<十三>赤狐は烈火の如し(弐)
その時。対の危機を救うべく、白狐の下へ向かっていた比良利は、肌が粟立つような空気を感じるや、思わず足を止めて息を呑んでしまった。
総身の毛が自然と逆立っていく。
ああ、つよい妖気を感じる。それは懐かしい妖気。忘れようがない妖気。かつて、己の肩を並べていた者の妖気。まさか。
頭で理解するよりも早く、翔に馬乗りになっていた首なしの傀儡が白狐の手によって、いとも容易く突き飛ばされる。
宙に浮かんだ傀儡の体躯は白狐の青い狐火によって無慈悲に燃え尽くされ、やがてただの土塊となり、塵となって崩れ落ちた。
それは翔の狐火であり、決して翔の狐火ではなかった。
あの仔狐では成し得ない、強力な狐火だったのだ。
あれはまだまだ、未熟で幼い仔狐。大麻を使用せず、唯一使える妖術は狐火であるが、あれほどの火力なんぞ今の翔の実力では出せまい。となれば。
「ぼん」
比良利の呼び掛けに、ゆるりと立ち上がる翔は何も答えない。足が不自由なのにも関わらず、筆のように太い三尾を支えにして、その場に佇んでいる。
ぼんやり、うつろな目で両手を見下ろす姿は、いつもの翔らしからぬ表情であった。負けず嫌いを強調したような勝気な面持ちはそこになく、すべてを見通したような、諭したような、静かな面持ちがそこにはあった。
不思議そうに己の手の平を見つめ、結んだり、開いたり、と感触を確かめている。
向こうで倒れているギンコが、きゃいきゃい、きゃあきゃあ、と鳴いて翔を呼ぶ。それは安否を気遣う鳴き声であった。
普段の翔ならば、いち早く反応を示し、ギンコの下へ走るだろうに、翔は無反応を貫くばかり。ギンコばかを自負しているくせに、何もかも翔らしくない。
(ぼんの妖気が異常なほど上がっている)
比良利は確信を得た。
「お主……惣七じゃな」
顔こそ違えど、その諭した表情はかつてよく目にしていたもの。比良利はその顔がいつも気に喰わず、唾を吐き掛けたくなっていたものだ。
惣七、と名前を呼ばれた翔が、かくりと首を横に倒してこちらを見つめる。
向こうで睨みを飛ばす赤狐を満遍なく目を配った。
そして、す、と目を細めると、「比良利」と、静かに名前を返した。比良利を尊敬してやまない翔が、己の名前を呼び捨てにするなど万が一にもあり得ない。対等の呼び名ですら「比良利殿」なのだ。
やはり、今の白狐は当代の南の神主、南条翔ではなく、先代――天城惣七。
(ぼんは惣七に呑まれたか? いや、まさか)
瞬きのことであった。
能面を貼り付けている翔が、床を蹴って比良利の懐へ潜り込んできた。
不自由な足を引きずる仕草など、何処にも見受けられない。白狐は軽やかな動きで、己の懐に潜ると、右の手の甲で比良利の鳩尾を突き飛ばした。
間一髪のところで大麻を構えた比良利は、宙を返って前方を睨む。
着地の無防備を狙っていたのか、すでに翔が距離を詰めていた。比良利が大麻を持ち上げると、瞬時に背後へ回ろうとする。
翔とは幾度も、手合わせをしたことがあるが、彼は猪突猛進な動きが特徴的だ。相手の出方を読んで、動きを変えるような器用なことは不手である。
なのに。まったく小癪な動きは、まこと昔を思い出させてくれる。
「ちっ。百年の再会がこれとは。つくづく手を焼かせる双子じゃ、なっ!」
大麻を逆手に持つと、迷わず横一線にそれ振り切る。
輩は両の手で挟み、それを受け止めた。
比良利の妖気を纏った大麻は、紙垂の先まで熱帯びている。直に触れれば、あっという間に火ぶくれを起こしかねない。
けれど、翔は怖じることなく大麻を挟み、あろうことか比良利から奪い取ろうと力を込めてきた。瞬く間に力比べが始まりだ。
「聞こえておるか。戯け狐よ。現に戻るや、お主は何をしておる。さっさと翔の体から出て、常世に還らぬか。お主のお役は百年も昔に終えたじゃろうが。わしにお役の尻ぬぐいの一切を任せて」
奪われそうになる大麻を握り締め、翔の中の御魂に嫌味と真摯な言葉を訴える。
些少でも善の理性があれば、この声が届くと思った。相手は鬼才。一を言えば十分かる狐。生前の惣七であれば、状況を把握し、比良利の言葉を受け止めてくれるはずだ。
だが、翔は目の色を妖しく光らせるや、「貴様を討つ!」と、声音を張った。あからさまな敵意と殺意がこもっていた。
「宝珠の御魂を持つ貴様が憎い。よくもっ、よくも、あの時っ、俺を見殺しにしたなっ!」
「なっ」
それは思わぬ言葉だった。
「よくもっ、死を俺になすりつけたな。比良利!」
百年の月日を経て、再会した御魂からぶつけられた言葉は、つよい憎しみであった。
翔は否、惣七は訴える。
あの時、そう九十九年前の、あの時、比良利は死ぬはずであった。本来、比良利が鬼門の祠に向かい、自分が来斬と同行するはずだったのに、小さなずれによって未来は覆った。
それゆえ自分は命を落とし、赤狐は今ものうのうと生きている。
ああ、腹の底から憎い。なぜ、これが未だに生きているのか。なぜ、たやすく死を回避したのか。
答えは簡単、比良利はこの未来を知っていたのだ。己さえいなくなれば、比良利は優位に立てる。何もかも己に劣っていた妖狐だ。自分の存在は忌々しかったに違いない。
だから。そう、だから六尾の妖狐、赤狐の比良利は自分に死をなすりつけた。
「すぐに助けに来なかったのも、貴様の計略の内だろう。比良利っ!」
耳が痛くなるような言葉を、次から次へとぶつけてくる惣七の憎しみは本物であった。
負の感情をおおっぴろげにさらけ出し、惣七の御魂を持った翔は比良利の腹を蹴飛ばす。やろうと思えば、受け身を取れたはずなのに、情けなく向こうへ倒れてしまった。
「……なあにが計略じゃ、阿呆狐」
思った以上に惣七の言葉が、胸をえぐっているようだ。息が苦しい。
「代わってやれるものなら、あの時、喜んで代わってやりたかったわ。置いて逝かれた者達のことを何も知らぬくせに、よう言ってくれるわ」
空いた手を額に当て、比良利は自嘲をこぼす。
「戯け者の言葉に怯むとは、北の神主も名折れじゃのう。はあ、わしもまだまだ未熟な狐じゃよ」
無様ったらありゃしない。
おっと、うじうじと寝転んでいる場合ではない。
比良利は素早く起き上がり、飛び掛かってくる翔の拳を回避した。
「比良利さま!」
遠いところで、切迫した紀緒の声が聞こえた。弥助の相手をしているため、こちらへ来ることが叶わない様子。
「お気を確かに。翔殿っ! 惣七さまっ!」
来斬の相手をしている青葉の訴えが切ない。彼女は今、この状況をどう見ているのだろう。
「ん?」
逃げる比良利を睨んでいた翔が右の方向を見やる。
目を眇める先にはオヨズレがいる、轟々と燃え盛る火柱。そこから飛び出した妖御魂を捉えると、瘴気を纏った大麻を振り下ろす輩の攻撃を紙一重に避けた。臙脂の浄衣が炎を纏っていたが、お互いにそれに怖じることはない。
「貴様が俺を呼び戻した者か」
立ちはだかるオヨズレの顔は、先ほどまで比良利に見せていた天城惣七の顔ではなかった。何百年も生きているような、貫禄ある翁の顔であった。しわくちゃの顔であった。
つまりそれは、輩の肉体から天城惣七の御魂がいなくなったことを意味する。
「理性があるか。あるのか。天城惣七よ」
「貴様は俺を利用したかったようだが……よく聞け」
きゅっと口角を持ち上げ、翔は歪んだ笑みをみせた。
「俺は誰の指図も受けない。誰の指図もな」
過程がどうであれ、この御魂も、この肉体も天城惣七のものだ。縁あって現に戻ったのだから、己のやり残したことをさせてもらう。
「死の原因を作った、宝珠の御魂なんぞ葬ってくれる。俺を死に追いやった者共々、すべて討ってくれる」
だから。
「まずは貴様の持っている大麻を返してもらうぞ」
額に陰陽勾玉巴を開示させる、それは禍々しい色を放っていた。
神々しい浄化の白色なんぞ一抹もない。そこにあるのは穢れを思わせる、暗紫色の光であった。
惣七の魂を宿した翔は、素手で大麻を奪い取るとオヨズレに狐火を放つ。
彼はすべてを憎んでいた。己が死んだ日をしきりに口にし、生と宝珠の御魂に執着した。それどころか、双子の対である比良利に明確な殺意を示しているのだから、奇々怪々な光景極まりなかった。
(ああ、どうしてこんなことに)
一方、誰よりも天城惣七を尊敬している青葉は、ただただ現実が受けいられずにいた。戸惑う暇すら与えてもらえない。
向こうにいるあれは、本当に天城惣七の御魂を宿した翔なのか。
自分を拾い、家族として迎えて入れてくれた妖狐が、大切な人の御魂を呑み込むばかりか、双子の対である比良利に敵意と殺意を向けるなんて。宝珠の御魂に憎しみをぶつけるなんて。
青葉と対峙している来斬は、面白おかしそうに口笛を吹いた。
「こりゃあ想像以上だな。惣七の御魂は瘴気に呑まれるどころか、数多の御魂と小僧の御魂と瘴気を呑み込んで、新たな力を得ようとしている。ははっ、ただでは神器には成り下がらないってか。相も変わらず愉快な奴だな」
「黙れ来斬。惣七さまの何を知っている」
この男だけには、この男だけには惣七のことを語ってほしくない。
敬愛する思いの丈が激情に変わる。癇癪玉を投げつけ、黒狐の視界を奪って頭を蹴り飛ばそうと試すが、来斬は軽い足取りで身を屈めて、青葉の蹴りを避けた。
それどころか。冷たい笑みを浮かべて、青葉を追い詰めるのだ。
「ありゃ瘴気によって憎しみ狂いしているぜ。正しく浄化された御魂は守り神として、その土地の氏子らを見守るお役を受け持つが、それができない穢れた御魂の行く末はひとつ。祟り神だ。天城惣七の御魂は祟り神になりかけてやがる。無念や怨念にまみれた数多の御魂や、小僧の御魂を呑み込んでな」
違う。惣七はそのような外道なことはしない。
「小僧の御魂は死に、惣七の御魂は祟り神になる。お前らは二人の南の神主を見殺しにしたってことだな。百年前とちっとも変わらねぇ」
「翔殿は死んでいない。勝手なことを言うなっ」
「あれを見て、そう言えるのか?」
来斬が憎しみに満ちあふれた翔の姿を顎でしゃくる。
自由自在に動けるようになった足を動かし、起き上がった比良利を追い詰めようと駆ける姿は、翔であって翔ではない。彼の御魂はもう……。
『青葉。惑わされるんじゃあないよ。お前さんは日々一緒に過ごす坊やより、来斬の安い言葉を信じるのかい?』
にゃあ。しゃがれた鳴き声が叱咤してきた。
首を捻ると、来斬の分身である狐と対峙している流と、肩に乗った猫又婆の姿。
猫又はくわっと赤い口を開いて問うた。
『青葉。お前さんは惣七に似て、才溢れた狐だ。その一方で、惣七に似て、ひとつの物事に対して極端な感情を持ってしまう。向こうにいる惣七はまさにそうさ。憎しみに駆られて、ただただ感情の思うままに走っている。視野を広く持ちなさい。お前さんの知る惣七は、坊やはどう目に映っているかえ?』
ハッと青葉は我に返る。そうだ。そうだった。彼はそんな軟な狐ではない。武の腕は弱くても、その精神力は誰よりも強靭なのだから。
きっと、翔なら来斬にこう言い返すだろう。
「私は自分の目で見た惣七さましか信じませぬ。たとえあれが惣七さまの御魂であっても、あれがまことの姿だとは思わない。そして翔殿とて同じ。私は私の知る、お二人しか信じない。お前の言葉に惑わされるものかっ!」
(さて、どうしてくれようか)
比良利は執拗に懐に入って来ようとする翔から逃れようと走っていた。気配で大麻の一振りを察知するや、持ち前の大麻で受け止め、それを力の限り弾く。
幾度か大麻を交えることで、多少の冷静を取り戻すことに成功する。
(惣七め、危うく真に受けるところじゃったろうが。古傷をえぐりよって)
憎しみをぶつけてくる翔を紅の瞳に映すと、比良利は苦虫を噛み潰したように顔を顰めてしまう。
(いくら惣七の御魂といえど、いまのあれに理性はない……)
なにせ、ここには無念と怨念のこもった瘴気が漂っている。
生ある者が吸えば、たちまち正気が瘴気に呑まれてしまう。正直、比良利も瘴気を吸って少々頭が痛い。
しかし。瘴気の脅威は生ある者だけではない。
肉体を失った御魂にも多大な影響を与える。己を追い駆けて来る翔の様子を見る限り、天城惣七の御魂は本能の赴くまま、新たな肉体を得て、負の感情をさらけ出している。
今の天城惣七に善悪の区別など無いに等しい。
(本来、御魂はひとつの肉体につき、ひとつしか宿らぬ)
例外的に比良利と翔は自分の御魂とは別に、大御魂の御魂であり神器でもある『宝珠の御魂』を身に宿しているが、それでも数にして二つ程度。数多の御魂を身に宿すことなど、万が一もない。
いまも翔の体内では、数多の御魂たちが我こそ肉体を得ようと荒れ狂っているに違いない。惣七の御魂が面に出ているが、白狐からはいくつもの御魂の気配が感じ取れる。
(待て。そこに惣七の御魂が入っていけば、必然的にあやつが頂点に立つ……)
あれは神主だった妖狐。御魂の強さは頭三つ分ほど、飛びぬけているはずだ。
「……これすらも計略か」
天城惣七の御魂に数多の御魂を喰らわせ、黒百合の狙いである“新たな神器”の下準備を行っているのか。
それだけではない。負のこもった御魂を喰わせれば、惣七の御魂は理性を失い、正しい判断ができなくなる。ますます瘴気が宿るに相応しい魂となる。
なるほど。これがオヨズレの真の狙いか。これでは惣七も憎しみ狂いするはずだ。
「つくづく腸の煮えくり返ることをしよってっ」
比良利の独り言を拾ったのだろう。炎包まれる一帯の熱風に乗って、どこからともなく、せせら嗤う声が聞こえた。
「ご明察。さすがは六尾の妖狐、赤狐の比良利よ。間もなく、そう間もなく、そなたは今の対を失い、かつての対が神器となる瞬間を目の当たりにするのだ」
オヨズレは怒りにまみれた比良利の古傷を抉るようにうっとりと語った。
輩は知っていたのだ。先代を失った百年前の件が比良利の心の傷になっていることを。
そして、九十九年もの間、対を失った赤狐は失うことを恐れていることを。
だからこそ、当代南の神主が先代の御魂に喰われる最期を見届けろ、と言って煽ってみせるのだ。相手を動揺の底なし沼に沈めてしまえば、討ち取ることも容易いことをオヨズレは知っていた。
しかしながら。
オヨズレの予想に反して、目の前の狐は怒りこそ見せど、たいへん冷静であった。 それどころか、煽りに対して薄ら笑いを浮かべる。受け入れ難い現実を前にして気でも狂ったか、オヨズレは訝しげに言葉を投げてくるが、比良利はただ、ただ冷静であった。
「オヨズレよ。うぬの計略には大きな誤算がある」
「ほう。何かと思えば、ここにきて強がりとは。では問おう、誤算とは?」
比良利は笑みを深めた。
「三尾の妖狐、白狐の南条翔じゃよ。うぬはあれを少々見くびっておるようじゃのう。あれが惣七の御魂に喰われるタマじゃと思っておるのならお笑い種」
足を止めて踵返す。追って来る翔が大麻を振り翳してきたので、下から突き上げるようにして、それを受け止めた。
「戯け者よ、いや惣七よ。その肉体を我が物だと思うのは、ちと気が早いのではないかのう?」
「なに?」
「忘れたか。お主の御魂が宿る、その肉体は我らの弟子であり、わしの対であり、惣七の魂を継ぐ狐だということを。お主はこの仔狐に、自身の想いを託したであろう」
「こんな仔狐に誰が想いなんぞ」
「忘れたとは言わせぬぞ。手前で救った、その仔狐のことを。お主は確かに、ぼんに想いを魂を託した。なのに、それを無碍にするとは、底知れぬ阿呆のすることじゃぞ」
惣七に呑まれた翔を早く救ってやらねば。
そう思う己がいる他方、心のどこかで大丈夫だろうと思う自分もいた。強がり? 虚勢? それとも、諦めに似た妄想? 残念、どれも違う。
比良利は思ったままのことを口にしている。
南条翔は齢十八のぼんぼん狐、どの妖と比べても未熟で力不足が目立つ。
けれども、それだけであの狐を判断して痛い目を見ることだろう。
比良利とて痛い目を見た。
未熟な狐だから、まだまだ百にも満たない幼子だから、大切に大切に保護していこう。立派な神主に育つまで、己と肩を並べるその日まで、自分がしかと面倒を看ていこう。白狐に対処できない物騒沙汰はすべて、自分で受け持とう。白狐はただひたすら、神主の修行に集中させておこう。
なあに、今度は決して対を死なせるようなヘマはしない。
南の神主は短命の呪詛に掛けられているが、それも自分の代で終止符を打つ。呪詛を断ち切るためにも、物騒沙汰の一切は自分がやれば良い。
そんな甘っちょろい考えを持っていたおかげさまで、仔狐の白狐に叱責されてしまった。
比良利は先代の死と自分を照らし合わせている。自分の対と名乗っておきながら、いざとなると物騒沙汰から自分を遠ざける。
それはつまり、南条翔という妖狐を信用していないということ。比良利は自分を信じていない。先代の天城惣七と、当代の南条翔は違う妖狐なのにっ!
そう、齢十八の狐に諭されてしまったのだ。二百も年下の狐に、比良利が恐れている翳の心を見透かされてしまった。
今思い返しても、それはそれは気恥ずかしいもの。
「その狐は鬼才すら喰いかねぬ、貪欲の御魂を持っておる。果たして、お主が仔狐の御魂を余すところなく喰らえるものか」
いや喰らえまい。
比良利は信じている。
周りのみなが心配を寄せ、先代の御魂に呑まれるのことを危惧しようが、自分だけは対を信じ続ける。己の対は弱い狐ではない。あれは幼い狐ながら、先代の御魂を受け継ぐもの。南の地を統べるもの。妖達を先導するもの。
そう、比良利は信じている。二人の白狐を。
かつての対も、今の対も、この比良利と双子の御魂。オヨズレの思惑どおりに屈服する狐ような軟な妖ではない。だから。
「いつまで眠っておる。そろそろ目を覚まさぬか、それが南の神主の姿とは情けないぞよ、翔」
何を馬鹿な。これはもう己の肉体となった。当代の南の神主の御魂はもう存在しない。翔が反論しようとした言葉は、
「自分だって、情けない姿っ、見せたじゃんか」
べつの言葉によって上塗りされた。
「ちょっと乗っ取られている間にっ、感動の再会はできた? まだ眠っていた方が良い?」
「喧しい。ハナタレ小僧のくせに、一丁前に嫌味を吐きおって」
「俺なりの励ましだって。くそっ、体がまだ、自由に動かなっ、なっ……」
憎まれ口を叩く翔は、いつもの負けん気を宿した顔であった。見慣れた顔であった。それで良い。比良利はいたずら気に笑った。
少しの間、気を失っていた翔は、しかと比良利の声を聞き届けていた。
それは力強い声であった。体の内から聞こえる数多の声を掻き分けて、己を叱咤する強い呼び声は魂を揺さぶられた。胸が熱くなったのは、己の体内に宿る宝珠の御魂が、片割れの宝珠の御魂と共鳴し合っているから? それとも自分を信じてくれているから? はたまた……。
(ああくそっ。足手纏いがこれ以上、足手纏いになってどうするんだよ。俺は守られるために、此処へ来たわけじゃねえだろうがっ)
情けない。本当に情けない。
先代の御魂を救うどころか、体を乗っ取られ、双子の対に大麻を向けている。敵の思惑に嵌っている。まったく、何をしているのだ。自分は。
「どいつもこいつも俺の体を狙いやがって……これは生まれてからずっと、俺の体っつーの」
だから誰にも渡さない。それこそ先代にだって、この肉体はくれてやるものか。散々暴れ回ってくれている御魂たちには悪いが、さっさとお引き取り願いたい。
「俺の体から出て行けっ。まとめて、還るべき場所に還してやっからっ!」
未だ自由の利かない、大麻を握り締めている両手を睨むと、翔は額に浮かびあがった陰陽勾玉巴でつよい威光を放つ。
先ほどのような禍々しい色はどこにもない。
浄化の色を宿した神々しい光であった。威光に堪えられず、体の内で暴れ回っていた多くの御魂がおとなしくなった。これも宝珠の御魂の力のおかげだろう。
しかし、その力を持っても、ひとつの御魂が狂ったように御魂たちを喰らい、翔の御魂を喰らおうとする、不届き者がいた。
先代の御魂だ。
それは宝珠の御魂の力に屈することなく、否、その力すら喰らって翔に牙を剥いた。さすがは先代の御魂。ただでは折れない。
数多の御魂を喰らった先代の御魂は、より強大な力をつけて、翔の自我と御魂を喰らおうと精神へ浸食してくる。つよい憎しみを感じた。
同時に惣七の強大な妖力が全身をめぐっていく。
「比良利さんっ、俺から離れろ!」
大麻ごと比良利を突き飛ばすと、翔もその場で両膝をつき、己の持てる妖力を全身にめぐらせた。食うか食われるか、魂の根競べが始まった。