<十五>烏天狗、想いを懸けて対峙する
(今夜の空気は、ひどく味が悪い)
彼、名張天馬は錫杖片手に、玉葛の神社の社務所裏で夜空を見上げていた。
すっかり夜のとばりが下りた空には星々が瞬いている。月は半分ほど欠けている。半月と呼ぶには、少々欠け方が大きく、三日月と呼ぶには少々欠け方が少ない。そのような月であった。
天馬はゆっくりと肺に空気を吸い込む。ひんやりとした冷たさと、少々の苦味を感じる。吐いても同じ味がする。やっぱり今宵の空気はひどく味が悪い。それはきっと、己が感傷的になっているからだろう。
しゃん、しゃん、しゃん。
天馬は右手に持つ錫杖を軽く鳴らしながら、ゆっくりと瞼を下ろして昼間のことを思い返す。ここ玉葛の神社を発ったのは午前過ぎ、戻って来たのは夜も深まった刻。時間にすると半日程度。まだ半日しか経っていないのか、そう思わせるほど、過ごした半日はとても濃いものであった。
件について思うことは多々ある。
しかし、最も天馬の胸を占めるものは「敗北」の二文字。
自分は負けた。心の弱さにつけ込まれ、無様な姿を晒してしまった。到底、許せるものではない。思わず、錫杖を持つ手に力がこもる。己の心の弱さが露呈した、あの出来事がいつまでも天馬を嘲笑してくる。
ふと目線を戻すと、目の前に己の心につけ込んだ野寺坊がいた。
ゆめ幻だと分かっていても、錫杖を振らずにはいられない。天馬は渾身の力を込めて錫杖を振るうと、腰にたばさんでいた懐刀を迷わず投げる。向こうの木の幹に刺さった音で幻はす、と消えていった。
「弱い」
敗北ゆえの幻を見てしまった己を叱咤する。
まだまだ自分は弱い。もっと強くならなければ。
「相も変わらず、名張は休みという言葉を知らぬ者ばかり。お主の姿は若き天五郎を思い出させてくれる」
懐刀を取りに行くために踏み出した一歩が、ぴたりと止まる。
首を動かすと、社務所の壁に凭れて煙管を吸う赤い狐が一匹。いつからそこにいたのやら。武に長けた名張に気配すら感じさせないとは、四代目を継ぐ北の神主の名も伊達ではないようだ。
「翼の怪我は良いのか? まだ飛べぬのじゃろう」
天馬は止めていた歩みを再開する。懐刀を木の幹から抜き、肩を竦めた。
「飛べずともこの通り、体は動きますので」
二、三日もすれば、翼も回復していることだろう。
「比良利さまこそ、休まれなくて大丈夫なのですか? 昼間は大層、妖力を要したと存じます。明日のためにもお休みになられた方が宜しいかと。無理はおカラダに触ります」
「これこれ天馬。わしを爺扱いするでない。こう見えて、まだ齢二百の狐。多少の無理なんぞ、一刻程度、煙管を吸っていればすぐに回復する。それどころか、みながみな、ぼんを選ぶせいで、こちらの妖力も体力もあり余っておるよ。だあれも、わしの相手をしてくれぬ。腹立たしい話じゃ」
「翔は」
件で最も、心身を負傷した狐に心配を寄せる。
ここに戻ってくる間、指一本動かせず呻いていた。それもそのはず。あれは武の師である自分と正面からぶつかったり、妖御魂や来斬どもから襲われたり、迫ってくる瘴気に体が拒絶反応を示したり、と散々な目に遭っている。
挙句、数多な御魂を体に受け止めたのだから、その体にかかった負荷は想像を絶するものだったに違いない。
天馬の問いに、比良利はやんわりと顔を綻ばせる。
「案ずるな。あやつは無理やり寝かしつけておる。紀緒に眠りに効く薬湯を煎じさせたから、今宵はもう起きぬことじゃろうよ」
「わざわざ薬湯を煎じたのですね」
「そうでもしなければ、あれはまこと休まぬ狐ゆえ。お主のようにのう」
おどける比良利に天馬は小さく頬を緩めた。容易に想像できる。
「比良利さま。自分は貴方様にお詫びしたいことがございます――名張天馬、護影として、あるまじき失態を犯してしまいました」
静かに懐刀をおさめると、煙管を吸っている比良利の下へ歩む。
そして、己に護影を任せてきた主の前で片膝をつき、昼間の失態を赤裸々に告白した。
べつに言わなくとも良いのかもしれない。あの場にいた者達は誰も比良利に告げ口などしないだろうから、天馬さえ黙っておけば、一件は北の神主に知られなかったことだろう。知られることで、己の評価が下がる未来は見えているのだから。
それでも天馬は言わずにはいられなかった。護影を任せてくれたのは、誰でもない、比良利なのだ。
ならば、彼は知っておくべきだろう。天馬が犯した、此度の失態を。
「守るべき狐の命を自分は狙い、その身を傷付けてしまった」
これは処罰されるべき行いだと天馬。それを踏まえた上で、比良利に許しを乞う。
どうか、いま一度、護影のお役を自分に任せてくれないだろうか、と――汚名返上のために、いま一度、機会を。
いや、違う。汚名など何度かぶっても構わない。自分は純粋に守りたいのだ。まこと主だと認めた、その狐を。
「ぼんは、お主の失態になんと申した」
垂れていた頭を上げれば、比良利が同じ目線にいた。
彼もまた片膝をつき、天馬と同じ目線の高さにいる。対等な目線で疑問を投げているのだろう。見つめてくる眼は慈愛に溢れていた。
「……神に背いたと言った自分に、翔は『神様のせいに』するなと」
「ああ」
声が上擦る。
「己の中の憎悪は、何度でも自分にぶつけろと」
「あやつらしいのう」
比良利は何度も相づちを打ってくれた。
「裏切った自分に翔は……翔さまは『敗北』しただけだと。負けを認めろと、負けた現実から逃げるなと、そう申されました」
ゆっくりと北の神主は頷いた。
「それが我が対の判断なのであれば、わしはそれに従うまで。事は不問としよう。天馬よ、今日まで、よくぞ翔を守ってくれた。あやつの兄分として、また双子として礼を申し上げる。ありがとう」
相手は二百も生きている化け狐。齢十九の小僧の心など容易く見抜いているに違いない。おかげで天馬の口内は、とても苦く塩からい。一層、責め立てられた方が気も楽だというのに。
これがある意味、狐達が科した天馬への折檻なのやもしれない。
「されど」
比良利はすくりと立ち上がり、天馬に背を向けて、「これ以上は護影を任せられぬ」と言い放った。それは天馬にとって肝が冷える一言であった。
やはり、罪を犯した己に『護影』は任せられないのだろうか。
心中、荒れ狂う天馬の心を知ってか、知らずか、比良利はこう言葉を続けた。
「天馬よ。お主に護影を任せた理由は、ぼんがヒトの世界で入り浸っているため。わしの目に届かぬところにいるため。あやつは未熟な齢十九の狐ながらも南の神主、宝珠の御魂を宿す者。常にその身は悪しき者に狙われておる」
それが南条翔の置かされている現状だと比良利。
自分ほどの妖力や手腕を持つようになれば、軽率に襲ってくることは無かろうが、今の翔は未熟な上に妖狐としてもたいへん歴が浅い。悪しき者達は、ここぞと狙ってくることだろう。
翔が妖の世界に身を置いている間は、比良利を筆頭に神職らが目を光らせているので、下手な真似はできないことだろう。が、あれがヒトの世界に身を置いている間は、いくら神職と言えど限度がある。
また翔自身、ヒトの世界出身。神職らよりもその世界に詳しいので、いちど目を放すと、姿が追えなくなる。
だから。比良利は翔の身近にいながら、武を教える師の天馬に『護影』を任せた。翔がヒトの世界にいる間は、どうか闇討ちを目論む妖どもを斬ってほしい。
もしくは、己に知らせてほしい一心で。名張の者はみな、つわもの揃い。安心して『護影』を任せられた。
だが、此度のことで状況は変わってしまった。
「妖御魂が現世に舞い戻ったことで、ぼんはこれまで以上に狙われる」
それはヒトの世界で狙うやもしれない。妖の世界で狙うやもしれない。どこから狙ってくるやも分からない。狙われる当の本人は、「神主だから仕方がない」で現状を割り切ることだろう。多少なりとも、理不尽な理由で狙われても「神主だから」で話が済むのだ。
しかし。名張天馬は違う。過去がどうあれ、先祖がどうあれ、今がどうであれ、比良利からしてみれば名張天馬は一端の妖にしか過ぎない。南条翔の武の師を頼めど、根本は比良利の愛する妖の民のひとりなのだ。
そう天馬は神職でもなんでもない、ただの妖。
これから先、黒百合と幾度も衝突することを考えると、天馬に『護影』を任せるのは忍びない、と比良利は語る。
「お主の父、天五郎とは古くからの付き合い。その息子をこれ以上、危険に巻き込むわけにはいかぬ。天馬よ、お主の働きは感謝してもしきれぬ。その功績は比良利の名を持って称える。それは必ずや約束する」
ずいぶんと遠回しな物言いだが、要するに今宵をもって『護影』をクビにすると比良利は命じたいのだろう。
冗談ではない。
まず天馬が思ったことは、これであった。
確かに自分は南の神主の名を通して名誉が欲しかった。功績が欲しかった。それらによって、先祖の汚名が返上できるのならば、相手が未熟だろうが、若すぎる妖狐だろうが、なんだろうが、我慢して付き合うと覚悟を決めていた。
だから武の師を探していると聞いた時は、真っ先に飛びついた。
天馬にとって、最初の頃の翔の存在はその程度であった。
しかし。天馬の中で、すでに『その程度』が超えている。
「僭越ながら比良利さま。自分は危険を理由に、『護影』を下ろされるのであれば、容易に身を引くわけにはいきませぬ」
勢いよく立ち上がり、煙管を吸う赤狐の背中に訴える。
たとえば、件の犯した罪が理由で『護影』を下ろされるのであれば、己が未熟だったからだと嫌々諦めもつく。ふたたび『護影』を任されるため、未熟な点を改善しようと努力だってする。
だが、比良利は『危険だから』と言った。自分の身を案じてのクビであれば、是が非でも物申したい。
「危険は承知の上、それでも自分に『護影』のお役を任せていただきたい。このお役だけは、誰にも譲れないのです。それこそ翔さまであっても、貴殿の命令であっても――六尾の妖狐、赤狐の比良利さま」
まるで天馬の心情を現すかのように、二人の間に強い突風が吹き抜けていく。比良利は何も言わず、風に乗る紫煙を見つめ、天馬はひたすら北の神主の言葉を待った。
「今後ぼんが狙う妖どもは、わしと同等か、それ以上であるぞ」
風が止み、沈黙が満たした頃、比良利が口を開いた。
「お主も肌で感じたであろう。妖御魂の禍々しい妖気を、それの中に入った先代南の神主、天城惣七の妖気を。妖御魂の配下にいる来斬や、弥助の強さを――あれらの大半はわしと顔見知り。その強さは誰よりもわしが知っておる。わしですら、今後苦戦を強いられるであろうと予想しておる」
言葉に思いが込められているような気がした。気のせいだろうか。
「そんな輩達がぼんを狙う。ぼん自身、一端の神主として、それ相応の覚悟はできておるじゃろう。が、天馬、お主は違う。お主はただの妖じゃ」
仮に翔がそれらの悪しき者によって、命を奪われようと、「神主だから」という冷たい一言で済まされる。翔はそういう立場にいる。あれは本当に厳酷な道にいる。
その神主を陰から守る『護影』もまた、本来は厳酷なお役なのだ。ただの妖を守るだけの『護影』ならまだしも、南条翔の『護影』は妖を統べる頭領を守るお役。それ相応の悪しき者達が寄ってくることは明白な事実。
天馬は武に出でた一族に身を置いている妖だから、と今までお役を任せてきたが、これからはそうもいかない。黒百合が復活し、その正体が明かされた以上、一端の妖である天馬を容易に『護影』として任せるわけにはいかない。比良利はそう言って、静かに煙管を吸った。
それは北の神主の思いやりからくる判断なのだろう。
けれども。天馬とて譲れない。その思いやりすらお節介だと思ってしまうほどに。
「自分は貴方様とお約束しました――自分達にお見せ下さい。立派になられた翔さまと貴方様が、我々妖を先導する姿を、と」
これは『護影』を任された時に交わした約束だ。天馬は心から見届けたい。紅白狐が末永く妖どもを先導する姿を。いつまでも安寧を守っていく、その背中を。
その約束が果たされるには比良利は当然のこと、翔も隣に立っていなければならない。約束を違えることは天馬自身が許せない。
「いつか見せてくれるであろう約束を心より楽しみにしています。なのに、南の神主の御身が狙われていると知りながら、なにもせず我が身だけを思って身を引くなど、名張の恥――いえ、俺自身の恥でございます」
語気を強めたせいで、不慣れな一人称が出てしまった。構わない。すべて本当のことだった。
「名張天馬。錫杖を構えよ」
比良利が煙管の灰を地面に捨てる。
それが地面に落ちた、その瞬間、振り向いた比良利がその糸目を開眼させ、風を裂くように一歩を踏み出して駆けた。目にも留まらない速度であった。不意を突かれたせいで、背中に痛烈な痛みが走った。裏拳が入ったのか、蹴りが入ったのか、それすらも分からない。
しかしながら、不意打ちを除いても、比良利の動きは速かった。気づけば背後を取られているのだ。その腕前は確かなものだろう。
天馬は錫杖を地面に突き立てると、腕の力だけで倒立し、宙を回って次の攻撃を回避した。
そして、すぐさま錫杖を構えて、振り下ろされる煙管を受け止める。ただの煙管だというのに、その一撃はたいへん鈍く重い音を立てた。それだけで分かる。比良利の実力。目の前の妖は自分よりもずっと、ずっと、遥かに強い。
比良利が素早く煙管を垂直に振り上げ、天馬の持つ錫杖が宙へと舞い上がる。瞬く間のことであった。
嗚呼。天馬は宙を舞いながら落ちていく錫杖を見つめた。
(これが今の自分と比良利さまの差)
これは参った話。
一応、多少なりとも武の腕はあると自負していたのだが、いやはや甘かった。自分はもっと腕を磨かなければならないようだ。
(黒百合とやらはみな、比良利さまと同等、もしくはそれ以上。今のままでは駄目だな。駄目だ――自分は誰も守れない。だから強く、もっと強くならないと)
現実を見せつけられているのにも関わらず、なぜであろうか、自然と口元が緩んでしまった。どうして、そんな顔をしてしまうのか自分には分からない。
ただ。
天馬は錫杖を諦め、持ち前の懐刀を抜いて猪突猛進に切り込んだ。
本来であれば、一度相手の間合いを取って、様子見するべきところだろうが、天馬はどこかの誰かさんのように相手の懐に入った。比良利がそれを許すわけもない。おおよそ、拳が鳩尾に入るだろう、と天馬は予想した。自分なら絶対にそうする。
――バチンッ。
予想に反して、その身に襲いかかってきたのは、煙管のでこぴんであった。
ずいぶんと当たりが良かったようで、派手な音が辺りに響いた。正直に言おう。どの攻撃より痛かった。
「まったく。畏れるどころか、馬鹿の一点覚えのように突っ込んできよって。ぼんに感化されたのではなかろうか?」
赤くなった額をさすり、目を白黒させる天馬の余所で、比良利が苦笑をもらす。
「実力差を見せつければ、と思っておったが、やはりお主は折れぬのう。それどころか、『護影』に懸ける想いを、わしの方が見せつけられてしまったわい。そこも天五郎そっくりじゃ」
「ひらり、さま」
「しかし。今のは良くて相討ち。それでは長生きどころか、誰も守れぬぞ」
それでは天馬と交わした約束を果たすことができない、と比良利。
少々曲がった煙管を一瞥すると、「もっと強うなれ」と言って、幾度も額を指で押した。完全に幼子扱いだった。
「お主と交わした約束は、ぼんは勿論のこと、天馬自身も生きなければ叶わぬ。はっきり言って、今のお主は弱い。わしや天五郎よりも、ずっと」
それが『護影』を任せられない理由のひとつだと比良利は言う。その一方で、彼は天馬の気持ちを汲み、強くなれ、と何度も繰り返した。
「名張一族、烏天狗の天馬よ。お主の想いはしかと見せてもらった。いま一度、『護影』のお役を解いた上でお主に問おう。南の地を統べる頭領であり、黒百合に狙われる、三尾の妖狐、白狐の南条翔の『護影』をやり遂げる覚悟はあるか?」
これを引き受けてしまえば、今度はもう断る道はない。あの白狐と同じように、厳酷な道を辿ることだろう。
「常に強さを求められる、このお役の重圧は生半可なものではない。それでもお役を引き受けられると申せるか?」
比良利の厳かな問いに心がふるえた。
答えなんぞ最初から決まりきっている。
「喜んで『護影』の名を拝命いたします。今まではヒトの世界にいる時のみお守りする、という約束でしたが、これらから、どこの世界にいても必ずや南の神主をお守りします。自分は必ず強くなります」
一点の曇りもない瞳を比良利に向けると、彼は満足気に頷いた。
「ならば、もう試すことはすまい。天馬よ、どうか無鉄砲狐をこれからも陰から守ってほしい。あの仔狐の至らぬ点は多々あろう。未熟な点もあれば、目を覆いたくなる行いもあるじゃろう。その時は遠慮せず、叱り飛ばしてほしい」
無論、それは白狐に限ったことではない。赤狐もまた未熟な妖。神職らは完璧ではない。過ちを犯すこともあれば、誤った判断を下すこともある。その時はどうか、包み隠さず進言してほしい。それが北と南の地のためになる。
幼子を慰めるように、北の神主は天馬の頭を撫でた。
そこにはもう止める言葉も、案ずる言葉も、咎めの言葉もなかった。彼は白狐の身の一切を託したのだ。失態すら咎めることがないのだから、北の神主も少々甘いところがある。
苦く笑い、天馬は吐露する。
「比良利さま。どうすれば自分は強くなるのでしょうか」
強くなると言った手前、こんなことを聞くのは失礼にあたるかもしれないが、聞かずにはいられない。
まことの強さとは何だろうか。天馬は自問自答する。
「今の自分の腕は、きっと翔よりも強い」
けれど。
「心は翔よりも遥かに弱い」
それがとても悔しい。天馬は目を伏せる。自分は彼の武の師なのに、彼の護影なのに、心が弱いとはなんともお笑い種。一度だって翔に勝ったことがないのだから、本当に悔しいもの。武で彼を守れても、心の方はいつも守られている。
比良利なら、なにか知っているかもしれない。心が強くなれる、その方法を。彼もまた翔の師なのだから。
「天馬よ。わしも翔に心で勝てたことはない」
「え」
呆けてしまう。
冗談かと思いきや、比良利の表情は本当だと言わんばかりに笑っていた。
「というより、あやつがしつこいのじゃよ。誰もが折れてしまうようなことすら、いつまでも諦めずにいる。じゃから強く見えるのじゃろうな。いや、しつこさこそ翔の心の強さじゃろう」
願わくは自分もあれほど、しつこい狐になってみたいものだと比良利。笑う彼の目に偽りはなかった。
「弟子がしつこいと、お互いに苦労するのう。師の立つ瀬がないわ」
本当にそうだ。天馬は何度も頷いた。
「今だからこそ言えます。心のどこかで、自分は思っていました。神職に仕えたくなどない、と」
仕えてしまったばかりに、先祖は神職らから任されたお役を利用し、挙句罪を犯した。欲に目を晦ませた一部の先祖のせいで、自分達は苦労を負う羽目になった。
だから天馬は思った。自分の代は神職に仕えず、しかし逆らわず、なあなあに生きていこうと。汚名だけ晴らしたら、さっさと神職から距離を置こうと。
どこかで神職を恨んでいた。
当時の一族を、いっそ根絶やしにしてくれたら、いまの自分達はいなかった。周りから侮蔑される目を向けられることもなかった。天馬は天馬としていなかったことだろうが、それでも冷たい目を向けられるよりかは遥かにマシだと思った。思っていた。
なのに。
「結局、自分は神職に仕えたいと、支えになりたいと思うのです。『護影』も然り、『武の師』も然り」
そんな気持ちにさせてくれたのは、誰でもない、あの白狐だ。
「比良利さま。僭越ながら、自分は天城惣七さまを存じ上げません」
天馬はそっと声を窄める。
素晴らしい鬼才の持つ、歴代一優れた南の神主だったということは知っている。それだけだ。後のことは何も知らない。
「接したことがないからこそ、失礼覚悟で申し上げます。貴殿のかつての対に――刃を向ける御許可を」
これから先のことを踏まえ、天馬は比良利に許可を求める。
天馬が仕えたい神職の中に天城惣七はいない。素晴らしい妖狐だったということは重々承知している。
それでも、天馬はきっと天城惣七に対して刃を向けることだろう。何故なら、あの方は瘴気に毒されて、当代南の神主の器を狙う、戦狂いとなってしまったのだから。
彼を知る神職らにとって、此度の件はつらいことだろう。刃を向けることすら恐れてしまうことだろう。情が移ってしまう相手なのだから。
しかし。天馬は違う。その気になれば憎まれ役だって買える。だから。
「――ぼんにはまこと惜しい、護影じゃのう」
比良利がくしゃくしゃに髪を乱してきた。目を丸くする天馬に、「ぼんを守っておくれ」と、彼は心から頼みごとをしてくる。一方で憎まれ役を買わずとも良いと言った。
「あれはわしの対じゃて。そういうお役はわしが受け持つべきことよ」
「天城惣七さまは、たいへん優れた方だとお聞きしております。翔を除く、神職の方々にとっては少なからず情が出てくる方ではありませんか?」
「とどのつまり。翔ではなく、惣七を選ぶのではないか、と?」
天馬は一呼吸置き、深く頷いた。
嘘を言っても仕方がない。ここは正直に言わせてもらおう。
「みなさま、そういうお顔をしています。玉葛の神社に戻って来てから、ずっと……現世に返り咲いた天城惣七さまを想い、感傷に浸っているだけならまだしも、個々で思うことがあるような、そんなお顔をしていますので」
途端に比良利がすとん、と肩を落とした。へにゃっと耳と尾っぽを垂らしている。
「さっそく我らの至らぬ点を申してくれたのう。さすが天五郎の息子じゃ。鋭い指摘、まことに感謝する」
まだまだ精進が足りない。
そう言って彼は煙管を懐に仕舞った。立ち去ろうとする比良利の背に声を掛けると、「安心せえ」と言って返事する。
「わしを含め、みな、かつての同胞が返り咲いたことに戸惑っておるだけじゃ。いずれ敵対するであろう近い将来に」
しかし。覚悟は決めなければいけないことだろう。振り返る比良利の表情は、どこか淡く消えそうな微笑みであった。
それを見た天馬は思う。
(どちらも大切で、どちらもかけがえない者だった場合、それが選べない場合は……どちらを守れば良いのだろうな)
選ぶ。
たったそれだけのことが、こんなにも残酷なんて。天馬はきゅっと目を細め、かなしい微笑みを見つめる。
生憎、齢十九の小僧である自分には、二百年上の狐の心を見通すことはできなかった。