<六>米倉聖司の眼
※ ※
最近よく考える。
自分の人生はこれでいいのか、このままでいいのだろうか、と。
彼女、楢崎飛鳥はバスセンター近くのSタバでカプチーノを飲みながら、ぼんやりと店内のBGMに耳を傾けていた。
時刻は午後二時。客の大半は大学生や専門学生だ。あちら、こちらからで楽しそうな話し声が聞こえる。近くの生徒なのだろう。聞き耳を立てると、授業を自主休講したと、おさぼり発言が聞こえる。飛鳥と同じおさぼり仲間のようだ。
予備校生として、ひと時も授業科目をさぼれないのだが、どうしても今日は行く気になれず、こうして時間を潰している。
「ショウくん。大丈夫かな」
先日、顔を合わせた幼馴染は車いすで移動していた。体が動かないわけではないが、命を狙われ重傷を負った。知らなかった。彼が危篤状態だったなんて。
それだけではない。相棒も左腕を折っていた。黒百合と呼ばれる妖の一味に襲われたことによって。
自分がのうのうと勉強をしている間に、幼馴染二人はとんでもない事件に巻き込まれていたのだ。
翔から聞いた百年前の黒百合と日月のわだかまり、百鬼一族と妖祓の対峙。黒百合と百鬼一族が手を組んだように、日月の社の者達と妖祓が手を組み、悪しき人間を、妖を滅した。
それが百年の月日を経て、ふたたび惨劇が再現されようとしている。
幼馴染二人には直接的な因果はない。
だが、彼等は天命として受け入れ、神主として、妖祓として立ち向かっている。
たとえ負傷していようと、あの二人は決して足を止めない。滅するまで自分のできることを精一杯しようとするのだ。誰よりも傍で見てきた飛鳥だからこそ、男の子二人の行動が容易に想像できる。
なら、自分は?
「妖祓の道を続けるべきなのか迷う。自分の決めた道すら、まっすぐ歩けない。三人の男の子には迷惑は掛けている。嫌な女って私を指すんだろうね」
自分の性格の悪さは自覚済みだ。何度翔や朔夜に小悪魔だと言われたことか。
「おんなじ性格の悪い女の子といえば、まあ、オツネちゃんなんだろうけど……」
女の子? メス? 今は女の子にしておこう。
「あの子は芯がしっかりしているから、何があってもショウくんからぶれないんだよね。ショウくんにしか甘えないってところも、ポイント高いと思うし」
自分みたいに、ぶれぶれではない。
また一つ溜息を零してしまう。
「女の子で比べるなら、青葉さんもポイント高いよね。ショウくんに絶対的な信頼を寄せているところとか、進んでお世話するところとか。ショウくんのために、何かしたいって思うところとか、ああいう子を“良い子”って言うんだろうなぁ。ショウくんが大切にするのも頷けるし、普通にお似合いだと思う。ホンットお似合い……女の子から見ても可愛いもん」
青葉と自分の性格を比べ、深い溜息を零してしまう。一体何を悩んでいたのか、それすらも分からなくなってしまった。
「妖祓、か」
恋多き年頃の飛鳥にとって、妖祓という職は枷でしかない。予備校に通っていると、女の子達が勉強を尻目に、自分の恋バナの話題に花を咲かせている。
普通の女の子が羨ましい。輪の中に入りながら、いつも思うことだ。
それに、翔が妖化してからは、妖を祓うことに躊躇いばかり覚えている。以前は、妖は妖祓の肝を狙ったり、人間そのものに危害を及ばせたり、生活に支障をきたす悪しき存在だと認識していた。
だが、翔のように人間から妖になった者。雪之介のように人間に憧れる者。コタマのように妖人間問わず、子供扱いする者。
そんな優しい妖達を知ってしまったのだから、あの頃のように現れる妖を迷うことなく祓う、などできなくなってしまった。
朔夜はそれを受け入れつつ、なおも妖祓として生きる道を選んだ。翔の野望に加担するために。人間と妖の共存共栄のために。
自分のように天命から逃げていない。なんとなく目標を立て、なんとなく大学を目指し、なんとなく生きている飛鳥とは違うのだと思い知らされてしまう。
彼と喧嘩をした日を思い出すと、しょっぱい気持ちばかりこみ上げてくる。米倉にキスされたことよりも、朔夜と口論したことよりも。
“飛鳥は本気で妖祓を目指していない。半端者が傍にいても邪魔なだけ。だから僕等の和泉と楢崎の関係は今日限りだよ”
あの言葉が杭となっている。
そうだ、いつも自分は半端だった。妖祓にしても、恋にしても、生きる道にしても。図星を突かれたとは、まさにこのこと。
ソーサーにカップを置くと、隣に放置していた鳴り石を手に持つ。
翔がくれたものだが、彼に手渡したのはきっと相棒だろう。
なにせ、これは妖祓が持つ小物。身に付けていると、感覚では分からない範囲まで妖気を察知してくれる道具なのだから。
「それだけ、危険な相手なんだろうけど……」
鳴り石を首から提げる。
道端に転がっていそうな小石に紐が通されたそれは、お洒落道具としては成り立たないが、護身用にと心配してくれる二人の気持ちは受け取っておかなければ。
重い気持ちを引きずりながら、Sタバを後にする。
予定のないおさぼりは、飛鳥に暇を与えた。しかし、こんな気持ちでは買い物に行く気にもなれず、ひとりカラオケでストレス発散することも後ろめたい。
結局、行きつく先は帰って勉強をする、だった。
明確な目標や夢を持たないと、こうも主体性のない人間になってしまうのか。
飛鳥は高校生に戻りたいと、切に願ってしまう。あの頃はまだ、皆と進路の話もできたし、漠然とした人生も、なんとかなるで終わらせることができた。
「あ、楢崎じゃんか」
交差点の信号を待っていると、背後から声を掛けられた。振り返らなくとも分かる。この声は迷惑を掛けた男の子のひとり、米倉聖司。
ぎこちなく首を動かせば、大学終わりなのか、ショルダーバッグを肩から掛けた彼が立っていた。
バス通学の彼はバスセンターの方角から、ここまで歩いて来たようだ。
飛鳥は目を泳がせる。キス事件後に、張り手をかましているので、些か顔を合わせづらい。
「お前、予備校は?」
相手も同じなのか、平常心を装いつつも、話し掛ける声音が硬い。
「今日はお休みなんだ」
嘘百八もいいところだ。
「ふーん。そう」
察しの良い男は絶対に気付いているだろう。意味深長に横顔を見つめてくる。
「それで、お前がいいならいいんじゃね? 困るのは楢崎だろうから」
棘のある台詞をどうも、である。それは本人が一番分かっている。
右から左に流し、早く信号が変わらないかな、と歩行者用信号機を睨む。まだ青にならない。
その時だった。
提げていた鳴り石がカチカチ、と鳴り始める。小刻みに震えては、カチカチ、カチカチ、カチカチ。石と石がぶつかるような、小さな音を奏でる。
周囲の人間の耳にも届いたようだ。通行人の視線が集まる。米倉も不思議そうに、「なんの音だ。それか?」と、指さしてきた。
けれども、飛鳥はそれどころではない。
昼の時刻から、石が鳴り始めるとは想像もしていなかったのである。
妖気を察知して鳴り始める石には、あらかじめ対象となる妖の残痕が練り込まれている筈だ。つまり、黒百合にかかわる妖が近くにいる。
「なっ、楢崎! アブネ!」
米倉が飛鳥の体を突き飛ばす。
バランスを崩し、その場に倒れてしまう飛鳥の頭上を掠めたのは金づちとスパナ。
振り返れば、青褪めた男が一人。工事現場で見かける作業着に袖を通している。道具を凶器として使用し、飛鳥の頭部に狙いを定めたのだ。
周囲が悲鳴とパニックの声を上げる中、虚ろな目の犯人とかち合い、飛鳥は状況を把握する。
あの時と同じだ。翔が人間に襲われた、いつかの夜と。
「なに、ぼさっとしてやがるんだ! 逃げるぞ!」
振り下ろされたスパナをショルダーバッグで受け止め、米倉は相手の股間目掛けて蹴りを入れると、倒れている飛鳥の腕を引いて立たせる。
「ああくそ、邪魔だよお前等!」
パニックになっている人間を押し退け、腕を掴んだままの米倉が走り出す。なすがままの飛鳥が振り返れば、例の男が追って来た。狙いは自分ひとりのようだ。
「米倉くん、逃げて。あの人は私が狙いで」
「うぜぇよ。愛しの朔夜くんなら、黙ってついて来るだろうが!」
「さ、朔夜くんは関係ないじゃん!」
頬を赤く染めて否定するも、「今は俺で我慢しやがれ」後で文句は聞くと米倉。
対抗心を燃やしているのかもしれないが、今はそれどころではない。一般人の米倉が危ないのだ。一緒に逃げるわけにはいかない。
脳裏に過ぎるのは相棒の存在。彼に連絡を取れば、この危機に駆けつけてくれるのでは。
しかし、すぐに考えを振り切る。
妖祓関連になると、いつも朔夜を頼る。それは自分の悪い癖だ。これくらい、自分ひとりで切り抜けなければ。まがいものでも、妖祓なのだから。
「う、うそでしょ!」
米倉の手を振り払おうとした飛鳥の目に、歪な妖達が飛び込んでくる。
前方で群れを作っている、その妖達の部族は分からない。判別もつかないほど歪んでいたのだ。
まるでキマイラのように、頭は犬だの、手足は舌で出来ているだの、目の代わりに耳が忙しなく動いているだの。これが妖なのか。妖と呼んでいいのか。
凍る背筋。流れる冷や汗。カチカチと鳴り続ける石。それらをそのままに、
「米倉くん止まって!」
飛鳥は彼の腕を振り払うと、前に回って両手指に呪符を挟む。
「おふだ?」
眉を寄せる米倉の前で、持ち前の霊気をすべて解放する。
追って来る作業員の男を一瞥し、
「九字の呪符」
素早く呪符を放った。
顔面に札が貼りつくことを確認することもなく、指を立てて術を発動させる。瞬く間に呪符が爆ぜ、男がその場に倒れた。
「……ば、爆発した? ふだが爆発? はあ?」
間の抜けた声を出す米倉は、我が目を疑っている。が、弁解している余地はない。
「道の邪魔だよ!」
前方の妖達を散らすため、無数の呪符を宙に放って、術を発動させる。
次から次に爆発していく呪符は、妖達の身を木っ端みじんにした。飛び散る肉片を見るだけで心が痛むが、仕方のないことだと言い聞かせる。
ちなみに米倉の目には爆発しか見えていないため、この悲惨な肉片を目にすることはなかった。不幸中の幸い、だと思う。
「まだ立つの?」
作業員がゆらりと立ち上がる。
「……え?」
散らばった肉片が自分の意思で動き、集約していく。再生しているのだ。いくら歪な生き物とはいえ、これは異常事態だ。聞いたことのない事例だ。
飛鳥は何枚もの呪符を放ると、米倉にこっちだと言って地を蹴る。
彼と別行動をするべきだろうが、もう遅い。作業員の男は米倉にも狙いを定めている。虚ろな目は、そういう目をしている。
だったら自分が守らなければ。相棒のように天才でもなんでもない、中途半端な妖祓だが、やらなければいけない状況くらい把握できる。
これ以上、一般人を巻き込まないために、まずは場所を確保しよう。
「だけど、今はお昼……どこも人がいそうだし。米倉くん、人のいない場所って、このへんにある? 絶対に人が寄り付かない場所がいいな」
「人がいねぇ場所? ……絶対ってわけじゃねえけど、ひとつ思い当たる場所はあるぜ」
「そこで! 手短にね!」
「なら、あそこだ。今度取り壊し予定のビル。確か突き当りを右に曲がったところに」
絶好の場所だ。飛鳥はそこまで走ると声音を張った。
「ちゃんとついて来てね。私の足は結構速いけど、バテないで!」
「なんなのお前。俺に逃げろとか、おふだが爆発とか、意味わかんねぇよ」
「説明している暇はないの!」
速度を上げると、「まじかよ」飛鳥の足の速さに米倉が舌を巻いた。
妖祓の時のみ、この速度を出すため、それはそれは驚かれる速さだったが、彼は必死について来てくれた。
ビルに到着する頃には、すっかり息が上がっているようだったが。
「お、お前、人間じゃねえぞ。なんだよ、その足の速さ。息も上がってないし。お、オリンピックでも目指せるんじゃねーの?」
大袈裟に意見してくる米倉をよそに、取り壊し予定のビルを見上げる。
そこは見るからに古びた三階建てのビルだった。塗装が剥げ、コンクリート壁が剥き出しになっている。窓ガラスも外されているようだ。窓枠の向こうは暗く、ヒトの気配は感じられない。
「こっち」
米倉の腕を引き、立ち入り禁止のテープを潜る。
躊躇ない飛鳥の姿に、彼から「慣れているのか?」と、訝しげな眼を頂戴した。否定はできず、誤魔化し笑いで凌ぐ。
中はがらんどうとしている。
物がすべて撤去されているのと、壁や床の塗装が剥げていることが理由に挙げられるだろう。支えとなっている柱ばかりが目立ち、まさに廃墟のビルと呼ぶに相応しい。
窓辺から差し込む日光は、ビル内がどれだけ埃っぽいのかを教えてくれる。
出入り口に呪符を貼り、結界を発動させておく。これで多少は時間が稼げるだろうが、窓から入られる可能性もある。呪符も無駄にはできない。
取りあえず奥へ進んでいく。
身を隠せそうな太い柱を見つけ、飛鳥は米倉とそこの陰に隠れる。
「米倉くん。これを飲んで」
懐紙に包んだお清めの塩を差し出す。妖祓の必需品のひとつだ。これを飲むことで、妖気に当てられても、多少は踏ん張ることができるだろう。
まじまじと懐紙の中身を見つめる米倉が視線を流してくるため、早くはやく、と急かした。時間は押しているのだ。
「早くしないと妖が」
「わーった。わーった。飲むよ。その代わり、教えろ。楢崎、お前は一体何者で、あれは何だ? 妖って何? なんでオッサンに襲われたんだよ。変な誘いでもしたのか?」
失礼な発言である。こめかみに青筋を立て、握り拳を作ると、「うそうそ」米倉は舌を出した。
「お前は朔夜くん一筋だもんな。ったく、あれのどこがいいのか、全然わかんねーな。まだ、南条の方がお買い得だったんじゃねーの? あいつは合コンでモテモテだったぞ。気遣いもできるし、空気も読めるし、お人好しだし」
「う、う、煩いな。放っておいてよ」
「ま、もう遅いけど。南条には青葉さんがいるし。あの人は礼儀正しくて、優しかった。どっかの小悪魔さんと違って下心もない。馬鹿正直な南条にお似合いだ」
酷い言われようである。どれも自覚はしているが、米倉に言われる筋合いはない。彼だって、いきなり自分にキスを仕掛けてきたではないか。ああ、思い出すだけでしょっぱい気持ちが蘇ってくる。
「お前には、俺の視えていないものが視えているんだろう? 妖祓って、霊媒師なのか?」
おどけていた口調が、真面目なものに変わる。
まさか、米倉の口から妖祓という単語が出るとは思わなかった。混乱してしまう。
一般人の彼が妖祓を、どうして知っているのだ。悪友と称された幼馴染が話したのだろうか。いや、ああ見えて彼の口は堅い。告げ口をしたとは思えない。
「楢崎も和泉も甘いよな。隠したいことを、第三者の前で口にするんだからな。あの夜、お前達は俺の前で喧嘩をしたな。妖祓って言葉を口にして」
米倉が器用に懐紙を折り、清めの塩を口内に流し込む。飲み水もない中、塩を飲み込むのは苦行のようで、口に入れて数秒もせずにむせ返っていた。
涙目になった彼は舌を出して、「しょっぺぇ」死にそうな味だと苦言を漏らす。
「俺は性格が悪いからな。人様の隠し事は調べたくなる性分なんだよ。主にネットの知識しかねぇけど、妖祓について調べた。特殊な霊媒師ってのは分かったけど、それだけだったよ」
調べた上で、飛鳥に何者だと問いかけてくるのだから本当に性格が悪い。
隠し事だと分かった時点で、胸の内に隠すものではないだろうか? その点は悪友の翔と相反している。彼の場合は秘密を知っても、胸の内に留めていた。聞けなかった、というのが正しいのだろうが。
「言っても信じないくせに」苦し紛れに突き放すも、「この状況で言うか?」米倉は白々しく溜息をついた。自分はしかと奇怪な光景を目にしている。信じざるを得ない状況下にいるのだと彼は鼻を鳴らす。
だから話せ、彼は命じた。
米倉は飛鳥の口から聞きたいのだ。何が起きているのか、飛鳥が何者なのか、あの呪符の爆発は何か。妖とは何か、その真実を。
「それが原因で楢崎が優柔不断な行動を起こしているなら、余計に知りたい。なんっつーか、お前は自分で決めたことに少しでもぶれがあったら、これは間違いだとか勘違いを起こして、すぐ誰かに合せようとする。誰かと一緒じゃねえとダメ、みてぇな?」
まんま幼馴染中毒を起こしていた悪友ではないか、と彼は毒づく。
自分で決めた道に誰かいないと駄目なのか。少しでも不安を感じたら簡単に変えてしまう、適当な道しか選べないのか。最後まで意志を通す気持ちはないのか。
小悪魔のくせにびびりなのか、米倉は胡坐を掻き、横目で飛鳥を見やる。
すべて図星だが、言い方に腹を立ててしまう。米倉には関係ないではないか。
「私の何を知っているの! 知ったような口利かないでよ!」
「知らねぇよ。お前が“和泉朔夜”を理由に、適当な道を進もうとしていること以外はな。和泉があの道に行った。だから私もこの道に行く、なんてガキくせぇんだよ」
「なによ。ヒトにキスしておいて! 好きなら、もっと優しく言ってくれてもいいんじゃんか! ショウくんの友達のくせに」
「俺は南条のように甘くも優しくもねぇよ。好き? 勘違いするなってーの。誰がお前のことなんて好きなもんか。こんな小悪魔の素っ頓狂バカ女。からかってやっただけだ」
「し、信じられない! じゃあなんで、私と関わるの?!」
双方睨み合い、理由を詰問した、その瞬きに鳴り石が一際、カチカチと鳴り始める。
ビル全体に轟かせる大きな音は、妖気の強さの度合いを教えてくれる。飛鳥自身も肌で感じていた。異常な妖気の強さを。
喧嘩は一時休戦だ。
飛鳥はお清めの塩を米倉の足元に撒くと、彼を囲むように四点呪符を地面に貼る。
結界を発動させ、「そこから動かないで」右の手に呪符を挟む。米倉が何か意見しようとするが、正直自分のことで一杯だ。彼を守り切れる自信はない。
「結界が米倉くんを隠すから。物音も絶対に立てちゃ駄目だよ」
小さな妖気が波紋として感じられる。次第に大きな波となって飛鳥の肌を粟立たせた。
くる。
固唾を呑む間もなかった。結界を張っている出入り口など、糸も容易く回避し、奇襲をかけてくる歪な生き物たちが次から次に飛び込んでくる。
妖の部族も分からない者達の中に、巨大な牛鬼と呼ばれる妖が混じっていた。
それの頭は牛、首から下は鬼の胴体を持つ。獲物を狙う三白眼。手足はまるで百足。おぞましい足が沢山生えている。おかげで見た目は百足にしか見えない。
性格は残虐非道、猛毒を吐き、人間を喰らうことを好むと伝承に残っている。書物によって描かれる形は異なっているのだが、百足の姿とはこれまた奇怪な。しかも油断はならない。鬼の胴を持つ牛鬼の気は、上玉の妖として位置づけられている。
ずいぶんと厄介な相手がまじっているものだ。
飛鳥は唇を噛みしめ、宙を返ると柱を蹴って米倉から離れた。四方八方に呪符を撒くと、飛び掛かって来る低能な妖達を滅する。飛び散った肉片が再生を始めると、それらに狙いを定め、「祓除浄化!」肉片そのものを浄化した。
これで再生はできまい。ひとつ解決だ。
問題は数だ。
雑魚に気を取られていると、牛鬼に背後を取られそうになる。
逆に牛鬼を見据えていると、無数の雑魚に足を取られなけない。ひとりで祓うには無理がある数だ。自分の霊力が先に底を尽きそうである。
しかし、ここで踏ん張らなければ。誰が自分を助けてくれるのだ。寧ろ、自分は助ける側の人間ではないか。
米倉の安否を確認する。彼はおとなしく結界の中にいるようだ。一安心、と言ったところだろうか。
目を見開いてしまう。少し目を放した瞬間に牛鬼が天井を這いまわり、力のない人間の肉を狙っていた。あの牛鬼には米倉が視えるのだ。
視えない彼は気付いていない。牛鬼の大口から滴る緑色の毒液に。
急いで牛鬼の体に呪符を貼って術を発動させる。
更に呪符を貼り、妖の動きを封じるために拘束の術を発動させる。足の数本がもげ、そこから牛鬼の血が噴き出した。千切れた何本もの足は天井に突き刺さる。
液体が頭に落ちたのか、彼が天井を見上げる。
「…………むかで、にしちゃあ、でけぇよな。牛でもねぇだろうし」
呪符の効力で霊力のない人間にも牛鬼の姿が視えているようだ。戸惑いを通り越し、遠い目を作り現実逃避を起こしていた。
牛鬼が地上に降り立つ。埃が舞うビル内に甲高い鳴き声を轟かせると、一目散に飛鳥へ向かった。巨体の猪突猛進を回避するも、無数の足が自分を薙いだ。軽い体躯は木の葉のように舞い、勢いのまま柱にぶつかる。
数秒間、視界が暗くなり呼吸を忘れた。
「楢崎!」
遠のいた意識の中で、米倉の声だけが脳内に響く。
声を出してはいけないという忠告も無視し、彼が己を呼ぶ。ああ、早く起きなければ。牛鬼が、歪な妖達が。
牛鬼の尖った足が一直線上を描いた。やられる、おぼろげな意識が浮上したのは目の前に立ち塞がる人間によって。
飛鳥の結界札を両手で持ち、その足を弾いたのは霊力もなにもない米倉だった。彼は破れて効力が失った呪符を一瞥、千行の汗を流し、見上げるほど高い牛鬼に口笛を吹く。
「で、どうすりゃいいのよ。お経でも唱えろってか?」
「よ、ねくらくん」
「明日から百足と牛は俺のトラウマ。これは決定だ、な!」
紙屑となった呪符を牛鬼の顔面目掛けて投げつけると、米倉が地を蹴って走り出す。元から力のない人間の肉を狙っていた牛鬼は標的を変えて節のある足を動かす。
その光景を見た米倉がひっ、と悲鳴を上げて速度を上げる。
「夢に出てきそうなくれぇキモイんだけど! 楢崎、さっさと立ってどーにかしろ!」
キモイ、百足勘弁、うぎゃこっち来た!
米倉の喚き声によって、意識が完全に覚醒する。助けなければ。自分を助けてくれた男の子を助けなければ。ここには牛鬼だけではない、低能な歪な生き物たちもいるのだから。
その妖達の肉体が消滅していくのは、直後のこと。
雨あられのように霊力が降り注ぎ、次々に身を貫いては消えていく。浄化されているのだ。零れんばかりの目を見開く飛鳥が霊力を辿っていく。
術師は出入り口の結界を潜り、じゃら、じゃら、じゃら、と数珠を鳴らしながら、がらんどうのビルに入って来るのは和泉朔夜。
折れている左腕を三角巾に包みながらも、それに構うことなく妖達を見据えている。首に提げているのは鳴り石。飛鳥が提げている物と同じものだろう。
けれど何故、朔夜が鳴り石を。
「鳴り石が鳴ったら逃げろ。そんなことを書いたメモ紙を、ショウからもらわなかったのかい?」
困るのだ、中途半端な妖祓がこの事件に関わってもらっては。朔夜は冷然と飛鳥に言い放ち、数珠ひとつひとつに霊力を集約していく。
「天地陽明、四海常闇、満天下陽炎の如く成りけれ。さすれど翳と化す妖在り。即ち祓除の鎖とつかさん――妖縄妖縛」
明滅する数珠が三倍にも五倍にも広がり、米倉を追い駆ける牛鬼の胴を、節ある足を、毒を吐く口を縛っていく。
それだけに留まらず、暴れる妖を黙らせるために数珠から高温の熱が放たれた。集約した霊力を熱しているのだろう。
ぎりぎりと身を縛り上げ、身を縛り上げ、仕舞には圧力で胴と首をばらばらにする。再生する力はないようで、残骸はいつまでも痙攣していた。
牛鬼相手に初級程度の術を施した相棒は、明らかに成長していた。長の下で修行しているだけある。難なく巨体な妖を調伏してしまうのだから。
他の歪な妖達の姿も術師によって、肉体が浄化されたようだ。姿かたちは見受けられない。転がっているのは牛鬼の肉片ばかり。
それすら、朔夜は霊力で浄化してしまう。
「た、助かった」
へたりこむ米倉を余所に、飛鳥は歩んで来る朔夜と向き合う。数日ぶりの再会だった。
「一般人に守られたようだね。飛鳥、僕は助言したはずだよ。中途半端な妖祓は邪魔になるだけだって。それがこの結果だ。どうして一般人を巻き込んだんだい。鳴り石が鳴ったら逃げろ、それが最善の策だったはずだ」
あいさつ代わりのお叱りは、どこまでも素っ気ない。
「巻き込んだのは悪かったと思うけど、私だってこんなはずじゃなかったの」
物には言い方があるのでは、飛鳥は反論する。
自分だって鳴り石が鳴った際、ちゃんと逃げていたのだと弁解するが、「過程より結果だろう?」彼はどこまでも喧嘩腰で返事する。
これが自分の相棒だった男だなんて、ああもう、腹が立って仕方がない。
頭に血を上らせる飛鳥に、早くここから立ち去るよう朔夜が命じる。今は鳴り石が鳴っていない。真っ直ぐに帰れば、安全な結界を張った家で息が抜ける。自分は残痕を調べなければならない。邪魔なのだ等々。
「米倉を連れて早く」
急かしてくる朔夜に対抗心が芽生えた。
「なんで、朔夜くんに命令されないといけないの。それは私が決めるよ」
「君がここに残って何になるんだい?」
「それも私が決めることだよ。朔夜くんには関係ない」
真っ向から反論する飛鳥と、それを聞き流す朔夜の様子を見守っていた米倉が深い溜息をついたが、二人は気にも留めない。
ただただ、お互いの主張を譲らなかった。
「はぁ。南条の苦労が分かる気がする。こいつ等めんどくせぇな。首を突っ込む俺も大概でめん、」
ぷしゃ、血しぶきが上がる。
音は口論していた二人にも聞こえた。何事だと顔を上げた先には、右の頬に血を伝わせている米倉の姿。牛鬼の尖った足が右目を貫いていた。先程千切れた足たちが天井に突き刺さったまま残っていたのだ。
ぐねぐねと動くそれは意志を宿し、血を振りまきながら、米倉の右目に入り込もうとする。
「米倉くん!」
飛鳥と朔夜が同時に呪符、数珠で、牛鬼の足を浄化する。
それにより、牛鬼の行動を食い止めることはできたものの、米倉は断末魔のような悲鳴を上げ、右目を押さえていた。
「目をやられたの? ねえ?!」
血の気を引かせつつ、飛鳥は傷を診せてくれるよう頼むが、彼は一向に手を退けない。
「米倉、傷を診せて。早く!」
朔夜が無理やり手を退けようとするものの、米倉は右目を隠したまま。
しきりに悲鳴を上げていた彼が上体を折り、ようやく口を閉じる。空いた左手で握り拳を作ると、「くる」弱弱しい声で呟く。
激痛に耐え、小刻みに震えながらも彼は二度、三度、くると呟いた。
「へんな化け物がくる。なんだあれ。数も、おおッ……い」
次の瞬間、ふたつの鳴り石にヒビが入る。同時に米倉が伏せろと声音を張って、二人の頭を無理やり押した。
ビルの隙間という隙間から生温かい空気が吹き込み、建物の中に小さな竜巻が吹き荒れる。その暴風に乗って新たに歪な生き物達が侵入した。
妖とは言い難い、つぎはぎだらけの妖の群れはまるで百鬼夜行。
迷うことなく妖祓に狙いを定め、心の臓を貫こうと群れがひとかたまりになって移動している。
「飛鳥!」
朔夜が数珠を構え、飛鳥が四点に呪符を貼り、三人を囲むように結界を張る。瞬く間に群れに呑み込れ、妖達が張りつく。
相棒の数珠から放たれる霊力で一匹一匹は浄化されていくが、あまりにも数が多すぎる。術の方が間に合わない。一刻も早く加勢したいが、少しでも気を抜けば結界が破られてしまう。
すると米倉が閉じた右目を十時の方角に向け、ゆらっと立ち上がる。
動くなと注意しても、「お前だけ違う」彼は宙を睨み続け、「お前が核か」その右の瞼をじわじわと持ち上げる。
「和泉! ビームだ!」
「は? ビーム?」
「その数珠から出ているそれだよそれ! 俺の指さす方向に、そのへんちくりんなビームは撃てっか?!」
「…………へんちくりんはまだしも、ビームは言い方を換えてもらいたいね」
「なら光線だ。早くしろ」
「ああもう、君とは本当に気が合わない」
何かを感じ取ったのだろう。朔夜が数珠を十時の方角に合せる。術が放たれる瞬きに、米倉の右目が開眼する。
ぎょろ、ぎょろ、ぎょろり。
四方八方に動く目玉が確かに妖祓を捉えた。飛鳥は血の気を引かせてしまう。
彼の右目が黒く染まり、暗紫の瞳が持ち主の意志とは関係なく、あちらこちらを向いている。縦長の瞳孔は、猫の目よりも、狐の目よりも細い。ヒトの目とは到底言えない。
「一直線上に撃て!」
声音に合わせ、朔夜が数珠から霊力の矢を放つ。
その矢の妨げになる妖達が出現すると、「邪魔するんじゃねえよ」動き回っていた瞳が標的をしかと捉えた。金縛りに遭ったかのように動かなくなる妖達を貫き、矢が一匹の妖を貫く。
群れに号令を出していた妖なのだろう。それが消滅することにより、一体となっていた群れがわらわらと散っていく。
個体になればこっちのものだ。
米倉がその場で膝をついたことを合図に、「後は僕がやる」相棒が結界の外へ飛び出す。妖達の相手をする間、飛鳥は怪我人の右目を診る。
爪の色が無くなるほど指先を地面に押し付け、玉のような汗を流す彼の右目は持ち主とは関係なく四方八方に動き回し、状況を把握しようとしていた。
しかし気味の悪い目玉は米倉自身に視界を与えているのか、右目を覗き込む飛鳥の姿をしっかり捉えている。手当てをしようと手を伸ばせば、「触らないでくれ」彼はこちらの動きに反応を示した。
「お前の手から、得体の知れないもやが見えるんだ。白いもやが。なんとなく、それに触られたくねぇんだ。さっきの化け物たちにも黒いもやが見えるし。どーなってんのよ。俺の右目」
白いもや、黒いもや、各々霊気と妖気を指しているのだろう。
米倉には飛鳥の霊気が視えている。一般人だった彼の右目が妖を捉え、妖気を捉え、そして霊気を捉える。ああ、これは妖化した幼馴染の症状に似ている。
翔もまた妖の器となった際、自分達の霊気に当てられて体調を崩した。米倉の拒絶反応はそれと酷似している。
確か牛鬼の足の爪が彼の眼球を傷付ける間際、その足は血しぶきを上げていた。暴れるように米倉の右目に入り込もうとしたため、牛鬼の血がヒトの眼球に新たな眼球を与えたのではないだろうか。
米倉の右目は妖化しているのかもしれない。
現実を理解した瞬間、飛鳥は米倉の拒絶を無視すると、体を支えている両手と膝を強引に崩した。
仰向けに寝かせると、「痛いけど我慢してね」己の膝小僧で右の手を押さえ、バッグからお清めの酒の入った小瓶を取り出して歯で蓋を開ける。
妖祓の常備品は法具を除いて三つ。妖の術を避けるお清めの塩、妖の毒を浄化するお清めの酒、妖の完全な姿を映し出す鏡。内のひとつ、お清めの酒がどこまで右目の傷を癒せるか分からないが、何もしないよりかはマシだろう。
「む、むりむりむり染みる! 目が焼けるいてぇ死ぬ! おい楢崎!」
透き通った酒が少量右目に掛かるだけで、米倉の四肢がばたついた。
右目自身も危機感を覚えたのだろう。黒い目玉が瞼の裏に隠れてしまう。飛鳥はそれを許さず、瞼を抓むと小瓶を傾け、右目を癒し続けた。
「こんなん拷問だろうが!」
傍らでは米倉が痛い、染みる、殺されると喚いているが聞こえない振りをする。
ヒトが妖化する事例は珍しくない。妖祓の知識にあっても、身近な人間が妖化する現実はやはり受け入れ難いもの。もう充分なのだ。そういう苦い経験をするのは、幼馴染だけで。
しかし、どれだけ癒そうとも彼の右目がヒトの目に戻ることはない。
脳裏に過ぎるのは、妖の血を体内に入れた人間に末路。どう足掻いても、妖の血は人の血を上回る。ヒトは妖よりも弱く、繊細な生き物なのだ。
朔夜の言う通りだった。自分が中途半端な妖祓を名乗っていたせいで、ヒト一人守れず、それどころか彼の運命を大きく変えようとしている。中途半端な気持ちでいたから。
こんなことならば妖祓の道をすっぱり辞めれば良かったのだ。真剣に辞める道と向き合えば良かったのだ。自分には相棒のように誇れる才も、高波を目指す志もなかったのに。
「お前、いい加減にさ。誰かを理由に行動するのはやめろよ。腹立つんだって」
半分ほど減った小瓶が米倉の左手によって弾かれる。
物思いに耽っていた飛鳥が我に返ると、怪我人が己の体を押し退け、自力で上体を起こしている。まだ動いては駄目だと注意するも、彼は決して話を逸らさない。
「今の楢崎はこう思っているんじゃねーの? 米倉くんが怪我をしちゃった。私のせい。責任を取らないと! ……今度は俺を理由にするってか? 冗談じゃねえぞ」
下心があって引っ付いてきたことは認めても、そういう展開は望んでいないと米倉は苦言する。この怪我は自分が撒いた種。どっかの誰かさん達の秘密とやらを掴むために、起こした行動の結果なのだと彼はおどけ口調で笑う。
そして自分は掴んだ。楢崎飛鳥と和泉朔夜の秘密を。常々疑問に抱いていた、二人の違和感をついに掴んでやったのだから、怪我を負っても気分は良い。
「これは俺が、俺自身のために起こした行動だ。あの夜から、その前から、お前等の隠したがっていたことを暴いてやるって心に決めていた」
誰かに指図されて行動を起こしたわけではなく、自分の抑えられない好奇心を理由に妖祓という職について調べた。ネットで分からなければ、関係者であろう人間に引っ付いて、真実を知ろうとした。
だから飛鳥に逃げろと言われても引っ付いて回ったし、逃げることもしなかった。それが右目に怪我を負う未来に繋がるのならば、これは自分が引き寄せた結果だと米倉は強く主張する。
誰のせいにするつもりもない。寧ろ、適当な気持ちで責任を感じられてもうざいだけなのだと飛鳥に吐き捨てた。
「楢崎はいつもそうだ。和泉が、南条が、二人が頑張っているから、自分も頑張る。じゃあなにか、あいつ等がいなかったらお前は何もしねぇってか? ナンタラ祓ってのもそうだ。お前は和泉を基準に考えて、結局自分がどうしたいか考えてねぇーじゃねえか!」
国立大学を目指す。その理由が幼馴染達に少しでも、見合えるように。
妖祓をこなす。その理由が幼馴染達が頑張っているから。
私立大学に変更する。その理由が妖祓の道に進む朔夜に申し訳ないから。
ふざけているのかと米倉は飛鳥に詰問する。どれもこれも、それこそ自分の人生すらも幼馴染ばかり。幼馴染を理由づけにして、結局自分を理由にせず逃げているではないか。
他人を理由にして行動することもあるだろうが、飛鳥の場合はそれで楽をしているのだと指摘する。
「そりゃ楽だよな。誰かを理由にして動く方がよ。悩むことも、考えることもしねぇでいいんだから。なんだお前、高校時代の南条クンでもリスペクトしているのか」
「わ、たし」
「うじうじと甘ったれるんじゃねえよ。少しは自分の行動に責任持てっつーんだ。楢崎、お前はそこに幼馴染がいねぇと何もできないのか? 和泉に言われたから、妖祓ってのを辞めるのか? だったらお前は繰り返すだけだ。何か目標を持っても、またすぐ諦めるだけだ!」
弾かれたように顔を上げた米倉が、「俺はごめんだね」飛鳥の体を思いきり突き飛ばした。
「この怪我が甘ったれた理由付けにされるなんざ、まっぴらごめんだ」