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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【第二幕ノ参】葛の葉のうらの百年
129/158

<五>白狐と白狐



 ※ ※



 ふっ、と遠のいていた翔の意識が浮上する。

 まるで水中から顔を出して新鮮な空気を取り入れるように、満目一杯に新鮮な景色が現れる。先程まで靄ばかりの景色だったのに。

 浅く呼吸を繰り返しながら首を動かすと、「気が付かれましたか」水桶から手拭いを絞っていた天馬が顔を覗き込み、それで額に滲んだ汗を拭いてくれた。


 どうやら気を失っていたらしい。


 彼の安堵する表情が長い間眠っていたことを教えてくれる。

 火照る体と縫った傷口が痛む。身を捩りたいが、それすら毒が、いや鬼火草が許してくれない。


 体を動かすだけで激痛が走る。呼吸をすればするほど苦しい。これならば、まだ息を止めていた方がマシだ。


「み、ず」


 水差しに手を伸ばすと、優しく腕を下ろされ、烏天狗が世話をしてくれた。

 彼に詫びて水を飲ませてもらった後、翔はどれほど眠っていたと天馬を見上げる。液状化した鬼火草を飲んだところまでは憶えているが、それからの記憶がない。

 ただただ苦しい沼に落とされ、もがいていたことしか記憶にない。


「半日にございます。まだお休みください」


 荒呼吸を繰り返しながら声を振り絞る。


「けど、鬼火草はまだ残っているんだろう? 次……いかないと」


 一聴の案の基、衰弱している翔の体を考慮し、鬼火草は五回に分けて投与すると決められた。

 憶えている限り、自分が飲んだのは二回。残り三回分が残っている筈だが。

 すぐに三度目の鬼火草を投与するよう命じるが、天馬はかぶりを横に振り、もう少し休まなければならなりと語気を強くした。


 翔自身には分からないが、今の己は非常に衰弱しているのだという。

 水と食事、そして睡眠を十二分に取り、飲めるほど回復しないと、鬼火草の投与は危険だという。


 確かに鬼火草の威力は伊達じゃない。

 飲んだ瞬間、凄まじい吐き気と呼吸困難に陥るのだから。

 できることなら、もう飲みたくない鬼火草。後三回分も飲まなければならないだなんて、正直泣きそうだ。


 呼吸が苦しくて眠れそうにない。

 今の容態を医師の一聴に訴えると、傍らにいたお歯黒べったりのお有紀が粥を持って来ると席を立つ。眠れないなら、水分と食事を取って元気を出せ、らしい。


「翔さま。もう少しの辛抱ですよ」


 一聴は後三回分の鬼火草に耐えられたら、体内の毒は完全に消えると明言。

 この苦しみから解放されると己の手を握った。聴診器で出来ている相手の手を握り返し、小さく微笑む。まだ自分はやれる。


 ふと天馬が四隅に放置されている品々を翔の枕元に置く。

 鶏卵に玉ねぎ、青魚、干菓子、そして生花。これ等は民達からの見舞いの品だと告げ、励ましにして欲しいと烏天狗が眦を和らげる。


「夏風邪を拗らせたと皆には伝えております。ゆえに、夏風邪に効きそうなものや、貴方様が好きなものを民が贈って下さりました。愛されていますね」


 本就任を迎えて間もない己に向けた、沢山の見舞いの品々。天馬達がいなければ男泣きしていたことだろう。

 自分が民を見守るように、民も自分を見守ってくれている。その気持ちが何よりも嬉しかった。


 干菓子ならば口にできそうだったため、翔は天馬に落雁を一つ取ってくれるよう頼む。口に入れてもらうと甘味が一杯に広がった。

 不思議と呼吸が楽になったのは気の持ちようかもしれない。


 けれど、確かに苦痛が和らいだ。


「微かに民達の声が聞こえる……今日は社が開いているんだな」


「はい。比良利さまは翔の願い通りにしておりますよ。だから翔も、皆の願いを聞き入れて乗り越えましょう。貴方は弱くないお方です」


 強ければ、このような無様な姿にはならなかっただろう。

 溶けていく落雁の甘味を味わいながら、つい卑屈なことを思ってしまう。


「天馬……俺はお前に礼を言わないといけない。俺の怪我がこれだけで済んだのはお前のおかげだ。サンキュ」


 すると天馬は今、礼を言われても受け取れないと人の気持ちを一蹴する。

 治療中に言われても、単なる遺言のように聞こえるそうだ。縁起でもない。

 翔としては真摯に感謝を述べただけなのだが、天馬の気持ちを理解し、この礼は後日言い改めると返す。


「なんか……妖になってから大怪我ばっか。もっと……自分を大切にしたいよ」


 ギンコと出逢ったあの夜も瀕死の重傷を負ったっけ。

 嗚呼、腸を食いちぎられたこともあったし、妖祓の術を喰らったこともあった。生身の体は傷だらけだ。


「翔の無茶ぶりも、原因に入っていると自分は思うのですが?」


 強く否定はできないが、今回は本当に不本意だった。

 “妖の社”に奇襲など誰も想像しないではないか。予想していたのならば、もっと上手いこと怪我を回避していた。

 溶け消えた落雁の液状を嚥下し、これを乗り切ったら更に強くなると決意する。


 このままでは、また繰り返してしまう。

 青葉やギンコ、おばばにネズ坊、日輪の社の者達、そして民達を泣かせてしまう。それだけは避けなければ。


 閉め切られた扉の向こうから聞こえる妖達の声、まじって蝉の声が聞こえる。ジージーと鳴いているため、種類はアブラゼミなのだろう。


「蝉が鳴いている。夏だと思わせる季節だな。寒気のせいで夏だと思えないけれど」


「御元気になれば、夏だと感じることができますよ。翔が一人前の神主になれば、南北名物だった“朱夏の宝珠祭”が行われることでしょう。楽しみにしていますよ」


「あ、それは百年前まで行われていた妖の夏祭りだったんだってな。先代が亡くなってから、一度たりとも行われなかったらしいけど……比良利さんと話していたんだ。来年くらいにでも再開しようかって」


「ならば、尚更早く御元気にならないといけませんね。教えなければならない武術は多いですし」


 天馬の小さな綻びに笑みを返した直後のことだ。


「うっ」


 嘔吐感がこみ上げてくる。

 落雁を食べたせいだろうか。胃が物を受け付けないのだろうか。

 顔色を変えて咳き込む翔の異変に気づき、一聴が空桶を置くと己の体を横向きにさせた。忘れかけていた苦痛が蘇る。呼吸が苦しくなり、水と食べた落雁を戻してしまう。


「翔さま。呼吸を止めてはなりませぬ」


 呼吸の仕方が分からなくなると一聴が背を擦り、自分の合図に息を吸うよう指示された。

 落ち着くとお有紀の持ってきた粥と水を無理やり口に入れられる。少しでも体力を蓄えさせるために。

 けれど、食道に物が通るだけで嘔吐したくなり、結局はげぇげぇと吐いてしまう。何度生理的な涙が出たことか。


「くっ、翔さまのお体は既に食を取るだけの力がないのか」


 何を口にしても吐いてしまう翔の様子に、一聴は三度目の鬼火草の使用を躊躇する。吐いてしまいかねないと思っているようだ。

 そうしている間にも、毒が回っている。時間は惜しい。


「一聴さん、俺はまだやれる。だから鬼火草を。天馬、俺が吐き出しそうになったら押さえてくれ。鬼火草だけは死ぬ気で吐かないようにする」


 空っぽの胃に鬼火草を流し込めば、どうなるか。二度も鬼火草を飲んでいるのだから、容易に想像がつく。

 それでも生きたい思いが優り、翔は投与を一聴に命じる。


「どうせ死ぬ運命なら大人しく死ぬより、生きるために精一杯の悪足掻きをしたい。俺はしつこいんだ」


 見え見えの虚勢を張ってみせる。

 誰もが分かっている筈だ、翔が鬼火草の効力に怖じていることを。効力に伴う苦痛に怯えていることを。

 それらに目を瞑ってくれるのは、皆の優しさなのだろう。


「お有紀、鬼火草の用意を。天馬、翔さまの腕を押さえておいてくれ。三度目の鬼火草治療を始める」


 厳かな一聴の声音は行集殿の空気を凛と震わせる。

 お歯黒べったりのお有紀が乾燥させた鬼火草を薬研で擂り潰し、粉末となったそれを湯に溶いていく。

 漆塗りの器に注がれた鬼火草は、お有紀から一聴の手に渡った。


 自力では上体を起こせない翔は、背後に回った天馬によって支えられる。


「しかと押さえておくのだぞ」


 天馬が小さく頷く。

 一度目も二度目も、飲む際に相当暴れた記憶があるため、この配慮は申し訳なく思う。


「少々辛抱して下され」


 一聴の言葉に大丈夫だと力なく笑みを浮かべ、翔は口元に運ばれた濃い緑色(りょくしょく)の液を啜る。


 食道に通った瞬間、内側が燃えるように火照り、持ち前の妖力が放出された。

 鬼火草の効力により、高まる妖力が沸騰したかのように熱くなり、体内をめぐりめぐる。自制の効かない妖力は翔の五感を蝕み、熱はやがて鋭い痛みを感じさせる。


 呼吸困難に陥り、苦痛から逃れるために息を止めてしまう。

 それを許さないお有紀が背を叩いてくる。天馬が力の限り暴れる己の腕を押さえ、一聴が残りの液状されたそれを器用に飲ませる。


「あぁァあアあああァアアア――!」


 絶え間なく悲鳴を上げる。

 上げなければ、痛みが体内に籠るような気がした。

 鬼火草を吐きだそうとすれば、手ぬぐいを持った天馬に口を押さえられる。

 吐くことも許されず、呼吸を止めることも許されず、ただただ胃に溜まる溶岩のような熱と痛みに向き合わなければならない。


「終わりましたぞ。翔さま、三度目の鬼火草を飲み終えましたぞ」


 脂汗を流す翔には一聴の言葉は聞こえない。

 気付けば、手ぬぐいを噛み締めていた。少しでも痛みから逃れるために。


「お有紀さん、一聴さん、翔の足を押さえて下さい。自傷しかねない」


 未だに布団の上で暴れる翔の目の前は真っ白だった。

 自分が何を発言しているかも分からない。懸命に耐えようとするが、苦しみは底なし沼。終わりがない。


 どうして自分がこのような苦しみを味わわなければならないのか。


 心が折れそうになることもしばしば。皆との約束を思い出し、苦痛と向き合おうとするが、生理的に出る涙と共にそれが滲んでしまう。

 自分は何のために苦しみに立ち向かっているのか。何のために生にしがみついているのか。


 嗚呼、辛い。

 嗚呼、苦しい。

 嗚呼、楽になりたい。


 誰かに救ってもらいたい。


 対は辛い時にどうすれば良いと助言してくれたっけ。そうだ。歌を教えてもらった。妖狐のわらべ歌でも歌えば気がまぎれると言ってくれた。

 声に出すことは無理だが、口を動かして歌い真似をすることは可能だ。

 けれど歌詞が思い出せない。あれ、自分の大好きな歌詞だった筈なのに。


(生きなきゃ。俺は長生きしなきゃ)


 懸命に言い聞かせるも、何処かで声が聞こえるのだ。

 お前がそこまで努力する必要はあるのか。お前がいなくとも、ほぼ支障はない。十代目南の神主が消えても、時期に十一代目の神主が現れる。お前がそうだったように、と。


 偶然、宝珠の御魂に見定められた自分。

 同じように、宝珠の御魂に見定められる妖が出てくる。


(だとしたら、俺の今耐えている苦しみの意味は)


 もしかすると己より優秀な神主が現れるかもしれない。才溢れる妖が南の地を統べるかもしれない。“月輪の社”を守護していくかもしれない。


(耐える意味なんてないのかもしれない)


 齢十八の妖狐の代わりなどいくらでもいる。

 十代目南の神主は九代目と異なり凡才、選ばれた妖であればすぐに代わりとなろう。

 それに気付いた瞬間、生を支えにしていた心に軋む音が聞こえた。嗚呼、皆と交わした約束の姿が汚れていく。




 朦朧としていく意識の中、四度目の鬼火草を飲む。

 不思議と三度目の鬼火草治療よりも楽だと思えた。感覚が麻痺してきたのか、苦しみは感じられない。

 その代わり、体が鉛のように重い。瞼すらも重石をつけたように開かない。夏だというのに、とても寒くなってきた。冬のように寒い。


「翔がまったく暴れない……一聴さん。これは」


 天馬と一聴が交互に顔を覗き込んできた。

 見える物すべての輪郭線がぼやけていることに気付く。

 手を取って脈を測ろうとする一聴の体温の熱さに驚いた。思わず聴診器で出来た手を握り、その体温を感じる。

 歪な形をした聴診器の付喪神は生きているのだと肌で体感した。


「体温が急激に下がっている。脈も弱い。毒が鬼火草の効力を上回っているのか。お有紀、薫物を焚け! 気体治療でも翔さまの妖力を上げる。このままだと彼の心臓が止まってしまいかねない」


 慌ただしく動くお有紀を横目で見守る。

 それも気だるくなると、翔は放り出された己の右手に視線を留めた。

 不思議なくらいに気分が良い。苦しみが遠い。もしかしたら毒を乗り越えたのでは。


 だからだろうか。

 翔は重たい瞼を閉じて全身の力を抜く。苦痛によって強張っていた体を労わるように。襲ってくる睡魔に身を委ね、深い闇に身を投じる。


「眠ってはなりません!」


 不意に大きく体を揺さぶられた。

 それによって薄目を開けた翔は、姿かたちがぼやけている天馬をぼんやりと見つめる。

 眠ってはいけないと強く訴えてくる彼に、何故だと翔は疑問を投げた。

 もう痛みも苦しみもない。自分の治療は終わったのだ。毒を乗り越えたのだ。終わったのだから、眠らせて欲しい。少々疲れてしまったと翔。


「天馬、ゆき、雪はふってるか?」

「雪?」

「こんなにさむいんだ。ゆきが降ってもおかしくねえよ」

「……翔」

「積もってくれるといいな。ネズ坊達がよろこぶ」


 すると彼は珍しく顔を歪め、「お気を確かに」まだ治療は終わっていないと己の手を強く握り締めてきた。痛いほどに強く己の手を握り締めてきた。


「自分は以前、貴方様に申し上げましたよね。翔を利用している、と。しかし、貴方様は自分を支えとして必要としていると返してくれました。あの日から……あの日から、自分は貴方様に仕えたいと決心したのです」


 天馬は己の師であり友人、仕える身分ではない。そう言いたいのに口が動かない。手を弱弱しく握り返すことしかできない。


「此処で終わってはなりません。翔、貴方様の理想とする世界を我々に見せ、導いて下さい。それが貴方様の天命でございましょう。その理想のため、自分の命は貴方に託します。だから」


 なんだか天馬が苦しそうだ。

 自分のせいだろうか。もう思考も回らなくなってきた。とても眠い。

 せめて笑って何か返そうと口角を持ち上げたところで、手の筋肉が役割を果たさなくなる。


 天馬の手中から己の手が滑り落ちた。問答無用に意識が遠のく。


 周りの声が騒がしくなった。

 「翔!」誰かは自分の名を懸命に呼び、「最後の鬼火草を!」誰かは己の口腔に何かを流し込み、「脈が止まりそうです先生!」誰かは腕を取って悲鳴を上げている。


 それさえも聞こえなくなると、ようやく翔はゆっくり眠れるのだ。

 幾多に渡る苦痛を感じることもなく、呼吸に苦しむこともなく、穏やかな気持ちで眠れる。それはとても幸せなことだ。




「――あれ」


 ふと気付けば、翔は何処までも続く真っ赤なヒガンバナ畑に立ちつくしていた。

 たった今まで布団の上で眠っていたというのに、はて、此処は何処だろう。

 安らぎにも似た香りを放つ美しいヒガンバナ畑は水平線に続いており、見渡しても見渡しても終わりが見えない。天を仰げば、満月の夜が己を見下ろしている。


「俺は此処を知っている」


 初めて来た場所だというのに、何処となく既視感を感じた。

 夜風が吹き、ヒガンバナが身を揺する。それに伴い、纏う浄衣が夜風に靡いた。

 いつまでも此処にいたくなる心地よさだ。目を閉じれば、花畑の香りに包まれる。柔らかな風が撫でてくれる。抱いていた苦を攫ってくれる優しさが此処にはある。


 そっと肩に手を置かれる。


 瞼を開け、ゆるりと視線を持ち上げる。

 そこには己と同じ白い狐の青年が立っていた。雪のように白い浄衣、背丈の高い彼は比良利ほど身長があるのではないだろうか。とても長身だ。

 切れ長の目には厳かな眼光を宿しているものの、向けてくる面持ちは柔らかい。


 声なき声が心に伝わる。

 “また”此処に来るなんて、今度は“御魂封じの術”を使ったわけではなさそうだ。が、お前が黄泉路へ来るには早すぎる、と。


「貴方は?」


 青年の名前が無償に知りたくなった。

 翔が相手の名を尋ねると、既にお前は自分の名を知っていると返される。否、この御魂は受け継いでくれている。


 瞬きして彼を見つめていると、あの“むこうみず狐”を宜しく頼むと一笑。腹立たしい助兵衛狐だが志は立派だと教えてくれる。

 続け様、青葉のことを、ギンコのことを、それから民達のことを見守って欲しいと彼。


 さあ、ここで道草を食っている場合ではない。

 翔には翔の務めがある。翔にしかできない務めがある。皆、お前を待っている。お前ではなくてはならない。青年はくしゃっと翔の頭を撫でた。


「俺にしかできない……務め?」


 大きく頷く青年は、もっと己の力を信じるよう諭した。

 お前は何処かで己の力を蔑んでいる。才がない、力がない、神主としての器なんぞないと自信を失くし、“己”の代理なんぞ幾らでもいると片隅で強く思っている。

 だが、果たして本当にそうだろうか。青年は翔の背を尾で押し、静かに歩き出す。つられて翔も足を動かす。


 その間にも青年は己の心に伝える。

 お前には並の才しかないのかもしれない。同じように並の力しか、器しかないのかもしれない。

 しかし三尾の妖狐、白狐の南条翔が築き上げた努力、信頼、関係は誰でもない、翔の力なのだ。誰にも真似のできない形がそこにはある。


 これから先も、誰にも真似のできない形を生み出すことだろう。それを誇って欲しい。青年は柔和に微笑み、お前の夢はなんだと尋ねてきた。


 そんなの決まっている。


「俺の夢は妖と人の共存共栄。妖祓が妖を祓わなくてもいいように、妖が妖祓を怯えなくてもいいように、平和な南北の地にしていきたい」


 また敬愛している己の対のように、自分も素晴らしい頭領となりたい。

 先代達の御魂を受け継ぎ、そして己の御魂を未だ見ぬ十一代目に受け継いで欲しい。

 貪欲なまでに夢を語っていると、聞き手となってくれる青年が笑声を漏らし、それがお前にしか生み出すことのできない形だと己の額を小突いた。


 誇れ。

 お前にしかできない力がある。


 自信にしろ。

 お前にしか生み出すことのできない形がある。


 しかし自惚れるな。

 お前ひとりの力はちっぽけだ。周りに同胞がいることを忘れるな。自分のように、才ばかりに頼る神主になってはいけない。


 彼は自嘲を零すと、お前を見送るべきところまで見送ろうと綻ぶ。

 師となれなかった、直接御魂を受け継がせることができなかった自分にできる、せめてもの手向けだと青年。


 先導してくれる白狐の背を見つめ、翔は懸命に足を動かす。

 無念が貼りついている背に声を掛けたくなり、翔が青年に思いの丈をぶつける。


「俺は先代と接する機会もなく、直接御魂を受け継ぐこともできなかった。だけど、貴方の御魂は宝珠に宿っている。間違った思いは正そうとしてくれる。自分の力を信じろと教えてくれた。貴方はまぎれもなく、俺のもうひとりの師です」


 足を止めて顧みてくる白狐に、満面の笑顔を浮かべた。

 どうか見守っておいて欲しい。必ずや自分は北の神主と肩を並べ、南北の地を平穏に導いてみせる。それこそ先代や北の神主のように立派な神主になってみせる、と。

 調子を取り戻した己に一笑し、彼は自分達の悪いところは受け継がないでくれと肩を竦める。


 特に助兵衛狐になったら、先代として泣く。


 そう言っておどける青年、四尾の妖狐、白狐の天城惣七は手招きをしてくる。

 足軽に彼の隣に並び、翔は彼と黄泉路を進んで行く。いつまでも、ヒガンバナ畑で出来た黄泉路を進んで行くのだ。



 ※



 社に生えているヒガンバナ畑の色が抜けている。

 中庭を通りかかった紀緒が強張った声音を漏らす。彼女の目に映ったヒガンバナは鮮やかな紅ではなく、桜のような薄紅であった。

 紅は吉報を、白は凶報を表すヒガンバナ。境内のヒガンバナの色が抜けているということは、つまり、そう、つまり。


「翔さま。比良利さまを置いて行かないで下さい。もうあの方の寂しげなお顔は見とうありません。どうか、どうか……」




 縁側でネズ坊達と花冠を編んでいたおばばは、子供達に色が抜けていると指さされ、しゃがれた鳴き声で笑い泣き。

 兄ちゃんは闘っているんだよね。負けないよね。感情に敏感な妖の子はおばばを見つめる。老婆は勿論だと返事した。


『お前さん達の兄さんはね。芯の強い子だよ。そして約束は必ず守る男なんだ。お前さん達は、兄さんを見習いなさい。どんなことがあっても屈せず前に進む子になりなさい。約束を守る子になりなさい』




 “月輪の社”の本殿に篭っている青葉は、ヒガンバナの色に気付くこともなく、神に祈っていた。

 彼は死の淵に立たされても、必ず戻って来た。今度だって戻って来てくれる。

 だって約束したのだ。千年生き、南北の地を見守る。皆で見守ると。


「惣七さま。私は翔殿、そしてオツネと共に此の社を守っていきます。だからお見守り下さいね……泣きません。私は翔殿が戻って来るまで泣きません」




 ギンコは“月輪の社”本殿の屋根の上にいた。

 逢魔時となる紫がかった空を見上げ、傍に寄り添ってくれるツネキにこう言う。

 自分はヒガンバナの色など信じない。色が抜けるなら抜けてしまえばいい。抜けたからなんだ。自分の信じるべき相手は想い人なのだと。


 彼の無茶ぶりなどいつものことなのだ。

 恋する乙女も苦労をする者である。彼の我儘を仕方がないと、呆れ笑いながら受け入れないといけないのだから。


 その代わり、心配を掛けた償いに我儘をうんと聞いてもらう。簡単に死にやしない。自分が見定めた男なのだから。

 ツネキがこう返事した。その男をいつか任せば、君は僕のものだね、と。


 浮気性狐にできるかしら、クンクンと笑い、ギンコはその時を待つ。オツネではなく、ギンコと愛称を付けてくれた彼が己を呼んでくれる時を待つ。




 “日輪の社”の責任者の赤狐は表社の鳥居に佇み、人の住む町並を眺めていた。

 傍らに咲くヒガンバナの色には気付いていたが、凶報に染まる色など信じることもなく煙管を取り出して一服する。


 白狐と交わした約束を反芻しては、煙草の味と共に噛みしめる。


 己の対はしつこい。

 一たび稽古をすれば己が倒れるまで精を出し、出来ない点があれば会得するまで練習をする。自分の理想には底なしの貪欲で、意地でも“人の世界”にいようと悪知恵を働かせる。半妖時には根性と粘りの強さで神主代行を務め上げた。


 そう、彼はしつこい。本当にしつこく諦めが悪い。悪運も天下一なのだ。

 脳裏の片隅に来斬の嘲笑が聞こえてくる。それは己が生み出した虚像であり、弱き心の表れ。気のせいだと目を逸らした。


 浄衣の袖を靡かせ、比良利は沈んでいく夕陽の眩しさに瞼を下ろす。


 今宵も変わらずに社を開けよう。

 来斬の黒狐は相手の尾が出るまで、虎視眈々と息を潜めておく。彼が起こすであろう行動は先読みして手を打っておいたのだ。今しばらくは様子見だ。

 ひとつ気掛かりがあると言えば、ヒガンバナの色。妖達が見たらなんと言い訳しようか。


 姿を隠していく夕陽を見送り、昇る月を仰いでいると、


「比良利さま」


 背後から声を掛けられた。

 銜えていた煙管を放し、ゆるりと半身で顧みる。


 そこには烏天狗の名張天馬が肩で息をしながら立っていた。此処まで全力で走ってきたのだろう。

 物言いたげな天馬の表情は乏しく、これは吉報なのか、凶報なのか、まったく読めずにいる。

 体ごと振り返り、彼の視線を一身に受け止める。呼吸を整えたところで天馬が口を開いた。


「翔さまの治療がすべて終わりました。四、五度目の鬼火草投与によって呼吸が止まり、心肺停止まで陥りました。彼の鼓動が止まってしまったのです」


 双方の間に吹く向かい風が追い風の変わった。

 緊張の糸が切れたように天馬の能面が崩れ、「しかし」彼は感極まった声を出す。それはまぎれもなく、「たった今、翔さまは息を吹き返しました」ヒガンバナの色とは相反した感情だった。


「幾度も苦しみの沼に落とされた翔さまは、力尽きたように命の灯火を消してしまいました。看守っていた我々は絶望いたしました。けれど、あのお方は我々をお見捨てにはなりませんでした。此方の呼び掛けに応じるように、再び呼吸を始めたのです」


 喜びを惜しみもなく出し、鬼火草の治療に耐えきったと報告。もう何も心配いらない。“人災風魔”の毒を彼は乗り越えたのだ。


 容態が落ち着き次第、彼は二之間に身を移す予定だ。

 まだ高い熱もあり、体力も根こそぎ使い果たしているため、もう暫く療養が必要とのこと。それについて一聴が詳しく話したいそうだ。


「また、翔さまは比良利さまに今すぐお会いしたいと申しています。どうか、翔さまの下へ」


 すべての結果を理解した比良利は脱力したように全身の力を抜き、折れそうなまでに握り締めていた煙管を懐に仕舞う。

 分かっていた。彼が約束を果たす男だと分かっていた。だから何も心配などしていない。していないのだ。これは当然の結果なのだ。


 それでも頬を緩まずにはいられない。


「左様か。翔は助かったのか。助かってくれたのか」


 安堵と笑みの両方が零れる。傍らに咲くヒガンバナを見やれば、花々に色づき、鮮やかな紅が戻っていた。


「あの戯け者め」


 早とちりを起こしかねない一報をヒガンバナで寄こすとは何事か。人騒がせな、いや妖騒がせな狐だ。


 しかし、よくぞ耐えてくれた。彼はよくぞ、この苦難を乗り越えてくれた。

 目いっぱい褒めてやろう。大袈裟だと笑われるほど褒めてやろう。それだけのことをしてくれたのだ。褒めちぎってやらねば気が済まない。 


 比良利は天馬と共に“日輪の社”に戻り、早足で行集殿に入る。

 数日間ですっかりやつれこけた対は己の姿を確認するや、無理に頬の筋肉を持ち上げ、得意げに笑うのだ。


「おれ、しぶとい……だろう?」


 まことにそうだと思う。

 六尾の妖狐、赤狐の比良利も恐れ入るしぶとさだ。

 どれだけ地獄を見たのか、比良利には想像もつかない。だが、この狐は地獄を乗り越えてみせたのだ。本当に約束を果たしてくれる狐である。


「わしも見習わなければのう。お主のそのしぶとさを」


 再会の喜びは褒め言葉で隠し、比良利は患者の枕元に片膝をつく。

 脳裏のどこかで嘲笑していた来斬の面影は、すっかり念頭から掻き消えていた。



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