<二>玉葛が守護する里(弐)
約二時間半の走行を経て、目的地である“玉葛の神社”が守護している人里に到着。社から近い空き地に車が停車する。
降車して翔の目に飛び込んでくる、里の景色の第一印象は寂れた田舎だった。
山木に囲まれた自然。田んぼの段々畑。傍らには出荷するであろう季節の野菜畑。疎らに一軒家が建っているものの、どの家も古臭く、築三十年以上は経っていそうだ。
里は山を切り崩されて作られた場所のようで、全体的に傾斜だ。
都会慣れしている翔にとって、此の地は若人にとって暮らしにくい里だと思えてならない。
近場にコンビニエンスストアはなく、個人経営しているであろう名も知らない小売店が一軒家を装って営業している。地元の人間でなければ、此処が店なのかどうか一目で把握するのは難しい。
錆びたバスの停留場の時刻表を見れば、一時間に一本バスが通るか通らないか。交通の便も悪そうだ。
けれども、悪いことばかりではない。
此処は非常に静かで妖の翔にとっては暮らしやすい環境だと思えてならない。空気は澄んでおり、森林や田畑の土の香りが鼻孔を擽る。騒音は少なく、耳の良い獣型の妖にとって昼間でも心地よく眠れそうだ。
妖は自然を愛し、静かな地を何より好む。此の地は妖の憩いの地となりそうだ。
その証拠に自然を目にしたギンコとツネキが嬉しそうに、山沿いを駆けている。狐の本能が擽るのだろう。
翔も山を見ると駆けまわりたくなる気持ちで一杯だ。こんな体でなければ、獣型になって彼等の仲間に入っていただろうに。
「翔さま。此の地には隠れ湯があるそうです。傷を癒すために、後ほど寄りましょう」
運転席から降りた天五郎が松葉杖で体を支えている翔に気を遣い、耳寄りな情報を提供してくれた。
湯に浸かれば、麻痺した神経も回復するのではないかと思ったらしい。
魅力的な情報だが、今回の目的は湯ではなく、百鬼一族の末裔が購入している別荘地だ。時間を取られるのは忍びない。
「いいえ、ここは行くべきです翔。多少の寄り道など取るに足らないこと。優先すべきは貴方様の御身体ですよ」
「天馬、心配は嬉しいけどさ」
「武を心得る者、体調の管理もしっかりしているものですよ。これも修行と思い、是非湯に浸かって下さい。どうせ今宵は此方に身を置くのでしょう?」
『烏天狗の坊やの言う通りだよ坊や。それに、青葉達のためにもなるだろうしねぇ』
肩に飛び乗ってきたおばばが、背後を尾でさす。
振り返れば、すっかり乗り物酔いした妖狐三人が覚束ない足取りで車から降りていた。一言でいうとふらふら。それが似つかわしい表現だ。
翔は苦笑いをし、寄り道をしようと決意する。湯にでも浸かれば、皆の乗り物に対する疲労が癒されるに違いない。
「ギンコ。ツネキ。社に行くぞ」
人通りがまったくないため、狐達は自由気ままに山道を駆けている。声を掛ければ、二匹が飛び跳ねながら戻って来た。
クンクン、クオン、銀狐が嬉しそうに何かを伝えてくるため猫又に通訳してもらう。
曰く、此処の自然が素敵で気持ちが良いとのこと。後で一緒に散歩へ行こうと誘っているようだ。隣に並ぶツネキも珍しく、お前も連れて行ってやってもいいぞ、と言っているらしく、ご機嫌の様子。
今は少なくなった自然、ギンコやツネキにとって、そして妖や獣にとって、それは知らず知らずのうちにストレスとなっているに違いない。
だからこそ、こんなにも喜んでいるのだろう。
それは二匹に限ったことではない。狐から妖になった比良利や紀緒もおなじことが言える。たった今まで青白い顔をしていたくせに、疲労は表情に残しているものの、その自然を指さして二人で楽しげに何やら話している。
翔は話せる状態になった青葉に尋ねた。彼女が生きていた人の時代も、このように静かな場所だったのか、と。
「ええ、それが当たり前でしたよ。今の人の時代とは、百八十度違います。尤も、私がいた地はもう少し、商売で賑わっていましたが」
語る彼女の声は嬉々に溢れていた。
段々畑を眺めながら坂道沿いを伝い、やがて社に続く苔ばかりの石段前に立つ。
手摺がわりの注連縄。整備されていない石段は凹凸が激しく幅も狭い。
「翔。無礼を失礼します」
松葉杖をつくには危ないという理由で天馬におぶられてしまった。翔としては自分の足で石段を上りたかったと切に思う。
ぼっ、ぼっ、ぼっ。
段に足を掛けた瞬間、石段の両端に青い火の玉が浮かび上がる。
それは狐火他ならない。目を丸くして周囲を見渡すと、両側に仄かに浮かび上がる狐達の影。尾っぽに宿った青い灯火が、まるで歓迎するかのように石段を上る訪問者を誘う。
摩訶不思議なことに、日照りだった石段一帯に大きな影が伸びる。それによって轟々と燃える狐火が、一層目を引いた。
「これは」
段をあがり、狐達の影の前を通り過ぎると、彼等は深く頭を下げてくる。
「彼等は皆、妖狐にございます。此の地に身を置く狐達なのでございましょう。翔殿、妖狐の階級のお話は憶えておりますか?」
「野狐とか、気狐とかいうあれか? 青葉」
確か自分は気狐という立ち位置におり、それは神に仕える狐だからその階級が与えられている。
「大きく分けて妖狐の階級は四つ。野狐、気狐、天狐、空狐。大半の妖狐は野狐、または地狐と呼ばれる地位にございます。その一級上にいる私達ですので、このように歓迎して下さっているのかと」
『更に坊やは“宝珠に集う”妖の社の頭領だ。妖の世界ではヒトの社を守護する者より、妖の社を守護する方が地位が高い。比良利と顔を揃えて訪れているのだから、ちゃんと顔を出して挨拶しようって思っているんだろうねぇ。中身は坊やも坊やなのに」
おばばが余計なひと言を交えてくる。
煩いな、と脹れ面を作るも、翔はすぐに表情を戻し、此の地に生きる妖に目を向けた。
“玉葛の社”に集う妖達の多くは妖狐のようだ。それは此処を統べる頭領が代々妖狐だからだろう。
石段をのぼり切ると色褪せた鳥居の向こうに、数本の垂れる柳。まるで小雨が降るように葉を垂らしている。
パッと見“玉葛の神社”は“妖の社”と違い、こじんまりした社だ。
人間の手によって作られた社だからなのか、其の作りも、錆びれた空気も、風化した社殿も、表社に似ている。
けれども、妖が守護しているせいか、何処となく雰囲気は妖しい。
狛犬の代わりに設置されている狐の像は、妖狐が社を守護している証拠。
今は神使として天命を担っているナガミとナノミを象徴しているようだ。面影がなんとなく彼等に似ている。
「宝珠に集いし、妖狐御一行様。お待ちしておりました」
日の影となっていく“玉葛の社”を守護し、妖狐は社殿の前に立っていた。
人間に化けている袴姿の流は、細い笑みを零して妖しく眦を和らげる。彼の両脇に立つは神使のナガミとナノミ。変わらぬ狐の姿をしている。
そして石段にいたであろう狐が集い、其の姿を見せる。
驚いてしまった。
集う妖狐達は二足歩行の人型をした着物を纏いし“狐”だったのだから。
基本的に妖にはギンコのような獣型、翔のような人型、そして本来の姿である妖型の三つがある。
妖狐は前者二つの姿に当てはまるのだが、此処にいる妖狐達はどちらにも当てはまらない。二つを足して二で割ったような姿だ。
それに対しておばばが答えてくれる。
『稀にいるんだよ。獣型のまま人のような振る舞いができる輩が。妖は姿形をあまりこだわらないから、基本の三つがすべてだと思ってはいけないよ坊や。これも、妖の世界の常識なのだから』
「猫又婆さまの仰られる通り。これが“我等”の好む人型の姿にございます」
我等、ということは。
流に視線を送ると、彼は意味深長に頷く。
「私もまた、此の姿を本来好む者なのです」
深くお辞儀する流の姿が見る見る人の顔から、狐の顔に変化していく。
面を上げる頃には、見事に狐の成りだった。手も足も顔も狐。けれど立ち振る舞いは人型同然。“玉葛の神社”に集う妖狐達は皆、これを好むという。
なのに自分達の前では通常の人型で振る舞っていた。それは“玉葛の神社”の頭領として、“妖の社”の頭領に合わせた姿をしていたのだろう。
「我等にとって、これぞ本来の人型妖狐の姿と思っております。ゆえに同胞はあなた方に合わせた人型は振る舞えませぬ。お許し下さい」
七尾を揺らし、再び頭を下げる流に気にするなと比良利。
狐から妖狐となった彼としても、此方こそ人型妖狐の姿と思えるそうだ。
一方で翔は滑稽な姿と思えて仕方がない。それはきっと人から妖狐となったからだろう。ただ、流の変化の多様性には思うことがある。
「流さんに尊敬するんだけど。俺も、妖に合わせた変化をしたい。そうだよ、頭領なんだからそれくらいの変化はできないと」
これからの長い人生、妖狐達と交流することもあるだろう。
彼等のように歪な姿をした妖と接触する機会だってあるに違いない。
その時、人型で接するよりも、ああいった獣の人型姿で接した方が相手だって気兼ねなく話せるのでは?
姿形が歪だろうが滑稽だろうが、あれに変化できる現は魅力的である。彼のように妖に合わせた変化をしたい。翔は願望を口にした。
しかし、無理だと比良利はいらえ、憮然と六尾で彼等を指す。
「変化には高度な技術を要するもの。あやつ等は我等のように通常の人型になれず、我等は獣の人型となれぬ」
「でも流さんは変化できているじゃん」
「流は特別変化に器用なのじゃよ。それを活かし、通常の人型にも変化できる。あやつの特技と言っても過言ではなかろう。なにより経験がものをいう。あやつは七百年生きている妖狐、わし等は足元にも及ばぬよ」
「それは誇大な表現にございますよ。比良利さま」
流が苦笑いをひとつ零す。
「何を申す。我等はお主と比べれば、一端の洟垂れ小僧にしか過ぎぬよ」
いくら宝珠を持とうが、それで大きなの妖力を持とうが、知恵ある年の功には勝てないと比良利はおどけた。
本当にその通りだと翔も思う。
尊敬している比良利とて、祖母であるおばばにはまったく勝てないのだから。
「さて、立ち話もなんですし、どうぞ中へ。長旅でお疲れでしょう? 日が沈むまでお眠りになられて下さい。皆は夕餉の支度を」
ぱんぱんと手を叩き、流は集う妖狐に指示をする。
頭を下げる妖狐達の飛び交う会話は獣語だが、やり取りは本当に人型らしい。
ちなみにこの妖狐達は普段から社の手伝いにやって来るそうだ。
彼等だけではない。此の地の妖は事あるごとに、社に携わり、流達と力を合わせて社を切り盛りしているという。
「人手が足りない場合は、彼等に巫女もしくは巫子をお頼みしております。一般の妖達ですが、皆、玉葛のために盛り上げてくれるのですよ」
これは見習う点があると翔は心底思った。
日月の社は、宝珠に定められた者達を中心に社が開かれている。妖の者達が直接携われることは少ない。
一時的でも良い。妖の社にも、一般の妖が神職に携われる機会を設けたいものだ。翔は密かな野望を抱く。
「流さん。あれは?」
未だに天馬の背にのっていた翔は、狐の像の前に備えられた稲荷寿司に気付き、これについて流に尋ねる。
彼は嬉しそうにクンと一つ鳴く。
「廃れた社にも信仰を持った里の者は存在します。これは、今朝人間が供えてくれたものなのです。相手は年配の女性ではございますが、絶品の稲荷寿司で私達の好物にしております」
それだけでなく像の掃除をしてくれたらしい。
心を持った人間を知っているため、此の社が取り壊される危機に直面しても流は人間が嫌いになれないそうだ。
ほのぼのするような、切なくなるような、現実である。
日が沈むと夕餉が始まる。
その間、自分達を送ってくれた天五郎は一度家に戻ると言って“玉葛の神社”を後にした。曰く、夜から武を学んでいる門下生が来るそうだ。
天馬の連絡が有り次第、迎えに来てくれると言うので、相手には有り難いやら申し訳ないやら。
ただ、翔は本当に門下生だけの理由なのかと疑念を抱いていた。
何故ならば、去り際に比良利と意味深な会話を交わしていたからだ。
「比良利さま。私は“祠”の番に回りますゆえ。門下生だけでは、どうも心配でして」
「すまぬ。頼むぞよ天五郎。我等は二、三日、此の地に留まる。息子は連れて行かぬのか?」
「あれは己の志を貫き通す頑固者。自分の与えられた命を優先しましょう」
閑話休題。
流達が用意してくれた夕餉は、大層豪華だった。
地元で採れたという川魚を中心に山菜、野菜、米、それを熟成させた酒米。それからニワトリの丸焼き、ハツカネズミの唐揚げ、蛙の蒲焼、芋虫の和え物とバッタの味噌汁。
さすがは妖狐が作る食事である。
現代人の翔は顔色を変えながら、食膳に乗った料理を観察する。自分の食べられそうなものを厳選しなければならなかった。
しかも下手に料理をよけることもできない。
身分が高いゆえ、比良利と肩を並べて上座に腰を下ろしている翔だ。
座敷の最奥の正面にいるため、両脇で列をなして食事をする妖達に手元が丸見えなのである。
ああ、ほら、食事を作ってくれた妖狐達が入り口に鎮座し、此方の反応を窺っている。
「翔殿、好き嫌いは駄目ですよ。真心が籠められたおもてなしなのですから」
耳打ち程度に青葉からお叱りを受けてしまい、翔は苦行だと心中で涙を呑む。
どう足掻いても己は現代人の元人間。花の食文化は受け入れられても、昆虫の食文化は生理的に受け付けない。
おじいちゃんおばあちゃんとは逞しさが違うのである。
所詮、自分は温厚育ちの現代妖狐なのだ。これがぼんぼんと呼ばれる所以なら、ぼんぼんと呼ばれてもいい。
「あ、これは巻き寿司か?」
海苔で巻いてある太巻きを見つけ、これならば食べられそうだと胸を撫で下ろす。
パッと見、刺身とキュウリと玉子焼きが挟まっている巻き寿司のようだ。よく見れば白い花びらも挟まっている。これは花の香りを楽しむための薬味なのだろう。
先に巻き寿司を口にしている天馬に気付いたので、翔はそれを手にしながらこれは何の花だったかを尋ねた。
魚と花の組み合わせは物珍しいな、と一言添えて。
すると烏天狗は不思議そうに首を傾げ、魚など入っていないと返事した。
「この巻き寿司にはイモリの切り身と、梔子が入っています」
「い、いも……え?」
まじまじと巻き寿司を見つめる。
この切り身は魚ではなく、トカゲに似たあの両生類らしい。花びらが挟まっているのは、生臭さを消すためなのだろうか。
懸命に引き攣り笑いを作り、翔は天馬を横目で一瞥。
彼は平然とバッタの味噌汁を口にしていた。汁もさながら、バッタを箸で抓み、それを口に放っては美味そうに咀嚼している。
おじいちゃんおばあちゃんが美味そうに食べられるのは理解できるが、彼が表情を崩さず食べるなど信じがたい光景である。
「なあ天馬。正直に言え。お前、本当は幾つだ? 間違ったって平成生まれの妖じゃない筈だ。年齢詐欺しているだろう?」
「翔に自分は嘘をつきませんが。今年で齢十九になる、しがない烏天狗です」
何を疑っているのだと天馬がますます首を傾げているが、翔は絶対に同い年の妖ではないと声を大にして主張したかった。
自分と同じ年の妖ならば、もう少し昆虫を食す文化に戸惑うものなのだそうなのだ。
それとも自分の感覚がおかしいのだろうか? 生まれながらの妖と、種族転換した妖では抱く価値観が違うのだろうか?
「まだ俺の心は“妖の器”なのかな。ははっ、妖としてやっていける気がしなくなってきた」
イモリの入った巻き寿司を見やると、これは魚だと思って口に押し込む。
昆虫を口に入れるよりかは爬虫類を、じゃない、両生類を口に入れた方がマシだ。クチナシの香りが口いっぱいに広がり、それを楽しむことにする。
もうどうにでもなれ、である。
こういった騒動が(翔の中で)あったものの、夕餉の刻は穏やかに進む。
もっぱら焼いた川魚に食らいついて、その新鮮さと身の引き締まりと塩加減に舌鼓を打っていたためか、妖狐達がおかわりの川魚を用意してくれた。
また翔の苦悩を察したギンコが我が物顔で膝に乗りあげ、食膳に乗った芋虫の和え物を口にしてくれたおかげで、昆虫料理は減っていく。
「比良利さま。翔さま。黒百合につきましては、明日の昼にご案内致します。昼間行動する方が無難かと思われますゆえ」
獣の人型にばけたままの流が、比良利にお酌しながら意見をした。
妖は夜に活動をする。
人間の感覚では夜に動く方が身を隠しやすく安全であるが、妖にとって隠密に動きたい場合は昼の方が安全なのだ。
敵が人間ならば話は別だが、今の敵は黒百合。昼間に行動する方が良いだろう。
「そうだ。比良利さん、車の中では聞けなかった“オヨゴレミタマ”について、聞かせて欲しいんだけど」
川魚に齧りついていた翔は食べる手を止め、対に視線を投げる。
おばばから少しばかり話は聞いている。なんでも、黒百合の頭領とかなんとか。自分はてっきり、四尾の妖狐、黒狐の来斬が頭だと思っていたのだが。
すると比良利が小さく噴き出し、飲みかけの酒米を食膳に置く。
「“妖御魂”じゃ。オヨズレ。オヨゴレの方が名としてはしっくりくるがのう」
『比良利、坊やには話しておくべきだよ。ぶつかる可能性があるからねぇ。おや、それとも兄心が優ってまた今度にでもするかい?』
不気味に笑う猫又に諭され、比良利は決まり悪そうに鼻を鳴らす。
「わしはもう隠し事をせぬよ。性格の悪い猫婆じゃのう」
どのような妖なのだろうか。来斬より肚の黒い輩だとは耳にしているが。
「妖にして妖にあらず。それが、黒百合の頭“妖御魂”の実態よ」
「それ、どういう意味? オヨズレミタマって、オオミタマさまの名前に似ているけれど」
まるでオオミタマのような名だと翔が指摘すると、意識しているのだろうと比良利は唸る。
自分はミタマと付けたくないので、普段はオヨズレと呼んでいるそうだ。
「妖にあらず、ということは部族がないの? オオミタマさまのように」
「お主の言う通り、双方部族はない。しかし形が違う。オオミタマさまは宝珠の導きにより、神の化身に選ばれしお方。大御魂の名を継ぐ際、部族を捨てられた。対してオヨズレはあらゆる妖の肉を喰らい、部族の境がなくなったと聞く」
「ど、同胞の肉を喰らったぁ?」
ゾッとするような話を首肯し、オヨズレに部族は感じられないと比良利は眉を顰める。時に鬼のような気を感じ、時に狐のような気を感じ、時に犬神のような付喪神のような山神のような気を感じる。
それはそれは不気味な存在で食わせ者。来斬の次に、苦戦を強いられた妖だと対は下唇を噛む。
「来斬を悪の道に進めたのは、まごうことなきオヨズレじゃ。あれが簡単に悪に染まるとは思えぬ」
何処かで比良利は来斬に未練があるのだろう。
気付きつつも、彼の心には触れなかった。
「オヨズレの名はオヨズレ自身が決めたものであろう。ゆえに、オヨズレを名乗る以前の正体は誰も知らぬ。わしが奴に会った時には、既に部族の境が分からなくなっておった」
それだけ同胞の肉を喰らい続けた、ということなのだろう。
妖が人を喰らう話はちらほら耳にするが、妖が妖を喰らうとは、これまた凄惨な話である。オオミタマに近付くために肉を喰らい続けたのか、それとも多種多様の力を得ようとしたのか。
どちらにせいよ、血も涙もない輩である。
「百年前にオヨズレを葬ったのは比良利さん、なんだよね。仕留めたの?」
「左様。来斬共々大麻で祓った。確かに祓った。さすれど、黒百合を根絶やしにすることはできず……」
そうして、今世に黒百合の残党がいるのだと比良利。
残党だけならまだしも、討ってきた者達が復活している。
これこそが最大の謎であり、解決すべき問題だろうと彼は語る。九代目の御魂復活にも直結しているのだから。
「来斬や弥助が今世に蘇っているのならば、オヨズレも復活しているであろう」
翔は自分の中で簡単に百年前と今の事件を整理する。
人間側の百鬼一族、妖側の黒百合、双方が一丸となって宝珠の御魂に携わる者達を討とうとした。
各々目的は以下の通り。
人間は宝珠の御魂を手にし、最大の禁忌である不老不死を。妖は宝珠の御魂を地位から降ろし、新たな時代を築くために。
百年の時を経て、再び人間側の百鬼一族、妖側の黒百合が面に顔を出した。
妖側の目的は変わらず新時代の開幕。人間側の目的は一族の無念を果たす復讐。不老不死というくだらぬ絵空事も、未だに思い描いているのであろう。
「あくまで一個人の推測にございますが、来斬め等は……百鬼一族の術によって復活した、と考えるのが筋なのでは?」
とどのつまり、今世に復活した妖は“依り代”なのではないかと流。
そう考えた方が自然だろうと比良利は合いの手を入れる。
現に天城惣七の御魂を今世に復活させ、“依り代”として目途を付けている妖を器にしようとしている。
「黒百合の手には“玉葛の神鏡”がある。あれは常世の世界を覗き込むことができるもの。術師によっては、常世にいる死者の魂を呼ぶこともできよう」
首を討った妖が生きている理由を挙げるのならば、それしかないと対は唸った。
「“宝珠の御魂”に代わる神器を生み出すことなど、本当に可能なのでございましょうか?」
それまで静聴に回っていた天馬が疑問を口にした。翔も同調する。
「簡単に神器なんてできるものなのかな。しかも他人の魂を使って、だなんて」
素朴な疑問が浮かぶ。
そもそも“宝珠の御魂”も、誰かの魂によって生まれたものなのか。常に体内に宿している神器の根本を知らない翔は、立て続けに疑問を口にする。
「宝珠の御魂は妖気の塊なんだろう? 神秘な力を宿した石、というのが俺の認識なんだけど」
「従来の御魂とは神霊や霊威を指す。我等が体内に宿し御魂は、神の化身である大御魂の魂だと言われておる。大御魂が四つの宝珠を生み、二組の双子を生みだした」
五方の宝珠の御魂は元々一つであり、大御魂の魂そのもの。
神の化身の御魂の一部と妖気、そして意志が宿り、宝珠を受け継ぐべき妖の手に渡っている。
翔の疑問についてだが、魂が神器になる可能性は大いにある。
宝珠の御魂を崇拝する神職達の宗派は、人の世界で指す“神道”。
“神道”における思想に人の死後は守り神になる、という考えがある。霊魂となった人は神々の下に帰り、子孫を守る神として祭られる。
それだけ魂とは尊いものであり、子孫に祖先の魂は受け継がれるべきものだと考えられている。
同じように“妖の社”にも、魂を尊いもの、受け継がれるものとして考えられている。
「オオミタマさまが仰られていなかったかのう。宝珠の御魂には先代達の御魂が宿っている、と」
鮮明に憶えている。
オオミタマが梅の大木を見せてくれた時、自分に宝珠の御魂には先代達の想いや魂が宿っている、と。
「亡くなりし者達を神上ると呼ぶ。神々の下に帰る霊魂は、肉体を失くしても尚、使命を背負い、生きとし生ける者達を見守る。それは子孫に繋がる家族であったり、残してしまった想い人であったり。
オオミタマさまは仰られていた。宝珠に携わる我等は死後、御魂の社に集い、各々守護していた宝珠に還る、と」
先代達の御魂が宝珠に宿るとは、そういうことなのだと比良利。
いずれ自分達も同じ運命を辿る。宝珠に還り、受け継がれし者達を見守るのだ。
だからこそ、今世に生きる者達がいたずらに魂を触るなど言語道断。黒百合のする行為は道徳に反すると、語り手は熱弁した。
帰幽した者達の霊魂を、私利私欲のために復活させる。
それどころか、神器に利用するなどあってはならぬこと。彼等は死後も使命を背負っているのだから。
「来斬が今世に復活していることも、いたずらとしか思えぬ行為。善であれ悪であれ死者となった者達は、自然の理に身を委ねていかねばならぬのじゃよ。同様に、生きとし生ける者達の命もいたずらに触れてはならぬ」
生死問わず、無闇に他者の御魂に触れる者達が民を思える筈もない。
黒百合の理想は極めて危険であり、同胞を脅かす。
たとえば“宝珠の御魂”を持つ者達が未熟で、それに対して不平不満を抱いていたとしても、それは此方の責であり民には関係のないこと。
なのに他人の生死や御魂を利用するなど意に反する。
「“宝珠の御魂”も然り、“玉葛の神鏡”も然り、力を宿すものは必ずや悲劇を繰り返します。守護する我々はそれを心に留めておかねばなりませんね」
流が力なく頬を崩すと、比良利が眦を和らげて頷く。
「同胞の平和を守護するために神の導きの下、我等は集っておる。一方で、悪意ある者達に神器を狙われ、悲劇を繰り返す。いたちごっこじゃのう」
その度に誰かが血を流し、儚い命を散らす。嗚呼、世知辛い世の中だ。
五十年百年、神主をしている二匹の妖狐は口を揃えた。
若い翔にはまだ分からない苦悩だが、いずれ己も彼等のように嘆息を漏らすのだろうか。いたちごっこのように繰り返される悲劇を目にするのだろうか。
一抹の未来を見た気がした。
※
ひと足先に座敷を後にした翔は、皆が妖狐達と交流をしている合間に足を動かす練習をしようと客間に戻る。
比良利達ならば、交流の中で些少のことでも情報として拾う。何か気付くことがあれば報告してくれるだろう。
自分は少しでも足手纏いという枷から抜け出すために、日夜元通りの体を取り戻すための努力をしなければ。
ただでさえ若過ぎる未熟な妖狐なのだから。
「部屋に戻るだけでも一苦労だな。こんなんじゃ来斬にまた狙われた時、あっちゅう間に捕まっちまうぞ」
やっとの思いで客間に辿り着いた翔は尾で襖を開け、さっさと部屋にあがる。
松葉杖の先端が戸枠に引っ掛かったのは直後のこと。
「へ?」間の抜けた声を出し、大慌てで三尾で枠にしがみつく。己の中では段差を越えたつもりなのだが、思った以上に松葉杖が上がっていなかったようだ。
ぷるぷると尾を震わせ、どうにか倒れかかっている体を戻そうと躍起になるものの、如何せん三尾の筋肉は鍛えていない。
ということは。
「ぐぇっ!」
喉が潰れるような声を出し、翔の体は真後ろに倒れる。
真ん前に倒れる筈の体が後ろに傾く、ということは、誰かが助けてくれたということ。
その証拠に己の身は後ろから受け止められていた。
涙目になって振り返れば、能面の烏天狗が立っている。さしずめ、襟首を勢い良く引いてくれたのだろう。有り難い反面、もう少し考えて助けて欲しいものである。
「お、お前なぁ」恨みつらみを含んだ眼を投げるも、天馬は右から左に流してしまう。
「もうお休みになられるのですか? 比良利さま達は、まだ座敷にいらっしゃるようですが……もしや御体の具合が」
「違う違う。リハビリをしようと思ったんだよ。足がポンコツじゃあ敵と対峙する際、お荷物だからな。そういう天馬は」
「部屋に入りましょう。立ち話をしていても、リハビリはできませんので」
何故此処にいるのだという言葉は、相手の台詞によって消えてしまう。
自分ひとりでもリハビリはできるのだが、天馬は言わずも手伝ってくれる模様。
己を座らせると足を伸ばすよう指示、右足から曲げ伸ばしをすると言って膝裏を両手で抱えた。
「治療後の体は硬直してしまい、動かせる範囲が狭まります。特に関節は硬くなりやすい。だから歩行の練習をする前に、必ず解す必要がございます」
いきなり歩行の練習をしても、回復の近道にはならないと天馬。
へえ、翔は素直に感心し、彼の指示に従う。
「お前はなんでも知っているんだな。足を動かしていれば、普通に元通りになると思っていたけど」
「リハビリも、武も段取りがございます。焦る気持ちも分かりますが、少しずつ慣らしていかなければ。曲げますよ」
ゆっくりと右足が体の方に曲げられていく。
半分のところで小さな痛みを感じると、その動きが止められた。
平気だから続けてくれ、そう促しても、足は伸ばされていく。不思議なことに、同じ動きを二、三回続けると、半分以上足を曲げても痛みを感じなくなる。
「これが慣らすということです。慣らす行為も馬鹿にはできないものでしょう? 十回繰り返した後、左足に移りますね」
にわかに頬を崩す天馬に、笑みを返すものの、気持ちは曇っていく。
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれることは嬉しいが、なんとも情けない気持ちになる。
「……天馬。ごめん。俺に武を教える筈が、こんな世話をさせちまって。何から何まで巻き込んでいるな」
本来ならば、黒百合の一件に関わらせない方が良い。
それは頭で分かっている。腕が立つ彼だが、腐っても一般市民。自分と生きる道も、立ち位置も違う。天馬は天五郎と共に帰すべきだったのかもしれない。
身分により、天馬は己の願いを断れないのでは。だとしたら、無理強いをさせていることになる。
「俺は天馬に頼り切っているところがある。自覚はしているんだ。そういう一面に嫌気が差したら、ちゃんと叱ってくれ。お前にだってやりたいことがあるだろう? 俺ばかりに気を取らわれなくても」
そっと右足が畳の上に置かれるや、「すべて自分の意志にございます」濁りなき眼が己を貫いた。
「貴方様に武を教えることも、こうしてお傍にいることも、誰彼に指図を受けたわけではありません。嫌気が差しているのであれば、何も言わず離れています。
翔こそ、自分を傍に置いても宜しいのでしょうか? 貴方様はいつだって自分を頼ってくれますが……」
己は悪名高き名張一族の血を引く者だと天馬は微苦笑を零し、瞳に一点の曇りを見せる。
すっかり忘れていたが、名張は悪い意味で日月の者達と縁がある。
かつて、日月の者達は名張に信頼を寄せて山の守護を任せた。が、名張は裏切りとも言える行動に出て怒りを買っている。
今も妖達の間で敬遠され、肩身の狭い思いをしている名張家。天馬はまぎれもなく、その一人だ。
翔は知っている。
天馬は妖と交流することが苦手なことを。常に単独行動を起こし、極力ひとりでいようとすることを。
行動を共にする妖といえば、己か、雪之介か、夕立くらいなものだ。
座敷から退散してきたのは、そういった理由もあるのかもしれない。
強い彼だって怖じる気持ちがあるに違いない。他者から憎悪を向けられる、その眼に対して。
「武の師は誰でもないお前が良い。そう俺が決めたんだ。だから、むっちゃ頼っちまう。悪いな、こんな弟子で」
歯茎を見せて笑うと、つられたように天馬が表情を崩す。
「翔は正直ですね。本当に嘘がつけない性格で、面白いように分かりやすい。頭領としてやっていけるのか、些か不安になります」
「褒めてねぇだろうそれ。そら、比良利さんのように肚の読み合いとか苦手だけど」
ごろんとその場に寝転がり、翔はリハビリを続けてくれるよう頼む。
右の膝裏を両手で持つ天馬と視線が交わると、「とことん利用しろよ」十代目の名前を利用すればいいと言葉を贈る。
「一族なんて知らん。どうであれお前はお前、だなんて、それは現状を変えようとしている天馬に失礼だ。俺は知っている、名張一族の罪を。そしてそれを償うために努力している烏天狗達を」
微かに瞳孔を膨張させる天馬に告ぐ。
「言いふらせばいい。俺は十代目のお守を買っている名張天馬だって。その腕を買われた、すげぇ妖なんだってことをさ。まあ、十代目が未熟だから知名度はちっぽけかもしれないけど」
「翔は、自分がいつか裏切るかもしれないという猜疑心を抱かないのですか? 自分は裏切るやもしれませんよ。名張の者なので」
「お前は自分自身を信じられないんだな。俺と同じだ」
自分自身を信じられない、それは己の弱さが露骨に出ているからだろう。
翔とて今も自分を信じられない節がある。凡才の己が、本当に南北を統治する立派な神主になれるのかどうか。民達が己について来てくれるかどうか。
自信がないから、弱くなってしまう。
誇れないから、卑屈になってしまう。
信頼できないから、そこまでの奴だと諦めがついてしまう。
同じだ。自分と天馬の悩みは。
「天馬のことはお前以上に俺が信じてやるよ。お前は弱くない。俺を裏切らない。愛想を尽かされることはあるかもだけど、それは俺の努力不足だ。しゃーない。
誰がなんと言おうと、俺はこれからもお前を指名するだろう。天馬は俺にとってなくてはならない妖だから。もしも、もしもお前がやむをえなく裏切りそうになったら」
「なったら?」
「全力で止めてやるよ。諦めだけは人三倍悪いんだぜ、俺」
黙然と人の話を聞いていた天馬の表情が、今日一番に柔らかくなる。
「翔には敵わない」
達人が束になっても敵わないだろうと繰り返し、膝をゆっくり曲げてくる。
その際、ゆっくりと唇が動いた。が、殆ど声を発していないせいか、耳の良い妖狐でも聞き取れなかった。
「今、なんて?」
「いえ……なんでもございません。ただ、貴方のご期待に添えられるよう努力しようと思った次第です。自分は翔に忠誠を誓っているので」
「やめてくれよ。俺とお前は友人じゃんか。そんな主従関係みたいなこと言われても。師弟関係ではあるけどさ」
「自分の意志ですので。翔、来斬めにやられないで下さいね。貴方には教えなければならないことが沢山ございますので」
「ああ、分かっているよ。まずは体を元通りにしないとな。お前等に頼ってばかりじゃ、格好悪いし」
足を曲げる手に力が入ったのか、膝の関節に痛みが走る。
タンマだと叫ぶものの、天馬の手は加減を知らず。
「貴方はひとりで突っ走ることがございます。是非、我等を頼りにして下さい。今度は必ず、お守りします――“護影”として」
掠れた声で紡がれた言の葉は喚く翔に届くことなく、空気に溶け消えていった。