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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【弐章】名を妖狐と申す
42/160

<二一>南条翔の春休み(伍)



 ◆◆◆

 

 

 白狐は星を跨ぐように翔けていた。

 行き先は決まっている。

 場所の名前は分からないが、体内に宿る宝珠の御魂が、あちらへ行くよう指示してくるので足先は軽やかだ。熱く滾る宝珠の御魂の意志に応え、白狐はひた走る。


 その間、本体を動かすはずの『翔の意識』は淡い眠りに就いていた。


 白い獣が向かった先は、南の地にある妖の社とは正反対の方角にある雑木林。

 そこの周辺は住宅が少なく、テナント募集のチラシが貼ってある空店舗や、駐車場ばかりが目立っていた。夜はとくに人が近寄り難い場所である。


 白狐の姿は霊力のない人間には視えない。そのため堂々と駐車場に停めてある軽自動車に降り立つことが叶った。

 白狐は足軽にアスファルトへ着地する。

 ボンネットには白狐の足跡がつくが、持ち主はこれを狐の足跡とは思わないだろう。


 スン。白狐は鼻を鳴らすと長い尾っぽを靡かせながら、雑木林の入り口と向かい合った。鬱蒼とした茂みが、まるで包囲網のように生い茂っている。


 闇夜によって、そこはより不気味に見えた。

 付近には家電製品が無造作に捨ててあるが、ここは確かに雑木林の入り口だった。それを物語るかのように劣化した二本の木杭が立っている。杭にはなにやら文字が刻まれているようだが、風化が酷くて文字を読むことはできない。梵字ということだけは見て取れた。


 白狐はのそりのそりと雑木林へ前進した。

 獣が通るような細い道が続くそこは、人の手が加えられておらず、ぼうぼうと茂みが立ちふさがる。しかし道は確かにあり、通りやすいように土で固められていた。人ではない何かが手を加えているのか、それとも。

 落ちている枯れ葉を踏みしめる白狐の体毛は、まるでともし火。

 闇夜を照らし出すように見えた。耳元を飛び回る虫を振り払い、月明かりを頼りながら白狐は最奥を目指す。

 狭い雑木林の最奥はすぐに顔を出した。人工的に切り開かれた場所の出入り口には、七つの地蔵が左右に置かれ、訪れる者に合掌している。


 その先に見えるのは石畳の道。奥には注連縄で二重三重に結界が張ってある。バリケードのように道を塞いでいる縄の向こうには、ぽっかりとあいた大きな穴がひとつ。闇を吸い込むように息潜んでいる。

 白狐はあの向こうに行かなければならない衝動に駆られていた。

 それは内側から込み上げてくる、使命感によるもの。

 白狐はこの地を護らなければいけないと切に感じていた。

 勾玉模様の二つ巴を淡く発光させ、神聖なこの地を護らなければならないと唸る。それが宝珠の御魂を持つ、己の宿命であり、さだめなのだ。


 大穴から溢れるおどろおどろしい瘴気が零れているのが分かった――あれを、どうにかしなければ。

 

 ふと気配を感じる。

 白狐は首を伸ばし、耳を四方八方に微動させる。

 聞こえてくる足音と霊力により、思わずその場から飛び退いて背後を振り返った。


「さすがだね。もう気づいたんだ」


 皮肉を零してくるのはひとりの少年。学ランを身に纏い、銀縁眼鏡を掛けている人間は冷たく口角を持ち上げ、愛用の数珠を構えた。

 彼の背中を必死について来るのは、セーラー服の少女。

 両者とも齢十七前後の少年少女だった。


 グルル。低く唸る白狐は彼らのことを忘れていた。

 いまの白狐はただの白狐であり妖狐、本体の中に眠る翔ではないのだから。

 当然、事情を知らない朔夜は白狐に「また会ったね」と挨拶を送る。

 

「怪我の具合はどうだい?」


 嫌みったらしく掛ける言葉に白狐は唸るばかり。

 殺気溢れる妖狐に背後にいた少女は「ひっ」と悲鳴を上げている。

 つよい殺気に伴ってつよい妖力を感じた。それは以前とは比べ物にならないもの。先方のことを怒っているのだと少女は息を呑んでしまう。

 

 

 

 一方、少年のこと和泉朔夜は「予備校の帰りで疲れているんだよ」と身の上話を始める。

 朝から教室に缶詰され、一時間の休憩を挟むだけであとはずっと授業。ようやく解放されたと思った矢先、巨大な妖力を感じて走る羽目になった。幸い、予備校からさほど距離がなかったから良かったものの、受験生を走らせるなんてつくづく優しくない妖だと毒づいた。


 白狐の妖力の大きさにも臆せず、朔夜は問い掛ける。


「妖狐はほとんど人前に現さない。なのに最近よく姿を現すね。暇なのかい?」


 だとしたら、いい迷惑だ。

 朔夜は舌を鳴らした。


「ここは君にとって大切な場所のようだね」


 数珠を握って構えを取る朔夜に倣い、飛鳥も呪符を構えた。


「前に怪我をさせちゃった、銀狐はいないようだね」

「いない方が僕としてはやりやすいよ」

「そうだね」


 どこかで手当てを受け、療養しているのだろうか。

 お互いを守ろうとする姿を思い出し、飛鳥は密かに胸を痛めるが、情に流されないよう努めた。相手は妖。情に流されては敵につけ込まれる。

 スカートのポケットから呪符を取り出す。

 いつでも相手を捕縛できる陣形を取るために。

 


 はてさて。

 二人の若き妖祓を前に、白狐は上体を低くして地面に爪を立てる。

 殺気立つ白狐は三尾を交互に動かし、赤い眼を細めた。

 宝珠の御魂を宿す獣は思う。


 人間がなぜこの地に足を踏み入れているのか。ここは妖が聖地にしている場所、安易に人が入って良い場所ではない。領域を冒すつもりなのか。ならば制裁を下すのみ。

 持ち前の、鋭利ある牙をむき出しにする。


 すると朔夜の表情が険しくなり、す、と目が細くなった。


「なるほど、君はやる気みたいだね。こっちは穏便に済ませたいんだけれど」


 じゃら。じゃら。

 朔夜は数珠を揺すり鳴らす。不快な音だと白狐は思った。


 まさに一触即発の空気。

 しかし、その空気が爆ぜることはなかった。周囲に第三者の気配を感じたからだ。


 ヒトではない。かといって神職の妖でもない。

 名も知らぬ化け物らが闇夜に身を隠しながら、わらわらと集い始める。

 その輩は善意ある妖とは言いがたく、心奪われたように宝珠の御魂を渡せと繰り返す。化け物らの狙いは、言わずも白狐の体内に宿る宝珠の御魂だろう。

 また、化け物らは別の目的もあるようだ、

 鷲のような妖鳥の一匹が、先陣を切って低空に飛行した。目にも留まらない風速で白狐の脇をすり抜け、かまいたちを起こす。


 標的は二重、三重に封ずる注連縄だ。


 手前でかまいたちが壁にぶつかり、それは見事に跳ね返る。結界の守護が働いたのだ。視えない薄手の壁が化け物の攻撃を阻み、注連縄もろとも穴に通じる道を守る。


 一匹が動くと数多の化け物らが、それに便乗して動きを見せた。雑木林に潜んでいた妖らが一斉に飛び出し、その声音で、羽音で、持ち前の牙で、壁を破ろうと結界に襲い掛かる。


 数の多さに驚愕する間もない。

 白狐は劣化している注連縄に気づいているため、身を翻し、電光石火の如く化け物らに襲い掛かった。妖一体一体に食らいつき身を引き千切る。妖らのおぞましい奇声が夜空に轟くのは時間の問題であった。


 それでもなお、引くことを知らない化け物らは、結界を破ろうと、視えぬ壁に食い下がる。


 ある者は白狐に宿る宝珠の御魂を得ようと、逞しい胴に牙を向けた。紙一重に避ける白狐は尾に青白い火を宿すと、自分に向かってくる妖らを薙ぎ払う。


 身を焦がす妖らの燃え盛る光景はまさに滑稽。

 奈落に放られ、もがき苦しむ(さま)を見ているかのようだった。


 数の多さに怯むことなく、白狐は天高く咆哮して妖らを威嚇する。なんびともこの地を穢すことは許さない。それが人間であろうと、歪な化け物であろうと同じこと。罪を犯す者は自分が天誅を下すと低く鳴く。


 だが化け物らは魅せられたように結界に近づき、それを破ろうと努める。

 元々劣化していた注連縄がギシギシと軋み始めた。守護を宿す結界の力が次第に弱まり、化け物らの攻撃を受ける度に亀裂が入っていく。


 するとどうだろう。

 そこから禍々しい空気が漏れ始めた。瘴気だ。

 悪しき妖らはこれを得ようと、それこそ命辛々に結界と向き合っていたのだ――そう、ここは南の地が管理している『鬼門の祠』の入り口なのである。


 

 

「まずい。瘴気が漏れ始めた」


 妖祓、和泉朔夜はそれに気づき、あれは妖を狂わせる毒だと顔を顰める。

 瘴気を吸えば、いま以上に力が手に入る一方、ある輩は自我を失い、ある輩は傍若無人に振る舞い、ある輩は自滅の道に進む。

 あの注連縄は瘴気を封じている結界。

 あれを破られたら一斉に瘴気が漏れ出してしまう。


 少しでも瘴気が漏れ出すと化け物らがそれを得ようと集った。

 瘴気を得た者は妖力を増大させる代わりに、その姿をより歪なものへと変え、ある者は陶酔したように自我を失い、他の化け物に襲って命を奪った。

 化け物の肉を頬張る、化け物の顔は、しごく幸に溢れ、しごく歪んでいる。


「な、なにあれ。共食いしてる」


 地獄のような図に飛鳥は恐れおののいていた。

 妖を祓うようになって、それなりに時間は経つが化け物が踊り狂っている姿は見たことがなかった。


「朔夜くん。私たちだけじゃ危険だよ。お父さんたちに応援を呼んだ方がいい」


 妖力を増す、歪な化け物に生唾を呑んでしまう。

 ふと瘴気が出入り口に立っている飛鳥と朔夜の下まで漂ってきた。それを嗅いだ瞬間、吐き気に似た衝撃が走る。


「き、気持ち悪い」


 口元を覆う飛鳥。同じ行動に出る朔夜は舌を鳴らした。


「霊力のある人間にも毒みたいだね」

「私たちも危ないってことだね」

「これは一旦休戦だ。飛鳥、白狐に纏う妖の調伏に入るよ」


 向こうでは結界を守ろうと白狐が果敢に妖達に立ち向かっている。

 助太刀する義理はないがこのまま無数の化け物らに好き勝手させて、結界を破らせてしまえば、結果的に人間の住まう町が危ぶまれる。


「少なくともあの狐は能なしの化け物より、話が分かりそうだ」


 朔夜は白狐を狙う化け物に狙いを定める。

 数珠を構え、念を唱えると暗紫に光る法具を化け物に向けた。


「数を少しでも減らさなきゃね」


 飛鳥も念の入った呪符を四方八方に投げて、敵の動きを封じに掛かる。

 しかし、瘴気を得た化け物はいつも調伏する妖より手ごわい。

 また瘴気を吸わぬよう努めるせいで、朔夜も飛鳥も少々動きは鈍い。悪戦を強いられた。


「飛鳥、瘴気は吸わないように!」


 なるべく息を止めておくよう朔夜が注意を促す。


「それは難しいかもっ!」


 飛鳥が大袈裟に嘆いてみせる。

 息を止めながら化け物の動きを見極め、攻撃を回避する。

 それをさせてくれるほど妖も甘くない。


「くっ」


 飛鳥が息継ぎをする一瞬の油断を招く。

 地を這う獣の一体が彼女の股を潜り、長い尾で足首を掴むと、勢い任せに体勢を崩しかかった。悲鳴を上げる間もなくその場に引き倒され、飛鳥の手から呪符が散らばる。


「飛鳥っ!」


 朔夜が助けに向かおうと爪先の向きを変えるが、化け物らが立ち塞がり、それを阻んだ。

 その間にも飛鳥の首目掛けて妖鳥が翼を打つ。

 肘で身を起こす飛鳥は不意を突かれたせいで、無意識に体を強張らせてしまった。

 

「逃げろッ、飛鳥――っ!」

 

 朔夜の叫び声により、白狐の意識は妖祓へと向けられる。

 白狐は持ち前の瞳孔を膨張させた。

 少女が妖に翼の刃を向けられている。あれを食らえば首が飛んでしまいかねない。少女が危機だ。大好きな少女が、少女が、飛鳥が。

 

 飛鳥。

 

 その名を思い出した白狐は大きく咆哮すると、目の前の妖を踏み倒して彼女に襲い掛かる妖鳥に飛び掛る。

 妖気を纏った翼が彼女に届く、その前にそれを食い千切って飛鳥の前に降り立った。


「え」


 飛鳥が驚いて見上げてくるが、白狐はそれを流し目にする余裕はない。


「飛鳥、大丈夫かい」


 妖を祓った朔夜が駆けてくる。


「立てるかい」

「ごめん朔夜くん。油断しちゃっ、朔夜くん!」


 手を差し出す朔夜の背後に妖が回れば、白狐は長い尾で払い、彼を守る体勢に入った。

 巨体で妖祓を隠す。この人間たちに触れる者は誰であろうと容赦しない、威嚇の意味を込めて太い牙を見せた。

 これには朔夜も驚きを隠せずにいる。


「白狐が僕らを」

「どうして助けてくれるの?」

 

 少女の問いかけに白狐は何も答えない。答えられないのだ。

 けれど白狐は思い出した。

 彼らの存在を、彼らの名を、彼らとの関係を。

 迸る妖力を外に放出させると、白狐は化け物らを一気に(けしか)けた。放出させる妖力を炎に変え、化け物らの身を容赦なく焦がす。青白い炎に包まれた化け物らは断末魔を上げ、消滅していった。


 ホッとする間もなく、白狐は化け物らが飛び掛った結界の異変に気づいて走る。劣化している注連縄が切れそうになっていたのだ。

 

――守れ、守れ、守れ! この地に生きる妖を、この場にいる人間たちを守れ!


 二重、三重に封じられている結界の亀裂を直すために、白狐は注連縄を軽く銜えた。

 瘴気が噴き出し顔面に当てられてしまうが、構うことなく縄を引くと、体内に宿している宝珠の御魂を解放した。漆黒の二つ巴が神々しく発光し、伝染するように縄も光り輝く。切れかかっている注連縄が補強され、縄の断面に新たな編み込みが施される。


 やがて、補強が終わると白狐は注連縄を口から出した。

 これで少しはマシになるだろう。

 そう目を細めた刹那、当てられた瘴気が体を蝕み、白狐は呻き声を上げてしまう。何度も顔を振り、瘴気を払おうとするのだが、吸い込んだ瘴気が体内から消えることはない。


 なにもかもを壊したい衝動に駆られる。

 それでも傍らには大切な妖祓がいる。彼らを傷つけたくない。

 白狐はふらふらと近場の木に歩むとそこで何度も頭をぶつけた。少しでも気を紛らわすために。


「あ、そんなにしたら」


 朔夜の手を借りて立ち上がった飛鳥が制止の声を上げるが、白狐の自傷は止まらず、ついにはその場に崩れてしまった。


「白狐っ」


 弾かれたように飛鳥が駆け寄ってきた。

 恐る恐る白狐を覗き込む少女の表情は未だに強張っていたが、それ以上に額から血を流す妖狐の姿に心痛めている様子だった。


 彼女の優しい心を知っていた妖狐は目で相手を笑う。

 どうして彼女のことを、傍らにいる彼のことを忘れていたのだろうか。

 少しでも彼らを傷づけようとした自分の愚行を呪いたい。


「白狐。ねえ、大丈夫?」


 飛鳥が声を掛けた直後、白狐の四肢に呪符が貼られる。

 走る激痛に白狐が一声鳴いた。呪符から光が放たれ、まるで鎖のようにそれは妖狐の体を縛る。身動き一つできなくなった白狐は妖型から獣型に姿を変え、ぐったりと瞼を下ろしてしまった。


「え、朔夜くん?」


 振り返る飛鳥が眼を開くが、


「僕じゃないよ。父さんたちだ」


 朔夜は背後を振り返ると、心強い助っ人たちに吐息をついた。


「来るのが遅いよ」

 

  

 

  

 

「――ぬかった。遅かったか」


 自我を失った同胞を救うべく、妖力を辿って南の地が管理する『鬼門の祠』に赴いた比良利は、妖型から人型に姿を変え、結界の封印門の前に立った。

 そこには誰もおらず、誰かが施したであろう注連縄の補強が目を引くばかりである。


「ぼんがやったのか」


 自我を失くしながらも、依り代として使命を果たそうとしたのか。否、身に宿した宝珠の御魂にそうするよう命じられたのか。

 どちらにせよ状況は最悪である。


「ぼんの姿が見えぬ。代わりに霊力の名残を感じる……妖祓が来たようじゃな」


 とすれば、妖型となった翔の身はヒトの手の下に落ちたといえる。

 なんたることだ。

 ヒトの手に、大切な同胞を、双子の対を易々と手渡してしまうとは!


「おのれ妖祓。我が対を捕縛しおったな」


 双子の危機に間に合わなかった。

 北の神主の名に恥じると舌を鳴らす。揺るぎない怒りが、その瞳には宿っていた。

 苛立ちをそのままに補強された注連縄をよく見る。


「しかと補強されておる。これは半妖狐のぼんでは成せぬ業。とすれば、ぼんの体は既に妖に成熟しておるのか?」


 すると、同行した猫又が比良利の肩に飛び乗る。


『それはおかしい。いくらなんでも早過ぎだよ、比良利。お前さんの胸算では少なくとも、年内は妖の器期のはずだ。宝珠の影響を含めても早すぎる』


 おばばは進言した。

 翔は宝珠の御魂を身に体内に宿している。強大な力の影響で妖に成熟する時期が、他の者より早まる可能性はあるだろう。

 しかし可能性を差し引いても早すぎる。

 常に翔の傍で様子を見守ってきたのだ。おばばから見ても翔は早くとも翌年に成熟するだろうと計算していた。

 なのに、今回想定外の事態が起きた。


『坊やの身に何かが起きた、としか考えられないねえ』


 比良利はおばばの言葉に眉を顰める。

 傍らで聞いていた雪之介が当時のことを語り始めた。


「翔くん、お腹が急に熱くなったって言い始めたんです」

「腹が……」

「宝珠の御魂が暴走したとかじゃ」

「それはありえぬ話よ。雪之介」

 

 宝珠の御魂が暴走することは万が一にもない。

 それは北の神主であり、紅の宝珠を身に宿す自分が断言できる、と比良利。


「宝珠の御魂は土地神、大御魂の魂の一片。氏子を導く力を宿したもの。神力が宿った魂は依り代に応じた力を発揮する。仮に暴走したのであれば、それは宿主であるぼんに何らかの異変があったと考えるのが道理じゃろうが……」


 比良利の知るかぎり、翔は少しでも体に異変があれば相談する性格の持ち主だ。

 異変があれば真っ先に身近な妖に相談するだろう。


(ぼんは妖になることを恐れている)


 少しずつ異界のことを知ろうと努力している姿を知っているからこそ、隠し事をしていたとは思えない。であれば突然、体に異変がきたと考えるのが筋だろうが……。


「ぼんに何か前兆は無かったのじゃろうか」


 比良利が疑問を口にすると、「そういえば」と雪之介が手を叩く。


「関係があるか分からないんですけど翔くん、変化を失敗しなくなったって言っていました」

「ぬ? 変化を失敗しなくなった?」

「はい。半妖にとって変化は難しい術だと思うんですけど……翔くん、春休み中に練習したおかげで失敗しなくなったそうです。僕はすごいなって話を聞いていたんですけど」

 

「おかしな話じゃな」

「え」


「ぼんの妖力はわしに次ぐ強さ。南北で二番目の妖力を持っておる。それは言わずも宝珠の御魂を宿した依り代。変化の失敗は妖力の高さを制御できぬことにある。妖に成熟せぬかぎり、失敗はあって当然なのじゃが」


「じゃあ翔くんが失敗しなくなったのは、妖に成熟したということですか? だけど自我を失くすなんて、よっぽどのことですよ」


「まことに成熟したのかも怪しい」

 

 一刻も早く翔の容態を診てやる必要がある。

 しかし翔は妖祓の手に落ちて捕縛された。下手な行動は起こせない。


「さりとて、二の足を踏んでもいられぬ」


 妖祓が翔の体から宝珠の御魂を無理やり取り出そうとしたら、それこそ大ごと。

 あの子どもは死んでしまう。

 南条翔は宝珠の御魂によって生かされている身なのだから。


 ふと比良利は視界の端に映る巫女狐に気づく。ここに辿り着いてから、ひとたびも言葉を発していない青葉は赤い袴を握り締め、顔色を土色にしている。なにかに怯えているようだった。

 指先が白くなるまで袴を握り締めている青葉を、比良利は確かに捉えた。


(……何か噛んでいるな)


 問い質したい気持ちはあれど、いまは身内で揉めるべきではないだろう。


『比良利。これからどうするんだい。このままじゃ、坊やが』


 弱々しい声を出すおばばに、比良利が毅然と告げる。


「無論、決まっておろう。ぼんは同胞であり、我が対。妖祓の手中におさまるべき存在ではない――であれば、妖祓と一戦交えようと取り戻すのみよ」

 

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