<四>翔ける阿呆に諦める阿呆
和泉の妖祓長が死んだ。
妖の社に訃報が届いたのは、翌日の夕まぐれのことであった。
その知らせは翔の携帯に届いたもので、三行程度に訃報の旨が綴られていた。
突然のことに理解が追いつかず、送り主に電話を掛けて真偽を確認しようとした。が、送り主は妖祓の孫である和泉朔夜。他人を動揺させるようなクダラナイ嘘をつくような男ではない。
暮夜になると飛鳥から同じ旨の連絡が届いたので、それは真実なのだと受け入れることができた。
妖祓長の死は南北の地の安寧に関わるので、すぐさま比良利に事を伝えた。
狐は大層驚き、信じられない面持ちを作っていたが、自分なりに状況を把握すると神職狐らに命じた。
「みな鈍色装束に着替え、玉串と火の用意を。我らと対等に渡り合ったヒトの子に、衷心より哀悼の意を表す」
立場は違えど、互いに南北の地を見守る者。
あの者の志はまこと立派であった。
敵ながら感心する知恵の豊かさ、そしてヒトをまとめ上げる腕前の持ち主だった。
六尾の妖狐、赤狐の比良利はあの者と五十年ほど付き合いがあったが、和泉月彦は憎たらしくも敬意を示すに値する人間だった――そう、静かに語る狐の横顔はどこか物悲しそうだった。旧友を失くしたような、そのような顔をしていた。
訃報があった日、日月の両社は閉められた。
翔を筆頭に神職狐らは鈍色装束を身に纏い、玉串と白いヒガンバナを焚いた火に捧げ、死者への手向けとした。轟々と燃え盛る火の煙にのって、どうか死者に祈りが届くように、と思いを寄せて。
それは不思議な光景であった。
何かあれば、些少なことでも衝突していた妖祓の死を悼み、敬意を払い、祈りを捧げる。
普段の日常では決して見られないことだけれど、これもまた翔の夢見る道半ばなのやもしれない。たとえ敵対関係だとしても、異種族相手の人間だとしても、妖を祓う忌々しい存在だとしても、その功績と志を称え、敬意を払って祈りを捧げる。
それはきっと簡単なことではない。
翔のように幼少から繋がりのある者ならまだしも、相手は妖祓長。
妖の中には同胞を祓われて恨む者もいるだろう。翔よりもうんっと長く生きている神職狐らの中にも、恨みつらみを抱く者がいるやもしれない。恨むとはいかずとも、人間に対して複雑な気持ちで祈りを捧げているやもしれない。
それでも神職狐らは翔と共に哀悼の意を示す。
それが許し合う関係の一片だとしたら、翔は彼らの姿勢を見習わなければならない。
(……朔夜のじいちゃんが死んだ)
まだ夢心地にいる翔は、どこか信じられない気持ちで焚いた火に白いヒガンバナを放る。
見る見ると燃え尽きる花を見守ると、ゆらゆらと立ち昇る煙を見上げ、懐かしい思い出と向かい合う。
あれは厳しい人であった。顔を会わす度に体が硬直してしまうほど厳格な老人で、いつも挨拶立ち振る舞いを注意されていた。おかげで翔はつよい苦手意識を持っていた。
それでも時折、老人は翔や朔夜、飛鳥に優しさを見せくれたもの。
些細な優しさだった。菓子を持って来てくれたり、怪我をしたら手当てしてくれたり、幼馴染らと喧嘩をすると相談相手になってくれた。
ほんとうに些細な優しさだった。
でも翔に見せてくれるのは、いつも深い優しさだった。
(じいちゃん、俺はさみしい。妖狐になってからは妖祓長と衝突してばっかだったけどさ。人間だった頃の俺にとってあんたは怖くて、厳しくて、苦手で……でもいつも俺の味方になってくれるヒトだったから)
あの老人は確かに、人間だった頃の南条翔と繋がっていたヒトだった。
立ち昇る煙を見つめ、知らず知らずのうちに握りこぶしを作る。言い知れぬ物さみしさが胸の内を荒らした。
他方、同じようにたゆたう煙を見つめる赤狐は神職狐らにこのように言った。
「妖祓長の死は我らにとって、ひとつの時代が終わるも同じ。これより新たな時代が始まろう――妖祓、もとより人間と妖の両者がどのような距離感を保つかは妖祓長の指針によって決まる。そう言っても過言ではないゆえ」
和泉の妖祓長は既に決まっている。
翔は人づてに聞いている。聞かずとも、十代目南の神主に就任した頃から予想は立てていた。いずれあの男は自分と同じように妖祓長に就く、と。
正直こんなにも早く翔と同じ、しかし正反対の立ち位置にあの男が就くと思っていなかったが、それでもあれは翔と同じ長となった。
ならば、今後はそのように接していかねばならないだろう。
「和泉殿の下へ、行かなくとも良いのですか?」
追悼の儀を終えると、青葉から控えめ声でこのような申し出をちょうだいする。
彼女なりの気遣いを向けているのだろう。
ギンコを腕に抱え、姉妹揃って今宵は神主の顔をしなくとも良いと言ってくる。悲しそうに微笑んでくるので、きっと翔の表情は大変情けないものになっているに違いない。もしくは荒れ狂った感情が表に出ているやもしれない。それは鏡を見なければ何も分からない。
翔はかぶりを横に振り、行かない旨を伝えた。
「俺は南の地を統べる妖狐。当主を失い、混乱している人間の下へ行けば、余計な火種になりかねない。和泉月彦の告別式がある場合は、人間の南条翔として参列する予定だけど……今は無理して会うつもりはないよ」
「ですが……」
「そもそも朔夜が会ってくれねーって。俺が来たところで、ぜってぇ『帰れ』の一言であしらわれる。お前は妖の頭領なんだから、妖祓長の死を偲んでいる場合じゃないだろ、とか言ってな。不器用なあいつのことだから、顔を見に来た俺に対して数珠を構えてくるかもしれねえ」
「和泉殿が翔殿に数珠を構えるなんて」
「無いとは言い切れない。あいつは他人に対して不器用も不器用。それこそ俺より不器用だから、まだ自分で整理できない領域に入られることを極端に嫌う。弱さを見られるのが嫌いっつーかなんっつーか」
「さすがは翔殿の竹馬の友。似ておりますね」
「それを言われると耳が痛い……」
あれとは長い付き合いだ。
どれだけ見栄と意地と虚勢を張って妖祓長に就いたのか、それなりに想像がついている。
翔が現れたところで慰めの言葉も励ましの言葉も受け取らず、まずは自分が何をすべきか、その状況把握と整理に努めるはずだ。そのためにもきっと、妖の頭領である翔の存在は邪魔になることだろう。
一方で憂慮も抱いている。
連絡をくれた飛鳥曰く、和泉月彦は百鬼一族の手に落ちたと聞いている。
“妖祓”の集会場となっている『花宴の屋敷』で襲撃に遭い、多数の妖祓が負傷。死者も数名出ているそうだ。間の悪いことに、日本東西に分かれている妖祓達と会合しているところを狙われたとのことで、そこに居合わせた有能な妖祓らが重傷を負い、その命を落としている。
詳細は分かっていないが、百鬼一族が襲撃の引き金を引いたとなれば、朔夜は関わった人間をあぶり出すために奔走するに違いない。あれは冷静な男に見えるが、一度感情に火がつくと翔とは別の方面で突っ走る傾向がある。祖父の死が彼を鬼にしなければ良いが……。
(朔夜の傍には飛鳥がいる。いくら喧嘩していても、いざとなったらあいつが止めてくれるはずだ)
さらに飛鳥の連絡で分かったことがある。
(妖祓が米倉の行方を血眼になって探している――あんのバカ、妖祓の下から逃げ出してやがった)
曰く、妖祓は米倉を手厚く保護していたそうだ。
なのに米倉は妖祓の手を振り切って、翔の下へやって来た。
牛鬼に取り憑かれた右目を使って、導かれるように妖の社を目指してやって来た。
それだけでも腹立たしい事実なのに、あの男ときたら滝野澤に呼ばれているから、という理由で呪符を取りたい、と申し出てきた。呪符を取れば、きっと滝野澤の居場所が分かる。だから呪符を取りたい。でも、牛鬼が暴れるやもしれないから押さえてほしい、と飄々に申し出た。二日前のことだ。
(大した覚悟もねえくせに呪符を取れとか、冗談じゃねえぞ)
米倉から申し出をされた日。
翔と比良利は呪符を取るかどうかで、一度激しく衝突している。
事を聞いた赤狐は患者の意思を尊重し、一刻も早く滝野澤の居場所を知るべきだと意見。呪符を取る選択を取った。当然だ。滝野澤は人災風魔を起こした憎き人間。野放しにできるほど安い人間ではない。
しかし、翔は真っ向から反対の意を述べた。
翔は見抜いていた。患者の申し出は、覚悟のうえの申し出はない。諦めを兼ねた申し出だということを。牛鬼をどうにかしたいから、滝野澤をどうにかしたいから、だから呪符を取りたいわけではないのだ。
もし覚悟のうえの申し出なら、比良利に同調していたが、そうでないのであれば黙っていられない。
あの時の話し合いはどこまでも平行線で、双方の意見が合うことはなかった。
ここまで比良利と意見が合わないことも珍しく、仕舞いには巫女らが話に割って入ったほど、それはそれは白熱した言い合いとなった。収拾がつかなかった。
結局、医者の一聴の意見を取り入れ、患者の容態をもう三日ほど様子見をする、で落ち着いたが……。
(妖祓長のひとりが百鬼一族の策略に落ちたいま、今度は俺の意見は通らない。悠長なことをしていたら、事態は悪化する。比良利さんは必ず言及してくるはずだ)
神主として正しい意見を述べてくることが予想される。
(優先すべきは市井の妖。南北の地の安寧秩序のために、妖の社があって、神職が存在している。なのにお主は何を見て、何を感じ、何を想って反対の意見を述べる? なんて言われるに違いない。分かってんだって。そんなこと。分かってるっ……けど)
どうしても米倉の申し出と、反比例した態度が気に食わない。どうしても気に食わない。
翔は鈍色装束のまま、ひとり日輪の社行集殿を訪れる。
牛鬼に取り憑かれたヒトの子が、そこにはいた。
今宵も右目を包帯と札で覆っている米倉は、ずいぶんと興味津々に野草を見比べている。
丁度問診をしているようで、付喪神であり医者の一聴に二つの野草の違いについて憶えているか、と尋ねられていた。傍には助手のお歯黒べったりのお有紀の姿も見受けられた。
「昨晩ヨモギとブタクサの見分け方をお教えしたかと思いまする。どちらがヨモギですかな?」
間髪容れず、米倉は右の野草を一聴に差し出す。
「こっち」
「理由は?」
「葉の裏が違う。産毛が多く生えている白っぽいこっちがヨモギで、緑っぽいこっちがブタクサだ。他にヨモギと似ている草はトリカブト。人間の俺にとってトリカブトは毒草だけど、化け物には薬用になることが多い。だっけな?」
「おや? トリカブトのことはお教えしましたかな?」
「あー……ちっとばかし目が良いみたいで、お有紀って奴が本を開いた時に。チラッと」
「昨晩憶えた知識は忘れておらず、相手の手元を盗み見る元気もある。うむ快調ですな」
「……センセイ。いま俺は褒められてるんっすかね?」
「一聴めの顔を見て、顔を引きつらせるだけの元気もあると。うむ快調ですな」
「……センセイ。いま俺は遊ばれているんっすかね?」
「化け物を見て、怖がる傾向はとても人間らしい。うむうむ快調ですな」
「化け物に弄ばれている俺、超カワイソーなんですけど」
「そう拗ねなさんな。水あめをご用意しますゆえ」
「すぐに餓鬼扱いするアンタ達なんなの」
「百をとっくに過ぎた化け物でございまする。齢十九の幼子」
「はああ。化け物に弄ばれている俺、本当にかわいそう……誰か助けろって」
むすくれた顔で胡坐を掻いた膝の上で頬杖をつく米倉に、一聴とお有紀が笑声をもらしていた。
一聴らなりの場の和ませ方なのだと一目で分かった。化け物を恐れる米倉が、少しでも自分達に心を開いてくれるよう問診に遊び心を入れて工夫している。
三者に声を掛けると、「いたなら助けろよ」と、あからさま不機嫌になる米倉とは対照的に、一聴とお有紀が恭しく頭を下げた。
「儀は無事に終わったのですね」
そろりと面を上げる一聴が意味深長に見つめてきた。
翔は苦々しく笑い、付喪神の前で腰を下ろすと患者を流し目にした。
さっさと布団に寝転がる米倉は、しばらく自分の方に話を振られないと判断したのだろう。ブタクサとヨモギを気だるそうに見比べている。しかし、こちらの話を一字一句聞き漏らさないよう、聞き耳は立てている様子。時折向けてくる左目が正直に教えてくれた。
それを理解したうえで、翔は一聴に患者の容態を尋ねる。
「見たところ、馬鹿元気そうに見える。熱も出てなさそうだし」
「はい。牛鬼から喰われる音も、いまは聞こえていないそうです。お清めの塩を入れた薬粥が効いているのかと。この社に来てから得た知識は綺麗に憶えているますし、喰われている様子もない。その効果の大きさを実感しておりまする」
「そっか。お清めの塩の効果は絶大なんだな。良かった」
「患者の精神状態も安定しております。不安は敵に隙を見せるようなものですから、これは良い兆候でございまする。ヒトの子ながら、異界の常識に対する受け入れと理解力が早い。なにより記憶力が良い。我々が教えていないことすら、自分の目で見たものは物にしまする」
「一応頭の回転は良い方だからな、すっげぇ馬鹿だけど」
「おいこら南条。さっきから白々しく馬鹿ばっか言いやがって」
不満気に鼻を鳴らす患者を綺麗に無視すると、翔は胸の内に燻っていた本題を切り出した。
「一聴さん。患者を連れ出す許可を――米倉の呪符を取る許可をいただきたい」
賢い付喪神は翔の申し出を予想していたのだろう。
苦い顔で小さく唸り、医者としては反対したいところだと返事した。
容態が落ち着いているとはいえ、呪符を取るということは右目に宿した牛鬼を解放するに等しい。自由を得られた牛鬼は瞬く間に、ヒトの子の身を内側から喰らうやもしれない。ヒトの子ながら宝珠の御魂を宿した妖らを狙い、その肉を喰らうやもしれない。反対に力のない妖らに目を付けて、同胞喰いをするやもしれない。最悪の結末ばかり想像がいく、と一聴。
「呪符は翔さまが?」
「俺が取る」
「おひとりで行うつもりですか?」
「まさか。みなには声を掛けているよ」
「比良利さまには」
「もちろん許可は取っている。ひとつの時代が終わりを迎えた今、四の五の言っている時間が惜しくなったんだ。神職狐らは大広間で待ってもらっている。一聴さん、どうか患者を俺に託してほしい」
「それが貴殿の命ならば、一聴めは従うほかございませぬ。後は患者次第でございまする」
一聴が患者に視線を投げると、「俺はいつでもどーぞ」と、減らず口を叩くヒトの子が一匹。翔の射貫く眼と交互に見やり、ひとつ重いため息。とうとう医者は許可を下した。
「我々は命を救う生業に就く者。少しでも患者に危険性があれば、身を挺して止めまする。それだけは御心に留めておいて下さいませ」
「ありがとう。だから一聴さんに安心して患者を任せられるんだ」
翔は頬を緩めて一聴とお有紀に一礼。
患者を先に大広間へ行く旨を伝えると、米倉に声を掛けて、ぎこちなく立ち上がる。まだ不自由な足ではあるが、二本足で歩くことが叶っているので完治は目前だろう。
行集殿を出ると患者と二人で大広間へ。
おぼつかない足取りのせいで、「南条歩くの遅ぇ」と背後から文句を飛ばされるが、こちとら少し前まで寝たきり狐だったのだ。ここまで歩けていることに褒めてほしいもの。
「んで? 本当はどこに連れていかれるわけ?」
角を曲がり、文殿を通りすぎ、大広間を通りすぎたところで、米倉が呆れまじりのため息をついた。
「いま通りすぎた座敷が大広間じゃねーの? 見え見えの嘘つきやがって」
「なんでそう思う?」
「雰囲気だよ。みんなに声を掛けている、ってところから、お前の空気が胡散臭くなった。ほんっとお前は嘘が下手くそだな。たぶんあの化け物医者も気づいてるんじゃね?」
先導する翔は苦笑まじりに肩を竦めた。
「俺の芝居に付き合ってくれた一聴さんには頭が下がるよ。後で謝っておかないと」
「質問の答えは?」
「月輪の社参道」
日輪の社では正直やりにくい。
内外関係なしに何かを壊してしまいそうだから。
なにより神職らの目があるので、月輪の社に移動したいと翔。
道半ばで神職らに会った場合は、適当に理由を付けて誤魔化すつもりだったが、幸か不幸か、誰にも会わずに済んだ。いや、察しの良い狐らだから、敢えて会わないようにしてくれたのやもしれない。翔が起こす行動を見越して――だとしたら、気合を入れて応えねばならないだろう。
月輪の社参道に辿り着くと、翔は米倉と距離を取って向かい合う。
気だるそうに立っている男に赤い目を向けると、両手の鋭利ある爪を軽く確認。大麻があれば、もっと楽に相手取れるのに。
そのようなことを思いながら、その額に陰陽勾玉巴を開示させた。
「米倉。俺は今からお前の望みを叶える。誰にも邪魔させるつもりはねえ。だからお前も逃げるんじゃねえぞ」
「普通に呪符を取ってくれたらいいじゃねえか」
「牛鬼っつーのは妖の中でも獰猛だからな。その目を抉る勢いじゃねえと、相手してやれねーんだ」
だから、ああ、だから。
覚悟してほしい。米倉聖司。
三尾の妖狐、白狐の南条翔は牛鬼ごとその目を掻っ捌くつもりで呪符を取る。
赤い目を妖艶に光らせると、不自由な足を一瞥。走れないほどの不自由さは無くなっていることを確認するや否や、鈍色装束の袖を靡かせてヒトの子の懐に入る。
「あぶねっ!」
米倉の右目を狙った爪は、呪符を微かに触ってすり抜ける。
足が自由ならば確実に目玉ごと呪符を掻っ攫うことができたというのに。
閑話休題、紙一重で爪を避けた米倉は見事に顔を引き攣らせていた。ヒトの子の目には、しかと翔が化け物だと映っているのだろう。目がかち合うと、左目が恐怖心に染まっていた。
総身の毛を逆立て、くわっと赤い口を開ける。
「次こそはその目を抉る」
「ばっ、お前、落ち着け! 呪符はどうした、呪符は!」
呪符を取る話がどこかへ行っている!
米倉の訴えは翔ける風の中に消えていく。
「逃げんな!」「無茶言う!」息も絶え絶えに逃げ惑う米倉は、翔の爪から逃げ続けた。足が不自由とはいえ、翔の爪をぎりぎりで回避できているのは、おおよそ牛鬼が取り憑いた右目のおかげだろう。
その目は先読みできるのか、それとも気配を感知できるのか、米倉は常に翔の爪を追っている。
とはいえ、相手はヒトの身。それも熱に魘されてばかりの弱り切った身なので、追いつくことなんぞ造作もない。
「ばっかやろう。お前が目玉抉っちまったら、滝野澤の居場所が分からねーだろうが!」
「目玉ごと牛鬼を引きづり出せばいい」
米倉の足がもつれ、その場に転んだところを狙い、鋭利ある爪を振り翳す。
これまた牛鬼の取り憑いた右目が翔の動きを捕らえ、米倉に右手首を掴まれた。左手の爪で右目を狙うも、同じように掴まれてしまう。力比べが始まった。
「観念しろ米倉。人間のお前じゃ俺に勝てねえ」
「はっ。もう勝利宣言なんて、超嫌味な奴だな。南条クン」
米倉は必死に右目を死守していた。
呪符を取れば、牛鬼が好き勝手暴れる。内側から米倉を喰らってしまう。米倉が牛鬼と化してしまう。それを覚悟して、米倉は翔に呪符を取ってほしいと願ったのだから、いっそのこと目玉ごと抉ってしまえばいい。そうすれば米倉は米倉のままでいられるやもしれない。
たらればだが、ただ呪符を取るよりずっとマシではないか!
そう訴える翔に、「冗談じゃねえよ」と米倉は悪態をついた。
「目玉抉られて、そんで終わる話でもねーだろ」
「何で分かるんだよ」
「牛鬼に喰われてるんだ。そんくらい分かるっつーの。退けって!」
「やってみねぇと分からねーだろ。それとも何か? 怖気づいたか?」
「うるせぇよっ」
こんな展開、誰だって怖気づくに決まっている。
米倉は言う。
自分が望んでいるのは呪符を取ってもらい、滝野澤の居場所を知ること。呪符を取ってもらう間は牛鬼が暴れるやもしれないから押さえてもらうこと。それだけだと。
翔は嘲笑する。
だったら目玉を抉っても問題ないではないか。牛鬼が暴れるのであれば、なおのこと目玉にいる牛鬼を引きづり出せば良い話。引きづり出せば滝野澤の居場所を吐かせることもできるし、もしかすると米倉の中から牛鬼が消えるやもしれないではないか!
「話になんねーよ」
「どっちがだよ。俺は手っ取り早い方法を試そうとしているだけなのに」
「南条クン、サイテー」
「最低で結構。俺はお前の望みを叶えようとしているだけ――米倉。お前の本当の目的は俺に呪符を取らせて、手前の身を牛鬼に喰われることなんじゃねえの?」
それでもって、米倉を喰った牛鬼を翔が討つ。
そのような結末を思い描いていたのではないか?
翔の問い掛けに抵抗する力が弱まる。大当たりのようだ。
「どっちが最低だよ。ひでぇ役割させやがって」
「はっ。最低で結構。それが俺のできることだって思っただけだ」
だってそうだろう?
右も左も化け物のことが分からない人間が牛鬼という奴に取り憑かれ、好き勝手記憶を喰われ、米倉聖司という人格を喰われ、中途半端な存在としてここで生きている。
いまの自分は人間? 化け物? どちらとも言えない存在として生き続けるのは、はた目から見ても無様だろう。その証拠に一体全体、自分が妖の社にいるのか、もう憶えていない。米倉自身、己が下の名前も憶えていない。何度も聖司と教えてもらった。それでも違和感でしかない。
身の上を聞いた他人はきっと自分を無様で同情的な生き物だと思うだろう。
ああ、その内、のらりくらり自分も分からなくなってしまう。米倉聖司は米倉聖司でなくなってしまう。
冗談ではない。
だったら自分がまだ分かる今のうちに、適当に他人の役に立って、さっさと喰われてしまおう。牛鬼と化した己を、きっと悪友ならどうにかしてくれるだろうから。
そのような思いを抱いている、とヒトの子は歪んだ顔で笑う。
「俺の考えを見通しているなら、さっさと願いを叶えろ。そのためにここに呼び出したんだろう? 誰にも邪魔されねーなら尚更だ」
翔は目を細め、腕を下ろした。
「そうだな。お前がそれを望んでいるなら叶えてやっても良い」
「なら」
「まず両手の震えをどうにかしろ。覚悟も何もしてねぇくせに一丁前なこと言いやがって」
両手首を掴んでいる米倉の手の震えを指摘し、翔はヒトの子の上から退くと、そっと彼に背を向けた。
「米倉。お前って時々もどうしようもなく阿呆になるよな。自分の本音を諦めで隠す。そういうところが、すげぇめんどくせえ奴だって俺は思っている」
「ンだよ」
「本当に牛鬼に喰われる覚悟があんなら、お前は目玉抉られることに抵抗なんてしねえんだよ。抉られたところで喰われたら一緒なんだから。けど、お前は必死に抵抗した。痛い思いなんてしたくねぇから。化け物の俺を恐れたから。死にたくねえから――下手な嘘をつくの、もうやめたらどうだ?」
砂利の掴む音が聞こえた。
それが背中に投げられるも、翔は振り返ることをしない。ヒトの子の顔は決して見ない。
「お前に何が分かるんだよ。中途半端に喰われているっ、俺のっ」
「分からない。俺は馬鹿だから、お前の口から言われねーと何も分からねぇ」
「くそが。適当に記憶喰われてみろよ。思い出せないことが多くなる」
「ああ」
「それがどれだけシンドイか」
「ああ」
「喰われたら取り戻せねぇ。忘れちゃいけねぇことをもう、いくつも忘れた」
「ああ」
「俺はいつか、俺もお前のことも分からなくなる」
「……ああ」
「分かるか南条? 今日憶えていることも、明日分からなくなる恐怖がっ。自分がいつか、誰だか分からなくなる苦しみがッ……誰を責めればいいのかも分からねえ。人間じゃなくなる手前が気持ち悪い。牛鬼になるなんて冗談じゃねえっ」
こんな有様で生き続けるなんて耐えられない。
適当に他人の役に立って死んだ方がマシではないか!
震え声で声音を張ってくる米倉は、きっと顔を歪めているのだろう。情けない顔をしているのだろう。涙しているやもしれない。それでも翔は振り返ってやるつもりはない。
顔を見てしまえば、後で死ぬほど恨みつらみを言われるに違いないのだから。
「ホンット頭が良いくせに、勝手に自分で悲劇の結末作って終わろうとしてんじゃねえよ。そういうところだぞ米倉」
「だったらお前はどうしてくれるんだよッ。まさか、最高のハッピーエンドでも見せてくれるってか? 俺はこんな有様だぜ? もう手遅れだっつーのに」
「手遅れでも何でも言えよ。記憶を喰われてシンドイ、だからなんだ? お前はどうしたいんだ? 本当に適当な人助けをして牛鬼に喰われて、俺がその牛鬼を討ってハッピーエンド。それでいいのか?」
それでいいのであれば、やはり自分は目玉を抉る選択をするしかない。
翔の脅しが効いたのか、それとも他に思うことがあったのか。
米倉はたっぷりと間を置いて、か細い声で、「喰われたくねえ」と呟いた。諦め癖のある男から、それだけ聞ければ十分だ。
「手遅れでも何でも手を尽くす。お前が喰われた記憶は俺が教える。お前が忘れた記憶は俺が全部憶えていてやる。お前が俺を分からなくなっても、俺がお前を憶えておく――牛鬼に喰われたくねえなら必死に足掻け。いつだって手を貸してやっから」
喰われたくない、その向こうの本音はきっと「米倉聖司として生き続けたい」
翔は悪友の願いを聞き届け、それに手を貸してやるつもりだ。米倉が願わなければ、手を貸してやることもできない。
翔は米倉を置いて、鳥居へ向かって歩き出す。
「落ち着いたら俺の下に来い。鳥居で待ってる。もう自棄になって、適当に役立つ発言するのはなしだからな」
返事はない。
ただ、濡れたような、掠れた音だけが聞こえた。
それが何の音か、翔には分かっている。
「南条てめえ、後でお前のこと全部教えろ。隠さず教えろ。いつどこで化け物になったのか、今のお前がなんなのか全部教えろ。意地でも覚えておくから。このまま言われ放題で終わるなんて、まじ癪だ。俺に傷心を負わせたお前を一生恨んでやらぁ!」
おっと、悪態をつく元気はあったようだ。
返事の代わりに、ひらひらと片手を振り、翔は鳥居へと向かった。