<五>陥落危うし妖の社(壱)
「南条、なんか様子がおかしくないか?」
翔と米倉が日輪の社に戻ると、参道が喧騒に包まれていた。
おかしい。今宵は両社を閉じているので、境内は静寂であるべきなのに二人が戻ると、多数の声で満たされている。それも物々しい声で、和気藹々賑やかな声とは程遠い。
急いで参道に赴くと、大怪我を負った猫又が数匹。
咆哮を放ち、目に見える者を襲おうと牙を向けている。
それらを取り囲み、暴れている猫又を抑えている巫女狐と烏天狗ら。そして容態を診ようとしている一聴らの姿が、そこにはあった。
「これは……」
「翔さま、丁度良かった。今、貴殿を呼びに行こうと思っておりました」
「一聴さん。一体、何が遭ったんだ」
「それが我々にも分かりかねておりまする」
患者に近づけず、困り果てている一聴に声を掛けると、彼はかぶりを力なく横に振った。
突然、日輪の社に猫又の群れが飛び込んできたかと思ったら、見境もなく同胞に噛みつき、その肉を食い千切ろうとした。巫女らが止めに入ったものの、まったく落ち着く様子がない。
仕方なく巫女狐らは手荒に気を失わせる方法を取っているが、暴れている原因は不明だと一聴。
「猫又は基本的に陽気で呑気、争いを好まぬ種族なのでございますが……あの症状はまるで瘴気に中てられたよう」
「瘴気……まさか鬼門の祠の結界に穴でもあいたのか?」
「その可能性を踏まえ、先ほど比良利さまが天五郎を率いて祠へ向かいました。時期に知らせが来ることでしょう。留守の間は、翔さまにお任せするとのことです」
「分かった。とにかく猫又達を大広間に運ぼう。同胞を冷たい参道に寝かせておくわけにもいかない」
おとなしくなった猫又の様子を確認し、翔はみなに指示する。
同時に米倉が翔の脇を通りすぎ、気を失っている猫又の前で膝を折った。
いたずらに近づいているわけではなく、おもむろに猫又の体をまさぐると、その首根っこに刺さっている太い爪を見つけた。米倉はそれを無理やり引き抜くようなことはせず、一聴を呼んで、これを診てもらうように頼む。「多分牛鬼の爪だと思う」と言葉を添えて。
「分かるのか? 米倉」
訝しげに尋ねると、米倉は肩を竦めた。
「まあ、なんとなく? 首根っこからどす黒い靄が出ているのが視えたから、そうかなって」
「靄?」
翔の目には何も視えないが、彼には靄が視えるとのこと。
「ここにいる猫又全員に爪が刺さってると思う。全員に靄が視えるから」
続けざま、米倉は社の外にもいると言った。
曰く、牛鬼の爪から漂う妖気や黒い靄が社の向こうからも、なんとなく視えるとのこと。位置にしてすぐ近くらしいので、おおよそ表社に負傷者がいるのだろう。
すぐさま銀狐に乗って表社へ向かうと、社殿の裏に猫又が数匹倒れていた。
さらに近所の駐車場にも視える、と翔に無理やり引っ付いてきた米倉が言ったので、その足で駐車場へ。
本当に負傷者がいたので、翔は米倉の眼に驚かされてしまう。
翔とて妖気を感じ取るくらいできるものの、米倉ほど正確な位置を割り出して妖気、ましてや靄とやらを察知する能力はない。
それは翔が未熟だから、ではなく米倉の眼がそれだけ優れているからだろう。
もっとも本人はあんまり気持ちの良いものではないらしく、それを見続けると具合が悪くなる、そうだ。
(視える、ということは無意識に牛鬼の力を使っているんだろうな)
米倉の体は人間なので、その力に中てられているのだろう。
いくら呪符で目を封じているとはいえ、あまり多用しない方が良さそうだ。
一方で翔は疑問を抱える。米倉の眼はどうして、そこまで優れているのだろうか。右目に牛鬼のすべてが集約されているから、といえば話はそこまでだが、それにしても視え過ぎている気がする。
まるで千里眼のように負傷者の位置を見通すことができているので、本当に牛鬼だけの力なのか、と憂慮の念を抱く。
(滝野澤に何か仕込まれてるんじゃ)
傷ついた猫又をギンコの背中にのせると、駐車場近くの茂みを掻き分けている米倉の背中を一瞥する。 彼はいとも簡単に負傷者を見つけ出していた。猫又以外の負傷者もいるようで、彼は顔をこわばらせながら、恐る恐る一つ目の妖鳥を抱えていた。
「げっ、よく見ると三つ目かよお前っ……おっかねぇ顔してんな」
情けない悲鳴まじりの声が聞こえてきた。
様子を見る限り、滝野澤に操られている等といった不審な様子は見られないが……。
「牛鬼は凶眼の持ち主とも言い伝えられています」
「天馬?」
共に負傷者を運んでいた天馬が、翔の隣に降り立った。
助っ人に呼んでくれたであろう烏天狗に負傷者を渡すと、こちらの心を見通しているのか、凶眼について説明してくれる。
「牛鬼は出逢う人間や妖に毒を吐き、いたぶって喰らう厄介者。またその眼光に宿す邪気を両眼に宿し、出逢う者を疲労や病を振り撒くこともある。これが凶眼と呼ばれる所以でございます。おおよそあの人間は、凶眼を通して邪気を感知しているのではないかと」
「邪気を感知……俺の思っている以上に、牛鬼は能力が高いんだな」
「はい。牛鬼は乱暴者と呼ばれる一方で、地方によって善神として祀るところもございますし、祟神として畏れられる所もございます。それは土地柄によって違いますが、あの人間の目に宿っている牛鬼が祟神に近い牛鬼であれば、凶眼を持っていてもおかしくないかと」
「確かあいつは右眼頼りに妖の社まで来たと言っていた。不思議だったんだ。いくら牛鬼を眼に宿しているからって、五方結界に守られた妖の社まで何の知識も来れるはずがない。なのに、あいつは妖の社の石段で倒れていた。それはある程度、妖の社の位置を把握していたか、もしくは……妖の社に宿った妖気を察知したか。凶眼で社の妖気を見通していたとしたら、恐ろしい話だな」
「妖の社ほど、妖気に満ちた場所はございませんからね」
「妖祓ですら探し出せない場所だっつーのに、なんて眼だよ」
「敵に回せば、たいへん厄介な存在になります。翔、その時は貴殿の御意思をも背く覚悟です」
無遠慮な進言に翔は苦笑いを浮かべる。
天馬はどこまでも冷静で、現実的な思考を持っている天狗である。
翔と米倉の関係性を知っていながら、なおも翔の顰蹙を買いかねない発言をしてくる。きっと米倉が牛鬼に呑まれたら、容赦なく牛鬼を討ち取ることだろう。それこそ翔が止めようとしても、彼は牛鬼を討ち取るに違いない。
それが天馬なりの気遣いであり、不器用な優しさであることを、翔は知っている。
「南条。こいつで最後みたいだ」
米倉が妖鳥を抱えて、二人の下へ歩んで来る。
もうこの一帯に靄が視えない。大丈夫そうだ、と言ったところで、彼の足が止まる。
「米倉?」
翔が声を掛けるも、米倉の表情はかたい。
それどころか見る見る強張っていき、仕舞いには「なんか来る。来る。来る。俺はこれを知っている」と言って右目を押さえた。
刹那、米倉の背後にとまっていた車が二台、真上に飛びあがった。
文字通り、重量のある車が真上にあがったのである。同時にアスファルトがめくれ、大穴があくと同時に巨大な大百足が二匹姿を現した。
電柱ほどあるそれは、本当に大きな百足であった。
しかし、どこかいびつな姿をしていた。
なにせそれの頭は牛、首から下は鬼の胴体を持っていた。獲物を狙う三白眼で、手足はまるで百足。おぞましい足が沢山生えている。
それを見るや否や、米倉は青ざめながら「牛鬼だ」と呟いた。
「記憶にないけど、俺はこいつ知ってる……前に襲ってきた奴……百足の姿をしているけど……確かに牛鬼だ……」
「ばか! さっさと走れ、来るぞ!」
翔の怒声で我に返った米倉は、声にならない声を上げながら走り始める。
「俺は病み上がりなんですけど! なんでまたあいつに会うんだよっ! 牛鬼なんてこの眼だけで十分だっつーの!」
ぎゃあぎゃあ泣き言を連ねる米倉の姿を捉えた大百足のこと牛鬼の一匹が、その肉を求めて追ってくる。
もう一匹は米倉よりも優先するべき目的があるようで、数多の脚を動かして駐車場を出て行く。牛の顔が表社の方を向いていた。まさか。
翔は指笛を拭いて、ギンコを呼ぶとその背中へ。
一方、天馬はその俊足を活かし、牛鬼よりも早く米倉の下へ辿り着くと、その身を担いで夜空へ急上昇した。
米倉を見失ったことで、もう一匹の牛鬼も表社の方へ向かい始めた。
「翔、この人間を頼みます。表社に近づかせてはまずい」
「た、頼みますって……あのー……ちょっ、まじ?」
「舌を噛まないようにしろ」
「ちょ、まじで?! 投げるの? 向こうに投げるの? ここめっちゃ高いんですけど!」
「安心しろ、届くように投げる」
「安心できるか!」
米倉の訴えも虚しく、天馬は人間を翔に向かって投げると、錫杖を召喚して牛鬼の太い足を叩き斬った。次に頭を叩き斬り、方向機能を失う策に出る。
しかし、斬り落としたはずの足や頭が見る見る元の位置に戻っていく。意思を持って再生したのである。
「これは……」
天馬が眉を顰める他方で、翔も同じ顔を作って牛鬼の様子を睨んでいた。
斬り落としたはずの足や頭が見る見る元の位置に戻った。
烏天狗が繰り返し、足や頭、胴の一部を斬り落とすも、そこは再生して元通りになるばかり。一体全体何がどうなっている。いくら化け物とはいえ、こんなにも再生能力に優れた妖なんぞ見たことない。
「ぜぇぜぇっ。南条! 助けろって! 俺はお前と違って化け物じゃねえんだぞ! 落ちたら死ぬっつーの!」
翔の背後では、米倉が必死にギンコの背に乗り上がろうとしていた。
視線はそのままに、三尾で米倉の体を引き上げると、「あの仏頂面クンあり得ねぇ」と文句を垂れていた。その間も、しっかり負傷者を腕に抱えているので、後で褒めてやっても良い。あくまで、牛鬼を対処した後で、だが。
翔は指笛を鳴らし、天馬に合図を送る。
それを聞き届けた天馬は、同じように指笛を吹いて地上にいるであろう烏を呼ぶと、群れを北の山へ飛ばした。
よし。これで間もなく、鬼門の祠にいるであろう比良利や天五郎に一報が届くだろう。
「チッ、表社に入りやがったか」
二匹の牛鬼が表社の石段を上がっていく。
翔は紙垂が真っ黒に染まっている修行用の大麻を懐から取り出すと、ギンコに向かって一声鳴いた。
すると銀狐は空を翔け出す。見る見る銀の巨体は風と同化し、翔ける足を加速していく。隣に天馬が並んだ。視線で合図を送ると、ギンコは牛鬼の一匹目掛けて右回りに、天馬は左回りに、牛鬼を軸に渦をえがくように回り翔けた。
その際、翔は大麻に妖力を集め、それで牛鬼の胴を切り裂いた。
同じように天馬は錫杖で牛鬼の全身を叩き斬っていく。
牛鬼は姿かたちを失くし、ばらばらの肉片となった。再生できないほど、肉片は細かなものとなった。なったはずなのに。
「まだ再生するのかッ」
細かな肉片は地面に落ちても、なお蠢き、近くの肉片と繋ぎ合っていく。
しばらく経てば、また牛鬼の姿として現れるに違いない。
「修行用の大麻じゃ、切れ味が悪かった……わけじゃないよな」
生憎、まことの大麻は天城惣七に盗られたままなので、翔の手元には修行時代に使用していた大麻しかない。もしこれが原因なら、とっとと天城惣七から大麻を返してもらわなければ。
なんて、冗談を言っている場合でもない。
「天馬、あれが牛鬼で間違いないか?」
「いえ。頭や胴は牛鬼ですが、百足の足を持つ牛鬼など聞いたこともありません。ましてや、これほど再生能力に優れている化け物なんて」
「ただの牛鬼じゃないってことか」
「端的に言えば」
「来るッ、お前ら急いでよけろ――ッ!」
米倉の叫びによって、会話が途切れ、ギンコと天馬はほぼ反射的に地上へと急降下。
側らでは再生した牛鬼が素早く大口を開けて、翔らのことを呑み込もうとしていた。
回避する間もなく、もう一匹の牛鬼が猛毒を吐いた。暗紫の煙幕で目の前が何も見えなくなる。
すぐさま銀狐が煙幕から抜け出し、烏天狗が竜巻を起こして毒ごと牛鬼二匹を切り刻むが、それらは再生するばかり。埒が明かない。
「あいつらに死の概念はねーのか、あっ!」
牛鬼の一匹が表社の社殿に目をつけ、その大口を開けて屋根を喰らい始めたではないか。
表社は妖の社の入り口を隠してくれている大切な存在で、妖の社とはたいへん密接な関係だ。妖の社は表社に隠してもらう代わりに、その存在を守護していると言っても過言ではない。
その表社が壊されでもしたら、双方の均衡が崩れてしまう。
まさか、牛鬼はそれが狙い……?
表社は南北合わせて二か所存在する。ここは日輪の社を隠している表社。もしや南の地にある表社も、牛鬼が現れているのでは?
だったら愚図愚図していられない。
「この地で勝手なことをしてくれるな。牛鬼」
翔は大麻を両手で持つと、ギンコの背から飛び下りて、それで社殿の屋根を喰らっている牛鬼の首を落とした。すぐに再生すると分かっていても、牛鬼の愚行に目を瞑るほど、翔もおとなしくしているつもりはない。
両足が完治していないとか、そんなことも関係ない。この土地で傍若無人に振る舞っている化け物がいるなら、それ相応の折檻を行う。それが頭領の役目だ。
くわっと赤い口を開けると、総身の毛を逆立て、額に二つ巴を開示した。
それは白と黒の勾玉が組み合わさった陰陽勾玉巴であった。
赤い目を鋭く光らせると、両足と三尾に妖力を集め、集めて、呼吸を止める。否、地を蹴って再生を始めた牛鬼の頭を大麻で真っ二つに斬る。
なおも翔は止まらず、牛鬼の胴を八つに切り裂き、社殿からそれらを遠ざけるために、大麻で突風を生んだ。
背後に気配を感じると、その大口が猛毒を吐く前に大麻の柄で顎骨ごと肉を貫いた。
何本もの牛鬼の足が波のように翔に襲いかかると、それらを避け、飛び上がって蹴り飛ばし、時に受け止めて引き千切った。
それでも足の猛撃が止まらない。が、翔は構わず牛鬼の首を落としにかかる。それが己の身を貫こうとしても、翔の狙いは牛鬼の首のみ。その道までは烏天狗が作ってくれる。確信があった。
鋭い牛鬼の足が翔の身に狙いを定める。
視界の端に映ったが、足は止まらない。狙いは牛鬼の首ただひとつ。
翔の代わりに錫杖で牛鬼の足を受け止める天馬を飛び越えると、宙を返って勢いと共に牛鬼の首を斬り落とす。さらに着地と共に顔面を縦に割って再生を遅らせた。
「天馬。風だっ!」
「承知」
大麻に灼熱の狐火を宿して火炎を放つ。
それに合わせて、天馬が錫杖を両手で回し、大きく薙いで竜巻を起こした。竜巻は火炎を呑み込み、肉片となった牛鬼をも呑んで焼き尽くした。
翔は燃え盛る火炎を見つめ、盛大な舌打ちを打つ。
「まだか。しつけぇ」
火炎の向こうで蠢く影を見つける。
あれは肉片を消し炭にしても、それが現世にある限り再生するらしい。だったら肉片を跡形もなく祓ってしまうまで。表社は壊させない。ぜったいに。
「南条、そいつの目を潰せ。両目を同時に潰せ――そいつの核はそこにある」
振り返った翔は眼を見開き、言葉を失ってしまう。
社殿の向こうにいる米倉が、ギンコの背中にいる米倉が、包帯を解いて呪符を取っているではないか。あれを取ってしまえば、米倉の右目に封じられた牛鬼が人間を内側から喰らい出す。米倉は喰われる。それが嫌で米倉は翔に弱い心を見せたし、自棄と諦めを起こしていたし、翔に牛鬼を討ち取らせようとした。まさか、あいつはまだ自棄を?
しかし、米倉は笑っていた。自棄ではなく、どこか勝気で意地悪い笑みを浮かべながら――。
「お前の弱点が視えねえとでも思ったか? ざまーみやがれクソ化け物」
ぎょろ、ぎょろ、ぎょろり。
四方八方に動く目玉がしかと牛鬼らの姿を捉え、それらの弱点を見出す。
彼の右目は白目部分が黒く染まり、暗紫の瞳が持ち主の意志とは関係なく、あちらこちらを向いている。それでも米倉は再生を繰り返す牛鬼の弱点を見出した。
だったら、翔がすべきことはひとつ。
米倉の右目を見た牛鬼らが、標的を社殿から彼に変えた。
同じ目を持つ者として、あの眼は不味いと思ったのだろう。
だが、米倉の下に行かせるほど翔も、天馬も、そしてギンコも甘くはない。
ギンコは米倉を乗せて風となった。天馬は俊足を活かして、牛鬼らの足をすべて叩き落とし、翔は牛鬼の顔まで飛び上がると大麻を真横に振って一線上をえがき、ぎょろぎょろした両目玉を同時潰した。
間を置いて、牛鬼の身が朽ちていく。
あれほど再生ばかりしていた牛鬼が、いとも容易く朽ちていく。
同じ要領でもう一匹の牛鬼の目玉を潰しに掛かるが、それに米倉は待ったを出した。
「もう一匹は両目じゃねえ。そいつの核はッ……あんなとこにあるのか。メンドクセエなもう!」
「米倉! ギンコから下りるんじゃねえっ!」
翔の制止を無視し、米倉はギンコの背中から飛び下りるや、社殿の方へ走った。
牛鬼が米倉を狙おうとするので、翔は天馬と共にそれを相手取る。その隙に米倉は社殿側の木の根元まで走り、手頃な石を拾うと大きく振り翳して――。
「これがお前の核だっ!」
ぐちゃり、木の根元にいる大百足の頭を潰した。
それがぴくりとも動かなくなると、残された牛鬼の身が見る見る塵となっていく。見事に牛鬼の姿かたちが消えた。
しかとそれを確認した後、翔は急いで米倉の下へ走った。
「米倉、呪符を貸せっ」
木に寄り掛かって荒呼吸をする、米倉の左手に握られた呪符と包帯を取り上げた。
手際よく包帯に呪符を挟むと、ぎょろりと動く右目をそれで巻いてしまう。幸い、米倉の意識はしっかりしていた。一聴の治療が功を奏したのだろう。呪符を取った時間も極端に短かったので、牛鬼の意識が表に出ることはなかった。
ただし、米倉の内面は翔の目では分からない。
「おい、米倉無事か?」
「南条……まずい」
「ばかやろう。なんで呪符を取りやがった。あんだけ喰われたくねえって泣いてたくせに」
「おまっ、ねつ造するんじゃねえよ。泣いてねえって」
米倉は重たそうに頭を振ると、右目を押さえ、小さく呻いた。
「まずいってのは俺のことじゃねえ。状況だ」
「状況? どういう意味だよ」
「呪符を取る前は分からなかったけど、いびつな牛鬼はあの二匹だけじゃねえ。もっと数がいる」
「え」
面食らう翔の肩を掴み、米倉は脂汗を流しながら告げた。
「正確な数は分からない。けど、それは全部こっちに向かっている。もうそこまで来てる」
「……そ、れって」
「一旦、怪我した化け物らを連れて社に戻った方がいい。さすがにあの数は俺達だけじゃ」
太刀打ちできない。
米倉の言葉はどこからともなく聞こえてくる、奇々怪々な声に掻き消された。
ぶわり、と悪寒のする妖気が翔の背筋を戦慄かせる。妖気はひとつ、ふたつ、どころの数じゃない。米倉の言う通り数が多い。どれほどの数があるのか、正確な数は測れないが、ここにいてはまずい。それだけは翔でも分かる。
「米倉。立てるか?」
「なんとか」
よろける米倉に肩を貸し、彼を立たせた次の瞬間、向こうに見える参道が火の海となった。
何も無い砂利道が火の海になるなんて、到底あり得ない話。
翔は夜空を仰いだ。顔が引き攣ってしまう。そこには百鬼夜行と呼ぶべき、数多のいびつな化け物らが空を覆っていた。どいつもこいつも表社を標的にしており、それらは正気な目をしていない。同胞ではないことは明白であった。
「あれ、は」
「ぼん。早うオツネに乗れ! ここに五方祟りを張る!」
火の海を割るような突風を吹かせたのは、知らせを聞いた比良利であった。
金狐に乗った比良利はまことの大麻を構えると百鬼夜行に向かって、夜空を燃やさんばかりに狐火を放つ。見る見る化け物らは焼け焦げ、地上へと落ちていった。
しかし地上に叩きつけられると、何事もなかったかのように再生を始める。
これらにも核があるのだろうが数が数だ。一々探していられない。
翔は米倉と共にギンコに乗ると、夜空に翔けあがって百鬼夜行に向かって大麻を振った。
その間、表社の社殿に五方結界を張った比良利は、百鬼夜行を表社参道に集め、五方に生えている木々に呪符を張る。そして二つ巴を開示させると、大麻を左、右、左に振って言霊を唱え始めた。
「南に我が対を、北に我が身を置き、東に生まれし命を見守り、西に沈む命を弔う」
紙垂から紅の一閃が迸り、新たな風が生まれる。
比良利は糸目を開眼すると、燃ゆるような眼を金に染めて大麻を振り翳した。
「我等は悪しき心を赦さぬ者。五方より宝珠の声に背きし心を見逃さぬ者――五方の怒りを知れ! 五方祟りの術!」
大麻が振り下ろされる。
瞬く間に火柱と熱風が生まれた。五点の呪符が結び合い、宝珠の加護を受けた結界が生まれる。さりとてそれは何かを封じるものではなく、守るものでもなく、弱らせ力を奪うものであった。
奇々怪々百鬼夜行は結界に呑まれ、表社参道に縛りつけられる。
化け物どもは奇声こそ放つことができるものの、身動きはまったく取れないようだ。
「時間稼ぎくらいにはなるじゃろう」
ひとまず百鬼夜行がヒトの世界で暴れることや、妖の世界に侵入する心配がなくなった。あくまで一時的ではあるが。
比良利は翔らに向かって一声鳴き、一時撤退を促した。
それに返事をした翔は百鬼夜行を流し目した後、見えてきた鳥居を潜って妖の社へ帰る。
しかし潜る瞬間、見てしまった。鳥居に凭れて、こちらの様子を窺う一匹の妖に。それは額に黒々とした二つ巴を開示させて、妖艶に翔達に微笑んでいた。
あれは。
「――惣七さん」
なんで、ここに。
驚く翔の額にも黒々とした二つ巴が浮かんでいたが、それに気づくことはできなかった。
「戯け狐め。何を目論んでおる」
その隣では赤狐が忌々しそうに舌打ちをしていたが、それにも気づくことはできなかった。