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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【第二幕ノ肆】魂の在り処
147/158

<十二>赤狐は烈火の如し(壱)



 うねる青い炎が空間を焼き尽くす。

 そのせいで四面、板張りだった一室は一切の姿を消した。代わりに目に飛び込んできたのは、だだっ広い大広間。時刻はまだ昼間だというのに、そこは薄暗く、薄寒く、しっとりと湿った空気が肌に張りついた。


 また、ずいぶんと大広間は古びており、床板は所々抜け、ささくれ立っていた。ネットで調べた時の屋敷の外観は美しく、実際この目で見た時も、立派だと思っていたのに、佇む広間はそれに相応しくないぼろさであった。


 ああ、本当にここは、先ほどまでいた屋敷なのか。


 少し目を引けば、比良利と共に行動していた者達の姿が、各々応戦する姿が見受けられた。よかった、逸れた者達はみな無事だったようだ。

 けれど、彼らに強く意識を向ける余裕はない。

 なぜなら。翔は目の前のオヨズレ、否、天城惣七から目が放せずにいるのだから。


(オヨズレが天城惣七? そんな、ばかなことあるかよ)


 翔は生前の先代、天城あまぎ 惣七そうしちのことをよく知らない。短命で鬼才だった、と人伝ひとづてに聞いたことがある程度。彼が生きていれば当然の如く、翔の師となっていたことだろう。


 そんな先代の評判は十人十色。称賛や尊敬の念もあれば、苛立ちや嫌悪の念も耳にする。

 しかしながら。どのような想いを聞いても、そこには確かな愛情があった。時に彼に対する、つよい憎しみを耳にすることもあれど、それは想いの裏返しだと翔は知っていた。


 ああ、彼はまこと素晴らしい妖狐だったに違いない。


 翔はいつも想像していた。先代が自分の師匠となっていたら、一体全体どのような関係を築いていたのだろうか、と。


 自分は比良利に似て単純狐だそうだから、もしかすると折り合いがつかず、日々喧嘩が絶えなかったやもしれない。

 もしくは鬼才の足元にも及ばず、挫折していたやもしれない。はたまた負けん気を起こして、必死に喰らいついていたやもしれない。彼は身内にいつも厳しい化け狐だったそうだから、その厳しさに耐え切れず修行を放って逃げ出していたやもしれない。


 片隅でいつも、「たられば」を考えていた。


 そして。その先を想像して、ひとり思いをせていた。他の神職らほどではないが、心の底から彼に会いたいと願った。

 それこそ近頃の話。死の瀬戸際で先代と顔を合わせたことはあったが、翔の望むものは、もっと静かな夜の和室で、美味しい甘酒を飲み交わし、穏やかな気持ちで南北の地と妖達の安寧について語り合う。そういうものだった。

 叶わぬ夢だと知りながら、何度も脳裏に思い描いた。


(こんな形で叶うなんて……)


 いくらなんでも、こんなのあんまりだ。


(目の前の男は本当に天城惣七なのか? オヨズレは、なんで先代の姿をしているんだよ。意味が分からねぇって)


 混乱したまま、翔は天城惣七の顔をしたオヨズレを凝視する。

 目が合った。彼は翔を捉えると、妖艶に顔をほころばせ、足元に落ちた狐面を踏みつけて、ぬるりと舌なめずりをした。

 それは“依り代”の翔を狙う、悪意に満ちた厭な目をしていた。生前の彼の話を聞いていた手前、とても不似合いな目の色だと思った。


(青葉は……あいつは大丈夫か)


 先代を尊敬してやまない巫女の心情を思うと、やり切れない気持ちでいっぱいになる。幸い、彼女は黒狐の来斬と対峙していることもあって、オヨズレに対する関心は薄いようだ。平常心を装っているだけかもしれないが。


 瞬きのことだ。

 厭な目をしていたオヨズレの右頬に、赤き風が横切り、大麻おおぬさの柄がめり込んだ。勢いづいた大麻の勢いに耐えかね、輩の身が横転するも、それは宙を返って倒れることを回避した。


 されど、無防備となる着地の隙を見逃さず、飛び膝蹴りがオヨズレの額に入った。


 今度こそ輩が無様に倒れたところで、片膝をついて着地した比良利の糸目が、すっと開かれていく。普段は滅多にお目に掛かることのできない紅の眼が、確かに、怒りに燃えていた。


「やっと、ようやっと、うぬと顔を合わせることができたわ。ここに来るまで、やれ傀儡くぐつの出来損ない天城惣七の相手ばかりさせられるわ、やれ誰ひとり黒百合は相手にしてくれぬわ。やれ一方的に蚊帳の外に出されるわ。たいへん煮える気持ちを噛みめておったぞよ。オヨズレ」


 みながみな、ぼんぼん白狐の相手ばかり。だあれも自分の相手をしてくれないとは、なんとも、つれない話ではないか。

 比良利はくつくつ、と喉を鳴らすように笑う。


「さらに腹立たしいのは、この比良利にした仕打ちよ。よくもまあ、我らをくだらぬイチョウの並木道の幻影に閉じ込めたもの。傍から見た我らは、大層間抜けじゃったろうのう。なにせ、ずっと屋敷の周囲を歩いておったのじゃから」


「屋敷の周りを?」


 思わず口を挟んでしまう。それは一体。


「ぼん。さきほど、付喪神で連絡を取った時のことを思い出してみよ。天馬が策を提案した時、付喪神は妙な態度を取らなかったか?」


 そういえば。

 比良利達と合流するために、付喪神の器である携帯のカケを通話状態にし、向こうの携帯に電波を送ってほしい頼んだ際、カケは妙な態度を取った。

 まるで意味が分からないとばかりに身を震わせ、ちっとも電波を送ってくれなかったのだ。あの時はカケが指示を理解していないと思っていたが……。


 翔は比良利との話を照らし合わせ、自分なりに答えを出す。まさか。


「あの時、比良利さん達はすぐ近くにいた?」


 もっと突き詰めていえば、目と鼻の先にいたのでは。それこそ目に見える範囲に。だとしたら、カケの態度も納得がいく。


 付喪神の器は疑問に思ったのだろう。

 電波を送るも何も、すぐそこに通話の相手がいるのに、なぜ電波を送るなど面倒な真似をするのだろう? そんなに合流したければ、歩いて会いに行けば良いのに。だって、すぐそこに相手がいるのだから。


 比良利は幻影に閉じ込められたと言っていた。平たく言えば、術に嵌っていたといえる。


(幻影は相手の視覚を支配する術。そう比良利さんは学びの時間に教えてくれた。カケは携帯の付喪神の器で、まだ半妖だ。視覚ってのがない。だから術に嵌らなかったわけか)


 しかし、まだ疑問が残る。


(比良利さんは俺と電話をしている時点で、それに気づいていたのか? だったら、もう少し早く来てくれても良かったのに。もしくは俺に言ってくれるとか。足止めでも喰らったのか?)


 そこで比良利の立場になって物事を考えてみる。

 これでも尊敬している師の背を毎日見ている翔なので、なんとなく彼のことは把握しているつもりだ。

 自分が比良利であれば、事に気づいた時点で相手の様子を窺うだろう。相手の動きを知りたくば、まずは慌てず、騒がず、慎重に何かを使って様子見を……。

 そこで考えた時、翔の口元が見事に引きつった。


「なあ比良利さん。まさかとは思うけどさ。依り代として狙われている俺を使って、敵を泳がせた、なんてことはないよな。まさかなぁ?」


 にっこり。赤狐が柔和な笑顔を見せる。


「ほほう、察しが良いのう。ぼんぼん狐よ。やはり敵はまとまっている方が、討ちやすいと思わぬか?」


「つまり?」


「そういうことじゃよ」


 なんて狐だろうか。こちとら死に物狂いで逃げていたというのに!

 翔は地団太を踏みたくなったが、生憎足が動かないので、思いきり睨みを飛ばしておくことにする。

 しかし、とうの本人の言い分は「元はと言えば、お主が弥助の術に嵌って逸れるせいじゃ」であった。責任の一切をこっちに押し付けてきた。あんまりである。


「ちぇ。なんだよ。比良利さんだって、最初は油断して敵の術に嵌ってたくせにさ。どうせ、途中から気づいて敵を泳がせようなんて思い立ったに違いっ、アデデデデ!」


 容赦なく尾っぽを抓られ、悲鳴を上げる翔の背中を押し、「オツネ。ぼんを乗せて下がっておれ」と、言って比良利が命じる。


「オヨズレの相手はわしがする」


 そう言って、構える大麻を下に下ろした。

 飛び膝蹴りを顔面に食らっても、顔色一つ変えずに立ち上がる輩に比良利は冷たく笑う。


「うぬことじゃ。白狐を追い詰める一方で、わしの動きを常に見張るため、並木道の幻影に閉じ込めたのじゃろう? その思惑をさとったわしはわざと、うぬの術策に嵌った。わしもまた、うぬらの動きを見張るために」


 ここを見つけ出すのは容易かった。

 手持ちの付喪神の器の反応を確認しながら、通話状態の付喪神の器の居所を辿れば良かったのだから。おかげで、すぐに白狐の居所は把握できた。


 そうして黒百合の下にたどり着いたら、このような茶番が待っているとは。今なら箸が転げても大笑いできそうだと、比良利はやんわり嘲笑する。


「なにゆえ。かつての我が対、惣七のりをしているのか。野暮なことは聞くまい」


 聞いたところで徒話になるだけだ。

 すると、輩が小さくせせら笑った。


「このオヨズレの言葉を忘れたか、愚かな赤狐よ。すでに役者は揃った。天城惣七の御魂は復活の時機にきている。いや、うつつの世にあれの御魂はすでに舞い戻っている。この姿といい、お前に向かわせた傀儡くぐつ達といい、察しの良いお前なら気づいているはず。はずである」


 比良利の殺気が一帯に満ち満ちる。それは肌を粟立たせる、冷たい空気であった。


「おおよそ、“玉葛の神鏡”で、天城惣七の御魂を戻らせたのじゃろう。玉葛の神鏡はこの地で生まれた神器、その力は信仰のあるこの里でこそ発揮されよう」


 天城惣七の御魂をこの地に呼び寄せることができたのは、玉葛の神鏡の力と、穢れにまみれた瘴気の力だろうと比良利。

 瘴気は穢れであり、邪気でもある負の気。それを利用すれば、同じ邪気を宿る御魂を今世に引き寄せることも可能だろう、と赤狐が小さく唸る。


「先の先まで見通すお主のことじゃ。遅かれ早かれ、我らがこの土地に足を運ぶと踏み、準備をしておったのじゃろう? いつでも、天城惣七の御魂を依り代に入れられるように。惣七と同じく、瘴気を御魂に宿す翔を迎えるために」


 彼は通話状態の付喪神の器を通して、すべてを知っていた。翔を魂の同胞と呼ぶ理由や、瘴気を宿す御魂同士が惹かれ合っていることを。


「さりとて、準備をするにあたって問題が生じた」


 問題とは。

 聞き手に回る翔は、思わず比良利に目を瞠る。


「天城惣七の御魂そのものは、あまりに強力。うつつに戻らせたところで、一度は神主だった者の御魂じゃ。あれの意志の強さと、妖力を抑えることは容易くない。じゃから――御魂を四つ八つに分けたのじゃろう?」


 御魂を分けてしまえば、抑える力も少なく済む。それを用意した依り代に御魂を閉じ込めてしまえば、天城惣七の出来損ないが完成するというわけだ。


 とどのつまり。

 翔の大麻を奪った賊も、比良利を襲わせた傀儡くぐつも、目の前のオヨズレもある意味、先代の御魂を持つ天城惣七なのだ。

 オヨズレが天城惣七のりをしているのは、他の者より多く先代の御魂を持っているからだと推測できる。


「まったくもって笑わせてくれる、笑わせてくれるぞよ、オヨズレ。まさか、この世で最も腹立たしい男の顔をして現れるとは。その顔で我らの動じる姿でも見たかったのか? はたまた、手出しができぬようにしたかったのか? じゃとしたら、策に溺れたも同然。わしはその顔を見るだけで、体中の血が滾って仕様がないわ」


 なにより。


「体内に眠るそれは、うぬが持って良い御魂ではない」


 赤狐の額に陰陽勾玉巴が開示され、紅の妖気が渦巻く風と共に吹きすさぶ。瞬く間にだだっ広い大広間は青い炎の海となった。


 六尾の妖狐、赤狐の比良利の、怒りを宿した狐火だった。


「あれはまこと腹立たしい狐であったが、確かにわしの対であった。この比良利と双子の兄弟であった。魂の双子であった」


 それを穢れた想いで現の世によみがえらせるなんぞ、誰が許せるようか。ああ、誰が許せようか!



「惣七の御魂を返せっ、オヨズレよ! 我が対を返せっ!」



 青い炎は意志を持って、翔け出す比良利の後を追う。憎き輩の身を焼き尽くそうと、大波小波のように押し寄せるあの炎は、比良利にとってただの狐火なのだろう。


「これが比良利さんの本気の狐火……俺の狐火と比べものにならねえっ」


 後ろから見守っていた翔は、ギンコの一鳴きに急いで身を屈める。

 寸時の間もなく、むせ返るほどの熱風が襲ってきた。ゆるりと顔を上げれば、赤き狐の姿となった比良利がオヨズレに牙を向けて衝突している。ただの体当たりですら、息の詰まる熱風に呑まれそうになるのだから、彼の妖力の凄まじさを思い知らされた。


 正直、衝突する両者の姿が目で追えない。

 振り返れば、人型に戻った比良利が大麻を振り下ろしているし、瞬きをすれば獣姿の彼がオヨズレの鋭い爪から逃れているし、かと思ったら頭上で妖型の姿に変化して牙を向けている。


 これが第四代目北の神主の実力。


(すげぇ)


 翔は心のどこかで思っていた。

 比良利と対等になるまで、どれほどの月日を要するのだろうか、と。

 二百年くらいだろうか。いや、じつはもう百八十年くらいまで縮まっていないだろうか。天馬から護身術も教えてもらっていることだし、比良利自身も翔を本当の意味で認め始めている。


 なら、やっぱり百八十年くらいで追いつくかもしれない。

 そんな生意気なことを思っていたが、彼の本気を目の当たりにしたら、ちっとも追いつけそうにない。肉体的にも精神的にも、まだまだ比良利の方が一回りも三回りも上だ。なんで、追いつけそうだなんて軽々しく思ったのか。


 翔は悔しい気持ちを抱いた。

 当たり前だが、比良利は強い。まことに強い狐だ。到底、足元にも及びそうにない。一体いつになったら、彼に追いつけるのだろうか。

 反面、翔は誇らしい気持ちも抱くのだ。憧れている自分の師の本気は、想像の遥か上をいくもの。こんなにも自分の師は強い。


 だからこそ、この目でしかと焼きつけておきたい。


「比良利さん。頼む、惣七さんの御魂を解放してあげてくれ」


 翔が願わずとも、比良利はそれに応えてくれるだろうが、どうしても言わずにはいられない。天城惣七もまた翔の師なのだから。


「余所見をするでない。翔」


 息が詰まりそうになった。

 急いで振り返ると、比良利が大麻を両手に持ち、翔を庇っている。大麻の向こうにはオヨズレの姿。隙を見て翔の背後を取ろうと目論んだのだろう。

 鋭い爪が大麻の柄に刺さっている。玉串を構える暇もなかった。油断も隙もあったものではない。


「お主の相手はわしと申しておろう。オヨズレ」


「後でゆっくりと相手をしてやるというのに、せっかちな狐、狐である」


「阿呆抜かせ。二度も三度も、わしの目の前で、我が対を好き勝手されてなるものか。うぬの中に眠る御魂も、背後にいるぼんぼん狐も――比良利の双子よっ!」


 其の狐、赤狐の比良利は大麻でオヨズレの身を力の限り押し返すと、一帯に轟かせる声音で咆哮した。大麻を水平に持つと、それでオヨズレの心の臓を貫いた。


 その顔がかつての対であろうと、なんであろうと、比良利は容赦をしなかった。

 現の世に舞い戻った惣七の御魂を解放すべく、そして依り代の翔を守るべく、オヨズレの身を大麻で貫く。


 穴の開いた心の臓から黒く濃い瘴気が噴き出したのは、この直後のことだった。


「比良利さんっ、げほっ……その瘴気から逃げろ!」


 比良利は翔のように瘴気の毒に対する抗体がついていない。見るからに濃度の高そうな瘴気を吸えば、比良利とて、ただでは済まないだろう。

 以前も、瘴気を吸い過ぎて倒れたことがあった。瘴気の危険は誰よりも本人が身をもって体験している。


 なのに。


 赤狐は浄衣の袖口で鼻や口を覆うこともなく、体を捻らせると、勢いをつけてオヨズレの身を床板に叩きつけた。

 その瞳孔を膨張させると、熱帯びた大麻で輩を突き刺した。臙脂の浄衣に火が点き、衣から火柱が上がる。


「させぬ!」


 オヨズレから飛び退き、疾風の如く翔けた比良利が翔とギンコの前に回った。そこに現れたのは、翔の大麻を奪った、例の黒い浄衣の傀儡であった。


「その大麻を返してもらおうか。たとえ、うぬが惣七の御魂の一部を持っていようが、それを使いこなせるのはひとりだけじゃ」


 大麻が横一線に薙ぐ。

 大太刀を振る時のように、大ぶりに横一線を描いたそれは、鋭利ある風の勢いで傀儡の首を落とした。溢れ出す瘴気が赤狐を襲うが、彼は奪われた大麻を取り戻すべく、手を伸ばした。


「くっ。瘴気め」


 視界を遮る瘴気の妨害により、指先が触れる差で傀儡の方が一歩、動きが早かった。首を失ってもなお、傀儡は意思を持って持っていた大麻を燃える火柱の中へ。


「小癪な」


 ちっ。舌を鳴らすと、比良利は瘴気から逃れるため、傀儡を真下へと蹴り落とす。瘴気を吸えば吸うほど身が危うくなるのは、彼も経験済みだった。


「俺の大麻おおぬさはっ」


 ギンコから身を乗り出した時であった。どこからともなく、となことばが聞こえてきた。言霊こそ聞き取れないものの、それを唱えているのはオヨズレだと分かる。

 しかし姿は見えない。まだ火柱の中だろう。


 嗤い声が聞こえてきた。


「十二分に瘴気は満たされた。いくら、宝珠の御魂の力を持ってしても、これだけの瘴気に耐えられまい」


 眉を寄せていた比良利が、弾かれたように翔を凝視した。


「ぼんっ! オヨズレの言霊を耳にするではない!」


 え。戸惑いの声をもらす翔と、オヨズレの声が重なる。


「魂の同胞よ、頃合い、頃合いぞっ!」


 それが引き金となった。

 瘴気が満たされた一帯、首を失った傀儡から、燃え上がる青い火柱の中から、祭壇に放置されている妖の骨の山から、数多の御魂が飛び出してくる。それらは無念と怨念のこもった御魂であった。かなしみと穢れに満ちた御魂であった。


 それらは迷うことなく翔に向かって飛んでくる。まるで救いを求めるように。


「オツネ、走れっ! 走るのじゃっ!」


 比良利の怒号によりギンコが風を切るように翔け出す。

 直進してくる数多の御魂から逃れるため、大きく旋回して、少しでも引き離そうとするが、御魂の速さは目にも留まらない。瞬く間に横並びとなると、ひとつ、またひとつ、御魂が翔に狙いを定めて飛んでくる。


 頭を下げて、それをかわす翔だが、満たされる瘴気のせいで、やたら咳が止まらなくなった。


(こんな時に)


 息苦しさに呻いていると、ギンコが喉を絞っているような、不規則に呼吸音が聞こえた。

 翔は気づく。ああ、銀狐も瘴気の毒にやられ始めているのだ!


「ギンコっ! 大丈夫か。無理はするなっ」


 翔が声音を張っても、ギンコは聞く耳持たない。懸命に足を動かして、押し寄せてくる御魂達から翔を守ろうとする。

 瘴気の毒に抗体がないのは比良利だけではない。翔をのぞく妖達全員に言える。吸い続ければ、いずれ体が動かなくなる。


「ギンコっ!」


 翔を守るためにひた走るギンコは、とても息が苦しいのだろう。それでも、足を止めない強い意志に、思わず下唇を噛んでしまう。このままではまずい。


「瘴気を、どうにか浄化できれば」


 ためしに玉串たまぐしを振ってみるが、濃度の高い瘴気の浄化など到底無理な話。大麻おおぬさですら、瘴気の浄化が難しいのだから、即席で作った玉串が浄化できるはずもない。


 せめて瘴気をどこか一か所に集めることができたら。

 翔は毒々しい瘴気のもやを睨む。空気の入れ換えができるようなところもなさそうだ……空気の入れ換え。そうだ。


 翔は荒呼吸を繰り返すギンコに、らせん状に走ってくれるよう頼む。瘴気といえど、あれも気体。風の流れを作れば、瘴気を一か所に集められる。


「ごめん、ギンコ。お前に無茶をさせて」


 そっと頭を撫でると、何を言っているのだ、と言わんばかりにギンコは大きく鳴いて走る速度を上げた。

 銀狐は強い意志を持って鳴く。心からお慕いしている狐が命を、身を、その御魂を狙われているのに、どうして無茶をせずにいられようか。

 このオツネの想いは、まことのものなのだから、無茶でもなんでもする。


 そのような心意気を言葉なき言葉で翔に伝えてくる。

 可愛いギンコの、真っ直ぐな気持ちに頬を緩めてしまった。可愛いくせに、土壇場で強くなる狐だ。


 だからこそ、ギンコは頼れる狐だと言える。


「走ってくれ。ギンコ! 追いかけてくる御魂たちよりも、はやく、はやくっ!」


 想いに応えるように、ギンコは風を切り、渦を巻くらせんを描きながら駆け抜ける。風の流れが生まれたことにより、瘴気は引き寄せられるように中心部に流れて始めた。それに伴い、周りの瘴気がやや薄まったように見えた。


「よし。これなら地上にいる青葉達も助けられる。あとは追って来る御魂を……なんだ」


 執拗に追って来る数多の御魂が瘴気の渦に飛び込んでいく。

 なぜ。疑問はすぐさま、驚きに変わった。一度は渦に飛び込んだ御魂らが、勢いをつけてそこから飛び出し、今度こそ翔の身へと狙いを定めたのである。

 

 避ける間もなかった。


「ぼっ、ぼん!」


 それは比良利の呼び掛けよりも、それは天馬の駆け出す足よりも、それは青葉の悲鳴よりも早く翔の身に飛び込んでいく。

 数多の無念と、かなしみと、苦しみの穢れを背負った御魂が、同じ色を持つ翔の御魂へと吸い込まれていく。


「あ……」


 首を失った傀儡がギンコの前に現れる。首を失っても動く姿は、ひどく不気味であった。瘴気を溢れさせる姿は滑稽であった。

 それは銀狐の顔を蹴り飛ばすと、背中に跨る翔の身を力の限りはたく。きゃん、痛々しい鳴き声が響いた。


「ギンコ!」


 よろめく銀狐から叩き落とされ、翔の視界がぐらり、と揺れた。

 体が重力に従って落ちていく。それを追い駆ける傀儡も落ちていく。二人は共に落ちていく。そして、その後を飛び込み損ねた御魂たちが追い駆けていく。


「くそ。体の中から声が、声が、聞こえて……」


 落ちていく最中、黒い浄衣を靡かせながら、傀儡が翔の首を掴む。

 それすら振り払えない。なぜなら、体の内からたくさんの声が聞こえてくるからだ。もう聞き取れないほど、たくさんの声が翔を支配する。聞こえてくる声に痛みこそないが、あまりの声の多さに頭がかち割れそうだ。


 それだけではない。翔の本能が警鐘を鳴らす。


(俺の中で何かが食い荒らしている)


 己の自我を奪おうとしている、図々しい御魂がいる。

 ああ、間違いない。ひと際、輝きが強いそれは天城惣七の御魂だ。断言できる。他の御魂とはひと味もふた味も違う。


 先代の御魂が翔の御魂を喰らう、なんぞ、そんな愚かな真似をするわけがない。

 そう思えど、それは容赦なく肉体のないことを憂い、翔の御魂を喰って、新たな肉体を得ようとしていた。視えなくとも分かる。



「これが先代の復活ってことかよっ……」



 このままでは、天城惣七の御魂に喰われる、喰われてしまう!


 焦燥感と危機感を胸に抱え、翔の身は古い床に叩きつけられた。

 腹の上に乗っかる傀儡は未だに、自分の首をきつく締め上げてくる。


 そればかりか、翔の抵抗を無意味にするべく、右の手に持っている玉串をへし折ってしまった。これでもう、身を守る術が何も無い。翔は悪足掻きすらできないまま、すべての御魂を身に受け入れる。


 最後のひとつを身に宿した時、翔は堪らずに絶叫した。


 本来、肉体にひとつしか宿らない御魂が、体の内でひしめき合っている。

 そして、それらが翔の肉体を奪ってしまおうと、疚しい思いを宿して暴れ回っている。そんな御魂らを次から次へと食らい、束ねて、巨大な力をつけている御魂がいる。先代の御魂だ。


 これが翔の御魂を一呑みにしてこようとする。頭がどうにかなりそうだった。必死に傀儡の腕を引っ掻いて抵抗を示すが、相手は全く動じない。このままでは。


「やめろ……惣七さんっ。こんなことをしたら、貴方自身が傷付くっ」


 土塊つちくれの傀儡に訴えたところで無意味なのは分かっていたが、それでも訴えられずにはいられない。先代はこのようなことをする人ではない。死の淵で顔を合わせた先代は、翔に今後の南の天の地を、かつての神職達を、みなを任せてきた狐だと、優しい狐だと知っている。


 翔の御魂を呑み込んでしまえば最後、傷付くのは誰か。御魂を喰われ、身を奪われそうになっている翔か?


 違う。 

 本当の意味で傷付く者は先代を知る者達だ。


 天城惣七の対だった比良利、家族だった青葉やギンコに、ああ、紀緒やツネキやおばばだって悲しむ。本来の天城惣七を知る、誰もが傷付く。

 それだけじゃあない、このまま先代に御魂を喰われてしまえば、きっと――自分を知る者達も悲しむ。誰もが彼もが悲しい思いを噛み締める。


(逃げねぇと)


 分かっているのに目が霞む。

 首を絞めている手の強さが、容赦なく息の根を止めてくる。意識が遠のく。遠のいていく。

 

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