱きついているではないか!


 いつから、彼女は部屋にいたのか。


 瞬きを繰り返し、翔は視線を戻してそっと瞼を下ろす。嬉しい光景ではあるが、素直に喜べない。どうにか離れてもらおうと三つの尾で彼女の体を押し返すが、ぎゅっとしがみ付かれるので、どうすることもできなかった。


「ごめん飛鳥。離れてくれ」


 態度で駄目なら、言葉で示すしかない。翔は離れてくれるよう頼む。


「いや」


 一言で斬り捨てられたら、話は仕舞いである。無様な姿を、誰より意中に見られたくないというのに。


「お願いだよ」


 今は一人にしてくれ、翔が言葉を重ねる。


「絶対に嫌。ショウくんを、一人にはしない」


 突っ返す飛鳥は、ろくすっぽう人の、いや狐の言葉を聞こうとはしない。突き飛ばすことも可能だが、相手の鼻を啜る音を聞くと、そういう気持ちも消えてしまう。

 惚れた弱みだな、翔は苦笑いを零した。華奢な体躯が抱きついていると思うだけで、振り返って抱擁したい衝動に駆られる。思いは未だに、断ち切れていない。


 無論、今の自分に、それは叶わない。


 だから、ヒトにはない尻尾で優しく背中を擦ってやる。胴に巻きつく腕の力が増した。怯えさせたのかと思ったが、様子を見る限りそうではないようだ。


「もう落ち着いたから、朔夜のところに戻れよ」


 抱きつく相手を間違っている、翔は揶揄を口にした。まったく聞く耳を持たない彼女は、離れようとしない。


「ショウくんの傍にいたいの」

「うそつけ」

「うそじゃない」


 気遣っていることくら容易に理解している。しかし何故だろうか、飛鳥の方が傷付いた様子である。だったら、何か慰めの声を掛けてやりたい。

 けれど何も言えない。余計なことを口にしそうだから。


 幼馴染達が自分の正体を知った、その心を問いたい。同じように幼馴染達も自分に、何かを問いたいと思っている筈だ。お互い、心に踏み込めないのは、心情を聞く勇気が持てないから。


 妖だから、嫌われているかもしれない。

 妖祓だから、憎まれているかもしれない。


 妖だから、嫌悪しているかもしれない。

 妖祓だから、怨まれているかもしれない。


 不安が恐怖を呼び、自分達は各々本心に触れる勇気を失った。


 ほら、こう思っている時点で既に自分達の関係は崩れかかっている。もうあの頃のように、何も知らずに笑っていた日々には帰れない。帰ることはできない。


「花見、行けなかったな。とても楽しみにしていたんだけど」


 話題を替える。約束の日はとうに過ぎている。それが残念で仕方が無い。翔は目を細め、窓の向こうを見つめる。


「約束しなおせばいいんだよ!」


 近いうちに必ず行ける、飛鳥は切に訴えた。今度こそ花見に行こう。次はお弁当をこしらえてくる。三人分のお弁当を用意してくる。

 それを持って、翔の行きたがっていた花見へ行こう。きっと次回の花見は満開の桜が咲いている。今以上に暖かくなっているだろうから。


「だけど俺は、此処から出してもらえない」


 何故なら自分は妖だから。

 すると飛鳥が、違う、と声音を張って否定した。


「ショウくんは人間だよ!」


 驚きかえる翔に、飛鳥は言うのだ。姿は妖狐でも、心はヒト。否、“妖の器”である以上、翔は人間なのだと。


 これからも翔はヒトであり、自分達と日々を過ごすのだ。彼女は涙声で気持ちを伝えた。迷いなく伝えてきた。

 翔は力なく笑う。片隅で、飛鳥の言葉にショックを受ける自分がいる。

 彼女は慰めのつもりで送った言葉だろう。されど自分は贅沢なことに、もっと別の言葉を期待していた。“妖”に近付きつつある自分には、今の彼女の言葉はつらい。既に心も妖に染まり始めている自分には、すごく。


 窓の向こうに瞬く星を見上げ、静かに佇んでいると、「ショウくんの意気地なし」と、前触れもなしに悪態をつかれる。


「今こそチャンスじゃん」


 いつも二人きりになりたいと望んでいたくせに、いざとなったら態度を控えるなんて。そう悪態をつく彼女は、どうやら翔を試しているらしい。

 とんとん、と頭で背中を小突く飛鳥の手が小刻みに震えている。妖狐の自分を恐れているのではなく、きっと自分の本心に恐れているのだろう。


「お前って馬鹿だな。俺を舐めすぎ」


 彼女の恐怖心を拭うために、真摯に伝える。


「本当に大切なんだ、飛鳥のこと。手なんて出せねーよ。いまの俺は、どうあってもお前を泣かせることしかできないだろう」


「そんなこと」


「それに、飛鳥らしくねぇよ。朔夜が好きなくせに、俺に振り向けないほど好きなくせに、人を元気付けようと頑張ちゃって」


 飛鳥は朔夜を追い駆け、翔は飛鳥を追い駆け、朔夜は二人の前を歩く。これがいつもの自分達だ。その関係を何年も保ってきた。今さら関係を壊すことなど、しかもこの時機に壊すなど、飛鳥も望んでいないだろう。


「お前は、そのままでいいよ」


 無理して振り向こうとしなくていい。


「俺は朔夜を追う、お前が好きだから」


 無理して好きになろうとしなくていい。


「あいつを追っているお前が、一番飛鳥らしいと思ってる」


 だから。


「飛鳥はそのままでいろよ。変わっちまった……俺の分まで」


 もう何も返せないのだろう。彼女は、ただただ腕の力を強くする。

 翔は振り返ることなく、窓の向こうを見つめていた。廊下では、気配を押し殺している朔夜がいることに気付いていたが、敢えて声を掛けることをせず、恋しい夜の世界を見つめていた。


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