<四>烏天狗、返り忠の落穴
若過ぎる妖狐は我等の手中にあり。
消えた十代目が立っていた土の上に立ち、弥助が妖艶に笑う。
ひらり、はらり、イチョウの葉がまるで雪のように、軽い身を風に靡かせながら舞い落ちる。数多の葉を浴びぬように骨の傘を差すものの、殆ど紙の張られていない其れでは身を防ぐ術はない。ご自慢の着物に葉が霞めた。
紀緒は輩を睨む。
ねっとりと赤い舌を出している骨傘は、口角を舐めて此方の殺意に興奮している。
相も変わらず不快な性癖だ。己と視線が交わると、一変して眉間に皺が寄る。正しい表情だ。自分も其の表情を浮かべていることだろう。
だが弥助の余裕は崩れない。輩は此方の動揺を誘うことに成功し、大層な喜びを噛みしめている。
「来斬の新たな奇襲に怖気づき、あの未熟妖狐を此処へ連れて来たのが運の尽き。赤狐、あんたは間違いばかり犯しますね。嬉しい誤算でしたが」
比良利の表情を盗み見る。
細い糸目をつり上げている赤狐は微動だにしない。視線は弥助でなく、彼の隣に立った黒浄衣の賊に釘づけである。
誰も何も言わないが、あの賊の正体は大麻の使用で暴かれた。名を口にしないのは現を受け入れたくない一心でのこと。それは紀緒だけでなく、比良利や、おばばも同じ気持ちだろう。
賊は十代目がいなくなるや油の切れたからくり人形のように動きが鈍くなり、ぎこちなく周囲を見渡している。翔を探し求めているのだと察する。
ゆるりと邪気の四尾を靡かせ、うわ言を漏らした。
「我ガ名ハ、白ノ宝珠ヲ宿りシ者。返セ。我ガ名ハ、白ノ宝珠ヲ宿りシ者。返セ。我ガ名ハ、白ノ宝珠ヲ宿りシ者。返セ――宝珠ヲ返セ」
「やはり不完全体は醜いもの。早いところ十代目の肉体を頂戴しなければ。今の彼は本能だけで動く人形そのものですから」
此れは対を失くした赤狐に対する煽りだ。
少しでも怒りを扇ごうとする、相手の性格の悪さに紀緒はしかめっ面を作ってしまう。「下賤な」つい悪態をついてしまうが、向こうは嬉々とするだけだ。
「九代目の復活は近い。あんさん達だって会いたいでしょう? 鬼才と謳われた妖狐に。だったら容易いこと。十代目を犠牲すればいい。安い代価とは思いませんか? なにせ、あの白狐は若く未熟すぎる」
「まったくもって不愉快な。わしがいつ、あの頓珍漢に会いたいと申したか。あやつは死んだ。それは変えられぬ現よ」
「そうですね。あんたが見殺しにした九代目は命を落とした。それは変えられない現です」
先に煽られたのは自分だった。
紀緒は舞うイチョウの葉を受け止め、それを指の間に挟んで骨傘に投げる。柔らかな葉が瞬きの間に硬度を増して鋭い飛び道具となる。
ご自慢の顔に向けて投げるも、賊が回って大麻で受け止めた。てっきり術で吹き飛ばすと身構えていたのだが、賊は大麻の柄で受け止めるに留まる。
「十代目が近くにいなければ、それも役立たずなのですか。困りましたね。あんたに赤狐達を任せて十代目の下に向かいたかったのですが」
近くにいなければ、紀緒は思案を巡らせる。
なるほど。神主が使用する大麻の大半は、宝珠の御魂を通して術を発動させる。宝珠を持っていない賊が大麻を使用することが出来たのは、傍らに翔がいたからなのだろう。
「まあ、いいでしょう」此処は本陣、赤狐達を甚振る時間はいくらでも作れる。優先すべきは白狐だ。弥助は冷たい一笑を零した。
「赤狐。あんたはまた強くなるでしょうね。力に執着している来斬も喜ぶことでしょう。なにせ、もうすぐ白狐の死を目にすることになるのでしょうから。いや、白狐は我等の同胞に成り下がるやもしれない」
「ほう。興味深い話じゃのう。詳しくお聞かせ願おうか。あの単純狐が、どのようにして貴様等の同胞になると申すか」
「白狐とあたし達は、ある種魂の同胞ですから」
「わしには可能性はないのかのう。仲間外れとは、ちと寂しい話じゃ」
減らず口を叩き、叩かれる、双方の表情はあくどい。
どちらが優勢なのかは傍観に回っている者達にすら判断をしかねる。
「九代目と十代目の御魂には一つの共通点があり、今の赤狐にはそれがない。ゆえに同胞にはなれないということです」
なるつもりも毛頭ないくせに、世知辛い答えだと比良利が白々しく悲しんでみせる。
『比良利。早く坊やを!』おばばの呼び掛けが合図になったのだろう。賊が駆け出した。脇目を振らずに、果てまで続くイチョウの並木道へ。
「させぬ」比良利が後を追うも、「徒話はこれにして仕舞いです」先回りをした弥助が傘を振って荒風を吹かせる。眩む一瞬の視界は隙を生んだ。
その風に乗って姿を消す骨傘と賊。今度こそ辺りは静寂に包まれた。もう宙にイチョウは舞っていない。
『なんで追わないんだい比良利。わざと見逃しただろう』
流の腕に抱かれた猫又が抗議する。
総身の毛を逆立て、フシャアと鳴く老婆の怒りを右から左に流し、比良利は何の話だと尋ねた。
だが年の功には誤魔化せない。
追えた筈の敵の背を見逃したではないか、おばばはくわっと赤い口を開けた。
実のところ紀緒も見抜いていたのだが、敢えて口は出さなかった。比良利に考えがあってのことだと察したからだ。
『分かっているのかい比良利。あの子の足は不自由なんだ。黒百合に狙われている身分にも関わらず、敵陣に赴いても良いと思ったのはお前さんが傍にいると信じていたからだ』
なのに今の十代目には、比良利どころか、武術に長けている青葉も天馬もおらず。
かろうじて金銀狐が彼の下にいるであろうが、あの妖狐達はまだまだ未熟の身の上。やはり赤狐が必要なのだ。相手が低俗な妖ならまだしも、黒百合は大妖ばかり集う卑劣極まりない妖の群。瞬く間の時しか生きていない、元人間の妖狐など、赤子の手をひねるようなもの。
『どういう了見だい』
弥助を見逃した理由を詰問するおばばに、それまでどこ吹く風で抗議を聞き流していた比良利が、軽く嘆息を零す。
その際、喧しい保護者だと揶揄を交えて。
「弥助は翔を狙い、必ず動きだす。それは骨傘のみにあらず」
賢い猫又はそれだけで意味を察した。
『まさか、お前さん。はぐれた坊やをオトリに使おうと』
老婆の怒気が増すも、狐は飄々とするばかりだ。
「敵の術中に嵌ることもまた、ひとつの策であろう」黒百合は撒いた餌を見す見すと逃す淡泊な輩でもない。これはまたの機会だと意見を述べた。
はてさて、泡を吹くのは餌を撒いた者か、喰らった者か、これは見物だと比良利。
「我等の目的は黒百合であり、十代目のお守ではない。コタマ、翔は齢十八の妖狐であろうと、南の神主を名乗る狐よ。これしきのことでくたばるのであれば、わしの対と名乗る資格などないわ」
あんまりな言い草だとおばばが非難するも、比良利は意思を覆す気はないようだ。
これより、この顔ぶれで別荘に向かうと段を下す。目的はただ一つ、黒百合なのだから。
『比良利!』歩き出す赤狐に老婆が声を上げると、見守っていた流が綻ぶ。
「ずいぶんと翔さまを信用しているのですね、比良利さまは。本来ならば、コタマさまのように血相を変えるでしょうに。いえ、私ならば敵陣に連れて行こうとも思わない。信頼しているからこそ、成しえること」
すると、少しだけおばばが落ち着きを取り戻す。
『坊やを心配するのはわたしの役目ということかい。まったく、いつから坊やをまことの対として見るようになったのかねぇ。少し前まで保護者に振る舞っていたというのに』
「それだけ、此度の出来事は比良利さまに影響を与えたのでございましょう」
紀緒も同調した。あの一件以来、二人の取り巻く空気が少し変わった。
と。
「この戯け者が! なにゆえ敵の術中に嵌っておる! 未熟じゃというのに油断をするから、このような目に……なに? わしは関係なかろう! ちとは反省せえ!」
前言撤回、赤狐はまだ保護者として抜けきれない節があるようだ。
先を歩く彼は鳴った機器を取るや”付喪神の器”に向かって、あれやこれや十代目を叱りつけている。そのせいで、生きた携帯がブルブルと怯えている。
「しかも大麻を容易く敵に渡すとは、わしは情けのう気持ちで満たされそうじゃ。そのような修行をつけてはおらぬぞ! ええい、苛立っておらぬ! 腹を立てているだけじゃ!」
「これはこれは」
『まことの対は遠いねぇ。わたしへの見栄はなんだったんだい』
苦笑いをこぼす流とおばばの隣で、紀緒も笑みを零す。
片隅で比良利に憂慮を抱いていた。彼はどう思っているのだろうか。先代の対が現れたことを。何も思わないわけがない。平然と振る舞っているが、彼は内心で動揺していることだろう。
同じようにはぐれた当代南の神主と、同胞達はどうしていることだろう。青葉のことなら、武に長けた名張の息子が傍にいる。大丈夫だとは思うが……彼女は誰よりも先代を慕っていた妖狐のひとり。動揺していないとは言い切れない。
後輩の巫女に思いを寄せていると、落ち着きを取り戻した比良利がはぐれた十代目に命じた。
「翔よ。ツネキ達ともに本陣を進むのじゃ。これより、我等は別行動を取る」
※ ※
ところかわり、イチョウの並木道を進むは天馬と青葉。
消えゆく十代目を追って敷地に飛び込んだは良いものの、見事に彼と離れ離れになってしまった。幸い、二人は至近距離にいたため同じ場所に飛ばされ、こうして行動を共にしている。
社交的ではあるがわりと人見知りをする七代目南の巫女、無口な烏天狗、面子のせいか会話は一切飛び交わない。
やっと言葉らしい言葉が出たのは、青葉の持つ妖用携帯アオの連絡によってである。
十代目や同胞達が無事であることにホッと胸を撫で下ろした青葉は、彼から赤狐の策を聞き、天馬と別荘を目指すことにする。
また翔は天馬と代わるよう指示し、烏天狗に普段使っている携帯のGPS機能をオンにしてくれるよう頼む。
妖術によって空間が捩れている此の地で、果たして人間の科学文明が通るかどうかは分からないが、ひょっとすると居場所の特定に役立つかもしれないと翔は思ったようだ。
「向こうのスマホに反応している。翔、使えるようですよ」
こうして青葉と天馬は各々自分の携帯を握り、イチョウの並木道を直進する。
右も左もイチョウが等間隔に植えられ、青々としたイチョウの葉がしな垂れている。
自分達が目指す別荘が此方で良いのかどうか、それすらも分からない。
だが天馬の持つ携帯が十代目の行動を事細かに教えてくれるのだ。それを信じて、進んでいくしかない。
まだ青いイチョウの葉を見上げた後、先を歩く天馬の背に視線を留める。
黙々と足を動かす彼の歩調は心なしか速い。
「我等が集ってしまったのは失敗でしたね」
珍しく青葉から相手に声を掛ける。変化のない景色に飽きてしまい、会話が欲しくなったのだ。
「同意見です」
周囲の一般妖から敬遠されがちの名張家次代当主は、無愛想と悪評をもらわれがちだが、少なくとも神職達の前では畏まった態度を取る。
今も口数は少ないながらも、きちんと返事をしてくれる。尤も、それは建前かもしれないが。
「天馬殿、この方角の先に翔殿はいるのでしょうか」
「それは分かりかねます。貴方の持つ携帯のように心があればまだしも、自分達が持つ携帯に心はない。いざとなっても、自我がないゆえに自己判断すらできぬ道具のひとつにしか過ぎません。GPS機能は優秀ではありますが、過信は禁物です」
半信半疑で進んでいる、といったところなのだろう。
だからこそ天馬の歩調が速くなるのだ。結局、彼にとって信じられるものは己の感覚なのだろう。
青葉は彼の後姿を見つめ、静かに苦笑いを零す。
「ありがとうございます。翔殿のために、そこまでご熱心に守護して下さって。貴方様は比良利さまに護影を頼まれたのでしょう?」
はじめて前を向いていた彼の視線が此方に流れる。
眼が訴えている。赤狐が事を話したのか、と。
しかし青葉は比良利から何も聞いていない。
けれど、自分は気付いていた。周囲の者が気付いているかどうかは知らないが、天馬の翔に対する接し方や立ち振る舞いで、ああ、この人は陰ながら未熟な十代目を守護する妖として役職に就いているのだと。
それは百年以上生きている青葉だからこそ気付けたこと。
態度で肯定を示した烏天狗も、白狐と同じく十八年しか生きていない妖。まだまだ青い妖である。
視線を戻す天馬は、ぶっきら棒に言葉を投げる。
「自分が護影だと、やはり不安でございましょうか」
名張家の評判を気にしているのだろうが、青葉には思うところがない。今昔の名張家は違うのだと青葉は信じている。
「翔殿は貴方様を信じている。私が疑う余地などござましょうか」
「さあ。貴方の御心は、貴方だけにしか分かりませんから」
なのに、何処となく天馬は疑心を向けてくる。そうして彼の人生は家柄に縛られてきたのだろう。
彼にどうして翔を守ってくれるのだと問う。
天馬は一般の妖、わざわざ危険なことに首を突っ込む必要性はないだろう。
「利用しているのでしょうね」自嘲交じりにいらえ、彼は肩を竦める。不思議と腹は立たなかった。
「なるほど。ならば、それに対して翔殿に“支えとなって欲しい”と返された。そういったところでしょうか?」
「何故、そう思うのです。青葉さまは不信感を抱かないのですか?」
「私は一年前、翔殿の御命を狙った不遜な輩。貴方様の仰る利用を、私もしようしていました。今は後悔の嵐、彼を知れば知るほど当時の己が許せなくなります」
先導する烏天狗の足が止まる。
体ごと振り返る彼に目尻を下げ、青葉は不信感を抱いたか、と質問を返した。答えに困っている彼の無言を無視し話を続ける。
「本来ならば巫女という役職を降りなければならない立場。ですが、翔殿は私を必要として下さいました。支えになって欲しいと微笑み、罪を許して下さったのです。その時、私は思ったのです。この方ならば立派な十代目南の神主になるだろうと」
必要としてくれる三尾の妖狐、白狐の南条翔を受け入れたことで思ったのだ。彼の先導する未来を、南の地を、共に見守りたい。
現在、青葉が糧としている志だ。
そのためにも、今は未熟な十代目を陰日向関わらず支えていきたい。
知が足りないのならば、己の知を授ければ良い。武の腕がないのならば、己が腕になれば良い。術の使用が限られているのならば、自分の憶えている術を発動させよう。
胸に決意を秘め、彼と日々を過ごしている。そんな己がどうして天馬に不信感を抱こうか。
「十代目は絶大な信頼を貴方様に寄せておられます。そして、天馬殿はそれに応えようとしてくれています。ならば、私も貴方様に信頼を置きます。つまり、そういうことです」
相手の表情が能面に戻る。
気持ちを隠そうとしているのか、はたまた他に想うことがあるのか、それは青葉には分からない。
「貴方にとって、翔はそんなにも信頼の置ける妖狐なのですね」
「先に信頼を置いたのは翔殿でした。こんな私を」
「…………」
「だから、たとえ、先ほどの賊が私の知る者だとしてもしても、私は翔殿を支えると決めたのです。賊となったあの方が、私を拾い、生きる希望を与えてくれた方だったとしても。いえ、もしも私があの方を取っても翔殿は笑って許してくれるでしょうね」
容易に想像ができる。
翔のことだ。あの賊の正体はすでに把握していることだろう。それを踏まえて、己を心配し、仮に九代目に心を寄せても、あの妖狐は「しゃーないって」と言って青葉を許すのだ。
それどころか、彼ならば言うだろう。
どんな形であれ、あれは青葉の大切な妖。そっちを取って当たり前だ。なら、自分が青葉の気持ちを汲み、賊となった九代目を救い出そう。大丈夫、青葉の大切な人は必ず守る、と。
泣きたくなってしまう。彼に己を憎む選択などない。
本当は十代目と九代目の対峙など見たくも、聞きたくもないけれど、近い未来、彼等はぶつかる。断言できる。
その時、青葉は翔を守ると決めている。彼が自分にしてくれるように。
「護影のことを御内密に。特に翔には知られたくございません」
聞き手に回った烏天狗が何を思ったのかは分からない。
ただ、青葉に頼みごとをしてきた。護影のことは彼に喋らないでくれ、と。
知られてしまえば最後、半ば強制的に役職を降ろされる可能性があると天馬。
それは名張家にとっても痛手であり、天馬自身も望まないことだという。頑なに利用を口にする彼だが、青葉には分かっていた。その単語は単なる言い訳なのだと。
意味深長に微笑を零すと、決まり悪そうに彼は視線を逸らした。
「利用を支えと言い直して下さった、十代目は本当に無茶をするお方です。目が放せないお方で、此方の寿命を縮ませてきます」
同調する。
十代目はそういう妖狐だ。
「無茶を軽減させたい。だから自分はお傍にいることを誓いました。自分も見てみたいのです。彼が先導して下さる南の地を。彼には長生きをして欲しい」
「思うことは私と同じ、と捉えて良いでしょうか?」
「ご解釈は青葉さまにお任せします。行きましょう、余計な時間を食ってしまいました」
乏しいながらも頬を崩してくれる烏天狗に頷き、青葉は歩みを再開した。
無茶ぶりばかり起こす我等が十代目の傍に行かなければ。目を放すと、またとんでもない無茶を起こしかねない。
二人の動きが止まる。
剣呑とした生暖かい風が追い風となって吹く。不愉快な暖かさには、不快な妖気が混じっていた。
来る、本能が警鐘を鳴らす。
急いでその場から飛び退くと、柔らかな地面に数本のクナイが刺さっていた。敵襲だと容易に理解した青葉は右だと叫び、手早く青々と燃える狐火を放つ。
動く影がイチョウの木に飛び乗る。
「高所に逃げても無駄だ」
宙を飛ぶ烏天狗が錫杖を振り下ろす。
見事にそれを自分の錫杖で受け止めた相手のなりは、ひどくみすぼらしい。一見はぼろぼろの袈裟を着た乞食坊主、といったところだ。
其の妖の名は野寺坊。
廃寺に現れる妖で、元は住職に就いていた人間が妖化した一説もある。
骨張った体で胸板の肉厚は殆どない。
けれども、そのおかげで素早さは一級品だ。天馬の錫杖を払いのけた野寺坊は、木から木に飛び移りながらクナイを投げる。
きひひ、不気味に笑声を上げる野寺坊には余裕がある。二対一にも関わらずだ。
ならば推測として立てられるのは二つ。
相手が何かしら有利な罠を仕掛けているか、実は他に味方がいるのか。
青葉は後者だと睨み、野寺坊は天馬に任せ、敵がいないか一帯をぐるりと見渡す。木陰に殺気を感じた。それは飛行する天馬を狙っている。
指に挟んだ癇癪玉を木陰に放てば、忽ち白煙と火花が散り、隠れていた敵が飛び出した。
其の妖も野寺坊。
けれど天馬が追う野寺坊と違い、ふくよかな体躯をしている。袈裟こそ汚らしいが、向こうで駆け回る乞食坊主とは対照的な外貌だ。
こちらは素早さこそないものの、地を震わすほどの腕力を持っていた。相手の錫杖が地面に突き刺さると山地が震動する。
幹のように逞しい腕が、彼専用であろう太い柄をした錫杖を振るい、綺麗な横一線を描く。衝撃を受け止めるものの、その威力は体が反動で下がってしまうほど。
真っ向から勝負すれば力負けする。
そう判断した青葉の前に、飛行していた天馬が間に割って入った。
彼も分が悪いと判断したようで、自分がこの野寺坊を相手すると主張。相手の錫杖を己の錫杖で受け止め、長身痩躯の野寺坊を任せてきた。
青葉は素直に引き下がり、もう一匹の野寺坊の姿を探す。
相手はイチョウの木の上で凝視するように、此方の様子を見ていた。紫色の舌が口角を舐め、青葉を嘲笑している。
「あいや、その山伏の服装。腰に下げている家門。お主は返り忠の名張一族ではなかろうか」
肥えた野寺坊の問いに天馬の表情が微かに動く。
敵の錫杖を押しのけると、一本下駄の歯でそれを蹴り飛ばす。
揺さぶるものを見つけたと言わんばかりに厭らしい笑みを浮かべる野寺坊は、こんなところで“返り忠”の名張一族の末裔に会えるとは光栄だと恭しく頭を下げる。
よって天馬の錫杖を振るう動きに荒さが目立った。感情的になっていることは火を見るよりも明らか。彼は敵の言動に不快感を示している。
鼠のように素早い野寺坊に狐火を放ち、青葉は天馬に冷静になるよう窘めるが、烏天狗の耳に己の言葉は聞こえていないようだ。
射抜くような鋭い眼光は肥えた野寺坊だけを見据えている。
「名張を知る者か?」
地を這うような声音で天馬が問う。
悪名高き名張のことは、妖の者ならば誰でも知っているのでは、敵はさも当たり前のように答える。
「私欲に溺れ、神に背を向けた愚かな一族よ。守護する山を奪われ、託された信頼を穢し、誇りを砕いた烏天狗が何ゆえ、宝珠を守護する神職達と共にしている? まさか、大罪の許しを乞うために奉仕でもしているつもりか」
「答える義理など無い」
先程よりも大きな声音で返事し、烏天狗は構えを取った。
哀れむように吐息をつく野寺坊は、末裔の苦労には心中察すると同情を向ける。
「先祖が起こした罪が末代まで侵食し、その罪を妖達から軽蔑される。何もしておらぬお前はさぞ苦労をしていることだろう」
「黙れ」
不快感を高める彼は、らしからぬ態度で相手に突っかかる。
それこそ錫杖を右に左に振り、野寺坊を黙らせようとしている。癇癪を起こした子供のような立ち振る舞い。それでは敵の思う壺だ。
傍らでは逃げ回る痩躯の野寺坊が数珠を取り出し、怨念のこもった経を唱え始める。
追っていた青葉は不味いと眉を顰める。
元は住職の人間、念仏を唱えることで此方の妖力を乱し、妖術を簡単には使えないようにしているのだろう。相手のとなる経はもはや呪詛、神仏に背いた住職だからこそ成せる術だと言える。
早くやめさせなければ。
そう思う一方で下手に近付くとクナイが飛んで来るので慎重にならなければならない。天馬の興奮状態と、置かされた状況に不利を感じた青葉は焦燥を噛みしめ始めていた。嗚呼、どうしてもあの野寺坊が捕まらない。
錫杖と錫杖がぶつかり合う音がイチョウの並木道に轟く。
木から木に飛び移っていた青葉が地上を見やると、烏天狗の持っていた錫杖が宙を舞って背後の地面に突き刺さっていた。
力負けしたのだ。
振り下ろされる錫杖を、素手で掴む天馬は危機だと教えてくれる。参戦したいが此方の野寺坊を放っておくわけにもいかない。目を放せば、クナイを無防備となった天馬に放つ可能性もあるのだから。
「そう怒るでない。烏天狗の小僧。わしはお前に情けを掛けているのだぞ」
「不要な気遣いだ」
片膝立ちに追い込まれる天馬の背がのけ反りそうになる。
ろくすっぽう力が出せない彼に、野寺坊が黒百合に入らないかと囁いた。
驚愕したのは誘われた天馬だけではない。経を唱える野寺坊を追う青葉も、驚きにまみれてしまった。
「何の冗談だ」
烏天狗の問いに、肥えた体躯をしている野寺坊は続ける。
誰しも欲はある。その欲に負けた先祖のせいで、名張家は悪名高き一族と墜ちてしまった。時を超えて償わされている罪、今日まで他の妖に白眼視され、さぞ末裔達は苦労をしていることだろう。彼等は何もしていないというのに。
なのに、宝珠の神職達も冷たいものだ。
主犯のみを裁けば良いものを、一家そのものを罪人として烙印を押したのだから。神に仕える宝珠の者達など、結局その程度。名張の苦労など他人事なのだ。
動揺を見せる天馬に脈ありだと思ったのか、野寺坊は顔を近付けて告げる。
「四代目北の神主がお前に何かしただろうか。罪という烙印を押され、周囲から差別される名張家に未熟者の十代目が救おうとしてくれただろうか。していないだろう」
天馬の腕前ならば、十二分に黒百合でも通じる。
見事宝珠の御魂を砕き、新たな御魂が南北を統治した暁には、その功績を讃え“名張家”を英雄として称賛しよう。
一族の名は回復し、きっと百八十度違う世界が名張家には待っていることだろう。
黒百合は宝珠とは違う。苦労している民を見捨てない。決して見捨てないのだと野寺坊。
「名張の汚名はお主が晴らせば良い」
錫杖を掴む力が弱まる烏天狗に、悪い話ではないだろうと持ちかけた。
様子がおかしくなったのは、天馬の方だった。
「違う」
そんなことは望んでいない、己に言い聞かせ、気丈を保とうとしている。武に長けている、あの烏天狗が顔色を変えた。まるで恐れているかのように、血の気を引かせている。ただ事ではない。
「聞く耳を持ってはなりませぬ。天馬殿!」
先ほど、自分と話していたではないか。十代目を支えたい、と。
それは天馬の意思であり、望みでもあるだろう。
無論、名張の汚名を晴らすことも、彼の中で高い望みとして掲げられているものの一つに違いない。それを否定しようと思わない。
だが誤った汚名の晴らし方には物申す。他者を犠牲にする黒百合に身を委ね、御家の汚名を晴らすなど、誠実な天馬が望む在り方だろうか。
なのに、天馬は違うを繰り返し、己の中の何かと葛藤している。
隙を見せたことによって、野寺坊の錫杖が彼の脇腹に入り、その身が木の葉のように飛ぶ。
「天馬殿!」
地面に転がる天馬に大丈夫か、と無事を聞くも返事はない。肘を立て、身を起こす烏天狗は困惑したように一点を見つめると、落ち葉ごと土を握り締めた。
彼が相手をしていた野寺坊が近付くと、ようやく我に返り、地を蹴って飛躍する。着地と同時に、錫杖を求めて駆け出す。
不気味なことに、野寺坊は妨害をしようともせず、天馬を静観している。
何故。その理由を理解したのは、彼が錫杖を手にし、標的に向かって振り下ろしたことによって。
「さすがは“返り忠”の血を引く者。糸も容易く、我等に落ちるものよ」
肥えた野寺坊の嫌味は、零れんばかりに目を見開いた青葉には届かない。
紙一重に錫杖を避け、それまで対峙していた痩躯の野寺坊から同胞に相手を変える。
どうしたのだというのだ。片手で錫杖を回し、その先端を自分に向ける天馬を見つめる。彼の瞳には感情なく、ただただ青葉を敵として見据えていた。
「その首、もらい受ける」
「お気を確かに! 天馬殿、このようなことをすれば、貴方様が傷付いてしまう」
訴えを退けるように、烏天狗の錫杖の突きが繰り返される。
青葉の敵は彼だけではない。背後に回る野寺坊二人が黙っているはずもなく、逞しい腕は錫杖を振るい、枝のように細い腕はクナイを投げた。
一度体勢を整える必要がある。今のままでは、まともに天馬と話すこともできず、己自身も不利だ。
青葉は獣型に変化すると、素早く三者に背を向けて駆け出した。
逸早く後を追って来たのは身軽な体躯をしている、痩せた野寺坊だ。いまだに経を読み、こちらの妖力を乱している。
残りの二人が追って来る気配はない。
肥えた野寺坊では己の足の速さについていけないと理解できるが、烏天狗の方は油断がならない。彼は青葉と同じく空を移動することができる。
『何故ですか。天馬殿。貴方様のような妖が、あのような下賤な輩に落ちるなど到底考えにくい』
気掛かりなのは天馬の動揺した、あの顔。
彼は青葉に錫杖を向ける寸前まで何かを否定していた。己に、違う、自分は違うのだと言い聞かせていた。
野寺坊が何かしたのだ。そうとしか考えられない。
『まさか、この経が』
ひとつの答えを導きだす。
不気味な言霊に耳を傾ければ傾けるほど、妖力は乱れ、術に集中できなる。それだけではない。謂れのない不安を感じる。
これは妖術なのだ。経を読むという名の、妖術の一種なのだ。あれも元は坊主。経を妖術にすることは可能だろう。
「きひひ、さすがは宝珠の巫女。見抜いたか」
木々の枝を伝い、野寺坊が追いつく。
同胞に何をした。青葉が総身の毛を逆立て、相手に唸り声を上げる。
「“返り忠”の奥底に眠る、感情を引きだしたまでよ。某の術には怨念が込められておってのう」
くつくつと喉で笑う野寺坊はこれが我等の正体であり、力だと告げる。
そういえば、野寺坊の多くは廃寺に追い込まれ、その怨みが坊主の形となったものだと聞く。また坊主そのものが野寺坊と化してしまったものも多い。
どちらにしろ、無念が野寺坊を作り上げている。その坊主の妖が読む経も、無念であったり、怨念が込められている。
この野寺坊は後者であり、その感情を妖術として利用している。
「あの烏天狗は心底恨んでおるのじゃよ。己の生まれた御家を、背負わなければならぬ先祖の業を。烙印を押した宝珠の者達そのものを」
だから己の術に容易く落ちたのだと、妖。
今の烏天狗は理性を失い、ただ己の怨念に従い、動いているだけの生き物に過ぎない。小僧も小僧の妖だ。どのように感情を潜めようが、野寺坊の敵ではない。
野寺坊は嘲笑う。あの烏天狗も所詮は“返り忠”の一族。私利私欲に溺れ、罪を犯す者なのだ。
「自分は先祖と違う。そう言い聞かせておったが、果たしてまことにそう言えるじゃろうか。奴には、宝珠の者達に謀反した先祖の血が流れておる。理性を取り戻したところで、あやつに帰るところなどない。誰が受け入れようか、裏切りを見せた妖など」
『黙りなさい』
「ならば、あのままが良かろう。あれこそ、小僧の真の望みと姿。返り忠とは奴を指す」
『黙れ、それ以上同胞を貶すことは、七代目南の巫女の青葉が許しませぬ』
それまで逃げていた足を返すと、くわっと赤い口を開いて輩に牙を剥ける。
軽やかに枝から枝へ渡る野寺坊は青葉の発言をせせら笑った。
「あれが同胞? とんだお笑い種じゃ」
見たではないか。烏天狗の真の姿を。
先祖とは違う、そう言い聞かせる彼は憎んでいたのだ。仕える宝珠の者達を。
それも仕方がないことだろう。宝珠の者達が名張に烙印を押したのだから。
いっそ、一族を滅ぼしてやったほうが名張のためだったのかもしれない。ああ、そうだ。残された血筋の者達は、誰もがそう思ったことだろう。
「大罪は決して消えぬ。一度罪を犯した者は繰り返す。違うか? 巫女」
青葉はすぐには答えられなかった。
自分とて罪を犯した巫女の一人。同胞の命を狙った愚か者なのだ。
これは南の地のためだと綺麗事を並べ、九代目の代行を務めようとする少年の命を狙った。罪は消えない。どんなに、己の悔いを改めようと、罪は消えない。
天馬とは罪の背負い方が違う。彼は自分の罪ではなく、先祖の罪を背負っている。恨みとてあるだろう。生まれから向けられる、嫌悪の眼差しに傷付いたこともあっただろう。
それでも、だ。
『あの方は自分なりに、先祖の罪と向き合おうとしていた』
翔は語っていた。
天馬が弱い白狐の師を引き受けたのは、彼自身が罪と向き合っている証拠だと。
そして、未だに自責してしまう青葉に言う。
「俺は許しているよ」と、「後は青葉が自分を許してあげるだけ」許せないなら、許せるまで行動に起こせばいい、そう言って笑った。
だから青葉は向かい合うつもりだ。自責する度に、どうしたら罪を償えるか、自分にできることはなんなのか。
同じように天馬も罪と向き合い、自分にできることを考え、答えを導き出した。立派な志ではないか。
「それをお前は……お前は同胞の、天馬殿の心を踏み躙った。野寺坊の下賤めに告ぐ、十代目が裁くまでもない」
獣型を解き、人型の妖狐に姿を戻す。
揺るぎない同胞への想いと、志を踏み躙った下賤に対する怒りは、妖力の糧となり、巫女の証として体内に眠る勾玉に力を与える。
ああ、鼓動が聞こえる、勾玉の鼓動が。
「宝珠の御魂の力か?」
木から飛び下りた野寺坊が、ボロの袈裟を靡かせて着地すると、多大な警戒心を向けた。
「いいえ」
妖力を上げていく青葉はそれを否定し、右の手を持ち上げる。
「宝珠の御魂はあくまで神主が持てる神器。巫女の持てるものではありません」
あれは巨大な妖力の塊。
国を統治する妖と神使にのみ、体内に宿せる神秘的な神器だ。普段は神主の体内に宿すことで、其の溢れる力を抑え、他者に行き渡らないようにしている。
また大麻を使用することで、宝珠の御魂の力を制御し、必要な分だけ力として放つ。
では、巫女の持つ勾玉はなにか。ただの証なのか。笑止千万、宝珠の御魂が授けし勾玉は、ただの勾玉にあらず。
「宝珠の巫女は神主ほど力はなく、神使いほどの威光もない。しかし、巫女は誰よりも祈祷に優れ、神託や口寄せに長けている。そう、神懸かりは特に」
神懸かりとは、憑依のこと。
神主は宝珠の御魂を宿し、其の力と共鳴する。
巫女は宝珠の御魂が生みし勾玉を宿し、新たな力を生む。勾玉を通し、其の地の力を己に神懸かりさせてしまうのだ。
これは自然を妖術として使用していた流の術に似ているようで、少し違う。巫女は其の地の力を、神霊を己に憑依させて、より力を得る。
簡単にできることではない。
勾玉と意志が通じなければ、其の力は発揮せず、通じても体に憑依させることは容易ではない。力がすぐに抜けてしまうだろう。
今まで使おうとしても使えなかった。証が持てなかった百年があったから。そして、今まで自分の罪悪から、勾玉を体内に宿すだけになっていた。
遊んでいたわけではない。翔が修行しているように、青葉とて陰で日々修行していた。特に翔が来斬に命を狙われてからは先輩巫女に教わり、勾玉の在り方を学んでいた。
ただ使って良いのか、常に迷っていた。自分にその資格があるかどうか。だから、勾玉の力を体感したことはない。
「迷っている場合ではなかった。私は一巫女。同胞が苦しんでいるのに、何を躊躇いましょうか。翔殿ならば、こう言うでしょう。“俺は馬鹿だから、考えるより動く”と」
大切な人が教えてくれた、行動する意味。これを今、活かさず、いつ活かす。
広げた右の手に浮かび上がるは、体内に宿った勾玉の形。
青葉がそれを握り締めると、勾玉は見る見る四方八方、肌をめぐり、白黒の模様となって唐草のように伸びた。
右の手に黒の巴を、左の手に白の巴を宿し、最後に額に双方の巴を浮かべ、その証を発光させる。
左右、違う色を放つそれは、どちらも神々しくもあり、禍々しくもある。
「私の名は宝珠に仕えし一尾の妖狐、キタキツネの青葉。またの名を第七代目、月輪南の巫女。此の地を守護する神霊にお頼み申す」
足元に浮かぶは二つ巴の印。
異様な空気を察した野寺坊が経を読み始めるが、今さら妖力を乱そうなど格下の考えることだ。
「同胞の危機により、力を授かりたい。どうか一時の力をこの器に」
直線状にクナイが放られるが、声を聴き入れたイチョウ達が一斉に青葉の前で壁を作る。
力を貸してくれるイチョウの精の声が聞こえる。あっちだと、お前の同胞はあっちに行ったと。もう一人の野寺坊と移動している。ほら、早くあっちへ。
ああ、これが神懸かり。
風の声が、木の声が、イチョウの精の導きが聞こえる。
其の地の力を憑依とは、単に力を得るのではない。其の地と対話することなのか。
巫女は神主のように悪しき根源を祓う力はない、神使のような威光もない。だが、神懸かりにより、対話という力を得る。これは巫女しか成しえないことだ。
そうだ。自分は巫女、南の地を守護する七代目巫女。過去に罪を犯し、巫女の資格すらなくなりそうになった愚か者。
けれど、今、自分を必要としてくれる妖狐がいる。共に生き、守護する地を見守ろうと約束した妖狐がいる。守るべき妖達がいる。
もう迷わない。自分を許せるまで、青葉は巫女として務めを果たすのだ。
「青葉、推して参ります」
たとえ、それが、生涯懸かろうとも。
弾かれた光と共に、野寺坊に向かって走る。
あれほど素早かった妖が、嘘のように捉えられる。それは風が相手の動きを先読みしてくれるからなのか。地に落ちるイチョウ達が野寺坊の足に纏い、わずかながらに動きを遅めているからなのか。それとも、青葉自身の高められた妖力からなのか。
袖を棚引かせ、相手の前に回ると裏拳で鳩尾を突く。繰り返し、突くと悲鳴を上げるために口が開かれた。
すかさず、大きな癇癪玉を三つ指に挟み、黄ばんだ歯を見せる口に放ると顎を突いて体を倒す。
喉元を通ったであろう癇癪玉の爆ぜる音よりも、倒れる音の方が早かった。悲鳴は癇癪玉によって掻き消されたのだろう。振り返れば、野寺坊が白目を向けている。
しかし意識はあったのか、最後の力を振り絞り、口を開く。その拍子に白煙が出た。
「もう、おそい。経は、心をむしばむ。某が破れようと、返り忠の心は戻らぬ」
正気を取り戻しても、戻さなくても、地獄を見るのだ。
狂ったように笑い声を上げた野寺坊に、目を細め、青葉は下賤に背を向けて歩き出す。
トドメを刺さないのか、ああそうか、烏天狗は手遅れだからな! 悪足掻きとも言える暴言に憮然といらえる。
「手遅れはお前です。可哀想に、まだ気付かないとは。私の癇癪玉はそこらへんの癇癪玉と威力が違うのですよ」
「あ?」野寺坊が疑問の声を零す。
間もなく、首が、体が、と騒ぎ立てる下賤の悲鳴。それもすぐに消えるだろう。いくら野寺坊といえど、胴と頭が千切れた体では生きられまい。妖とて死はある。
しかし、哀れみを掛けることはしない。あれは同胞ではない。今、救うべき同胞は、ひとり。
風に押されるがまま足を動かす青葉は、神懸かりの導きにより、すぐに見つける。
目的を持って宙を羽ばたく同胞と、遅れて地を走る肥えた野寺坊を。
下賤に目もくれず、天馬を止めるため、青葉は枝から枝に渡り、そして烏天狗の前で飛び上がる。
「天馬殿、いざ尋常に勝負。貴方様まで罪を犯してなりませぬ。私のように、罪悪を背負ってはならないのです!」