<六>陥落危うし妖の社(弐)
日輪の社に戻った翔は神職狐ら共々二社を走り回っていた。
北の地に牛鬼率いる百鬼夜行が現れた。赤狐が統べる土地を無作法に荒らしている。
それだけでない、百鬼夜行は表社ごと異界にある此処、妖の社に奇襲を掛けようとしている。目的は不明。誰の仕業かは察している。
とどのつまり、間違いなく百鬼夜行は南北の地にとって脅威であり敵襲他ならない。
それゆえ日輪の社に戻った翔は息をつく間もなく、月輪の社へと向かった。
北の地に百鬼夜行が出現したのであれば、白狐が統べる南の地にも敵が現れているやもしれない。
九十九年、市井の妖らは荒んだ土地に日々苦しめられていた。
傍若無人な妖は当然のこと、瘴気に悩まされることも多く、南の地は喜びより悲しみが溢れていた。
ここ一年でようやっと安寧秩序の「あ」が見え始めたというのに、無作法者のせいでそれが崩されるなどごめんである。
しかし、もし翔が敵側ならば北の地と南の地両方を襲う。片方を混乱に貶めるよりも両方を貶めて、相手の戦力を分散させることだろう。
(先んじて鬼門の祠は比良利さんが五方祟りの術ってヤツを張ったらしいから大丈夫だとして……やっぱり南の地にも来てたか)
南側の表社に降り立った翔は禍々しい妖気に、思わず顔を顰めてしまう。
そこには夥しい奇々怪々な化け物らが集っていた。
どれもこれも本能だけを宿し、理性を捨てた化け物ばかり。
表社を筆頭に周辺の目につくものを喰らおうと大口を開けている。
鎮守の森ならば木々を、表社の境内にいるならば鳥居や社殿を、生きる者がそこにいるのならばそれを喰らっている。
それにヒトも動物も化生も関係ない。見境なく喰らっている。
同胞に事を知らせるため、そして百鬼夜行の気を引くため、翔は指笛を吹き、天高く遠吠えをした。それによって牛鬼共は涎を垂らしながら、翔の姿を確認。一斉に喰らおうと襲いかかってきた。
無論、喰われることを許す翔ではないし、傍若無人な百鬼夜行を許すほど神職狐も優しくない。
翔が百鬼夜行の一部を大麻で斬り落とした、その瞬く間に双子の対が現れ、五方祟りを表社に張った。
それにより百鬼夜行は祟りという名の結界に閉じ込められ、身動きが取れなくなる。
「五方祟りの術なんて初めて聞いたんだけど? 比良利さん、今度教えてくれるんだよな?」
先ほどから比良利が使用している術、五方祟りの術。
それは翔の知らない術であった。
何気に比良利が新しい術を使用していることに、翔は不満を覚える。
自分が知っている術は五方結界やら基礎の大麻術やら初歩も初歩の狐火やら……片手で数えられる程度。
未熟だと分かっているものの、もう少し術を教えてほしいのだが比良利の答えは鼻で笑う、であった。
「ぼんぼん狐よ。そう慌てずとも、百年以内には教えてやるわい」
「げっ、そこは一ヶ月以内じゃないのかよ」
「今のお主にあれもこれも術を教えると、無差別に使用しかねぬ。安易に教えられぬ」
それに対してはぐうの音も出ない。
仕方がないではないか、術を教えてもらったら使いたくなる。それが道理というものではないだろうか!
戯れ合いもほどほどに。
翔は妖の群れの身動きがしかと取れなくなったことを確認すると、比良利と共に日輪の社に戻って、南北の地の状況把握に努めた。
すでに百鬼夜行によって、南北の地から負傷者が出ている。
それは妖然り、動物然り、ヒト然り……正直人里の被害状況は測りかねる。
翔達の知らないところで多くのヒトを喰らったやもしれないし、家屋がやられているやもしれない。詳細の一切が把握できていない。
本当は事細かく調べたい。
人里と異界は表裏一体、傍若無人に振る舞う百鬼夜行のせいでヒトとの関係性にヒビが入れば、また人間と衝突しかねないのだから。
しかしながら、いまの異界に人里を思いやる余裕はない。
こちらも甚大な被害が出ているのだから。
翔はアク抜きした薬草の束を抱え、日輪の社参集殿に向かう。
臨時に開放された大広間へ足を伸ばせば、付喪神の一聴、お歯黒べったりのお有紀。そして二社の巫女が負傷した妖らを診ている。傍らでは金銀狐が薬草を揉んで柔らかくしている様子が見受けられた。みな負傷者のために手を尽くしていた。
時に近くの負傷者を傷つけたり、自傷行為を行う妖もいるので、それを押さえるのに躍起になっている場面も見受けられた。まるで瘴気に中てられた妖らを見ている気分だ。一年前の悲劇を思い出してしまう。
だから翔も一緒になって自傷行為を行う妖らを押さえた。
「大丈夫。此処には傷付ける者なんていない。正気に戻ってくれ」
それこそ持って来た薬草の束を投げて、腕や顔を引っ掻かれ、容赦なく四肢を噛みつかれても、市井の妖らが傷付かぬように必死で押さえた。そうすることしか翔には出来なかった。
気を失わせることは簡単だが、翔はあまり加減が出来ない狐だ。
下手に衝撃を与え、要らぬ怪我を負わせるやもしれない。
それは避けたいところだ。
「――ばっかじゃねえか。怪我の手当てをするお前が怪我してちゃ世話ねえだろう」
この悪状況を打破したのは米倉だった。
一時的に呪符を取ったことで体調を崩した米倉は、行集殿に戻って布団の上で寝込んでいたはず。
なのにこの男ときたら、飄々とした足取りで参集殿にやって来るや、自傷行為を行う妖を凝視。
無遠慮に妖に手を伸ばすと、その体をまさぐり始める。
「米倉……お前どうして参集殿に」
「話は後だ。南条はそのまま押さえてろ。自傷行為をする化けモン全員に牛鬼の爪が刺さってるっぽい……ああくそっ、この一つ目の井守、喉の奥に爪が刺さってやがるな」
押さえられている一つ目井守が暴れ出した。
大人ほどの体躯を持つそれは、爪を引き抜こうとする米倉を喰らおうと大口を開けたので、すかさず翔が己の手を挟む。無数の歯が揃っている口に噛まれたことで派手に血しぶきがあがり、米倉を驚愕させたが、翔は「続けてくれ」と言い切った。
「あほか、一旦手を抜け。食い千切られるぜ」
「お前には牛鬼の爪がどこに刺さっているのかが視える。だったら俺はお前のために、少しでも爪を取りやすくするまでだ。早くしろ米倉、愚図愚図してると患者に負担が掛かる」
「ったく、好き勝手言いやがって。ちと待ってろ」
米倉が一つ目井守の口に右腕を突っ込む。
そして狙いを定めると牛鬼の爪を掴み、勢いよく引っこ抜いて暴れる負傷者を大人しくさせた。凶眼越しに負傷者に宿る邪気を感知しているのだろう。爪を見つけ、それを引っこ抜くまでの時間は極めて短い。
まこと凶眼とは恐ろしくも頼もしいものだ。
そうして米倉は次から次へと負傷者に刺さった牛鬼の爪を抜き、最後のひとりから爪を抜いたところで、今度は包帯を取った。
負傷者の数に対し、手当てする手が足りないことを察しているのだろう。一聴に声を掛けると、彼に教わりながら器用にそれで患部を覆うように巻いていく。
「……はあ。俺だって病み上がりだってのに何をしてんだか」
ぶつくさと文句垂れる米倉を参集殿に呼んだのは、どうやら比良利のようで、「あのアカギツネさま。頼みごとする時の目が笑ってねえんだよ」と、顔を引き攣らせていた。
どのような頼み方をされたのかはさておき。
比良利は米倉の凶眼を使用し、正気を失った負傷者を助けた行いを耳にしたのだろう。
普段はおちゃらけていることが多い米倉だが、根っこは真面目なので、基本頼みごとをされると断れない男だ。
おおよそ比良利に手を貸してほしいと頼まれ、病み上がりの体に鞭を打って此処までやって来たに違いない。
きっと米倉にとって都合の良い頼みごとをされたな、と思っている程度だろう。が、翔にとって、そして神職狐とって彼の行いは極めて感謝すべき行為だ。
ゆえに翔は包帯を巻き終えた米倉に声を掛けると、その場で両手をついて深く頭を下げた。
ギョッと驚く米倉に対して、翔はこの地を統べる頭領として感謝を告げる。
「米倉聖司殿。貴殿の行いにより、赤狐の、そして白狐の我が子らは救われております。この地を統べる者として心より感謝申し上げます」
「まじかよ。お前も頭下げて来るのかよ。さっきアカギツネさまに頭を下げられたばっかなのに……お前も目が真剣で笑ってねえしさ」
どうやら比良利は一介の頭領として、米倉に助けを求め、頭を下げたらしい。
となれば翔の振る舞いは頭領として正しいのだろう。
「いつまでも頭を下げられても、むず痒いんですけど……」
そういうのはやめてくれ、しごく調子が狂う。
苦い顔を作る米倉が頭をあげてくれるよう頼んでくるので、ゆるりと頭をあげた。
笑ってしまいそうなほど、しかめっ面を作る米倉は「おカタいのは嫌いなんだ」と肩を竦め、なおも静かに米倉を見つめる翔を一瞥。力なく苦笑した。
「それが化け物の、頭領のお前の姿なんだな」
「はい」
「いきなり畏まられるこっちの身になれって。気色悪いっつーの」
「三尾の妖狐、白狐の南条翔は南の地を統べる者。貴殿の行いが我が子の命を救っているのですから、感謝を示すのはしごく当然のことです」
「……お前の場合、畏まろうと何だろうと本音で言ってくるだろ? それが余計タチわりぃよ。戸惑うっつーの。自分では何も決められなかった南条クンだったくせに、一丁前に行動を起こしたり、誰かのために頭を下げてくるなんて夢でも見ているみてぇだぜ」
「今は俺の決断ひとつで、妖らの命運が決まりまする。己の判断には大きな責務があると、常々思っている次第です」
「うへえ。南条らしくねえ言葉をどーも。頭領なんてめんどくせえのになってさ」
「天命を授かった日より、白狐は神主道を歩むさだめだったのでしょう」
「さだめ、ね……頭領になったのはお前の意思か? 南条」
意味深長に問いかける米倉に、翔は口端を持ち上げた。
「――無論。頭領になると決断した己に、この白狐、大きな誇りを持っておりまする」
天命だの、さだめだの、偉そうに言っているが、これは翔が選んだ道他ならない。誰彼言われて選んだ道なら、とっくに理由をつけて辞めている。
そう返してやると、米倉が翔の腕をちらりと見やり、「偉そうに感謝するならそれ相応の身なりにしろよ」と嫌味を一つ。未だ一つ目井守に噛まれた傷から血が滴っている。米倉はそれを指さして手招いた。軽く止血してから包帯を巻いてやる、と面倒くさそうに言ってくる。彼なりの優しさだろう。
けれども。
「翔さま。至急参道へ。比良利さまがお呼びです」
「天馬か? すぐに行く」
手当ての暇すら惜しい。
翔は米倉に片手を出して気持ちだけ受け取っておく旨を伝えると、傷を浄衣の袖の下に隠して腰を上げる。
「おい……」
戸惑う米倉の代わりに、
「翔さま。せめて拭って下され」
一聴が手拭いを手渡す。
「我らのために身を張る貴殿に傷を作るな、は無理でしょうが……どうかご無事で。付喪神の一聴、後生の頼みです。貴殿が死線を彷徨う姿はもう見とうありませぬ」
返事の代わりにニッと笑って手拭いを受け取ると、それで患部を押さえながら参集殿を飛び出した。
日輪の社参道へ赴くと、比良利が腕のある天狗や鬼に対して表社へ向かう旨を伝えてきた。新たに百鬼夜行が確認できたので足止めをする、と。
翔がこれに加担しないわけがなかった。
「……変わったようで、全然変わってねえじゃん南条。どこに行っても、お前は誰かのために走ること好きだな」
白狐の背中を見送った米倉の声は、一聴にのみ聞こえた。
※
「――敵の狙いは奇襲を掛けたうえで、我らに籠城を強いることなのやもしれぬのう」
表社から戻って来ると神職狐らは本殿に集い、状況を打破するための策を練り始める。
これの仕業が黒百合なのは分かっていたが、このような奇襲は想定外だった。まさか二度も妖の社に奇襲を掛けてくるとは。それも再生能力に優れた妙ちきりんな百鬼夜行で奇襲を掛けられるとは。
「あの百鬼夜行は非常に厄介奇怪。何度斬ったところで再生する」
比良利は眉根を寄せた。
おおよそ妖祓長がやられたのも、あの百鬼夜行が一噛みしているのではないか、と赤狐は憶測を立てる。
妖祓側の奇襲について詳しい話は聞いていないが、向こうも奇襲を掛けられたうえで多大な犠牲を出している。いまの状況としごく似ている。
斬っても調伏しても再生するのだから、妖祓は大層苦戦したはずだ。同じ妖の自分たちでさえ、こんなにも苦労しているのだから。
「奇々怪々といえば、牛鬼の姿が妙ちきりんだったことを耳にしておる。頭は牛、首から下は鬼の胴体、さりとて手足はまるで百足のようじゃったと……ぼん、まことか?」
「俺自身牛鬼を見たことがなかったから、あれが妙かどうかは判断しかねるけど、確かに手足は百足のようだったよ。一緒に牛鬼の相手をした天馬曰く『頭や胴は牛鬼ですが、百足の足を持つ牛鬼は聞いたことありません』って言っていた。ましてや再生能力に優れている牛鬼なんて初めて見たって」
「わしも二百年余り生きているが、そのような牛鬼は聞いたことがない。それを滅することができたのは」
「……米倉の眼のおかげだ。あいつには牛鬼の核が視えていた」
「凶眼の力か」
「うん。呪符を取ることで、あいつは妖の核が視えるようになるらしい……それを核を壊さない限り、再生し続けるっぽい。核を貫いたら、幾度も再生していた妖の身が泥人形のように崩れたよ。どうして妖達がそんな体を持って再生能力に優れているのかは分からないけど、核を持つ化け物は心臓の代わりそれが弱点になるみたいだ」
とにもかくにも牛鬼や百鬼夜行は、普通の妖と考えない方が賢明だろう。
どいつもこいつも再生能力に優れているので、どこかしらに核が存在するに違いない。そしてそれが視えるのは極一部の者のみ。
であれば、次にどう動くべきか比良利も神職狐も答えを出していることだろう。無論、翔も答えは出し切っている。
(……言葉が途切れたのは俺の判断待ちか)
みなが話を切り出さないのは、翔の口から答えを言わせるためだろう。
まったくもって意地が悪い。これならばさっさと切り出してくれた方が気も楽だというのに。
けれど当然と言えば、当然の結果だ。
翔はみなの抱く答えに、真っ向から反対の意見を述べていた。だったら翔が今、どう思っているか己の口から言うのが筋だろう。
「……なあ仏頂面クン。おれはこの中に飛び込まなきゃいけないわけですか? ちょっと荷が重いんですけど」
ひそひそ声が聞こえたことにより、翔の耳がぴんと立つ。
「荷が重いも何も、お前から相見を願い申し出ただろ?」
「いやそうだけどさ。めっちゃ空気重いじゃん。ムリムリ、出直そうぜ」
「確かに本殿は神職しか入れない聖域。そう思うのも仕方がないが、火急の用事ならば許して下さるはずだ」
「ちげぇって。頼むからおれと会話してくれよ」
「会話はしているが……?」
「だめだ。おれ、この烏天狗と仲良くなれる気がしねえ」
どうやら本殿に客人がやって来たようだ。
視線を出入り口に向けると、弱腰になっている人間と、首を傾げる天狗の姿が見受けられた。
本殿の入室を尻込みする人間は、重い空気は苦手だと何度も首を振る。それに頷き、頷いた後、烏天狗は無遠慮に人間の背中を押した。情けない悲鳴と共にずっこける米倉がそこにはいた。
「あ、あ、ありえねえんだけどお前! って、しかもどっか行きやがるし!」
「自分は神職とお前の話を、安易に聞いて良い身分ではないのでな」
「ちょ、名張ー! 待てって!」
身を起こして体をさする米倉は、さっさと退散してしまう天馬に怒っていたが、神職狐らの視線に気づき、見事に引き攣り笑い。
「お邪魔しまーす」
小声で呟いた後、へらへらと誤魔化し笑いを浮かべ、浮かべて、そしてため息。肩を竦めた。
「ちょっとお願い事があってさ。単刀直入に用件を話す。今すぐ呪符を取りてぇから、おれを押さえてほしいんだ」
思わず翔は腰を浮かした。
対照的に米倉は鋭い眼光を飛ばす翔を無視して神職狐に、なにより比良利に願い申し出た。
神職の中で赤狐が誰よりも権威を持った狐だと把握しているようで、「めちゃめちゃ目が疼くんだ」と己の状況を説明し、牛鬼が宿っている右目を包帯の上からさすった。
疼く原因は短時間でも呪符を取った反動なのだろうが、そのせいで今まで無視していた滝野澤の声が鮮明に聞こえる、と米倉は眉を寄せる。
「戻って来い。お前は私の式神だ。そう言って滝野澤が牛鬼を呼び戻そうとしてくる。うるさくて眠れやしねえ。たぶんおれの眼はあんた達にとって都合が良くて、向こうにとって手に渡ってほしくないものなんじゃねえかと思ってるんだけど」
米倉はその場で胡坐を掻き、向こうに座る比良利を見やる。
負傷している人間がそれなりに頭の回る者だと判断した赤狐は、ひとつ頷き、正直に答えた。
「お主が持つ牛鬼の眼は凶眼と呼ばれ、我ら妖ですら視えぬ邪気を見通す力がある。隠し立てなく申せば、お主の凶眼は今の我らにとって喉から手が出るほどほしい力よ」
「まあ、そうだろうな。おれだってアンタ達の立場ならそう思うぜ」
「呪符を取った後、貴殿はどうしたい? 呪符を取る危険性は十二分に知っているはず。記憶が喰われているのは勿論、牛鬼はお主自身すら喰らいかねぬ。お主の存在が危ぶまれるのじゃぞ」
「滝野澤はおれに戻って来い、と命じている。それだけじゃねえ。おれって人格が邪魔なのか、さっきから脳内で牛鬼がおれを喰らいてぇ喰らいてぇって脅してくるわけだ。右目に閉じ込めている牛鬼にしてみれば、おれの体を乗っ取ってしまえば自由なカラダが手に入る。アンタ達の状況だって、この体を介して把握できる。嬉しいことづくめだろうさ」
おかげでこっちはいい迷惑だと米倉は不機嫌に鼻を鳴らした。
だから牛鬼を黙らせたいと、ついでに滝野澤の言いなりにはならないと態度で示したい。
米倉はしかと言い切った。
勝手にヒトの眼に取り憑いて、記憶を食い散らかして、都合の良い時だけ利用して、そろそろいい加減にしてほしい。
我慢の限界だと人間は舌を鳴らした。
どちらにしろ呪符を取らなければならない状況下なのは、うっすらと分かっている。
米倉は現状について尋ねた。
「凶眼があれば、あの化け物の群れをどうにかすることができるかもしれねえ。アンタ達はそう考えているよな? 現におれはあの群れに無数の核を視た」
「ご明察。我らは凶眼の力に頼ろうとしておる」
「それだけじゃない。滝野澤を辿る手掛かりが此処にはある。アンタ達はおれを手放したくないはずだ」
「ぼんの友とは言い難い、聡明な人間じゃのう。お主は」
「そりゃこいつが単純ばかなだけ」
翔を親指でさし、米倉は言葉を重ねた。
「――おれは滝野澤の声をずっと聞いていた気がする。それこそ取り憑かれた直後からずっと」
その声はいつも特定の誰かを襲えと、特定の誰かを喰えと、米倉の望まない特定の者達を傷付けろと命じた。それが米倉にとってどのような者達だったか、欠片も憶えていない。
思い出すと腸辺りがムカムカしたり、胸の辺りが妙に締めつけられるので、きっと米倉にとってその者達はそういう存在だったのだろう。
襲いたくない。
だから離れなければ。
喰らいたくない。
だから止めてもらわなければ。
傷つけたくない。
けれど自分も傷つきたくないから、喰われたくないから、だから此処に来た、悪友にどうにかしてもらおうとした。適当に役立って、すべてを諦めようと目論んだ。
どうせ助からない。じたばた足掻くのは格好悪い。
だから、だから、潔く散ろうとした。
節々の記憶が飛んでいるせいで、曖昧なところもあるが、大体こんな理由で此処に来た気がするのだと米倉は語る。
「でもどっかの誰かさんのせいで、諦めることがばかばかしくなっちまった」
もろ手を挙げて、冗談交じりに笑うと、米倉は改めて呪符を取りたい旨を伝えた。
「おれは都合の良い駒にもなりたくねえし、どこぞの知らん奴から利用されるのもごめんだ。利用されるくれぇなら、おれが滝野澤を、牛鬼って化け物を利用してやりてえ。呪符を取って滝野澤や牛鬼を黙らせたい。呪符を取ることで何かが変わるわけじゃないけど、正直無視できない声の大きさになってる。いつ乗っ取られてもおかしくねえ。呪符を貼っていても、だ」
「お主は人間、さりとて我らの我が子を救ってくれた恩人でもある。貴殿を助けるために我らは手は尽くそう」
「んー……そうしてほしいんだけど、本音を言えばおれの好きにさせてもらいてぇ」
「ほう? その意味を問おうか」
「いや、なんっつーか……どっかの誰かさんに、一方的に言われっぱなしなところがあって」
呪符を取ったことで半妖になるかもしれない、牛鬼になるかもしれないし、どうなるか米倉自身も分からない。
それでも悪足掻きせずに利用されて、適当に役立って華々しく綺麗に終わりにする人生よりかは、まあマシだろう。そう思えるようになった。
もしも米倉が米倉じゃなくなっても止めてくれる者が、憶えてくれる者が、どうにかしてくれる者がいると気づいたから。
気づいたからこそ、米倉は好きにしたい。
「呪符取りてぇからおれを助けろ南条。そしたらおれはお前に手を貸してやる」
突然の名指し。
それまで険しい顔で話を聞いていた翔は目を丸くしてしまう。
「おれはお前みたいに誰も彼も助ける頭領って奴じゃねえし、お人好しでもないから他人のために面倒事に巻き込まれるのはまっぴらごめんだ。正直言って凶眼を持っていても、化け物の群れをどうこうしたいって気持ちは薄い。でもまあ、お前の頼みなら聞いてやんねえでもない……っつーかおれに傷心を負わせたんだから、問答無用で助けろ。お前から言い出したんだろ。手を貸してやるって」
だったらちゃんと守れ、そうでないと絶対に許さない、なんぞまくし立てる米倉はきっと今までとは違う覚悟を持って此処にやって来たのだろう。
自分の好きにしたい、とは翔に対して手を貸す代わりに、手を貸せと言いたかった。
ただそれだけなのだろう。
なにより恩を売られっぱなしが気に喰わないのだろう。
それは翔にとっても喜ばしいやら、生意気極まりないと呆れてしまうやら。
とりあえずもう少し素直に頼みごとをしたらいいのにな、と思った。
(好きにしたいって言いながら結局、お前は俺に、俺達に手を貸してくれるんだから面倒見がいいよ。今も昔もさ)
うん。翔はひとつ頷くと、ひとつの決断を下した。
ここから先は翔がみなに、そして米倉に答えを返す番だ。
「承知した。この白狐、全身全霊を持って貴殿に手を貸すことを約束する。お前の願いはこの白狐が叶える」
「何が遭っても助けろよ」
「約束する」
「おれは何もかも忘れるかもしれねえし、正直このままでいられる保証もねえ。それでもお前はおれに言ったな。手遅れでも何でも手を尽くす。おれが喰われた記憶はお前が教えるって――南条、おれは喰われたくねえからしぶとく足掻く。惨めでも最期まで足掻く。その代わり、お前はおれを憶えておいてくれるか?」
喰われた記憶は取り戻せない。分かっている。
翔の力ではどうしようもない。それも分かっている。
それでも翔は憶えておく。米倉のことを、記憶を喰われた、その先で自分のことを借りに忘れてしまっても。
「ああ。当たり前だ」
納得のいく答えだったのだろう。
米倉は最後まで翔たちに手を貸すと約束した。面倒事になるのは分かっているが、最後まで付き合うと言って呪符を何度も触る。
「じゃあ早速取ってほしい。まじで声がうるせえんだ。頭がガンガンしてくるくれぇ煩い」
「分かった。俺がお前を押さえる役になる。けど一聴さんの判断の下、慎重に呪符を取った方が良さそうだよな」
「うむ、それはわしも同意する。せめてお清めの塩が入った薬粥を食してからが良いかもしれぬのう。さすれば牛鬼の力は弱まるやもしれない」
「げっ、薬粥。あれ不味ぃんだけど。トラウマになりつつ……ん?」
米倉が弾かれたように本殿の出入り口を見つめる。
どうしたのか。彼に問うと、鳥居から妙な気配を感じると眉を顰めた。
「なんか牛鬼の爪っぽい……妙な気配なんだけど……なんか気持ち悪いぜ」
「妙な気配……邪気か? ……比良利さんっ、まさか」
「常世結界に何か遭ったか。ツネキ!」
「ギンコ! 俺達も行くぜ。米倉、わりぃけどお前も来い」
先に飛び出した比良利とツネキの後を追うため、翔はギンコを呼ぶと、米倉の腕を引っ掴んで外へ出た。妖型になるギンコに跨ぎ、米倉と共に日輪の社参道の鳥居へ。
そこで目にしたのは常世結界に張り付いている、百鬼夜行の姿だった。
数多な化け物が常世結界に張り付き、我先に中へ入ろうと躍起になっている。
ただし結界が阻んで中には入れない様子。
「嘘だろ。ここまで百鬼夜行の手が伸びるなんて、五方祟りの術は効力を失ったのか?」
鳥居を見上げ、顔を引き攣らせる翔とは対照的に、比良利は思慮深く百鬼夜行を観察している。
「効力が失われたわけではない。術の気配はまだ感じる。ならば、どこからか侵入してきたと考えるのが筋じゃろう」
「侵入? 来斬の時のように、侵入してきたってことか?」
「表社と異界の社を繋ぐ細道は、決して誰彼侵入できぬ聖域とは言えぬ。鎮守の森に囲まれているとはいえ、どこかに穴があってもおかしくはない。米倉よ、お主の眼で穴は視えるか? ひとまず呪符はそのままで良い」
ギンコから下りた米倉が、恐る恐る鳥居に歩み寄る。
「き、キモイ」
嘆きを口にしながら鳥居を覗き込み、目を凝らし、首を捻って、あ……と声を漏らした。
「穴は無いけど鏡がある?」
「鏡?」
「いや気のせいか? さっき光ったんだけど。あ、ヒトがいそう」
「え、ヒト? ……何もいねえけど」
翔も鳥居を覗き込む。
ギンコに視えるか? と聞くが、首を横に振るばかり。気配すら感じないのだが……。
「あれは滝野澤」
忌々しい名を紡いだと同時に、米倉が素早く呪符を取った。
ひらり、と呪符を天高く舞い上がらせるや、包帯を解いて、その右目を外にさらけ出した。
驚く翔達に対して、米倉自身もしごく驚きの様子を見せている。呪符を取ったのは米倉の意思ではなかったのだろう。だから驚いている様子を見せていた。
その顔もすぐに消え、代わりに――「『やっと出られタ、やっと、ヤッとぉおおお!』」
米倉が歪んだ笑みと、喜びの叫びを放った。否、それは米倉ではなかった。
「『お前が滝野澤の探していた狐。ヒトから妖になったシロ狐だな』」
にったり。
ねっとり笑うそれはまごうことなき、牛鬼だった。
人格が牛鬼だと分かるや翔はショックよりも先に冷たい感情が心に流れた。
化け狐らしく、くわっと赤い口を開け、瞳孔を縦長に膨張させて負けじと妖しく笑い返す。
「シロ狐じゃねえ、俺は南の地を統べる狐――三尾の妖狐、白狐の南条翔だ」