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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【弐章】名を妖狐と申す
42/158

<二一>南条翔の春休み(伍)



 ※



 白狐は、星を跨ぐように翔けていた。


 行き先は決まっている。場所の名は分からないが、体内に宿る宝珠の御魂が、あちらへ行くよう指示してくるので、足先は軽やかだ。熱く滾る宝珠の御魂の意志に応え、白狐はひた走る。その間、本体を動かすはずの、翔の意識は淡い眠りについていた。


 白い獣が向かった先は、南の地“妖の社”とは正反対の方角にある雑木林。

 そこの周辺は住宅が少なく、テナント募集のチラシが貼ってある空店舗や、駐車場ばかりが目立っていた。夜は、特に人が近寄り難い場所である。


 一般の人間に見えぬ、その神々しい体毛を持つ白狐は、駐車場に停めてある軽自動車に降り立った。足軽にアスファルトへ着地する。ボンネットには白狐の足跡がつくが、持ち主はこれを、狐の足跡とは思わないだろう。


 スン。鼻を鳴らし、長い尾を靡かせながら、白狐は駐車場を囲んでいるブロック塀を飛び越える。


 雑木林の入り口には鬱蒼とした茂みが、まるで包囲網のように、生い茂っている。それは闇夜によって、より不気味に見えた。

 付近には家電製品が無造作に捨ててあるが、ここは確かに雑木林の入り口だった。それを物語るかのように、劣化した二本の木杭が立っている。杭には、なにやら文字が刻まれているようだが、風化が酷くて文字を読むことはできない。梵字、ということだけは、見て取れた。


 白狐は目を細め、のそりのそりと、雑木林へ前進した。


 獣が通るような細い道が続くそこは、人の手が加えられておらず、ぼうぼうと茂みが立ちふさがる。しかし、道は確かにあり、通りやすいように土で固められていた。人ではない何かが手を加えているのか、それとも。


 落ちている枯れ葉を踏みしめる、白狐の体毛は、まるでともし火。闇夜を照らし出すように見えた。耳元を飛び回る虫を振り払い、月明かりを頼りながら白狐は最奥を目指す。


 小さな雑木林の最奥は、すぐに顔を出した。人工的に切り開かれた場所の出入り口には、七つの地蔵が左右に置かれ、訪問する者に合掌している。


 それを流し目にした後、白狐は前方を見据えた。先に見えるのは石畳の道、その奥には注連縄で、二重三重に結界が張ってある。バリケードのように道を塞いでいる縄の向こうには、ぽっかりとあいた穴。闇を吸い込むように息潜んでいる。


 白狐は、あの向こうに行かなければならない衝動に駆られていた。

 それは内側から込み上げてくる、使命感によるもの。白狐はこの地を護らなければいけないと切に感じていた。勾玉模様の二つ巴を淡く発光させ、神聖なこの地を護らなければならないと唸る。それが宝珠の御魂を持つ、己の宿命であり、さだめなのだ。


 穴から溢れるおどろおどろしい瘴気が零れているのが分かった――あれを、どうにかしなければ。


 ふと気配を感じる。

 白狐は首を伸ばし、耳を四方八方に微動させる。聞こえてくる足音と霊力により、思わず、その場から飛び退いて背後を振り返った。


「さすがだね」


 もう気付いたか。皮肉を零してくるのは、一人の少年。学ランを身に纏っている、銀縁眼鏡の彼は、冷たく口角を持ち上げ、愛用の数珠を構えた。彼の背を必死について来るのは、セーラー服の少女。両者とも齢十七前後の少年少女だった。


 グルル。低く唸る白狐は“彼等”のことを忘れていた。今の白狐は、ただの白狐であり妖狐、本体の中に眠る翔ではないのだから。当然、事情を知らない朔夜は白狐にまた会ったね、と挨拶を送る。


「怪我の具合はどうだい?」


 嫌みったらしく掛ける言葉に、白狐は唸るばかり。

 殺気溢れる妖狐に背後にいた飛鳥は、ひっ、と悲鳴を上げそうになる。強い殺気に伴って強い妖力を感じた。それは以前とは比べ物にならないもの。先方のことを怒っているのだと、彼女は息を呑んでしまう。


 一方、朔夜は予備校の帰りで疲れているのだと、身の上話を始める。

 朝から教室に缶詰され、一時間の休憩を挟むだけであとはずっと授業。ようやく解放されたと思った矢先、巨大な妖力を感じて走る羽目になった。幸い、予備校からさほど距離がなかったから良かったものの、受験生を走らせるなんてつくづく優しくない妖だと毒づく。


 妖力の大きさにも臆せず朔夜は、問い掛ける。


「妖狐は殆ど人前に現さないそうだね、なのに、どうして最近姿を現すの? 暇人?」


 だとしたら、いい迷惑だと舌を鳴らす。


「此処は君にとって大切な場所のようだけど、一体なんだい?」


 少しでも下手な動きを見せれば、数珠を使用する。構えを取る朔夜の勇姿に、飛鳥が頬を紅潮させた。妖に対してはどこまでも冷たい彼だが、こういう勇ましい姿には、つい見蕩れてしまう。


 寸の間。ハッと我に返り、飛鳥はかぶりを振った。彼に見蕩れている場合ではない。白狐が出現したのだ。緊張感を持たなければ。


(前に怪我をさせちゃった、銀の狐はいないようだけど)


 今日は、あの銀狐が傍にいないようだ。どこかで手当てを受け、療養しているのだろうか。互いを守ろうとする姿を思い出し、飛鳥は密かに胸を痛めるが、情に流されないよう努めた。相手は妖。情に流されては敵につけ込まれる。

 スカートのポケットからフダを取り出す。いつでも、相手を捕縛できる陣形を取るために。


 二人の若き妖祓に、白狐は上体を低くして地面に爪を立てる。殺気立つ白狐は三尾を交互に動かし、赤い眼を細めた。宝珠の御魂を宿す獣は思う。人間が何故、この地に足を踏み入れているのか。此処は妖が聖地にしている場、安易に人が入って良い場所ではない。領域を冒すつもりなのか。ならば制裁を下すのみ。


 持ち前の、鋭利ある牙をむき出しにする。


 すると朔夜の表情が険しくなり、す、と目が細くなった。


「やる気みたいだね。こっちは穏便に済ませたいんだけれど」


 じゃら。数珠を揺すり鳴らす。不快な音だと白狐は思った。


 まさに一触即発の空気。

 しかし、その空気が爆ぜることはなかった。周囲に第三者の気配を感じたからだ。


 人ではない。かといって神職の妖でもない。名の知らぬ妖達が、闇夜に身を隠しながらわらわらと集い始める。輩は善意ある妖とは言いがたく、心奪われたように宝珠の御魂の名を繰り返す。悪しき妖達の狙いは、白狐の体内に宿る神秘の妖力の塊だった。


 また、彼等は別の目的もあるようだ、鷲のような妖鳥の一匹が、先陣を切って低空に飛行した。目にも留まらない風速で白狐の脇をすり抜け、かまいたちを起こす。


 標的は二重、三重に封してある注連縄だ。手前で、かまいたちが壁にぶつかったかのように跳ね返る。結界による守護が働いたのだ。見えない薄手の壁が、妖達の攻撃を阻み、注連縄もろとも穴に通じる道を守る。

 一匹が動くと無数の妖達が、それに便乗して動きを見せた。雑木林に潜んでいた妖達が一斉に飛び出し、その声音で、羽音で、持ち前の牙で、壁を破ろうと結界に襲い掛かる。


 数の多さに驚愕する間もない。白狐は劣化している注連縄に気付いているため、身を翻し、電光石火の如く妖達に襲い掛かった。宝珠の御魂を持つ妖狐の前で、無礼講を行う妖一体一体に食らいつき、身を引き千切る。妖達のおぞましい奇声が世の空に轟き、数体がその場に崩れて身を消滅させる。


 それでもなお、引くことを知らない妖達が、結界を破ろうと壁に食い下がる。


 ある者は、白狐に宿る宝珠の御魂を得ようと、逞しい胴に牙を向けた。紙一重に避ける白狐は尾に青白い火を宿すと、自分に向かってくる妖達を薙ぎ払う。


 身を焦がす妖達の燃え盛る光景は、まさに滑稽。奈落に放られ、もがき苦しむ様を見ているかのようだった。必死に火を消そうと、もがき苦しむ妖の最期は哀れなもので、どう抵抗したところで火は消えず、身を焼き焦がすしかなかった。


 数の多さに怯むことなく、白狐は天高く咆哮して妖達を威嚇する。なんびともこの地を穢すことは許さない。それが人間であろうと、同胞であろうと同じこと。罪を犯す者は自分が天誅を下すと低く鳴く。


 だが、妖達は魅せられたように結界に近付き、それを破ろうと努める。

 元々劣化していた注連縄が、ギシギシと軋み始めた。発光する結界の膜が次第に弱まり、妖達の攻撃を受ける度に亀裂が入っていく。


 するとどうだろう。そこから禍々しい空気が漏れ始めた。瘴気だ。悪しき妖達はこれを得ようと、それこそ命辛々に結界と向き合っていたのだ――そう、此処は南の地が管理している“鬼門の祠”の入り口なのである。


「不味い。瘴気が漏れ始めた」


 妖祓、和泉朔夜はそれに気付き、あれは妖を狂わせる毒だと顔を顰める。

 瘴気を吸えば、今以上に力が手に入る一方、ある輩は自我を失い、ある輩は傍若無人に振る舞い、ある輩は自滅の道に進む。あの注連縄は瘴気を封じている結界、あれを破られたら一斉に瘴気が漏れ出してしまう。


 少しでも瘴気が漏れ出すと妖達がそれを得ようと集った。得たものは妖力を増大させる代わりに、姿を歪なものへと変え、あるものは陶酔したように自我を失って、他の妖に襲って命を奪っていた。化け物の肉を頬張る、化け物の顔は、しごく幸に溢れ、しごく歪み切っている。


「な、なにあれ。共食いしてる」


 地獄のような図に、飛鳥は恐れおののいていた。

 帰りたいと後退してしまう。妖を祓うようになって、それなりに時間は経つが、目前のように妖達が踊り狂っている姿は見たことがなかった。


「さ、朔夜くん。私達だけじゃ危険だよ。お父さん達の応援を呼んだ方がいいよ」


 妖力を増す、歪な化け物に生唾を呑んでしまう。ふと瘴気が出入り口に立っている飛鳥達の下まで漂ってきた。それを嗅いだ瞬間、吐き気に似た衝撃が走る。


「き、気持ち悪い」


 口元を覆う飛鳥。同じ行動に出る朔夜は舌を鳴らした。


「霊力のある人間にも毒みたいだね」

「嘘でしょ。私達も危ないじゃんか!」


 飛鳥は、頓狂な声を出してしまう。そんなこと、長達は一言も言っていなかったのに!


「くっ、一旦休戦するべきだ。飛鳥、白狐に纏う妖達の調伏に入るよ」


 向こうでは結界を守ろうと、白狐が果敢に妖達に立ち向かっている。助太刀する義理はないが、このまま無数の妖達に好き勝手させて、結界を破らせることは、結果的に不味い事態になる。少なくとも、あの狐は能なしの妖達より、話が分かりそうだ。

 朔夜は白狐を狙う妖達、狙いを定める。数珠を構え、念を唱えると暗紫に光る法具を化け物に向けた。


「どうしてこうなるの。もう、明日の家庭教師はさぼりたいんだけど」


 半べそを掻く飛鳥も、念の篭った呪符を四方八方に投げて、敵の動きを封じに掛かる。

 しかし、瘴気を得た妖はいつもの妖より手ごわく、また瘴気を吸わぬよう努める妖祓の動きは鈍い。

 優秀とはいえ、まだまだ新米の二人である。臨機応変に対応することが難しく、悪戦を強いられた。


「瘴気は吸わないように!」


 なるべく息を止めておくよう、朔夜が注意を促す。


「無茶だよそれ!」


 飛鳥が大袈裟に嘆いてみせる。息を止めながら妖を相手にするなど、誰ができるのだろうか。

 涙ぐむ飛鳥の嘆きが、一瞬の油断を招く。地を這う獣妖の一体が彼女の股を潜り、長い尾で足首を掴むと、勢い任せに体勢を崩しかかった。悲鳴を上げる間もなく、その場に引き倒され、飛鳥の手から呪符が散らばる。


「飛鳥!」


 朔夜が助けに向かおうと爪先の向きを変えるが、妖達が立ち塞がり、それを阻んだ。

 その間にも飛鳥の首目掛けて妖鳥が翼を打つ。肘で身を起こす飛鳥は、恐怖のあまりに声が出ず、体を強張らせてしまった。


「飛鳥――!」


 朔夜の叫び声により、白狐の気は妖祓へと向けられる。眼を見開いた。少女が妖に翼の刃を向けられている。あれを食らえば首が飛んでしまいかねない。少女が危機だ。大好きな少女が、少女が、飛鳥が。


 飛鳥。


 その名を思い出した白狐は、あらんばかりに咆哮すると、目の前の妖を踏み倒して彼女に襲い掛かる妖鳥に飛び掛る。妖気を纏った翼が彼女に届く、その前にそれを食いちぎり、飛鳥の前に降り立った。


「え」


 硬直している飛鳥が見上げてくるが、白狐はそれを流し目にする余裕はない。妖を祓った朔夜が駆けてくる。大丈夫かと手を貸す彼の背後に妖が回れば、白狐は長い尾で払い、彼を守る体勢に入った。

 巨体で妖祓を隠すと、彼等に触れる者は誰であろうと容赦しない、威嚇の意味を込めて太い牙を見せる。これには、冷静沈着の朔夜も驚きを隠せずにいる。


「どう、して」


 自分達を助けてくれるのだと問う少女。白狐は何も答えない。答えられないのだ。


 けれど白狐は思い出した。彼等の存在を、彼等の名を、彼等との関係を。

 迸る妖力を外に放出させると、白狐は無礼講ばかり振る舞う妖達を一気に(けしか)けた。放出させる妖力を炎に変え、妖達の身を容赦なく焦がす。青白い炎に包まれた妖達は断末魔を上げ、消滅していった。

 ホッとする間もなく、白狐は妖達が飛び掛った結界の異変に気付いて走る。劣化している注連縄が切れそうになっていたのだ。


――守れ、守れ、守れ! 妖を、この場にいる人間達を守れ!


 急いで施さなければ大変なことになる。

 二重、三重に封されている結界の亀裂を直すために、白狐は注連縄を軽く銜えた。瘴気が噴き出し顔面に当てられてしまうが、構うことなく縄を引くと、体内に宿している宝珠の御魂を解放した。漆黒の二つ巴が神々しく発光し、伝染するように縄も光り輝く。切れかかっている注連縄が補強され、縄の断面に新たな編み込みが施される。


 やがて、補強が終わると白狐は注連縄を口から出した。これで少しはマシになるだろう。そう、目を細めた刹那、当てられた瘴気が体を蝕み、白狐は呻き声を上げてしまう。何度も顔を振り、瘴気を払おうとするのだが、吸い込んだ瘴気が体内から消えることはない。


 何もかもを壊したい衝動に駆られながらも、傍らに大切な妖祓がいることを念頭に置いていた妖狐は、近場の木に歩むとそこで何度も頭をぶつけた。少しでも気を紛らわすために。


「あ、そんなにしたら」


 朔夜の手を借りて立ち上がった飛鳥が、制止の声を上げるが、白狐の自傷は止まらず、ついにはその場に崩れてしまった。


 弾かれたように彼女が白狐に歩む。恐る恐る白狐を覗き込む少女の表情は未だに強張っていたが、それ以上に額から血を流す妖狐の姿に心痛めている様子だった。

 彼女の優しい心を知っていた妖狐は、目で相手を笑う。どうして彼女のことを、傍らにいる彼のことを忘れていたのだろうか。少しでも彼等を傷付けようとした自分の愚行を呪いたい。


「白狐。ねえ、大丈夫?」


 飛鳥が声を掛けた直後、白狐の四肢に呪符が貼られる。

 走る激痛に白狐が一声鳴いた。呪符から光が放たれ、まるで鎖のようにそれは妖狐の体を縛る。身動き一つできなくなった白狐は妖型から獣型に姿を変え、ぐったりと瞼を下ろしてしまった。


「え、朔夜くん?」


 振り返る飛鳥が眼を開くが、


「僕じゃないよ」


 父さん達だと朔夜。出入り口の方角を見つめ、遅い助っ人に吐息をついたのだった。





「――ぬかった。遅かったか」


 自我を失った同胞を救うべく、妖力を辿って南の地が管理する“鬼門の祠”に赴いた比良利は、妖型から人型に姿を変え、結界の封印門の前に立った。

 そこには誰もおらず、誰かが施したであろう注連縄の補強が目を引くばかりである。


「ぼんがやったのか」


 自我を失くしながらも、宝珠の御魂に宿る、その使命を果たそうとしたのか。否、宝珠の御魂にそうするよう命じられたのか。どちらにせよ状況は最悪である。


「ぼんの姿が見えぬ。代わりに、霊力の名残を感じる……妖祓が来たようじゃな」


 とすれば、妖型となった翔の身は人の手の下に。なんたることだ。ヒトの手に、大切な同胞を、双子の対を易々と手渡してしまうとは!


「おのれ、妖祓。我が対を捕縛しおったな」


 これは許される行為ではない。そして、間に合わなかった己には、北の神主の名に恥じるものだと舌を鳴らす。揺るぎない怒りが、その瞳には宿っていた。

 苛立ちをそのままに、補強された注連縄をよく見る。


「しかと補強されておる。妖の器であるぼんでは、成せぬ業。とすれば、ぼんの体は既に妖に成熟しておるのか?」


 すると、同行した猫又が比良利の肩に飛び乗る。


『それはおかしい。幾らなんでも早過ぎだよ、比良利。お前さんの計算では、少なくとも、半年は妖の器期でいる筈だよ。宝珠の影響を含めても、早すぎる』


 おばばは意見した。翔は宝珠の御魂という、巨大な妖力の塊を体内に宿している。その影響で妖に成熟する時期が、他の者より早まる可能性はあろう。


 だが、それを差し引いても早すぎる。常に傍で見守ってきたのだ。おばばから見ても、翔は年内ないし、翌年くらいに妖になるだろうと計算していた。なのに、今回の事態は異常である。


「翔くん、お腹が急に熱くなったって言い始めたんです。宝珠の御魂の暴走、とかじゃないんでしょうか?」


 同じく、彼等と同行する雪之介が忙しなく周囲を見渡し、翔の安否を気遣いながら当時の状況を説明する。


「それはありえぬ話よ」


 宝珠の御魂が暴走することは万が一にもない。それは、北の神主である自分が証明すると比良利は眉を顰める。あれは、神秘の妖力の塊であり、持ち主に応じて力を発揮する摩訶不思議な塊。暴走を仮定するならば、それは持ち主である翔に、何らかの異変が訪れたということ。


 最近は妖の友人も持ち、恐々ながらも妖の世界を知ろうと、妖の自分を受け入れようと努めていた翔の姿を比良利は見ている。その微笑ましい姿に、異変等々は見られなかったが。


「そういえば最近、変化に失敗しなくなったって言っていました。翔くん、妖の器期なのに難しい変化を習得して凄いなって、話はしていたんですけど」


 雪之介が、彼の近状を報告する。途端に、おばばが頓狂な声を上げた。


『それまた、おかしい話だねぇ。坊やの妖力は桁外れも桁外れ。変化の失敗は、その妖力の高さを抑えられないことにあるんだよ。坊やは失敗の度に落ち込んでいたけれど、それは仕方がないこと。坊やは完全な妖じゃないからねぇ』


「じゃあ翔くんが失敗しなくなったのは」


『妖として成熟した、と考えるのが筋なのだろうけど……自我を失くすなんて、よっぽどのことだよ。嗚呼、坊やが心配だ。比良利、どうにかできないのかい?』


 猫又が催促するように、答えを求める。

 妖祓の手に翔の身が渡った。無闇に妖を祓うような輩ではないだろうが、何をされるか皆目見当もつかない。妖祓が何を目論んで、白狐を捕獲したのかも気になる。

 おばばが捲くし立てた。孫が心配でならないのだろう。


「分かっておる。じゃが、人間の手にぼんが渡った以上、下手な行動を起こせぬ」


 比良利は返事した。

 しかし、おばばは一刻を争うと苦言する。もし、人が宝珠の御魂を翔の体が無理やり取り出そうとしたら、それこそ大ごとだ。


『今の坊やは、自力で回復する術を持っていない。宝珠の御魂によって生かされた身なんだよ。回復の時期も待たず、無理にでも取り出されたら』


「されたら……まさか翔くん」


 そのまさかだとおばば。

 嗚呼、なんてことだ。雪之介は血相を変えた。


(正体が暴かれて傷付くどころの話じゃない。無理やり宝珠の御魂を取り出されたら、それこそ翔くんは死んでしまう!)


 やはり、人と妖は相容れないのか。妖祓と妖は分かり合えないのか。


(僕は人間のふーちゃん達に救われた。この命は、人間に救われたんだ。なのに翔くんは人間にっ)


 そんなことにだけはなって欲しくない。自分達のように、翔達も和解できる関係であって欲しい。雪之介は神に縋りたい思いだった。


 ふと、視界の端に捉える。それは、此処に辿り着いてから、ひとたびも言葉を発していない巫女の姿。赤い袴を握り締め、顔色を土色にしている彼女の姿は、なにかに怯えているようだった。

 指先が白くなるまで、袴を握り締めている青葉を、雪之介は確かに見てしまった。


『比良利。これからどうするんだい。このままじゃ、坊やが』


 弱々しい声を出すおばばに、比良利が毅然と告げる。


「無論、決まっておろう。あれは同胞であり、我が対。妖祓の手中におさまるべき存在ではない――であれば、輩と火花を散らそうと、取り戻すのみよ」




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