<十一>当代の器と先代の御魂
「俺が先代の“依り代”に……そんなことが可能なのかな」
衝撃を受けるあまり、思考が追いつかない。
驚きも大きいが信じがたい気持ちの方が強く、己が本当に先代の“依り代”になれるのかどうかも疑心を抱いてしまう。
鬼才と凡才の壁を除いても、これは極めて難しいことなのではないだろうか。
例えば“依り代”が先代自身の体であれば、常世に昇った魂を戻すことも可能なのかもしれない。
けれど輩は、まったくの他人である己の体を使って魂を繋ぎ止めようとしている。
クンと鳴いて見上げてくるギンコを見つめ返し、眉間に皺を寄せる。
「仮に俺を亡き者にして、先代の魂を体に入れたとしても、それが繋ぎ止められる確証は何処にもないよな。あくまで俺が凄いと言われているのは、宝珠の御魂が宿っているからであって、それがなければただの妖狐。宝珠は魂に宿り、死ぬと同時に飛び出すらしいけど……」
都合よく“依り代”にできるとは到底思えない。それが、翔の率直な感想だった。
便乗するように紀緒が話に加担する。
「仮に繋ぎ止められたとしても、御魂には各々自我が存在するものです。惣七さまほどの妖力を持つ妖狐を、果たして従えることができるものなのかも疑問です」
「また翔殿の体と惣七さまの御魂が必ずしも協和するとは限りません。生きとし生ける者、肉体と幽体を持ち、それらは個々人によって形が違います」
やや興奮気味に語る青葉は、敬愛している惣七のことで気が荒れているのだろう。まくし立てるような喋りをする彼女の尾が忙しなく揺れている。
一方、冷静に事を受け止めている猫又は不可能ではなさそうだと唸り声を上げ、比良利も顎に指を絡めて思案に耽っている。
おばばに可能な理由を問うと、四尾で翔の腹部を指し、九代目の後継者は誰だと返された。そこで思い出す。御魂の神主オオミタマの言葉を。彼は宝珠の御魂をただの神器ではないと諭していた。
『坊やが“普通”の妖狐であれば、黒百合とやらはお前さんを狙わなかっただろう。けれど、坊やは白の宝珠の御魂を宿した妖狐。選ばれた妖狐であり、惣七を含む先代達の御魂を受け継いだ妖』
些少なりとも先代、天城惣七の御魂が翔の中には宿っているのだとおばば。
輩がどのような手を使い、翔の肉体と先代の御魂を繋ぎ止めるかは見当もつかないが、可能性は零ではないと祖母は一声鳴く。
現に翔を亡骸にしてまでも攫おうとしていたのだ。敵には何か手段があるのだろう。
『推測するに、坊やの体を惣七を留める器に、惣七の魂を数多の魂を詰め込む器にしようって魂胆だろうねぇ。罰当たりも良いところじゃないか』
「だけど、まだ納得いかない。どうして俺なんだろう? 先代の魂を繋ぎ止める役目なら、比良利さんにだって出来たと思うんだ」
より弱い相手を選んで、手っ取り早く魂の器にしようとしているのだろうか。
翔はギンコを持ち上げ、「な?」と同意を求める。うんっと首を傾げる銀狐を腕に収め、また再び頭を撫でた。
「惣七さんがいくら凄い妖でも、俺は新米も新米の妖。妖力も比良利さんに比べると高くない。比良利さんが器に、そして北の先代の御魂を呼び戻した方が……俺が黒百合なら安心するよ。なんか強そうな神器ができそう」
鬼才南の九代目の御魂と、神主一年目南の十代目の器。
玄人北の三代目の御魂と、百年以上の歴を持つ北の四代目の器。
断言していい。後者の方がより成功しそうである。
「ふむ。お主にしては良い着眼点じゃが、それは不可能じゃのう」
「なんで? 比良利さんだって三代目の御魂を受け継いだ妖狐だろう?」
自分に可能性があるのならば、当然比良利にも可能性がある筈だろう。
すると傍聴に回っていた朔夜が苦笑いを零した。鈍いと思ったらしく、「頭領としてやっていけるのかなぁ」と御大層な意見を頂戴する。
「失礼な奴だな。どういう意味だよ。食らえ、ギンコはたき」
抱いているギンコの尾で、朔夜を数回攻撃。右から左に受け流す彼は答えを教えてくれた。
「不可能ということは答えは一つ。三代目は生きている、ということじゃないかな。相手が生きていたら、いくら器はあっても、ねぇ?」
「え、えぇえ?! 比良利さんのお師匠さまは生きているの?!」
聞いていないと声を上げる翔だが、当たり前のように死んだと言った覚えもないと比良利は肩を竦めた。
三代目北の神主は世代交代を終え、三年ほど四代目の指導を担った後、此の地を離れたという。南の神主と違い、北の神主は大変長生きする傾向にある。今は東北の地で隠居生活を送っているそうだ。
此の地に留まらなかったのは、次の頭領に口出しをしないため。
本来、自分の役目を終えた神職達は愛すべき地を離れて隠居するという。
よって、比良利は器になれないのだ。
「三代目が今、何処にいるのかは分からないの?」
一度会って話がしてみたい。三代目がいくつなのかは想像すらできないが。
「此の地を離れたっきり。便りの一つも寄越さぬよ。しかし、きっと元気にやっておられよう。訃報があれば、御魂の神主にまず知らせが届くじゃろうて……それにわしゃあ、あまり会いとうないのう……三代目には会いとうない」
「ふふっ、比良利さまは三代目を怒らせてばかりでしたからね」
紀緒に言われ、彼はぐうの音も出ないもよう。
これは落ち着いた頃に昔話を聞かせてもらうことにする。
話を戻し、翔は黒百合の目的は何となく理解したと一つ頷く。
だが、まだ不可解なことがある。
黒百合の目的は、自分の体と先代の御魂を媒体に“自分達”の宝珠の御魂を作ること。その先には南北の統治目的が見える。
では人間の霊媒師が噛んでいる理由は何か。
はっきり言って、人間側には利点のない話である。宝珠の御魂欲しさにしても、それに払う代償の方が大きいと思える。
例えば滝野澤親子によって“人災風魔”が引き起こされた。
これは、妖と人間の争いの種でしかない。霊媒師にとって、不味いことだろう。妖が人間を憎めば、“視”える人間は身の危険に脅かされる。自分達だって危険に晒されるだろうに。
「約百年ほど前かな。妖を専門としている呪術師一族がいた。名は“百鬼”。悪名高き霊媒師達だったそうだ」
朔夜が語り部に立つ。
一族に聞き覚えのある名だったのだろう。比良利の表情がまた険しくなる。
妖祓の話は続く。
曰く、百鬼一族は此の地で栄えていた霊媒師だったと同時に、妖祓と折り合いの合わない一族だった。腕前は天下一、しかし独自の宗教観念はおぞましく、例えば生贄の妖の生き血を啜ったり、一族内に裏切り者がいれば其の者の臓器を抜いて神に捧げたり。
大地主を筆頭に己らの宗教の世界に引きずり込みもしたそうだ。妖を生贄に呪術をしていたために妖祓と幾度もぶつかり合った。
無差別に妖を生贄にすれば、当然其の地の頭領は怒り狂う。
未然に防ぐため、霊媒師の世界から彼等を追放するも、一族の悪行はとどまることを知らなかった。
「霊媒師には三つ使用してはいけない術がある。霊魂・魔物の一方的下僕化。霊魂・魔物の生態や自然の理の破壊。死者の蘇生。此の一族は平然とそれをやってのけていたらしい。特に死者の蘇生。これを成功した機に、彼等は大きな野望を二つ抱いた。不老と不死だ」
勢いを増した百鬼一族は死者の蘇生ができる我等ならば、不老不死を手にすることも造作にないと思い始める。
永遠の命に魅力を感じる者は不死を手にしたいと願うようになり、永遠の命に魅力を感じぬ者も不老にはさぞ羨望を抱いた。
両方を得たいと思う浅はかな者も出てくるようになり、それはやがて百鬼一族の目論見の一つとなったという。
しかし、如何なる霊力と呪術師の腕を持ってしても、不老不死の道は遠く及ばず。人間の力だけでは無理があった。
「そこで彼等が目に付けたのは生贄である妖だった。多くの妖は人間より長生きで、歳を取るのも遅い。片っ端から妖を捕え、その研究に熱を入れた。
けれど、理を覆すことなんて無謀も無謀。失敗に終わっていたそうだ。そこで目を付けたのは此の地を統べる妖の頭領。神に仕える彼等なら成功の糸口を見いだせると考えた。そして頭領の秘密を知る、“宝珠の御魂”の存在を」
それは妖力の塊でありながら、意志を宿した神秘の神器。
北と南の頭領が各々持っている神器を手にすれば、この野望は叶うのだと一族は確信する。
そこで彼等は宝珠の御魂を邪魔だと嫌悪している、自分達と同じ独自の宗教観念を持った黒百合に目を付け、密かに同盟を結んだ。
人間は宝珠の御魂を手にし、最大の禁忌である不老不死を。妖は宝珠の御魂を地位から降ろし、新たな時代を築くために。
だが百年前に一族は滅ぶ。
“宝珠の御魂”を穢す同胞殺しの人間として、頭領の逆鱗に触れてしまったのだ。彼等は甘く見ていた。其の地を統べる頭領を、“宝珠の御魂”の力を。
誰が滅ぼしたのかは謂わずも分かる。
「ただ遺憾なことに、当時の頭領は一族を根絶やしにはできなかった。一族には多くの側室がいたんだ。子供もいたらしい。滅んだ後は、其の地を離れたり、別の名で一族であることを隠していたそうなんだ」
「では、滝野澤は末裔のひとりと申すのじゃな」
比良利の問いに小さく頷く朔夜は、事件を起こした滝野澤親子はまぎれもない百鬼一族の末裔だと言う。
その証拠として隠し部屋から、滝野澤茂の日記らしきノートを持ち出している。真実は其処に記されていたと朔夜。
「なら、人間側の目的は不老不死か? だとしたら、くだらなさ過ぎる。そんな理由のために“人災風魔”を起こして、可愛い子供達の命を奪ったのかよ」
縦長の瞳孔を膨張させて怒を噛みしめる。
これでは、あまりにも子供達が報われない。
「それも一理あるかもしれないけど、一番の目的は復讐だ」
「復讐? 一族を滅ぼした妖にか?」
「一族を滅ぼすに当たって、頭領と手を組んだ人間がいたそうだ。その人間達のせいで一族は滅びの道を辿った。もう分かるだろう? 手を貸したのは妖祓だ。同じ霊媒師として悪行を見ていられなかったんだろうね。元々対峙していた関係柄だったみたいだし」
“人災風魔”を起こしたのは今の妖の力を見るためと、妖祓の関係に確かな溝を作るためだったのだろう。百年前のように妖祓と頭領が手を組まないように。それも滝野澤茂のノートに記されていたという。
事を知った朔夜は急いで自宅に帰宅し長に報告。
翔の容態が安定したことを雪之介に聞いていたため、手に入れた真実を教えるためにアパートに向かった。
その道中で弥助という妖に襲われ、命からがら逃げてきたのだという。
屋敷に侵入したところから出て行くところまで見られてしまっていたのだ。
「調伏も考えたけれど、あの妖は奇襲がてらに僕の体に毒を仕込んだ。おかげで霊力が上手く操れなくてね」
「毒?! お、お前大丈夫か?」
「単なる痺れ薬だよ。見事に左腕に吹き矢が当たってね……けどおかげで、これを盾に逃げることができた。痺れているおかげで痛みも少なかったから」
「さすがは妖祓。あの弥助から逃げ切るとは、並の者ではできぬことじゃ。あれは元黒百合の守護奉行のひとり。腕前は確かじゃぞ」
「だろうね」妖祓の自分に気配を感じさせず、奇襲を掛けてきたのだから凄腕だとすぐ見破ったと朔夜は唸る。
片隅で翔は懸念を抱いた。
朔夜が奇襲を掛けられたのは単独行動に慣れていないから、なのではないだろうか。彼は今まで飛鳥と二人で妖に立ち向かい、職をこなしてきた。
きっと彼女がいたら、吹き矢の奇襲を受けても飛鳥と力を合わせて調伏しただろう。また気配を察して朔夜に避けろと言い放ったかもしれない。
それでも頑固な朔夜は飛鳥に相棒に戻れ、など言わないのだ。
普通の生活を捨てき切れない彼女に、その道を歩ませるために心を鬼にして辛辣に接するのだろう。
不器用な男だ。本当に不器用な親友だ。
「赤狐。聡いお前なら既に察していると思うけれど、百鬼一族は"玉葛の神鏡"を利用し、一時的に死者を蘇生することができる。一族は独自の反魂香を作っていたと聞く」
反魂香とは、死者を呼ぶための香を指す。
百鬼一族は常世を覗ける"玉葛の神鏡"の前で反魂香を焚き、何らかの手で、其の御魂の波長の合った"依り代"で繋ぎ止める。
その何らかの手が分かりさえすれば、死者蘇生は勿論、目論見を阻止することも可能だ。
「“宝珠の御魂”。事件の元凶はそれだと僕は思っている。妖にとってどれだけ重宝なものは分からないけれど、人間の僕にして言わせてみれば凶兆の根源だ」
それがあるから、欲ある妖や人間が諍いを起こし、弱き者が血を流すのだと朔夜。
なにより“宝珠の御魂”によって、己は人間の親友を奪った。そして今一度、妖となった親友が命を落としかけている。
“宝珠の御魂”はどれほどの悲劇を呼んでいるのだろうか。朔夜は小さな皮肉を零す。
「いっそのこと無くなれば話は早いんだろうけどね。おかげで、僕はまた寿命を縮めることになる。特にショウの無茶ぶりは三年も五年も寿命を縮ませる。余計死ねないじゃないか」
「俺のせいかよ」
当然だと片目を瞑り、朔夜が腹筋に力を入れて体を起こす。
「まだ寝てていいぞ」
相手を気遣うと、「もう大丈夫だよ」彼は頬を崩した。
「それより物は相談だけど……ショウ、赤狐。明日の昼間、時間を空けることは可能かい? どうしても目にして欲しい人物がいる」
※
あくる日の正午、バスセンター。
真夏の炎天下、翔はおばばを膝に乗せ、青葉に車いすを押してもらう。ギンコは妖型となっているためか、巨体が隣を歩いても通行人は気付きも、見向きもしない。
反対側には三角巾で骨折した左腕を固定している朔夜の姿。雲一つない快晴の空の向こうには比良利達が地上を見下ろしている。
行き交うバスセンターの広場には多くの報道陣の姿が見えた。
彼等の目的は、広場で演説している中年の男。市長選挙に向けて熱意ある演説をしている。
自分の目的の人物でもある男の名は真鍋 靖。今話題の元衆議員、政治家だ。
「表向きじゃ、過激な発言で一躍有名となったお騒がせ政治家。今、市長選挙に出馬中。けど、その実態は百鬼一族末裔の頭だ。滝野澤茂のノートに記されていた」
眉間に皺を寄せる朔夜は、滝野澤董子の身柄は彼が匿っている可能性が大きいと推理する。政治家の権力を使えば、警察を欺くこともできるだろう。金が物をいう時代、それなりに大金を用意しておけば、汚い大人はころっと寝返る。
「厄介だな」
まさか“こっち”の世界の権力者が裏とは。
いや、政治家だからこそ裏があり、それに納得する自分がいる。翔は報道陣の群れから垣間見える真鍋を睨んだ。
年齢よりも若く見える男は、蛇のような狐のような尖った顔に眼鏡を掛けている。見た目は愛想が良さそうだ。報道陣に向かって大層な笑みを向けていた。
朔夜は顔を覚えさせるために、また妖達が動いたのだと相手に悟らせるために自分達を此処に連れて来たのだろう。
頭領が知ったという事実で、精神的に追い詰める作戦に出たのだ。が、有効とは思えない。政治家ならではの度胸が据わっていると見た。
野次馬が増えて来たため、翔は青葉に頼み、この場を後にする。これ以上、長居しても同じことだろう。
比良利の持つ携帯に連絡すると、彼は八コール目に出た。一度切られてしまったものの、機械下手な彼にしては上出来である。
もう少し相手を観察したいらしいので、自分達は日陰に移動させてもらう。
冷房の利いたセンター構内に入りたいが、おばばがいるため、建物の陰で我慢。スポーツタオルで汗を拭い、相手の感想を述べる。
「あいつ、どういう了見だ? 市長選挙出馬なんて目立つことをしていれば、いずれ妖か、妖祓に顔ばれするのは予想がつくだろうに。なあ? おばば」
人目も気にせず猫に話し掛ける。
通行人達が訝しげな顔をしているが、話し掛けた翔も、傍にいる青葉も朔夜も咎めることはない。ギンコに至っては暑いと耳を垂らし、翔に飲み物をねだっていた。
買い置きのアクエリをギンコに差し出してやりながら、祖母の意見を煽る。
『そうさねぇ。敢えて、目立つことをしているような気がしてならないよ。市長とは、この町の長なのだろう? 相手はこの町に根付くつもりなのだろう。それは読めるけれど』
「市長選挙なんて、次の機会でも良さそうなのにな。謎が謎を呼びすぎて訳分からん。青葉や朔夜はどう思う?」
車いすに寄りかかる青葉は、此方を挑発しているのではないかと意見した。
もしくは自分に気を引かせることで、黒百合の動きを円滑にしたいのか。どちらにせよ、出馬には意図がありそうだと彼女は物申す。
朔夜も同意見らしい。妖祓や妖をかく乱させようとしているのかもしれない、と吐息をつく。
「用意もなしに闇討ちでもしたら、返り討ちに遭いそうだ。彼の霊力は高い。多分、何かしら護身術は持っていそうだ。僕や君が今、彼の前に出てしまえば、全国ニュースで瞬く間にスポットを浴びるよ」
「DQNが阿呆なことをしている、とかネットで叩かれそうだよな。けど、まあ、注意すべき人間を知れて良かった。朔夜、ありがとう。お前にも立場があるだろうに」
曖昧に笑う朔夜は、ばれたら祖父にこってり絞られるだろうと肩を竦めてくる。
立場など今の彼には大したことではないようだ。
暫く日陰で涼みながら百鬼一族の末裔の胡散臭い演説を耳にしていると、バス停の一角から駆け足で寄って来る人間がひとり。
血相を変えて自分達の前で息つくのはもう一人の幼馴染。
「ショウくん。朔夜くん。その姿……」
彼女は車いすに乗った翔と、三角巾をしている朔夜を交互に見やり、何が遭ったのだと表情を変えていた。予備校生として多忙な日々を送っている飛鳥は、たった今、自分達の負傷を知ったらしい。
揃いも揃って怪我を負っているので、目を白黒させている。
「任せたよ」
朔夜は飛鳥が到着するや一度も彼女を見ずに踵返し、向こうの柱に移動。距離を置いてしまう。
「おい朔夜」
挨拶くらいしろと声を掛けるが、彼は知らん顔で柱に背を預けてしまう。
困った奴である。
返されたスマホで彼女を呼びつけたのは翔だが、彼女を呼んで欲しいと頼んだのはまぎれもなく彼である。
百鬼一族の末裔が復讐に燃えているのであれば、当然妖祓の一家に生まれた飛鳥も標的だ。朔夜はそれを心配している。が、大喧嘩したまま口を利いていない。
結局翔が代弁を買って出ることになった。
双方負傷している旨は黙秘しておきたかったのだが、事情にそうもいかなくなったのである。
知らなかったばかりに、命の危機に曝されることだって当然あるのだ。輩が集団だからこそ、用心に越したことはない。
とはいえ、あからさま彼女を拒絶するような態度を取らなくても良いではないか。これでは余計二人の関係に溝が出来てしまうのでは、翔はついつい溜息を零した。
気を取りなおして飛鳥と向き合う。
「忙しいところを悪い。これから予備校なんだろう?」
自分でタイヤを動かし、飛鳥に近寄る。
「そんなことはどうでもいいよ。なんで車いすに……足が動かないの?」
「ちょっと」
「今の翔殿は体が動かせず、自力で立つことも儘なりませぬ」
青葉の余計な説明に取り、飛鳥が憂慮を向けてくる。その視線に居心地の悪さを感じつつ、翔は己の太腿を叩き、「ヘマしちまった」格好悪い姿だと苦笑い。
そんなことないと全否定する彼女は、もう歩けないのかと声を窄めてくる。
翔はかぶりを横に振り、諸事情で一時的に体が言うことを利かなくなっているだけだと返答した。
そして真顔を作って呼び出した理由を告げる。
「飛鳥、妖と妖祓が対峙していることは知っているな? その双方を狙う輩が出てきた。俺と朔夜は連中にやられてこのザマ。妖祓のお前にも危険が迫るかもしれない」
簡単に百鬼一族のことを説明し、翔は事前に朔夜から預かっていた茶封筒を差し出す。飛鳥が包みを開くと、そこから一枚のメモとビー玉ほどの小石が顔を出した。
道端に転がっていそうな小石に紐が通されたそれを見た彼女は、「鳴り石ね」一目で正体を口にする。
妖祓が持つ小物で、これを身に付けていると感覚では分からない範囲まで妖気を察知してくれるという。
「これを、私に?」
飛鳥はメモ紙に記された走り書きに目を通している。
そこには『戦うべからず、鳴り次第逃げるべし』と書かれていた。
「俺と朔夜からの気持ちだ。受け取って欲しい。揃いも揃って、俺達は連中にしてやられた。お前に危害が及ばないとも限らない。特にどっかの誰かさんは、お前のことを過剰に心配しているみたいだぜ?」
どっかの誰かさんに意地悪く視線を流してやると、すまし顔であさっての方角を見ている。聞き耳は立てているようだ。
「俺の予想、誰かさんは相棒という存在がいなくなって四苦八苦している毎日だ。それによって怪我を負ったんじゃねえかと俺は思う。だからこそ、お前が心配なんだろう」
「朔夜くんが、怪我なんて」
「今までお前の力に支えられていたんだろう。だけど、朔夜は独立を選んだ。自分の道を進むために。覚悟あっての道だ。お前が気に病む必要はないよ」
ただ朔夜がそのような状態なのだから、飛鳥もおなじことが言えかねない。
翔は重々予備校の行き帰りには注意して欲しいと伝え、これから予備校であろう彼女の、定めた道を応援する。
翔や朔夜のさだめた道と比較すると、非常に穏やかな道ではあるが、一浪の決心をしてまで国立大学を目指す気持ちは並々ならぬものだったことだろう。
それを是非、最後まで突き通して欲しいと翔は願う。
「早く朔夜と仲直りするんだぞ。俺は飛鳥も、朔夜も好きなんだからな。お前等が喧嘩していると、居心地悪くてしょうがねえや」
物言いたげな表情をしている飛鳥と、向こうで口を閉ざしている親友。
幼馴染のことは今も大好きだ。変わりゆく彼等を見守る者として、二人には良好な関係でいて欲しいもの。
「楢崎殿。決めた道を進むことも大切ですが、時に寄り道をしても私は良いと思います」
意外にも青葉が話の輪に入ってくる。
社交的でありながらも、人見知りをする彼女は、心開いた者でないと自分から話しかけないのだ。
「貴方様が妖祓として生まれたことには、必ず何か意味がございましょう。同じように私も今、巫女として、妖狐として翔殿と巡り合えたことに意味があると思っています」
というより、目が放せない方だと青葉は苦笑い。
翔の隣に立つや膝を折り、「私達のことも忘れずにお傍に置いて下さいね」視線を合わせ、左の袂から手ぬぐいを取り出す。
「貴方様はすぐに私達のことを忘れてしまう。どうすればいいのでしょうね。人間様方のように同じ年月を共にすれば、事は解決してくれるのでしょうか?」
うさぎの柄の入ったそれで、翔の顔の汗を拭う青葉の面持ちはやや不貞腐れている。
「なに不貞腐れているんだよ青葉。俺だって思っているよ。お前等のことだって大好きだし、なにより大切だぞ」
「いいえ、翔殿は思っていませぬ。想いは私の方が強いです」
幼子のように唇を尖らせる青葉が、ぷいっとそっぽを向いてしまうので翔は困ってしまった。
青葉のことを忘れるわけないではないか。彼女は献身的に己の世話を焼いてくれている。未熟な神主を支えてくれている。傍にいてくれる。それはギンコも然り、おばばも然り、ネズ坊達も然り。
誰が忘れようか。大切な家族のことを。
翔は頬を崩し、青葉の小さな頭をポンポンと叩いた。
「俺が今、一番傍にいて欲しいのはお前達だ。青葉、ちゃんと傍にいてくれよ。俺が無茶しないように」
これからも、自分は青葉やギンコ達と共に生きる。
彼女達と南の地を見守るのだ。誰よりも傍にいて、この小僧を叱って欲しいもの。
「な?」同意を求めると、横からギンコがクンクンクオンと鳴き、大きく尾を振りながら翔の頬を舐める。
お前も忘れていないよ。そう言って顔を舐めれば、べろべろべろべろ。もっと顔を舐められた。些かつらい。
「こ、こらギンコ。そんなに舐めるなって。分かった、分かったってば。お前の大好きな気持ちは伝わってきたって」
すると噴き出す声がひとつ。
ギンコの愛情を一身に浴び、困り果てる翔に青葉が笑声を零した。先程の手ぬぐいで、涎まみれになった己の顔を拭ってくれる。
「お傍にいます。私からの約束です」
満面の笑顔を咲かせる青葉は、150歳とは思えぬ少女の顔。
それが崩れたのは、不気味なしゃがれ声で笑うおばばによって。微笑ましそうに自分達を見守る猫又は、『若い愛だねぇ』と揶揄。
傍らで見守る幼馴染二人に至っては、「見せつけてくれる」「ショウくん達ラブラブじゃん」である。
「無茶はいつものことだろう。僕達を幾度泣かせてきたことか」
「羨ましいくらいラブラブ。当てられた気分だよ」
揃いも揃って意味深長に吐息を零している。
喧嘩しているのではないのだろうか、この二人。
「らぶらぶ?」片仮名に弱い妖狐達はどういう意味だと首を傾げ、きょとんと翔を見つめていた。決まり悪いことこの上ない。
『坊やは人気者だねぇ。こういう光景が平和と呼ぶんだ。翔の坊や、しっかり噛みしめておきなさい』
膝に乗ったおばばが見上げてくる。
『もう心配させるんじゃないよ』仕方なさそうに鳴く祖母を見つめ返し、翔は頭を摺り寄せてくるギンコを撫でる。
悪戯気に目尻を下げ、小さく返事した。
「心配させちまうのはしゃーない。俺は神主だ。命を狙われることも多い。でも、ばあちゃん達を平和に導く努力は怠らないよ」
ふとギンコが顔を持ち上げ、低い声で唸り始める。
鼻先で翔の体を押すので、何かしら感じ取ったのだろう。素早く周囲を見渡す。
すると演説していた候補者が挨拶回りを始めていた。炎天下の中、昼休憩を送るリーマンやOL、買い物に出掛けている若人や老人など、愛想よく挨拶をしている。
その足取りは駅構内に通じる出入り口に向けられていた。近付いてくる真鍋と視線がかち合うと、向こうの表情に含み笑いが零れる。
真夏日だというのにひどい寒気が、背筋を走った。
なんだ、この嫌な空気は。
次の瞬間、広場に前触れもない竜巻が発生する。
カメラを構える報道陣や野次馬、興味もなくバス停で待っていた人間達の悲鳴が上がる。巻き上がる砂埃は人々の視界を奪い、建物や木々を震えさえ、翔達も風圧に身を縮こまらせてしまう。
素早くギンコが盾となり、青葉が浮きあがる体を押さえてくれたため、大事には至らずに済む。
「ったく、手荒いっつーの」
これを起こした犯人が誰なのか容易に察していた翔は、幼馴染達に駅構内へ入るよう命じ、自分達はその場を去る。
車いすを押してくれる青葉の手伝いをするため、タイヤを手で押す。
天を見上げれば、上空で見張っていた比良利が和傘で風を起こし、ツネキと紀緒がそれを誘導している。やはり犯人は彼等だった。
荒々しいやり方に文句の一つでも言いたくなるが、そうも言ってられない。
「百鬼一族末裔の頭、あれが人間側の親玉……一筋縄ではいかなそうだ」
ところかわり、駅構内に入った朔夜は早足で人ごみを掻き分けていた。
竜巻発生の好奇心に負けた人間達が、我先に現場を見ようと野次馬に成り下がる中、その流れに逆らうように歩く。
背後から元相棒の声が聞こえたような気もしたが、右から左に流した。
彼女に対する用件は終わったのだ。無用な関わりは控えるつもりである。それによって関係の溝が深まるなら、喜んで甘んじていこう。
それよりも。
朔夜は移動しているであろう大妖の下に向かう。
野次馬を避けるように喧騒する駅構内を突き進み、人が疎らになったところで外へ。
己の出現を見計らったかのように大妖が佇んでいた。
そこは出入り口の真ん中。誘蛾灯のように駅に引き込まれる人間達は、誰も浄衣姿の男を見やることはない。夕陽のような紅の髪は大層目を引くというのに。
視える者にしか視えない男に歩む。
皮膚を焼く尽くすような日差しを一身に浴びている六尾の妖は、眩しそうに目を細めていた。否、彼の目はいつも糸のように細い。
「赤狐。ショウは狙われている。けれど、お前も狙われている。あの傘妖は言っていた。“北の神主の御魂を仕上げに使う”と」
周囲には盛大な独り言を零している、少しばかり頭のおかしい男と思われているのか、訝しげな眼が複数向けられた。
構わず、朔夜は続ける。
「百鬼一族の頭はさっき見たとおり。妖祓はあれを中心に動いていくつもりだ。お前達は黒百合を。頭領の妖御魂、あれも復活しているらしい」
滝野澤茂のノートに記されていた、恐ろしい真実。
きっとそれは、自分よりも、目前の狐の方が分かっている筈だ。
「それを確かめるべく、僕を待っていたんだろう? 真偽は分からない。ただ、警戒はしておくべきだ」
意見を述べると、赤狐は音なく風に乗って姿を消してしまう。
その際、大きな狐の鳴き声が聞こえた。健闘を祈るような、優しい鳴き声に朔夜は硬い表情を崩した。
「皮肉だね。良し悪し関わらず、妖と人間の関係は持ってしまう。それが善であろうと、悪であろうと、結局双方の関係は切れることがない」
それは今昔変わらないことなのだろう。
時に人と妖は対峙し、手を組み、助け助けられる存在となる。繰り返される歴史に長寿の妖は何を思っているのだろうか。
これからも変わらぬ姿で生き続ける幼馴染は、それを幾度目にするのだろう? 短命の人間である朔夜には想像すらつかなかった。