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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【第二幕ノ肆】魂の在り処
149/158

<十四>天城惣七、現世に返り咲く




 翔の体内は荒れ狂っていた。


 それは文字通り、嵐に呑まれたような荒れっぷりで、少しでも気を抜けば、己の自我が先代のつよい憎しみに呑まれてしまいかねない。ぶつかり合う妖気のせいで火照る体は、今にも溶けてしまいそうだ。


 ああ、耳を傾ければ、体の内側から聞こえてくる――所詮、お前は先代の代わり。否、代わりにもなれない平凡な狐。未熟な腕で南の神主を名乗るなど笑止千万。南の神主の名を継がせる価値もない。であれば、その身を渡せ。今すぐに明け渡せ。それが目の前の双子の対のため、月輪を任された者達のため、南の地のため。お前の代わりなんぞいくらでもいる。


 耳が痛くなるような声が、山のように聞こえてくる。


「ははっ、うるせぇなもう」


 翔は大粒の汗を零しながら、苦痛おびた微笑みをもらしてしまう。


 そんなこと、先代に言われなくとも分かっている。自分は未熟だ。鬼才でもなければ、天才でもない。才溢れた狐でもなく、飛びぬけた知恵があるわけでもない。元は人間の子ども、ただのボンクラ狐だ。誰よりも自覚している。

 表向きでは気にしていない素振りを見せているものの、誰も見ていない心の奥底では、何度も卑屈になっていた。先代と当代を比べる市井の声を、気にしていないわけがないではないか。


(けど。そんな卑屈になる俺を、常世のはざまで叱ったのは先代、あんただろう)


 先代は翔に言った。

 その才が凡であろうと、並であろうと、なんだろうと、作り上げた絆や繋がりは翔自身が築き上げたもの。翔は誰にも真似できない形を築くことができる。

 それを誇り、されど驕らず、これから先も南の地や妖達を守ってくれるよう、心から願ってきた。託される想いと一緒に。


 あの言の葉たちは、今も胸にしかと刻んでいる。だから決して、怨念の声に惑わされるものか。


(瘴気はどこまでも、妖達を狂わせる。それは先代も例外じゃない。ふざけるなよ、みんな傷付いてばっかじゃねえかよ。今も、一年前も、そして百年前もっ)


 瘴気は正気を狂わせる。

 分かっていながら、それを利用する妖御魂どもを思うと、はらわたが煮えくり返りそうだ。死んでもなお、正気を失っている妖達の魂を、どうしてゆっくりと休ませてやろうとしないのだ。今は憎しみに駆られている先代も、もう現世の此処に還るべき肉体はないというのに。


(ここで俺が先代に喰われたら、みんながみんな傷つく結果になる。先代の対だった狐も、先代を心から慕ってい狐も、ちょっとした思いのすれ違いで仲違いになった狐もみんな、みんな)


 それどころか、傷つけあう関係が築かれてしまう。


(意地でも喰われてやるかよ)


 翔は正気を保つために下唇を噛むと、喉から血が出る勢いで叫び声をあげた。

 我が身を焼き尽くすほどの狐火を体中に纏わせる。懸命に己の魂を守り、喰らいつく魂を拒んだ。向こうの妖気が増すと、翔も妖気を上げる。根競べに勝利するため、死に物狂いに抵抗した。


(くそっ。先代の妖気っ、半端じゃねえ。鬼才ってのは伊達じゃねえな)


 二つの妖気が体内で火花のように散っている。気分が悪い。目の前が真っ白になりそうだ。


「ぼんっ!」


 近づく気配が来ると、翔はそちらに向かって吠える。


「来るなっ。誰も俺に近づくなっ! 片っ端から喰い殺すぞっ!」


 はたして、これはおのが言葉なのか。それとも数多の御魂の声達のものなのか。うねる妖気の熱に茹だる翔には判断がつきかねる。


 ふと。己の魂に侵入する、けったいな気配を感じた。


 翔は戦慄する。

 とうとう先代の御魂が、己の妖気を破って御魂を喰らいつき始めたのだ。ああ聞こえる、感じる、恐怖する。胸の奥に秘める魂が呑まれる、そのおぞましい音を。喰らわれていく魂の痛みを。己が己でなくなる恐ろしさを。まさに生き地獄。このままでは。


(あっ)


 かじり。音に表すと、こんなものだろうか。

 翔は己の魂が容赦なく齧られ、食べられる音を確かに聞いた。同時に齧られた穴から、すっ、と魂の一部が溶け込んでくる。


 それはまぎれもなく先代の御魂であった。

 しかしながら、それは人の魂をかじる暴動を起こしたとは思えない、温かな気持ちにさせてくれるものであった。無性に泣きたくなる優しさであった。ああ、春の木漏れ日のような暖かさ胸いっぱいに広がる。


「そう、しちさん?」


 翔はそっと顔を上げ、かすれ声に名前を紡ぐ。

 夢まぼろしだろうか。己を見下ろすように惣七が立ち、慈しむように微笑んでいた。目をこぼれんばかりに見開き、彼の微笑みを瞳に焼き付ける。誰にも先代が見えていないようだが、翔には彼の姿が見えていた。


 先代と目が合う。


 それが合図だったのか、彼は額に陰陽勾玉巴を開示させる。

 倣って翔の額にも陰陽勾玉巴が浮かんだ。二つの魂が呼応した次の瞬間、体の内側を喰い破ろうとしていた先代の魂が、まるで導かれるように翔の体から飛び出していく。

 それにつられ、おとなしくなっていた怨念まみれの魂らも体から抜けていく。翔の妖気と、共鳴する白の宝珠の御魂の浄化の力に、怨念まみれの魂どもなったのだろう。


 ひとつの魂が抜けていく度に、息の詰まるような衝撃が体を走った。

 痛みはない。しかし、悲しみや苦しみ、底知れぬつらさが体中を駆け巡った。それは未練を宿す魂どもの気持ち、そのものだと思った。


「まっ、待ってよ。待ってくれよ、惣七さん」


 体の内から飛び出した先代の御魂を呼び止めようと、右の手を伸ばすが、それは宙を掻くばかり。目の前にいたはずの惣七の姿も、もうそこにはなかった。


「ぼんっ、しっかりいたせ」


 ふと気づくと、体が後ろへと倒れ掛かっていた。

 その背中は程よく肉のついた比良利の腕に支えられたものの、いまの翔には自力で起き上がる気力すら湧かなかった。文字通り、魂が一斉に抜けたせいだろう。翔は魂が抜けたように、呆然と宙を見つめていた。


 二度、三度の呼び掛けで、比良利を見上げることに成功する。つよい眼で見下ろしてくる赤狐に、大丈夫だと返したかった。

 しかし、先に口からこぼれたのは、翔とはべつの想いを持つ者の言葉であった。


「比良利。ああ、我が対よ。あとは頼むな」


 赤狐は面を喰らった。


「惣七?」


 応えるように口端を持ち上げたのは、確かに南条翔ではなく、天城惣七であった。ほんの一瞬であったが、比良利のよく知る天城惣七がそこにはいた。




 その頃、飛び出した先代の御魂は、そして後から飛び出した魂らは新たな肉体を得るために生きとし生ける者達に狙いを定めていた。

 それには善悪がないようで、オヨズレ達は勿論のこと、神職らにも牙を向ける。肉体を失った魂は現世を生きるため、どうしても新たな肉体が欲しいようだ。魂は本来、肉体に宿るもの。本能的に欲しているのやもしれない。


 四方八方に散る魂達はたいへん数が多い。

 逃げる暇すら与えず、生ける者達を追い回す。


 すでにぼろぼろの大広間には、比良利の放った強い火柱があがっており、だだっ広い一室には炎が走り始めている。逃げる道は狭められているのだ。そんな中、数多の魂らから逃げるのは至難の業である。


 比良利は持ち前の糸目をそっと開眼し、小さく舌を鳴らす。


「くっ、魂達が暴走しておる。もはや鎮魂すら儘ならぬ」


 とくに。


「惣七の魂が他の魂を喰らい、力を得ておる。あの戯け狐め」


 群れをなす魂らを喰らう、ひときわ大きい御魂を指さして比良利は眉を寄せた。


 そんな先代の御魂は風を切りながら数多の魂を喰らい、また一度は散った魂らを率いて、生きとし生ける者達に向かって雨あられのように降った。

 生きる肉体を持つ者がそれらに触れれば、火傷のような痛みを感じ、偽りの肉体を持つ者達がそれらに触れれば、簡単に土塊と化した。魂達は生命をも喰らっているようだ。


「ちっ。魂も虫みてぇに数が多いと厄介だぜ。あーあ、せっかくの体が崩れてきた。これじゃろくに火縄銃も撃てやしない」


 悪態をつく黒狐の来斬は翔から程遠い所にいる。

 輩は右腕を押さえていた。魂が腕をかすめたのか、一部が朽ちていた。土塊と化していた。身に宿る生命を喰われた証拠だろう。いや、そもそも、来斬の肉体に生命など宿っているのか、それすら疑問に浮かぶ。


「簡単に神器は作らせてくれないということですかねぇ。まったく困った話ですよ」


 同じように骨傘ほねからかさ弥助やすけの剥きだしとなっている肩が朽ちて、土が剥きだしとなっている。あれでは、ご自慢の花魁の着物も見劣りしてしまうことだろう。うつくしさが台無しだ。


「第九代目南の神主、天城惣七。我らすら喰らい、後のことは赤狐達に“すべてを任せる”つもりか。余計なことをしてくれる、くれる、くれるぞ。やはり一筋縄ではいかぬか」


 オヨズレはしわくちゃの翁顔を歪めると、自分に向かってくる数多の御魂から逃れるべく、浄衣の懐から古びた鏡を取り出した。

 それは飾りっ気のない丸鏡だった。しかし、一目で神器と分かる、神々しい気を感じた。間違いない、あれは玉葛の神社に祀られていた“玉葛の神鏡”だ。


 数多の魂らが神鏡に映ると、一斉にそれらは鏡へと吸い寄せられる。そして鏡の向こうへと消えていく。

 しかしながら、先代らしき御魂は神鏡に吸い寄せられることなく、真っ直ぐオヨズレの体へと溶け込んだ。その衝撃でオヨズレの肉体が半身ほど土塊になるも、朽ち果てることはなかった。


「あの戯け狐っ、自らオヨズレの肉体に入っていきおった! 何を考えておるっ」


 比良利の悪態は逆巻く風と炎の中。

 一寸の時を置いて、翁の顔から、天城惣七の顔と変わったオヨズレは音なく駆ける。ぞんざいに転がっていた南の神主が持つ大麻を拾い、歪んだ微笑みを翔達に見せた。


「オヨズレだか、なんだか知らぬが、この肉体は今より天城惣七のものよ。ふふっ、現世の空気はまことに久しい。内に宿した魂の半分にオヨズレの魂を感じれど、肉体の自由を得たのはこの天城惣七だ」


 南条翔の身に宿った時にはない、素晴らしい自由を感じる。それだけあの仔狐の魂には、宝珠の加護があったのだろう。


「悔やまれる。あの小僧の肉体さえ手に入れば、生前のような力を取り戻すことができただろうに」


 オヨズレの額にすっ、と陰陽勾玉巴が浮かぶ。

 呼応するように、呆けている翔の額にも陰陽勾玉巴が浮かんだ。それはそれぞれ禍々しい暗色を放っており、誰がどう見ても穢れた気を放っていることが分かる。


「この肉体では満足に宝珠の力が使えんか。やはり、宝珠に選ばれた肉体でなければな」


 そう言って、オヨズレは魂が抜けたように呆然としている翔を見つめて舌なめずりをした。いや、輩のことは惣七と呼ぶべきなのか。いまの比良利には分からない。


 ただひとつ、言えることがある。

 それは大変いびつな形で先代、第九代目南の神主・天城惣七が肉体を得て、完全に現世によみがえった、ということだ。

 ああ、なんてことだ。天城惣七がこのような形でよみがえってしまうとは。


(さらに悪いのは、あやつは数多の魂とオヨズレの魂を喰らって現世によみがえっておる、ということ。到底、普通のよみがえり方ではない)


 いや、よみがえる、それに普通も何もあるわけがない。あるわけがないではないか。

 今すぐにでもオヨズレの中にいる、惣七の魂を解放し、一発拳をお見舞いしてやりたくなった。生きていても死んでいても自分に世話を焼かせるとは、これいかがなもの。


 比良利は輩を見据えた。オヨズレの魂を喰らったせいか、輩の顔に性格の悪さが色濃く出ている。


「…………いや、性格の悪さは元からじゃのう」


 じつは、生前とあまり大差はないかもしれない。比良利は小さく毒づいた。


「惣七っ」


 うらめしい気持ちを込めて名を呼ぶ。

 返ってきたのは、嫌味を含んだ言葉、ではなく、どこまでも冷たいものを含ませた言葉であった。


「比良利。ああ、かつての我が対よ。俺を死に追いやった者よ。いずれ貴様の身に宿る宝珠を、その魂を、そして新たな対である、その小僧を奪ってみせようぞ」


 そして。いつか宝珠の統べる土地を、黒百合の統べる土地に。


「とはいえ、本日はこれまで。少々強引に魂を喰らったせいで、体のいたるところが朽ちかけているのでな」


「逃がすと思うか。戯け狐よ」


「ああ、思うさ。お前は俺と違ってボンクラ狐だからな」


 一々棘を撒いた言葉を放ってくるところは、比良利のよく知っている天城惣七である。

 しかし、それすら認めたくなかった。認めてしまえば最後、今後の関係性が嫌でも見えてくる。かつては「魂の双子」と呼ばれていた自分達が、今度は「敵対」関係として成立してしまう。ここで逃がしてなるものか。


 されど。比良利の心を嘲笑うかのようにオヨズレ否、惣七が大麻を構え、二、三回振って、大広間を駆け巡っていた炎を呼び寄せる。炎は見る見るうちに厚い壁となり、輩の姿を、気配を、妖気を掻き消していく。



「いずれ、また会おう。六尾の妖狐、赤狐の比良利――そして、三尾の妖狐、白狐の南条翔よ」



 嫌味ったらしい言葉を置き土産にして。


 周りを見れば、来斬や弥助もまた、炎の壁の向こうに消えているではないか。ここまで来て、とんずらされるなど神主名折れだ。


「小癪なことをしよって」


 炎の中に飛び込んで追うのも手だろうが、気配すら掴めない状況で炎に飛び込み、手探りで輩を探すのは少々無謀であった。

 なにより、今の比良利の腕には翔がいる。下手に深追いすれば、仔狐の肉体が奪われるやもしれない。


 そんな翔はといえば、依然魂が抜けたように呆然としている。

 無理もない。本来、ひとつしか宿らない体に数多の魂が入っていたのだ。その精神にかかる負荷は、比良利の想像を絶するものだったに違いない。


(少し休めば気がつくじゃろう。ぼんは弱い狐ではない)


 だから。何も心配はしていない。


「比良利さま。大広間が崩れております。脱出を!」


 向こうの炎から聞こえてくる紀緒の声。

 直後、比良利の下にギンコが風の如く駆け寄ってくる。早く乗れと鳴いてくる銀狐の背にまたがり、しかと翔の身を支えた。


 こうして比良利達は別荘から脱出する。

 自分達がいた場所は、別荘の地下に当たる隠し部屋だったようで、脱出直後は火の手すら見えなかった。

 けれども、間もなく地上に見える無人の別荘にも火の手が回る。よほど炎の勢いが強かったようだ。めらめらと燃える、それはまったく弱まることがなかった。


 ただ、不思議なことに回りのイチョウの木には燃え移ることない。忌まわしい別荘のみが炎々と燃え続けている。

 この勢いならば、いずれ燃え尽くしてしまうだろう。それで良いと比良利は思った。火は浄化の力を持つ。瘴気を湧かせている別荘など、いっそ綺麗に焼き尽くしてしまった方が良い。この地に棲む妖のためにも、ヒトのためにも。


 ぱちぱち。ぱちぱち。

 飛び散る火の粉の音を耳にしながら、比良利はギンコの背中からおりると、身を支えていた翔の体も地面におろす。


「あそこにいた妖達……置いてきちゃったな」


 翔は正気に戻っているようだ。

 ぼんやりと宙を見つめながら、大広間に残された妖達を想いやる。骨の山となっていたあれをすべて拾い、地上に運んでやりたかった。供養してやりたかった。拾う猶予などなかったことは、頭で分かっていても、やっぱり遣る瀬無い。白狐はそう言って胸の内を明かす。


 続けざま、翔は呟いた。


「天城惣七はまだ、完全な魂を持っていない。あれは半分の魂にすぎない」


 なぜなら、半分は自分の中にあるのだから。



 ※



 日が傾き始めた空の下。


 彼、米倉聖司は高熱があるにも関わらず、住宅街の中を一心不乱に走っていた。

 すれ違う通行人からは、己の顔を見られる度に訝しげな眼を投げられが。それも仕方のない話。右目を覆うように包帯が巻かれ、その上から呪符を貼られているのだから、さぞ滑稽な姿に見えることだろう。


 しかし。今はどうでも良い。周りにどう見られようが構わない。自分は身を隠さなければならない。

 このままでは、ここ数日は厄介になっていた、妖祓の家が、その人間が危ない。これ以上、恋敵に迷惑を掛けるなんぞ癪だし、その近くにいる片思い相手に危険が及ぶのも腹が立つ。


 牛鬼が取り憑いている右目が激しく疼く。


 それに比例して眼球の裏から、己の内側を喰らう喧しい音と、声なき声が聞こえる――妖祓の肉を喰らいたい肝を喰らいたい妖祓の家には妖の知らない秘術があるやもしれないそれを知れば滝野澤はもっとヒトを妖にすることができるだろう自分はヒトが喰らえる喰らえる喰らえる。ああうるさい!


「ちと黙っとけ。俺を悪食家にさせるんじゃねえよ。くそ牛め。いや鬼? どっちでもいい」


 己の右目に取り憑いている牛鬼が、妖祓の家に身を置く己を利用して、何かしようと目論んでいる。

 しかも滝野澤という単語が出てきたということは、己に取り憑いている牛鬼はまだ滝野澤と繋がっているということ。どこかで滝野澤が牛鬼を操っているのやもしれない。元々己の右目に取り憑いている牛鬼は滝野澤が連れて来たものらしいから、その可能性は大いにあるだろう。


 それに気づいた時、米倉は居ても立っても居られなくなった。

 ここ数日、自分の具合を尋ねてくる恋敵や、会わないと言っているのにも関わらず見舞いにやって来る片思い相手の顔を思い浮かべ、米倉は人知れず苦笑いを零した。


「こんなことなら、最後に一度だけ、見舞ってくる顔を見りゃ良かったかな」


 いいや。決めたではないか。自分はもう二度と、彼女に会わない、と。

 もちろん。恋敵にだってもう会わない。


 揃いも揃って自分の顔を見て、責を感じ、勝手にこれから歩く自分の人生の道の糧にしようとしているのだ。冗談ではない。


「妖なんだか、化け物なんだか知らねーけどよ」


 日の差さない路地裏に逃げ込むと、米倉は両膝を折って荒くなった呼吸を整える。大粒の汗が額から零れた。あつい。目があつい。とても、右目があつい。


「俺を簡単に好き勝手できると思うなよ」


 これでも底意地の悪い人間なのだ。ひとに頼まれ、ああそうですか、と素直に聞けるほど、良い性格はしていない。


「俺のことは、俺自身で決めて終わらせてやるさ」


 誰かさんらのように、誰かのせいにするわけでも、誰かのためにするわけでも、誰かを目標にするわけでもない。自分がこれで良いと思った道を、ただ突き進むだけ。

 それが傍から見て良かろうが、悪かろうが、そんなの関係ない。自分の道は自分で決めて、そして終わりを迎える。米倉はそういう人生を送りたい。


 人生なんぞ自己満足のかたまりだ。自分が満足しない人生を送らないなんて損だと思っている。そう、思い続けている。だから。


「俺が俺として終わるには……さあて、どうすっかねぇ」


 米倉は立ち上がり、重い足を引きずるように歩く。周りの景色を見やることもなく、ただただひたすらに。熱帯びる右目は依然、熱を持ったまま。

 そんな右目は呪符を貼られていても、包帯を巻かれていても、外界がはっきりと捉えられる。

 ふと、右目が何かを捉えた。それが何かは分からない。ただ、米倉はそっちに行けば、身を隠せるのではないか、と本能で察する。自然と足先がそちらへ向いた。朦朧とし始める意識の中、見知らぬ住宅街を進み、石段をのぼって、段を一段越しに跨いで、そして。そして。


「でけぇ……なんだ。この鳥居」


 米倉の前に現れたのは、大きな大きな鳥居だった。立派な鳥居の向こうには参道が見える。狛犬ならぬ狛狐も見えた。


「神社? でも、どこの……狐ってことは稲荷神でも祀ってあるのか?」


 だけど、なぜだろう。ここならば、静かに身を隠せる気がした。きっと、ここなら大丈夫。ここなら誰も傷付けず、誰にも指図されず、自分が自分でいられるような。終わりを迎えられるような、そんな気が――ああ、限界だ。


「内側から喰われる音がするの、どーにかなんねぇかな。お札、本当に効いてんのか……ねぇ……」


 喰われる音がする度に自分が自分でなくなるような気がする。それがこわい。

 米倉の体がぐらりと後ろへ倒れる。運悪く体は石段を転がり、何段か滑り落ちていく。やがて勢いを失い、半ばで止まった。

 気を失った米倉の頬を、冷たい夕風が撫でていく。彼を見下ろす空の色は、見事なからくれないに染まっていた。

 



 同じ頃。実家から連絡を受けた和泉朔夜は、ひとり暮らしをしているアパートから飛び出し、タクシーを拾っているところだった。


「米倉が姿を晦ませたなんて。あいつ、何を考えているんだ。牛鬼に取り憑かれたり、毒や妖祓の術を受けたりっ……身も心もぼろぼろのくせに。どんなに気丈に振る舞っても、誰よりも傷ついてるのは自分のくせに。何を考えて」


 和泉家を訪れていた飛鳥もまた、見舞いの菓子を放り、来た道を駆け抜けていた。


「高熱があるのに、なんで朔夜くんの家を出て行ったの米倉くんっ。机の引き出しに米倉くんのアパートの住所があったはず。お願い、部屋にいて、お願いだからっ!」


 しかし。右目を牛鬼に取り憑かれてしまった青年、米倉聖司はひとり暮らしのアパートに戻っておらず。実家にも戻っておらず。夕闇の街にひっそりと身を潜め、行方を晦ませてしまう。足取りは未だに掴めていない。



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