<八>熱り示せ、本気の意志
【別名の一つ、“好文木の社”にて】
決して人目に触れることのない、宝珠の御魂を守護する社と社が結び合う聖域。
鎮守の森ならぬ鎮守の梅に囲まれ、宝珠の者達を見守り続ける其の地の名は“御魂の社”。
そこは宝珠の頂点に立つ地。宝珠を生み、守護し、各地の尊き妖達の安寧を祈り続ける地。黒の宝珠の御魂を持つ“御魂の神主”がいる地。
第三代目五方の大御魂は、その時、ひとり樹齢三千年超の梅の大木の前にいた。太陽が真上に上がった刻のことだった。
朝昼は眠りに就いている時間であるが、オオミタマは胸騒ぎを感じて目を覚ました。
確かに聞こえたのだ。愛い子の御魂の声が。役目を終え、神上がった筈の愛い子の御魂が。
「其方、なのか。私の愛した可愛い我が子よ」
立派に咲き誇る梅が荒れ狂ったように花弁を空に舞い上がらせ、ひらひらと散り振る。長い黒髪に、黒の浄衣に、オオミタマの顔にそれらは付着する。花吹雪と呼ぶ光景は、まるで誰かの悲しみに便乗するよう。
嗚呼。オオミタマは右の手を持ち上げ、花びらを手の平にのせた。
「天命に従い、白の宝珠と共に南の地を守護した愛い子よ。第九代目四尾の妖狐、白狐の天城惣七よ。其方の御魂が今世に舞い降りたのだな。百年の月日を経て、其方は此の世に戻ったのだな」
それは自然の理に反するもの。
神上がった者には神上がった者の、新たな使命がある。なのに、どうして此の世に戻ってしまったのか。否、愛い子の御魂は第三者によって復活したに違いない。
既に戻るべき肉体はなく、白の宝珠も受け継がれ、南の地は十代目の統治となった。愛い子に帰るべき場所はない。
それは寂しかろう。悲しかろう。つらかろう。オオミタマは慈悲を込めて愛い子に謳う。
「しかし嘆くな。其方の御魂は受け継がれている。其方の未練、悔恨、想いはすべてあの小さな狐に受け継がれたのだ。もう安心して宝珠の中に眠るべきなのだ」
神上がることもなく、百年も“常世の境で留まっていた”であろう愛い子に力なく微笑む。
「私はいつも傍にいる。惣七よ」
未練と悔恨に満ちた御魂が眠りに就くまで、愛い子が旅立つまで、このオオミタマが寄り添おう。だから安心して自分の下に戻って来て欲しい。
梅の大木から、傍らに生える小さな梅の木に視線を流す。大木に比べ、細い枝、幹、小さな葉は大木のように花も蕾も付けていない。
だが、梅の木は大木を見上げ、その生き方を学んでいる。必ずや成長し、大木になってくれる。
「翔よ。忘れるな、其方も、いつか大木になるべき梅の木であることを。この嵐に折れてはならぬことを」
愛い子達が傷付き合うことなかれ、と願うも、それが避けられないのならば、オオミタマとして想いを一つ。
見守り続ける御魂よ。忘れることなかれ、お前達の帰る場所はいつも此処にある。
※ ※
オヨズレミタマを口にした烏天狗の目は、本気で翔を獲物として捉えていた。
一体なにがどうして、天馬が黒百合の、しかも親玉の名を口にしているのか。混乱している間にもイチョウの木の上で音が聞こえてくる。彼の持つ錫杖の頭部に通っている輪形に遊環が、しゃん、しゃん、しゃん、と音を奏でいた。
それがぴたり、と止んだ瞬間、「来ます」青葉が皆に走るよう指示した。掛け声に合わせ、金銀狐が駆け出す。
「天馬やめろ! 何が遭った!」
翔の疑問は風の中に消え、それを裂くように錫杖が振り下ろされる。
紙一重で避けるギンコの後ろ足を狙い、烏天狗は山伏装束の帯に挟んでいた懐刀を抜くや、それを一直線上に放った。真横からナガミが刃の部分を加え受け止めるも、烏天狗の切り替えは早い。
獲物をギンコから引き摺り落とすために、持ち前の翼で突風を起こし、翔のバランスを崩そうとする。
必死に振り落とされないようしがみつくところを、錫杖が宙を薙ぐ。
「なりませぬ、天馬殿!」
翔の前に回った青葉が白刃取りの要領で、錫杖の柄を両手で受け止める。
微かに表情が動く天馬に、「貴方様のお心が傷付くだけです!」巫女は声音を張った。
本当の天馬は、こんなことを望んではいない。十代目を傷付ける愚行も、黒百合に肩を持つ行為も、本心ではないのだ。それは天馬本人が一番理解しているはず。
野寺坊の術によって乱心しているだけなのだと説得し、どうか目を覚まして欲しいと青葉は天馬に懇願した。
「先程、私に聞かせてくれたではありませんか。十代目の無茶を軽減させたいと。南の地を統べる姿を見届けたいと。優しい目をして、お聞かせて下さったではありませんか!」
あれこそ天馬の本心、今の天馬の行動に心はないと怒声を上げる。
けれども敵意を見せるばかりの烏天狗は右から左に受け流し、十代目の器はオヨズレミタマに渡すと断言した。
それこそが一族の汚名返上に繋がり、忌まわしき過去の呪縛から解き放たれる。
「汚名が消えるのなら、何だってする」
天馬は憎々しく吐き捨てた。
宝珠に集う妖達に怨みはない、なんて嘘だ。名張一族を裁いた神職の者達を心底怨んでいる。
逆上と言われようと、これは名張一族の本心そのもの。
何故名張一族を裁いた時、血縁のある者達をすべて討たなかったのか。残された者達のことを考えなかったのか。それすらも罰だというのなら、宝珠の者達は非情だ。
自分は何も知らず名張に生まれ、物心ついた頃から周囲の憎悪を受け止めなければならなかったのだから。
宝珠の者達に問いたい。
先祖の罪を、生まれたばかりの子が背負わなければいけない、その罰の名前を。
名張に生まれた時点で子供は罪人なのか。何もせずとも、罪を背負わなければならないのか。
「名張に生まれた、その過去すら憎んでいる。宝珠の者達は、それすら知らずに前へ進めと言う。過去を清算しろと言う。今と昔の名張は違うと言う。偽善ばかりだ」
誰も名張に残された者達の苦しみを救おうとはしなかったではないか。
なにが、宝珠の御魂。なにが、南北を統べる頭領。なにが、妖を想う神職達だ。今も、過去の面影をちらつかせ、名張を民達の見せしめにしているではないか。
「常に名張を愚か者だと見世物にしているのは――貴様たち神職だ!」
空を轟かす主張は、まぎれもなく天馬の本心だった。
悲しみと憎しみにまみれた叫びに、青葉の力が抜けたのか、烏天狗が錫杖を力の限り引き抜く。
「よけろ、青葉!」
翔の呼び掛けも一歩遅く、青葉は天馬の膝蹴りを正面から受け止め、後ろの茂みに飛ばされてしまう。本気の天馬に対し、彼女は本気を出せていない。一目瞭然だ。翔は二人の手合わせを見ているのだから。
それでも天馬を止めたい気持ちで満たされているのだろう。青葉は腹部を押さえ、すぐさま上体を起こしていた。
「ひとの心配をしている場合ではない」
ハッと我に返った翔の頭部目掛けて、錫杖が横に振られる。
身を屈めて回避すると同時に、ギンコが走って距離を置こうとする。そうはさせないと、天馬が飛行するとツネキが先に回り、犬歯を見せて威嚇する。
尾を地面に叩きつけ、爪を食い込ませる姿は本気の表れ。ツネキは天馬に敵意を見せている。
「待て。ツネキ、天馬は何か術に」
クオン! そんなことは分かっていると言わんばかりに、金狐が鳴く。
しかし、手加減しては自分達が全滅してしまいかねない。相手は十代目に武を教える達人の息子。忘れたのか、此処が敵陣であるということを。敵は天馬だけではない、ということを。
何度も吠えられ、返す言葉もない。ツネキは正論を述べている。
だが敵意を向けているのは天馬。己の武の師であり、大学の友人なのだ。
自分の願いを聞き入れ、此処までついて来てくれた彼が何らかの事情で敵側に立った。青葉の様子を見る限り、本人の意志ではないことは明らか。できることなら、彼を傷付けずに目覚めさせたい。
それが夢物語だということは百も承知だが。
そうこうしている間にも、金狐が尾に狐火を灯し始める。
止める間もない。天馬の方が先に懐に入ろうと、切り込んできたのだから。
ツネキが烏天狗の錫杖を避け、受け止め、時に押し返しながら皆に命じる。今のうちに行け、逃げろ。先に別荘へ行き、比良利と合流しろ。己の代わりに、青葉が先導に立て、と。
頷いたギンコが青葉の下に向かい、乗れと命じる中、翔は天馬の本心を目の当たりに思い悩む。
彼は常に己の傍に立ち、味方として支えてくれた。
未熟で不甲斐ない白狐に武を教えるだけでなく、武を通して己の弱さや神主としての姿勢を教えてくれた。自分が倒れることで、民がどう不安に思うか。どうして天馬に武を教えてもらうのか、強くなる意味をいつも教えてくれた。
一方で天馬は自分が信じられなかった。
先祖の罪を背負っているせいで、己を蔑むことが多かった。
翔が何度頼れる師だと訴えても、彼は曖昧に笑うだけで、素直に受け止めようとはしなかった。それは自分が罪を犯した名張の血を引く者だから、だろう。
いつか裏切るかもしれない。
昨晩、翔と話したことが現実となった。
もしも、ここで自分が逃げてしまえば天馬と交わした約束はどうなる。言ったのだ。天馬以上に自分が天馬を信じると。やむをえなく裏切りそうになったら全力で止めると。
南の十代目にとって名張天馬は、なくてはならない妖。そう言ったのだから、逃げるわけにはいかない。逃げてしまえば、すべてが嘘になってしまう。
「ギンコ! あの木まで飛んでくれ!」
傍らのイチョウの木を指さす。
銀狐が何故だと言わんばかりにクン、と鳴いた。
「いいから」催促する翔はギンコの背に乗ろうとする青葉に三尾を伸ばして、体を持ち上げてやる。ナガミとナノミが不思議そうに見守る中、銀狐が言われた通り、地面を蹴って飛躍する。
「ナガミ。天馬の懐刀を」
銜えていた刀を受け取り、今度は己の口に銜える。
「ま、まさか。翔殿!」
聡い青葉に止められる前に、選んでいたイチョウの太い枝を掴んでギンコの背から飛び出す。宙ぶらりんとなったところで、上手く動かない足と三尾を前後に揺らし、己の体を振り子にした。
勢いづいたところで、金狐目掛けて枝から手を放し、「ツネキ!」懐刀を右の手に持って同胞の名を呼ぶ。
素っ頓狂に鳴くツネキよりも先に、天馬が翼を広げ急上昇してくる。
さすがは己の師匠。良い反応だ。翔は錫杖を懐刀で受け止め、口角を持ち上げる。
「お前の相手は俺だ。天馬が勝ったら、俺の身を好きにしろ。オヨズレミタマのところにでもなんでも持っていけ!」
微かに向こうの目が細くなる。
言葉に裏があるのだと探りを入れている様子。
だが、翔は思ったことを正直に伝えたまで。言葉に表裏はない。負けたら、潔く天馬の好きにさせてやるつもりだ。あくまで負けたら、の話だ。
懐刀で錫杖の柄を弾くも刃は短く、向こうの柄は長い。弾いたところを、敵が体を捻り、先端が翔の横腹を狙う。
「おっと」尾で受け止め、甘いと舌を出すと、天馬の体を押してその場から逃げた。体が叩きつけられる前に、ツネキに拾われ難を乗り切る。
当然のように金狐は憤っていた。
お前は何を勝手なことをしているのだ。黒百合から狙われている身の上なんだぞ! と、でも言うように、グルルルと唸り声を上げるが、翔は聞く耳を持たない。
「天馬の相手は俺がする。あいつは俺が止める」
ふざけるなとツネキが喉を鳴らすように唸るも、「嫌だね」絶対に逃げないと翔は突っぱねる。天馬と約束があるのだから、それを破るわけにはいかないのだ。
天馬が宝珠の者達に怨みがあるというのなら、自分は受け止めなければならない。名張に裁きを下したわけではないが、翔もまた宝珠に集う神職のひとりなのだから。
「無茶です。翔殿、貴方様が敵う相手ではありません!」
非難の声を上げる青葉が合図となった。
この機を決して見逃さない烏天狗は錫杖を持ちなおし、金狐に乗った翔にそれを振り下ろす。懐刀で受け流すと、ツネキに走るよう命じた。
金狐は言っても聞かないと理解していたのだろう。
お前はどうしようもない青二才狐だと一瞥するや、振り落とされるなと忠告する遠吠えをひとつ。地から足を離れ、宙を翔け始める。
毛先まで金に染まった尾を揺らし、ツネキは風向きに合わせて速度を上げ、天馬の錫杖の乱れ突きを見事にかわす。
後を追う烏天狗は気流を読み、先回りをして金狐の道を阻む。
ツネキの鋭い牙が天馬の胴を狙い、天馬の錫杖が翔の胴を狙い、翔の懐刀が錫杖を受け止めた。
二対一の形だというのに、敵は動じることない。
標的一点に絞り、あくまで翔に錫杖を集中させる。凍てついた目はなんびとも寄せつけず、すべて射殺す勢いだ。
助太刀しようと動きを見せる青葉とギンコに気付くと、金狐を盾にするように回り込み、その行動を封じる。下手に飛び込めば金狐の動きを邪魔立てし、同胞を危機に陥れる罠を張って見せたのだから、達人の息子なだけある。
味方にすると頼もしい限りだが、敵にすると恐ろしい妖だ。翔は改めて天馬の手腕を認める。
「ほお、これは面白い光景を目にした。“返り忠”が十代目と戦とは。忠義を誓った主君に、刃を向けるとは、さてどのような気持ちだろうな。いやはや、“返り忠”にしか分からぬことじゃろうが」
翔の耳に聞こえてくる、皮肉。そして、新たな錫杖の音。
回る景色の中、翔は声音の正体を把握するために烏天狗から目を放す。
イチョウの木の陰から、細い笑みを浮かべている袈裟姿の乞食坊主。柱のように太い錫杖を手にし、ぼろい布きれはふくよかな体躯を隠している。野寺坊だ。
「お前」
青葉の目の色が怒りに変わる。何やらあの妖と因縁があるようだ。予想するに、天馬に関することだろう。
おっと、余所見をしている場合ではない。
「青葉、ギンコ、お前等はそいつを任せたぞ! 俺は師匠で手いっぱいだ」
言った傍から、錫杖が懐刀を弾いた。
一寸の隙も見逃さない烏天狗は、「返してもらう」天高く舞い上がる懐刀を掴むと、素早くそれを翔に向かって投げる。
機転を利かせたツネキが前足の爪で刀に触れ、軌道をわずかに変えるも、刃は翔の右頬を掠めた。
つう、と伝う鮮血を手の甲で拭い、思わず引き攣り笑いを浮かべてしまう。
「あれは確実に首の頸動脈を狙っていた。お前は本気なんだな」
自分の身を狙う気持ちも、宝珠の者達に怨みを抱く気持ちも。
翔が想像する以上に天馬は一族の罪を憎み、己の家柄を怨み、その心に大きな闇を抱えていたに違いない。
しかし、ぶつける場所もなく、心に留めていたのだ。
天馬は強い。とても強い。憎しみすら押さえ込み、一族の過去を清算しようとしている。そのためなら、十代目のお守だって買う。
あの日、自分の武の師をしたいと志願した天馬の目は本気だった。
そこで翔は気付く。行動こそ本気だが、感情を宿さない目に本気は宿っているのかと。
クオン! 思案に耽っていると、ツネキから叱咤の一声をもらう。
我に返る間もなく、「弱い」金狐の背に飛び乗った天馬の錫杖の突きが腹部に入る。よりにもよって縫った患部を的確に狙われ、翔の息が詰まってしまう。
激痛なんて可愛い言葉では表現できない。視界が暗くなり、気を失いかねない痛みが腹部を中心に全身へ走りめぐった。
天馬は教えてくれたものだ。
敵は常に相手の急所を狙い、そこを突いて勝利を獲得すると。だから油断するな、決して敵から目を放してはいけない、と。
ああ、これは自分の油断による失態だ。
ツネキの背から滑り落ちるところを、烏天狗の黒い羽根が飛んでくる。
羽根はまるで刃そのもの。イチョウの幹に背を打ち付けたと思ったら、無数に飛んでくるそれらによって浄衣の袖や体を留められてしまう。
痛みは少ないが、気分は標本にされた昆虫である。
翔は未だに痛む腹部に奥歯を噛みしめる。さすがに縫った患部の攻撃は痛烈だ。脂汗が止まらない。
「翔殿!」
野寺坊を相手に取っていた青葉とギンコが顧みてくる。
向こうで野寺坊が無様な姿だと笑声を上げているが、それに対しては聞こえない振りをした。
「あーくそ。お前等、頼むから見ないでくれよ」
あまりにもダサイ姿なのだから、と翔は軽い口ぶりでおどけてみせる。
だから言わないこっちゃない。逃げれば良かったのだ、とツネキが鳴いてくるも、翔は聞かん坊を通した。逃げる選択肢などない。後悔することは目に見えているのだから。
霞む視界を振り払い、翔はツネキと錫杖を交えている烏天狗に目を留める。
己の心の臓を突くために天馬は金狐を出し抜こうとしていた。そうはさせないとツネキが地を走り回るが、いつこちらに来てもおかしくない。
まったく、弱い自分につくづく嫌気が差す。健康になったら、一層修行に励まなければ。
翔は両手を動かす。しっかりと羽根が食い込んでいる。
それは両足も同じだが、三尾だけは回避することができている。回避できた? 違う、これは自分の実力ではない。
何度も両手を、特に右の手を動かしていると、野寺坊が四股を踏んだ。ふくよかな巨体は地を震わせ、地上にいる者達の足を竦ませる。
それが隙を生んだ。宙を飛行していた天馬がツネキを抜き、転がっていた懐刀を拾う。地上を走り回っていたことが仇になったのだろう。
「ゆけ。返り忠」
野寺坊の命令に従うように、刃先が心の臓を狙う。
翔は迷うことなく、三尾を伸ばして天馬の懐刀ごと右の手を拘束した。それにより、相手の動きが止まり、力比べが始まる。
少しでもツネキが天馬に近寄ろうとすれば、その度に野寺坊が四股を踏んでゆく手を阻んだ。
「残念だったな天馬。尻尾を拘束しなかったお前の負けだ。俺は諦めが悪いんだよ」
舌を鳴らす烏天狗が左の手に懐刀を持ちかえると、三尾の一本がそちらに伸びた。
「小癪な」忌々しそうに睨んでくる天馬に、「弱いんだよ馬鹿」いつもの手合わせにもならないほど弱いと生意気な口を叩いてみせる。
「その状況下で弱い、と減らず口を叩けるとは。負け犬の遠吠えとは言ったものだ」
「ちげぇよ。俺は本当のことを言ったまでだ。今のお前は弱い。ここにいる誰よりも」
不快に思ったのだろう。
繊細な三尾を容赦なく踏みつけ、烏天狗が懐に入ってくる。
「討ち取った」
敵の嬉々する声音や青葉達の悲鳴は風の中。
懐刀は浄衣を貫いた。チクリとした痛みが肌を刺す。刃の切っ先が当たっているのだろう。
翔は己の状態を見ることなく、ただひたすら天馬を見つめる。寸前で手を震わせる烏天狗と視線が交わる。その目は怯えに満ち溢れていた。
正気に戻ったわけではない。怨むも本気だった。なのに、烏天狗は動けずにいる。行動を移せず、心の臓を貫くこともできず、佇んでいる。
だから弱いのだと翔は思った。
「俺はお前に師を頼む時に聞いたな? お前は俺を殺せるか、と。神主相手に本気になれるかって。天馬はできると答えた」
師として選ばれた日から、烏天狗は本気で己に指導を始めた。
宝珠の御魂を持つ頭領も、南の地を統べる神主も関係ないと言わんばかりに、容赦なく扱いてきた。翔もそれを望み、本気で師に食らいついた。
すると天馬は更に本気で食らいつき、自分の要望に応えようとした。
まるで食うか食われるかの世界。少しでも気を抜けば、こちらがやられるような稽古を天馬はつけてきた。それで良いのだと、翔は心の底から思った。
「お前のちょっとやそっとじゃ引き下がらない、本気を宿した目が気に入った。俺は天馬にそう言ったな。なのに、なんだよ。その弱気な目は」
そんな目で自分の師が務まると思うのか。
もっと本気で来い。それこそ殺す勢いで来い。今の天馬など取るに足らないのだ。
弱い自分にも強みはある。それはしつこさだ。相手が勘弁してくれと願うまで、何度も食らいつく。
右の手を上下に動かしながら、翔は口角を持ち上げた。
「いつもみたいに本気で来い。お前が今、手にしたい思い、望み、希望、すべてこの十代目南の神主が聞いてやる。
本当にオヨズレミタマに俺を渡したいなら、本気でそうしてみせろ。宝珠の者達に怨みを抱いているなら、本気で討ち取ってみろ。俺の心臓を貫きたいなら、本気で貫いてみせろ――お前の本気の意志をここで俺に示せ」
過去、名張、大罪。
それらの理由にするのではなく、今、天馬自身の意志を示せ。
それに対して、誰も咎める者はいない。裏切ったなど口にしない。言わせもしない。それが天馬の意志なら、十代目として親身に聞こう。
ただし聞くばかりではないことを念頭に置いておけ。
翔は右の手を力の限り、引き上げる。羽根が取れたことを確認すると、懐に入れていたお手製の大麻を掴んだ。
「お前の本気の意志に、俺も意志を持って本気で食らいつく。天馬が自分を信じられない分、俺がお前を信じて食らいついてやる。覚悟しろよ名張天馬、俺はしつけぇぞ」
棒切れと蔓とプリントの裏紙で作った即席の大麻を振り下ろす。
反射的に懐刀を抜いた天馬が、それを受け止めた瞬間、妖気の火花が散った。
これには思わず驚いてしまう。こけ脅しで作った大麻は確かに翔の妖力に反応し、紙垂から気が溢れかえった。
飛躍して後ろに下がる天馬とお手製大麻を交互に見やる。
なにがどうして、反応したのか分からないが、これは好都合だ。身を守る武器が手中におさまっているのだから。