<三>いざ参る、噂の別荘地
※ ※
翌朝、仮眠を取っていた翔は差し込む日を浴びて目覚める。
客間にはリハビリに付き合ってくれた天馬しかおらず、彼もまた隣の敷布団の上で仮眠を取っている。狐の本能を持つ翔と違い、昼夜どちらとも生活ができるため、体力を温存しているのだろう。
かくいう翔も本調子でない体を労わるために、仮眠を取っていたわけだが、再び床に就いて二度寝する気は起きない。
寧ろ、部屋に戻っていない他の者達が気掛かりだ。
翔は腹筋に力を入れ、己の三尾を支えにしながら上体を起こす。
天馬を起こさないよう枕元に放置している松葉杖を掴むと、再び尾を支えに足腰を立たせた。
「…………」
顎に指を絡め、寝ている天馬を一瞥する。
どうせ青葉達には後で顔を合わせることだろう。
それよりも、今、自分は"玉葛の神社"にいる。齢七百の妖狐が当主をしている神社にいるのだから、これはまたとない機会だ。
己も神主の身分。妖の社を任される妖狐。他の妖が治める神社には興味がある。
客間には寝ている天馬、他のお目付けは大間にいる。
里には黒百合の賊がはびこっている可能性がおおいにあるが、要は境内から出なければ良いのだ。
自然と白い三尾をゆらゆら揺らし、翔はうんと一つ頷いた。
抜き足差し足、音を立てないように客間を出る。天馬に見つかれば、問答無用で皆の下に連れて行かれる。少しくらい自由行動をしたい。
思いの丈を強くしながら、ゆっくりと尾で襖を閉めた。
クオン。
目の前に現れた銀狐の一声により、言葉にならない悲鳴を上げそうになる。
恐る恐る視線を下げれば、ああ、やっぱり愛しの銀狐。様子を見に来てくれたのか、起こしに来てくれたのか、ゆらゆら尾を振って見上げてくる。
大変賢い狐は、翔のやましい気持ちに気付いたのだろう。意味深長に見つめてくる。
また馬鹿正直と定評のある翔だ。隠し事ができず、千行の汗を流してしまう。が、頭領として肚の黒さは日々比良利に教えられているので、ここでいかんなく悪知恵を発揮する。
「ギンコ、俺の頼みを聞いてくれよ」
身を屈めることができないため、頭を下げ両手を合わせる。
「ポンコツ体のせいで、すっげぇストレスなんだ。苛々ばっかしちまって、まじヤになっちまう。だからさ、気分転換をしたくって」
ストレスという片仮名が分からないようで銀狐の頭上に疑問符が浮かんでいる。
それを無視し、畳みかけるためにギンコを共犯に誘う。
「散歩をしたいんだ。な、ギンコ。俺と散歩しよう。デートだぞ、デート」
片仮名に弱い銀狐だが、デートの意味は分かる。
自分が秘密にしておけば、二人で過ごしてくれるのか? と、己に尋ねるように鳴いてくるものだから、勿論だと翔は頷く。
「可愛いギンコには嘘をつかない」
デートは皆に内緒だと指を立て、一緒に境内を探検しようと誘う。
するとギンコは考える素振りを見せて、尾をくねらせる。
肚の黒さは翔よりも遥かに銀狐の方が上手であるため、クン、クン、クオーン。皆に隠し事をするための交渉には、何かが物足りないと態度で示してきた。
ギンコは知っているのである。翔が優勢のようで、この交渉は自分の方が優勢だと。
ぐっ、翔は言葉を詰まらせ、知恵を振り絞る。
「後でいっぱい抱っこしてやる」
ギンコはまだ考える素振りを見せる。
「お風呂一緒に入ろう。温泉が近くにあるらしいし」
銀狐はチラ見してくるばかり。手ごわい。
「ギンコ。頼むよ。俺とデートしよう。後で何でも言うこと聞くから」
結局知恵に負け、翔は奥の手である"何でも言うことを聞く"宣言をする。
これを狙っていたのか、ギンコは耳を立たせ、円らな目を此方に向けてうんうんうん、と頷く。
嗚呼、敵わない。
翔は二足立ちになって尾を振ってくるギンコの頭を撫でる。いつだって銀狐には敵わないのだ。悔しいくらい可愛いから仕方がない。ギンコの可愛さはいつだって正義なのだ。何をしたって許される。
「また、そうやってオツネさまに我儘を。駄目ですよ、オツネさま。翔を甘えさせては」
襖が開くや、溜息と共に襟首を掴まれる。
振り向くことすらできず、翔は身を硬直させ、尾をぴんと立たせた。
仮眠していた筈の天馬の声。起こしてしまったのか、それとも実は起きていたのか。どちらにせよ、不味い状況である。
「翔。何を考えているのですか。貴方は狙われている身の上。ひとりで外に出ようなど、身勝手極まりないことですよ。足も不自由であるのに」
「境内を少し散歩するだけだって。南の神主として、他の社を見て回るのは学びになると思うんだ。な、ギンコ。だから俺とデートしてくれるもんな?」
うんうん、基本的に翔に甘いギンコから同意を得られたため、これにて解決だと主張する。
すると限りなく呆れた溜息と共に、「早めに切り上げて下さいよ」言うや、天馬は己の襟首から手を放し、襖を静かに閉める。
腕を組んで今か今かと行動を待つ烏天狗に、翔とギンコは視線を合わせた。
「天馬。俺達デートするんだけど」
「存じております」
「……お前も行くの? 一応ギンコと境内をデート」
「オツネさまに新たな我儘を申されて、追々問題になっては堪りませんので。師として後ろからついていきます。自分のことは置物とでも思って下さい」
逆に気まずい。
翔は喉元まで出掛かった言葉を嚥下する。これ以上、駄々を捏ねても不利になるのは自分だ。
「そうでございますか。それは旦那様もお喜びに――あ、おはようございます。翔さま、オツネさま、天馬さん」
参道に出ると、朝も早くから流が熊手で落ち葉を掻き集めていた。
昨夜のように獣型ではなく、ひとりの人間として振る舞っている。それは神社に参拝する人間がいるからだろう。傍には齢七十ほどの老婆が立っていた。
妖型のギンコに跨っていた翔は、まさか人間がいるとは想定もしておらず、血相を変えてしまった。
通常の人間にはギンコの姿も、それに跨る翔の姿も視えない。妖そのものが視えない人間には、傍らにいる天馬しか視えないのだ。
けれども老婆は自分の姿も、ギンコの姿も視えているようで、柔和に綻んで会釈をしてくる。
霊力があるのかと思ったが、そうではないようだ。
「お可愛らしい。葛西さんの狐のご友人かしら? お稲荷さんを作ったんで、どうぞ後で食べて下さいね」
たまげたことに、この老婆は自分達の正体を容易に見破った。否、流の友人は狐だと認知しているようだ。
また人間を装っている際は、“葛西流”と名乗っているらしく、彼女は流を親しみを込めて葛西と呼んでいた。
流曰く、己の正体を知る数少ない人間だという。
「霊力は殆ど持っておりませんが、彼女は年齢を重ねるにつれ、何かを感じるようになったのでしょう。けれど、私を変わらず人間扱いしてくれる心優しい方なのです」
杖をついて帰って行く老婆の背を流は見送る。
昨日見た稲荷寿司を供えたのは、あのおばあちゃんなのだろう。
詮索はしまいと思ったが、向こうから老婆との関係を語ってくれた。彼女とはかれこれ五十年以上の付き合い、だということを。
「麗しき少女だった頃が懐かしいものです。
彼女は戦時中、都会から田舎の此の地に疎開してきました。余所者だと友人ができず、神社を訪れたことが彼女との始まり。毎日のように此処に来ては参拝しておりました」
人間は神に祈ることが妖以上に好きなものだと、流は認識しているらしい。
四季折々欠かさず参拝しに来る少女が不思議でならなかったと語る。
里の中では暗い少女として周囲の人間に認識されていたが、神社を訪れる時の顔は花咲く笑顔だった。流と会話する時ほど、年相応のあどけない顔をしていた。暗いなど到底思えなかった。
そんな彼女とは一定の距離を保ちつつ接していた。
一端の神主として、居場所が無いと嘆く少女に手を差し伸べたのだ。
あの時は一時的な関係で終わるものだと信じて疑わなかった。五十年以上の付き合いになるとは思いもしなかった。
戦後、少女は女性となり疎開の地に留まって一人の男性と結ばれる。己に斎主を頼み、挙式に呼ばれた。
日々は目まぐるしく過ぎ、二人の間に子が出来る。
その子供が成長して、上京した日は昨日のことのよう。彼女の最愛の旦那が亡くなった日は、半日前のよう。
七百年以上生きる流の時の感覚は人間より鈍い。
まばたきと共に少女が女性へ、そして老婆になっていった。人の一生とは花のように儚い。
そう、長寿の妖狐にとって人は花そのものなのだ。
「彼女も、もう長くはない。いつまで此処に稲荷寿司を持って来て下さるか」
寂しい話だと翔は思った。
少女として接していた人間が、いつの間にか成長、老いて、置いて行くのだから。
なにより物寂しいと思うのは自身に降りかかる、記憶の風化だと流。自分は必ず、彼女の声を、顔を、ぬくもりを忘れていくことだろうと断言する。
予想ではない、経験談なのだ。
「人間からしてみれば、私は歳を取ることがない妖狐。いつまでも不変の姿のまま、此の地を見守る者。不気味に思う者も少なくない」
人間と妖の、決して埋まらぬ深淵を垣間見た気がした。
自分も流と同じ運命を辿る者。遅かれ早かれ、彼と同じような待遇に置かされる。
「それでも、流さんは里を見守っていくんだよね?」
敬語を崩して尋ねるのは、一妖として彼に接している証拠だ。
翔の問いに、流は微かに頬を崩して熊手の先端に目を向ける。
「それが玉葛の者の天命ですから。いつか、時代の流れによって此の神社が無くなろうと、私は同胞と里を見守ることでしょう」
「どうして?」
野暮な質問を投げてしまったが、彼は変わらぬ表情で答える。
「此の地が我等の生まれ育った故郷、だからですよ。貴方さまも年を取れば、きっとお分かり頂けると思います。妖と過ごす日々は勿論、変わりゆく人間に忘れられる悲しさもあれば、置いて逝かれる虚しさもある。一方で新たな出逢いと喜びがある。それを教えてくれるのは、いつだって此の地だったのですから」
簡単なようで難しい話だと翔は思った。
経験不足の自分には想像がつかない。
ただ、見守る者として流は常に覚悟しているのだと感じた。変わりゆく時代に抗うこともなければ、嘆くこともなく、ただただ守るべき神社や里と共に生きていく。
だから友人として接している老婆の行く先と惜別に対して、逃げるわけでも、抗うわけでもなく、見守っている。
同じように見守る者として生きる翔にとって、大先輩と言えるべき流。彼にこう返事した。
「俺が七百年生きたら、流さんのように渋いことが言えるのかな?」
返ってきたのは笑声だった。
※
太陽が真上に昇る刻、流に境内を案内してもらっていた翔は比良利達のいる大間に足を向ける。
もっと詳しく流の経験談や"玉葛の神社"にまつわる話を聞きたかったが、目的を忘れてはならない。
自分達は遊びに来ているのではなく、敵の塒があるやもしれないと真相を確かめに行くのだ。
妖の動きが極めて少ない昼間にわざわざ動いているのだから(人間にしてみれば夜に行動しているようなもの)、何事もなく済んで欲しいが。
「昼餉を取ってから、噂の地に赴きましょう。腹が減ってはなんとやらですので。頂いた稲荷は、ひと仕事を終えてからに」
流の心配りにより、ざざむしの幼虫たっぷりおじやを食す羽目になって体調を崩しかけた。
何度も言うが、翔は温厚育ちの現代っ子。下手食いは苦手としている。いくらさざむしの幼虫が郷土料理にあろうが、それが佃煮として人の世界で食べられていようが、無理なものは無理なのだ。
黒百合と鉢合わせする以前に、食によって殺されそうである。
「翔殿。大丈夫ですか? ほらお水」
どうしても流や、それを作ってくれた妖狐達の気持ちを足蹴にできないと翔なりに頑張ったが、結果は厠行きである。
真っ青な顔で厠から出るや、己の食好みをよく把握している青葉がお椀に入った水を差し出してくる。
それで口を濯ぎ、気を落ち着かせるものの、嗚呼、思い出しただけでまた嘔吐がこみ上げてくる。
「本当に昆虫が駄目なのですね。翔殿は」
よしよしと背中を擦ってくる青葉が、あんなに美味しいのにと首を傾げる。
こんなに可愛い少女が昆虫を平然と食べられる、その現実の方が俄かに信じがたいもの。翔は消えそうな声で青葉に聞く。
「お前こそ、なんで食べられるんだよ。普通女の子は虫を見ると、きゃーっとか言って逃げ回るものなんだぞ」
「はて、昆虫の何が恐ろしいのか私には分かりかねますが……ほら、芋虫とか美味しいではありませんか。海老に似ていて」
「やめてくれ。これから先、海老が食べられなくなる」
「海老の見た目は昆虫より、奇怪な姿をしていると思うのですが」
「青葉、これ以上追い詰めないでくれ……」
海老はいいのだ海老は。
けれど芋虫は駄目なのだ。例え丸まっている姿が似ていようと、海老と芋虫は別個のものなのだ。
「翔殿の好みが分かりませぬ」
お言葉を返そう、青葉の食が理解できない。
閑話休題。
比良利は夜通し、流から人里離れた元雑木林、今は別荘地がある敷地。里全体の近状について聞いていたそうだ。些少の変化でも、黒百合と直結しているかもしれない。狡賢な北の神主は考え、根掘り葉掘り近状を耳にしていたという。
本来ならば翔もその役回りを受け持たなければいけないのだが、今回は比良利に甘え、一切を任せた。
結論から言えば、黒百合に繋がる情報は得られずにいる。
水面下で動くことが得意な輩ゆえ、簡単に尻尾は出してくれないようだ。自分達の目で真相を確かめる必要がある。
「ぼんよ。神社から出たら、オツネの背に乗っておくが良い」
「え。杖があるから自分で歩けるよ」
神社を発つ際、比良利からこのような助言を受ける。
リハビリを兼ねて自分で歩けると主張する翔だが、対は頑なに譲ろうとしない。必ずギンコもしくはツネキの背に乗っておくよう命じる。
「境内にはナガミ、ナノミの常世結界が張ってあるゆえ、宝珠を持つ我等の妖力は表に出ぬ。が、それは境内の話。外に出れば、妖力は誰彼構わず感じ取ることができよう。敵陣があるやもしれない敷地に赴く、それがどのような意味か分かるのう?」
なるほど、緊急事態に備えて常に逃げる足を持っておけと言っているのか。
涙が出そうなほど情けない話だが、助言は受け取っておくべきだ。
仮に自分が人質に取られたら、それこそ比良利達が不利になりかねない。自分を信じ、此処まで連れてきてくれた対にも申し訳なく思う。
「ギンコ、悪いけどまたお前の背に……って、あれ?」
足元に銀狐の姿が見受けられない。
大慌てで参道を見渡すと、向こうの柳の下に獣人型の妖狐が四匹。
一匹はギンコだと分かったが、もう三匹は見知らぬ狐だ。きっと此の里に身を置く妖狐なのだろう。それはいい。納得ができる。
できないのは、にやにや顔の三匹が寄って集ってギンコに迫っている現実である。
隠し事ばっかりする幼馴染二人のおかげさまで、かなり空気の読める狐、南条翔。あれは見るからに軟派だ。
輩はギンコの美しさや可愛さが分かる狐達らしい。見る目はある。しかし、それと軟派は別問題だ。
ギンコは迷惑がってそっぽを向いているが、それで済ます話にしては軽い。
「はて、ツネキもおらぬのう。一体何処に」
「比良利さん。肩貸して」
「ぼん、何をっ、ツ?!」
絶句する赤狐を余所に、支えの肩を借りた翔は持っていた松葉杖をギンコと三匹の間にぶん投げる。
やや、というより、あからさま軟派狐寄りなのは故意的なもの。
反射神経の良い狐達は咄嗟の攻撃にも、可憐に避けて見せたが、当然非難は翔に集まる。
いったい誰だと言わんばかりに三匹が唸り声を上げるが、此方の人相を見て硬直。翔自身も満面の笑みを浮かべ、三尾を地面に叩きつけながら握り拳を作る。
「ひとが見ていない隙に、俺の可愛いギンコを軟派するなんていい度胸じゃないか。確かにギンコは可愛い。とびっきり可愛い。付け加えて健気な美人さん。はなまる満点な狐……ええい軟派したきゃ、まず俺の屍を踏み倒せ――!」
「こ、これぼん。相手は一般の妖狐じゃぞ。主の殺気立つ妖力に怯えておるではないか。軟派くらい許しても……頭領たるもの理性も大事じゃぞ」
既に向こうで三匹が身を小さくしているが、翔の気はまったく治まらない。
「可愛いギンコが手を出されそうってのに、頭領もクソもあるか! 理性? なにそれ美味しいの?!」
「時折、お主との会話に自信を無くすわしがおる。理性と美味が一緒に出てくる意味が分からぬ。時代が生じる言葉の齟齬じゃろうか」
「くそ、足が動けば今すぐギンコ、ぎんっ、だぁあ?!」
翔の言動に感激したギンコが三匹を蹴散らすように、妖型になるや、クオンと一声鳴いてのしかかってくる。
それによって見事に下敷きとなってしまうものの、べろんべろん、銀狐は無遠慮に大きな舌で顔を舐めてきた。涎まみれになるものの、ギンコの甘えん坊姿につい頬を崩す。
わっしゃわっしゃと顔を撫でやり、甘えん坊に起こしてくれるよう頼む。
御安い御用だと言わんばかりに襟首を食んで、己を立たせてくれるギンコは軟派してきた妖狐達を顧みる。しっし、虫でも追い払うように尾を振って赤い舌をべろんと出すが、妖狐達の視線は翔に釘づけだった。彼等は皆、恐怖していたようだ。凶悪な顔を作っている自分に。
「本当に仲が宜しいのですね」
流が微笑ましそうに見守っている。
肯定の返事をすると、ギンコがクウンと鳴いて何やら彼に主張。
途端に比良利がそれは困ると肩を落としていたため、おおかた番い発言を放ったのだろう。翔としても番いになれる身分ではないため、丁重にお断りし、許嫁に銀狐の身を預けたいのだが、遺憾なことにツネキはナノミに迫られ、締まらない顔で尾を振っていた。
おかげで、ますますギンコが胸部にすり寄ってくる。
「あちらはあちらで仲良くしているようで。ツネキさまとナノミが結ばれることは、当主として喜ばしいことです」
けれども語り手の表情は先程より曇っている。
当主として喜ばしい、ということは、流個人として思うことがあるのだろう。此方としてもツネキとナノミが結ばれることは後継者問題として好ましくない。
翔は境内を見渡しナガミの姿を探す。
何処にも見当たらない狐の代わりに、妙な光景を目にする。
それは神社を掃除している獣人型の妖狐達が、箒を持ったまま視線を一点に向けて、鳴き声を交わし合っているところ。井戸端会議をしているようだ。
視線の先には輪から外れ、境内のはぐれ、つくねんと生える柳の下でぼんやりと宙を見つめる烏天狗が一人。
常日頃から毅然と振る舞う彼らしからぬ表情に、翔は言い知れぬ感情を抱く。妖狐達は悪名高き、名張の噂を囁いているのだろう。
翔は何度もあの天馬の姿を目にしている。それは大学にいる時に、それは社にいる時に。ああやって噂を聞き流そうと自己防衛を張っているのだろう。
先祖の犯した罪については何も言えない。知ったところで翔には同情しか寄せることができない。先祖の罪は天馬が犯した罪ではない。が、彼はまぎれもなく名張家が犯した罪を背負っている。
自分が犯した罪でもない罪を背負うとは、どういう気持ちなのだろうか。頭領の名を持ってしても分かりかねる。
「天馬、何処にいる天馬」
ただ頭領の名を持っているからこそできることがある。
翔は柳から目を放し、視線を辺りに配らせて天馬の名を連呼する。優秀な烏天狗は早足で自分の下までやって来た。
姿を捉えると何処に行っていたんだと翔は声を上げ、もう出発だと告げた。
「突然姿が見えなくなったから、十代目のお守に嫌気が差して辞退したかと思った。お前がいないと困るんだぞ師匠。ちゃんと俺の目の届く範囲にいてくれよ」
「何を仰るかと思えば、それは此方の台詞にございます。貴方様はやんちゃですので」
能面が静かに崩れた。
南の十代目は名張の烏天狗に、絶大な信頼を寄せている。それが少しでも妖達に伝わればいい。
玉葛に集う妖狐達に見送られ、神社を発ったのは間もなくのことだった。
獣人型と化けた流の先導の下、白昼の空に見守られ一行は里を駆け抜ける。
田畑にいる人間達の真横を通り過ぎると、そこに強風が過ぎていった。彼等の目には風そのものなのだ。
比良利の助言通り、ギンコの背に跨った翔は瞬きもできないほど加速していく流の背を見つめ、また早馬のように過ぎ去っていく景色に視線を流す。
「まるで風になっている気分だ」
『坊や。今のわたし達は風になっているんだよ』
翔の腹部に潜り込み、真っ向から吹く風から逃げている猫又が不思議なことを口にした。
「風?」意味を問う。しゃがれた鳴き声は、しっかりと目に焼き付けておきなさいと己に言いつけた。
『これは流の術だ。さすがは七百年生きる妖狐、風を巧みに操っているねぇ』
「流さんの、術? これ妖術なのか?」
翔の知る妖狐の妖術といえば狐火が代表的である。
後は青葉が使う高度な結界術や幻影、比良利が教えてくれる大麻の術。妖やヒトに化ける変化術。もっと多くの妖術があるだろうし、日月の者達はそれらを習得しているだろうが、生憎翔は多くの術を知らない。
「よく見て学んでください」ツネキの上に乗る紀緒が指さす。
「比良利さまも、今学んでいます。流さまの術を」
己の対までもが流の術を見て学んでいる。
驚きを隠せない翔だが、それだけ流が腕前ある妖狐なのだと言える。
身分があるから流は若造に対し、物腰低く接するも、たかが二百年生きる妖狐、ましてや齢十八の妖狐とは比にならない年月を生きている。
流の手には榊の枝が握られ、その先端に三本の幣が付いている。
あれは神社の当主である証。自分達が使う大麻と同じものだと気付くも、"宝珠"の守護を受ける大麻と、"玉葛"の守護を受ける大麻は別物だ。
翔達の持つ大麻はその場で風を生み、それを操る。だが流の持つ大麻は周りから風を集め、それを操る。
幣が靡く度に、里の風が目的地に向かう妖を包み込んで共に走ってくれる。それを人間は強風として認識し、帽子や首に掛けているタオルを飛ばされないよう、しっかりと抑える。
田んぼの水面には妖達が通った波紋。風が足跡を攫い、水面にさざ波を立たせる。
「これが妖術」今までにない妖術の形に見惚れてしまった。幻想的、その一言に尽きる。此の里を守護する玉葛だからこそ成しえる術なのかもしれない。
風が減速し、やがて流の足が止まる。
人里離れた元雑木林、今は別荘地がある敷地の前に到着したようだ。散り散りとなる風を手で扇ぎ、玉葛の当主が顧みてくる。
「これから如何しましょうか?」
和傘を閉じた比良利が敷地を前に眉根を寄せる。
対は信憑性のない噂を便りに、此の地まで足を運ぶことを望んでいた。黒百合に携わる妖やヒトがいれば、有無言わせず斬り捨てるつもりなのだろう。次なる悲劇が起きる前に、災いの芽は早く摘んでおく必要性があると考えて。
黒百合の危険性は誰より比良利が知っている。これからの行動は赤狐に従うべきだろう。
一つ咳を零して辺りを観察する。
整備された道と、人工的に植えられたイチョウの並木道。横並びの木柵は、ここから先、別荘の私有地の土地だと主張している。
立札に目を向けると真鍋靖の名が入った看板が、木柵の一角に佇んでいる。並木道の向こうに別荘があるようだが、此処は広いようだ。建物は見えない。
「翔よ。此の地について調べておったのう」
比良利が情報の共有を求めてきた。
事前に印刷していた航空写真の紙を取り出すと、翔は二つ咳を零して、この先の土地について軽く目を通す。
「この先はイチョウの並木道のようだよ。別荘は最奥にあるようだけど、ずいぶんと距離がある」
イチョウの並木道とは言うが、傾斜が続いているので、イチョウの山道と改めた方が良いだろう。別荘情報に目を通す。自然に合ったヒノキの別荘が建っているようだ。高級感あふれる和風の二階建が画像として載っている。
この山一帯が真鍋家の敷地となっているらしい。
情報を読み上げた翔はコホンと咳を零し、比良利に視線を配る。敷地に踏み入れることは造作もないことだが、何も起こらないという保証はない。慎重に動くべきだろう。
「それでは我等の妖気を察する者達が出てくる。特にわしと翔の妖気は、他の者達より遥かに巨大。なるべく先手を打ちたいゆえ、悠長にはしておれぬ」
迅速且つ俊敏に動く、これこそが大事だと比良利。
「流よ、先程の術を再び使用して欲しい。まことに申し訳ない。本来ならば、この先は我等のみで行くべきところじゃが」
「何を仰います。我等の協力なくして黒百合を断つことはできない。そう申し上げて下ったのは、日月のあなた方でございましょう」
今更協力無用と言われる方が悲しい。流が柔和に綻んだ。
「失礼した」同じ表情をする比良利は、皆に声を掛けて和傘を広げた。このまま風に乗り、一直線上に別荘まで向かうつもりと告げ、先を走る流と肩を並べる。
今まで後方にいた対だが、これからは玉葛の当主の隣に立ち、皆を守護するつもりなのだろう。自分も早くあの隣に並びたい、悔しい気持ちを抱く翔の気道に風が入り、情けなく咳き込んでしまう。
まったく、お荷物同然の存在というのは腹立たしい限りだ。
『坊や。大丈夫かい? さっきから咳ばかりしているけれど』
おばばが見上げてきた。
空気が乾燥しているだけだろう。風の中にいるから、余計喉が乾燥したに違いない。そう安易に考えるも、自覚すればするほど咳が止まらない。
ついでに空気が妙に薄い気がする。何故だろう息苦しい。
「変だな。風邪を引いているわけでもないのに。青葉は苦しくないか?」
かぶりを横に振る青葉におかしいな、と首を一つ傾げる。
やっぱり気のせいかな。そう自己完結した時だった。
真横から妖狐達を吹き飛ばすような黒い突風が吹き荒れた。それにより、イチョウの落ち葉が舞い上がり、並木道の視界を遮ってしまう。
嫌な予感がした。咄嗟に和傘を召喚して身構えた瞬間、心の臓目掛けて骨の寸釘が宙を裂き、見事に竹の柄に刺さる。
「……嘘だろ」
予感はしたが、危機までは予想できなかった。
青褪める間もなく、今度は人影が飛び込んでくる。「曲者!」膝立ちとなった青葉が癇癪玉を投げ、弾けた音共に白煙が昇ると天馬が錫杖で相手を叩きつける。
背の上の騒動にギンコが足を止め、それにつられてツネキも足を止め、先導を走る妖狐達を振り返った。
「やれ、飛んで火にいる夏の虫。このようなところで、大切な“依り代”と出逢えるとは、あたしの運も向いてきたんじゃないかえ?」
天馬の錫杖から逃れたその男は、体勢を整えるために宙を返ってイチョウの木の枝に飛び移る。
赤々とした下地と散りばめられた金縁の花模様の、艶めかしい花魁の着物。それに比例した獣の骨傘。つやのある長い前髪、華奢な体躯、小町紅を塗った赤い唇は女性を思わせるものの、其の妖はれっきとした男。
敵は骨傘の弥助と名乗る。先日、朔夜を襲った妖だと翔はすぐに気付いた。
「鼻につくおしろいの臭い、忘れもせぬ。弥助、貴様も来斬同様、今世にいるとは。わしのツメが甘かったようじゃのう」
嫌悪感を隠しもしない赤狐が静かに殺気立つ。
賊はそれに臆することなく、赤い舌をちろちろっと出し入れする。相手の嫌悪する顔を楽しんでいるようにも思える。
「相も変わらず熱しやすい情の持ち主で」
だからこそ劣情を煽られると弥助。
其の悪罵も、蔑む眼も、厭忌する感情もすべて己のものにしたい。してしまいたい。そう言って舌なめずりをするものだから、翔は眉根を寄せて意味を理解しようとする。
つまり、どういうことだ。あまり聞きなれない単語ばかりだったが。
小声でおばばに意味を尋ねると、珍しく猫婆は白いひげを垂らして困っていた。
『あの弥助という妖は、どうにも変わった嗜好の持ち主でねぇ。他人の怒りや嫌悪を見ると興奮するんだよ』
興奮。
なんだ、変態ということか。
視線を弥助に戻す。頬を紅潮させて赤狐を恍惚に見つめるあの目、真の変態である。あれに命を狙われることもさながら、敵であるという現実も受け入れがたい。
翔は嫌な妖に遭ってしまったと背筋をぶるりと震わせる。
「また貴方様のお相手をするとは思いませんでした」
ツネキの背から飛び降りた紀緒が、軽い身のこなしで地面に着地する。
瞳の瞳孔を縦長に細目、二尾を揺らす彼女を見るや、表情が一変。
「あんさんですか」百年経っても八つ裂きにしたくなる顔だと吐き捨てた。平然と笑みを返す紀緒の冷たい眼に好奇心を擽られ、翔は再びおばばに質問する。彼等には因縁があるのか、と。
『自分より美しいものなど、此の世に存在しない。それが弥助の口癖だった。つまり紀緒の美しさに嫉妬しているのさ』
ナルシストで変態、最高に最悪の組み合わせである。
なるほど。翔は一つ合いの手を入れ、双方の因縁を理解する。要は弥助が一方的に目の敵にしているのだ。迷惑な話なこと極まりない。
賊と目が合う。弥助は口角を持ち上げ、己を指さした。
「あんさんが南の十代目。噂通りの若さ。未熟さ。齢十八の妖狐。けれど、あたしとあんさんは魂の同胞と呼ぶべき妖」
「魂の同胞? 初対面のお前と俺が?」
妖は皆、同胞だと呼んでいるが、それは良識ある妖に限ったこと。
其の妖の世界の道理に反する者達は、決して同胞と呼ぶべき存在ではない。それなのに弥助は翔を魂の同胞と呼んだ。
それしきのことで動じることはなかったが、相手は粘っこく謳うのだ。
南の十代目は九代目の"依り代"であり我等と魂の同胞。黒百合に相応しい御魂を持つ妖狐だと。
「九代目と十代目。どちらもあたし達の同胞と呼ぶべき御魂に相応しい。ですが、悲しきかな、あんさんは未熟で若過ぎました。だから"依り代"として選ばれたのです」
「勝手に俺のことを、お前達が決めないでくれるか。黒百合に相応しいと言われても腹立つだけだ。焼くぞ」
ギンコの頭に軽く手を置くと、くわっ、銀狐が鋭い牙を見せた。
尾をゆるり、ゆるりと振り、周囲に青白い狐火を発生させる。轟々と燃える炎の威力は北の神主お墨付きだ。ギンコも遊んでばかりではない。
それに己の狐火を合せると、どうなるか。翔はギンコの出した狐火に向かって、それを放つ。青白い狐火が瞬く間に、白は緑の色に呑まれて青緑色となる。威力は倍だ。
「この比良利を蚊帳の外に出すとは、大した度胸じゃのう弥助。まことにめでたい頭をした奴よ」
くつり、細く笑う赤狐が和傘を大麻に変化させる。衣は既に浄衣だ。
その隣では異なった大麻を持つ流がナガミとナノミに構えるよう指示。因縁相手である紀緒や、相棒と呼ぶべき青葉、それにツネキも天馬もいる。おばばとて、老婆といえど弱くはない。
賊一人に対して、この数は相手にとって脅威でしかないだろう。
だが弥助の表情は変わらない。長い舌で口角を舐めると、翔をおいでおいでと手招きする。
「御魂は熟す機が必要。しかし“依り代”は若ければ若いほどいいもの。幼子の肉体ほど幼くはなく、けれど、百年も経たない若い肉体。其の血も、肉も、魂も、あたし等の理想に適している」
言うや否や、目に留まらぬ速さで彼は傘を振るう。
風の太刀と化したそれは、冷然と見据える天馬の錫杖によって霧散。武器を片手で回すと、自分が相手だと殺気立った。
「翔に指一本触れさせない。釜男」
「はぁ。この美を嫉妬する男がいるなんて、あたしも罪な妖ですわぁ」
微妙に会話がかみ合っていない。
片眉をつり上げる天馬にも、薄っすらと嫌悪感がにじみ出ている。そんな烏天狗を見た興奮したように唇を舐めた。
「あいや与太話は此処まで。十代目、あたしと一緒に来てもらいますよ。あんさんの肉体、“黒百合”が頂戴致します」
彼の周囲に、彼の影が数多現る。
妖術なのだろうか。種類は幻影なのだろうか。無数の真っ黒な影が傘を構えた。
なるほど、相手は自由自在に操れる味方を作れるのか。だから余裕だったのだ。翔は弥助の余裕に納得を覚えた。
それだけでない。実力は本体そのものなのだろう。
ギンコや天馬、青葉達に襲い掛かる動きは俊敏だ。狙われた翔は急いでギンコに狐火を放つよう命じ、この場から逃げるよう声音を張った。足手纏いの己だ。皆の荷物にならない方法はただ一つ、自分の身を守ること。
「おばば。振り落とされるなよ」
肩に飛び乗ってきた猫又に言うと、『舐めるんじゃないよ青二才』ケッケッケっと不気味に笑われる。それでこそおばばだ。
宙を翔ける銀狐は其の美しい体毛を風に靡かせ、少しでも輩から遠ざかる。
そのすぐ背後を金狐やナガミ、ナノミが護衛。狐火を放ち、影の行く手を阻む。
前触れもなしに影が火だるまになる。青白く燃え始めた影は見る見る小さくなり、その存在はなかったものとなる。顧みると、数多の影はすべて燃焼していた。
「舐めるでない」
影に火を放ったのは北の神主。額に陰陽勾玉巴を浮かべ、垂紙を微風に靡かせる。
「六尾の妖狐、赤狐の比良利を前に、数で勝てると思っているのならば片腹痛い。弥助よ、百年前のわしと思うでないぞよ」
予想だにしていなかったのだろう。一度に燃やされた影達を見やり、はじめて彼の表情が険しくなる。
「やはり赤狐の相手は来斬か」
自分では歯が立ちそうにないとぼやき、そっと肩を竦める。
されど余裕は崩れていない。寧ろ、危機的な状況を愉しんでいるようにも見えた。
何を肚の内に隠しているのか。此処が本陣だから余裕があるのか。
懸念を抱く翔と同じように、比良利も警戒心を高めているよう。彼の糸目が開眼し、いつもは見えない紅の瞳が顔を出している。
再び賊の周りに影が現る。人の容をしているものから、獣の容をしているもの、それすら判別できないもの。それらは散り散りとなり、各々翔を含む同胞達の下に向かう。
だが皆が皆それぞれ実戦を積む者達。翔とて未熟ながら天馬に指導を受けている身。
二度も三度も同じ手は通用しないことくらい分かっているだろうに、弥助は影に相手をするよう命じる。自身は比良利の下に向かい、骨傘を振り下ろした。
「わしの相手をするつもりか」だったら光栄だ。大麻で骨傘を受け止めた比良利が細く笑うも、弥助の答えは「いいえ」
「あんさんには、とびっきりなお相手を用意しておりますゆえ――ああ、ほら、"依り代"に惹かれておいでなすった」
酉の方角、イチョウの並木道の向こうを一瞥した弥助が口角を持ち上げる。
脳裏に過ぎるのは比良利のかつての友であった来斬。あの黒狐を思い出す度に、受けた傷がズキリと痛む。未だに恐怖心は拭えていない。
何かを察したのだろう。
背後へ飛躍した比良利が此方に向かって喝破してくる。影を相手にしていた翔は自分の身くらい守れると返事をするも、おばばがそうじゃないと素早く意見した。
猫又は対や同胞達と随分距離が開いていることに気付いたのだ。ギンコに急いで、皆の輪に戻るよう叫んだ。
遅かったと把握するのは、己が落馬ならぬ落狐をして。
突然、イチョウの木の一本より飛び降りてきた人影に蹴られ、翔の体は宙に投げ出された。拍子におばばの身も宙に投げ出されるが、ギンコが身を銜えたことにより難を逃れる。
一方、地面に転がった翔は蹴られた腹部を押さえ、どうにか片肘で身を起こす。
「何が起きたんだよ。ああくそ、この足が邪魔だ」
ひとりで身を起こすこともできないとは、なんとも不甲斐ない話であろうか。
「翔殿!」影を爪で裂いた青葉の姿を目にし、悠長なことをしている場合ではないと思い出す。急いで三尾と腕の力を器用に使い、身を逆立ちさせて飛び上がる。
そこに例の人影が着地した。さくりと刺さる短刀を地面から引き抜く輩と目が合った。
其れは黒い浄衣に、紅い隈取が入った狐面をかぶった者。素顔は見えず、かといって妖気も感じられない。ヒトとはまた違った臭いのする輩は独特の異臭を放っている。
遅れて飛躍する輩の短刀を和傘で受け止めるも、空いた手が傘の柄を握ってきた。
抵抗の間もなく絶句してしまう。和傘が形を変え、本来の大麻に変化してしまったのだから。
「な、なんで」
動揺を隠しきれない翔の手から大麻を引き抜くと同時に地面に尻餅。
風の如く翔けてきたツネキに身を攫われ、輩と距離を置くことができたものの、相手は満足気に大麻を握り締めている。
そしてあろうことか紙垂を地面に垂らすと、ゆるり、ゆるり、左から右、右から左にそれを振った。見る見る紙垂に妖気と似つかわしい気が集う。
「我ガ名ハ、白ノ宝珠ヲ宿りシ者」
意思とは関係なく、翔の額に陰陽勾玉巴が浮かぶ。まるで輩と共鳴しているかのよう。
気は紙垂だけでなく、尾てい骨にまで伸び、四つの尾を作り上げる。おぼろげな四尾は狐の尾のよう。
「まさか」蒼白な顔を作る青葉の表情により、翔は賊の正体を察する。が、相手の方が動きは早かった。
「御魂のチカラ、宝珠ニ宿ラセ、此の地ト一つに――風ノ息吹」
賊に合わせ、陰陽勾玉巴は光り、大麻の紙垂に蓄積された気は放出。
気は乱暴な風を生み、術者から離れて自由に駆け回る。地面に落ちた葉を巻き上げ、砂埃を作り、さらには青々としたイチョウの木の葉や枝すら折って呑み込む。
その風に乗って逸早く比良利の下に向かった賊は、躊躇なく大麻を振り下ろした。宙を返って大麻を避けるも、対の表情は限りなく険しい。
聡い赤狐だ。とっくに相手の見当は付いているのだろう。
「まさか、このような形で拳を入れることになろうとは。つくづく長生きはしてみるものよ」
着地する赤狐に隙を与えず、賊は懐に入ろうとする。
どうにか間合いを取ろうとするが、次の次まで動きを読んでいる。ここまで張りつかれては、比良利も先手が打てないのだろう。
彼とも手合わせをしたことがあるが、赤狐は非常に強い。翔の手を簡単に捻ってしまう。
その比良利に隙を与えない賊は大麻を構えるや、乱れるように突きを繰り出す。右に左に流し同じように大麻で突くが、賊も流してしまった。
「比良利さん! ツネキ、早く向こうに」
「あんさんは、ご自分の心配をするべきですよ。若き十代目」
すっかり賊に気を取られ、弥助の存在を失念していた。
比良利の目を掻い潜った骨傘は翔とツネキに自身の傘を振るい、イチョウの落ち葉を巻き上げた。意志を宿した落ち葉は風に命じられるがまま獲物を覆い、そして呑み込んでいく。
クオン! 愛すべき狐の危機にギンコが駆け出す。「くっ、お前達。翔さまを」流の命により、ナガミとナノミも駆け出す。
遅れて青葉と天馬が動くが、「そう何匹も行かせませんよ」同じように弥助の巻き起こしたイチョウの落ち葉に呑み込まれた。
何も知らない翔は、「なんだこれ!」悲鳴を上げた。イチョウが虫のように音を立てながら張りついて疎ましいのだが!
するとイチョウの幕の向こうから檄が飛んでくる。
「ええい、何をしておる翔。お主は正式に十代目南の神主の名を継いだ狐。これしきのことで嘆くとは、それでも頭領と申すか」
余裕がない癖に、此方へ檄を飛ばす比良利には本当に尊敬の念を抱く。
早く彼の隣に立つためにも、捕まるわけにはいかない。もとより、あの賊の出現で同胞達の古い傷心を疼かせるとは、黒百合の行為は決して許せるものではない。
とはいえ、この状況。どうやって打破すれば。
矢先、イチョウ達が地面にすべて落ち、翔とツネキはつくねんとイチョウの並木道の真ん中に立っていた。
加えて、助けに来た狐達も傍にいる。他の同胞達の姿は何処にも見当たらない。
「もしかして、俺達どっかに飛ばされた?」
静まり返る空間。
翔と神使四匹は、ただただイチョウの並木道に佇む。
各々顔を見合わせ、遠目でイチョウの木々を見つめると、翔はまずったと唸った。
「比良利さん達とはぐれちまった。やっべぇ、弥助の術中にハマったっぽい」
小鳥の囀り、イチョウの葉のこすれ合う音、吹き抜ける風、そして垂れる妖狐達の耳と尾。現状は最悪である。
なにせ此処には北の神主達もいなければ、武の達人もいない。自分以外の妖狐は人型になれず、己は獣語が喋れない。通訳者もいない。己は怪我人。大麻も取られてしまった。なにより、此処は敵の陣中。
何度でも言おう、現状は最悪だ。