<一>北の神主、二者択一を迫られる
其の南北の地には、妖の間にて、このような伝承がある。
北を統べし頭領になる者は皆長寿となり、南を統べし頭領になる者は皆短命となろう。
四代目となる北に対し、南は既に十代目。二桁の数となっている。
まるで呪詛にでも掛けられているかのように、南を統べる神主は次から次に命を散らした。ある者は流行病に掛かり、ある者は不慮の事故に、ある者は不遜な輩の手に落ちた。
すると、北を統べる神主も呪詛を掛けられる。対である南の神主を一度は失う、という呪詛を。
妖の民達は口々に囁いた。
南北の寿命を足して二で割れば、平均並みの寿命となるのに、何故双方の神主に差がでるのか。極端に長寿となる北の神主、極端に短命な南の神主、この呪詛に終わりを告げる日はあるのだろうか。
第四代目北の神主、第十代目南の神主、彼等も呪詛の餌食となるのでは。
既に四代目北の神主は対を失う苦い経験をしている。
若過ぎる十代目南の神主は呪詛に蝕まれないだろうか、妖達は片隅で憂慮を抱く。ないことを願いながらも、憂慮を抱かずにはいられなかった。
とある聴診器の付喪神、医師の一聴は呪詛に直面する。
其の妖は南北でも腕ある医師として名が挙がる男。
彼は手負いの十代目南の神主を前に、ただただ言葉を失っていた。絶望に似つかわしい感情が一聴に襲い掛かっていたのだ。
「なんということだ。翔さまは、翔さまは……助からない」
※
"日輪の社"鳥居前にて。
既に日が昇っているにも関わらず、比良利はツネキと共に鳥居を前に佇んでいた。柱から台石に視線を流した後、銃痕が残っている参道に留める。
片膝をつく。鉛弾が石畳にめり込んでいた。そっと指でなぞり、比良利は下唇を切れんばかりに噛みしめる。
様子に気付いた金狐が一声鳴く。胸の内を吐き出す契機となった。
「これはわしの甘さによる失態よ。常世結界を過信しておった」
四尾の妖狐、黒狐の来斬が生きていた。
それだけでもたまげるというのに、此の社の結界を破ってしまうとは、相変わらずの破天荒者だ。過去に此の社の結界を破ろうなど試した者だろうがいただろうか。
黒狐は“玉葛の神鏡”を盗み、常世を覗いていたに違いない。
基本、神社を囲む鎮守の森は常世との端境であり結界。輩は常世越しに社を見ることで、此方の動きを監視していたのだ。
“玉葛の神鏡”の鏡面を利用して常世側から結界を破る、これは未曽有の事件である。
現世からの物理的攻撃や妖術は跳ね返すことができれど、常世からの攻撃に対しては未知数。いくら結界とはいえ、所詮は一妖が放った術なのだ。どこかしら脆い個所は存在する。来斬はそれを見越し“玉葛の神鏡”を利用したのだ。
ただし、もう“玉葛の神鏡”を日月の社に使用することはないだろう。
相手は狡賢い狐だ。
自分達が二度も三度も、同じ手に引っ掛かることはないと知っている。誰もが予想していなかったからこそ、この奇襲を成功させることができたのだ。
此方も二度と同じ過ちは犯さないよう、金銀狐の二重常世結界を張ることで対処している。もう易々と破られることはあるまい。
「妖の社は神域と呼ばれる地。ゆえに驕った考えを持っておった」
意表を突かれた事件だったが、はっきり言って注意力が足りなかった。
何処かで過信していたのだ。この境内なら決して危険はない、そう過信していたのだ。
常世結界は破られたことのない結界だが、破ることができない結界と証明できる術ではない。
我が対は自分の言葉を忠実に守り、此の社に留まって南北の総責任者として務めを果たしていた。同行したい気持ちを抑え、丸二日間神主として立派にやり遂げようとしていた。
なのに事件は起きた。
窃盗を起こした輩を懸念し、対を遠ざける対策を取った結果が裏目に出たのだ。
こんなことならば同行させてやれば良かった。
二日の間、南北の頭領が揃って南北の地を離れることは不安だが、このような事態になるならば連れて行けば良かった。
来斬は自分と白狐が離れる機会を窺っていたのだ。すぐに助けに行くことのできない、その機会を虎視眈々と。
お前のせいではない、ツネキが自責する比良利を慰める。
金狐は言う。来斬の奇襲は誰も予想だにしていなかった事件。確かに常世結界を過信していた節はあるものの、それは比良利だけにあらず。
神使として常世結界を張っていた自分もまた、術に過大評価を寄せていたのだ。
クオン、ツネキは大きく鳴く。
過ぎたことを悔いるばかりでは始まらない。負傷した対のためにも、自分達のできることをしなければ。
これでは四代目北の神主も、"日輪の社"も名折れだ。
「まったく、お主はいつからわしに小生意気な口をきくようになったのか」
比良利は幼少から神使として育んできた金狐を見つめ、力なく頬を崩す。
彼の言う通りだ。悔いてばかりでは前進もできない。
早足で憩殿に戻った比良利は、大間にいる紀緒の下に向かう。
一室にはお目当ての紀緒を筆頭に、保護者の猫又婆や旧鼠七兄弟が顔を揃えている。子供達は眠気に負けておばばの体毛に身を寄せて寝息を立てているが、誰も彼等を部屋に戻そうとはしない。
薬草を擂っていた紀緒が己の存在に気付く。
彼女が廊下に出ると、早速"月輪の社"の者達の現状について尋ねた。
対はともかく巫女や神使の姿が見当たらないのは不可解である。特に巫女は深手を負った身の上、個室で休ませているのだろうか。
「青葉にはわたくしの部屋で休むよう言ったのですが……痛み止めとなろう薬草を採りに行くと聞かず、手当後すぐに部屋を出ました。オツネは一聴さまに呼ばれ二之間に」
憩殿にある二之間は、普段多種多様の用事に合せて使用する部屋である。
そこで少年神主の縫合が行われており、一夜明けてもなお、一聴の手術は続いている。かれこれ数時間が経過しているが、一向に顔を出す気配はない。それだけ対の傷は深かったのだろう。
銀狐が呼ばれた理由は輸血、だそうだ。
翔は血を流し過ぎている。ゆえに血が足りずにいる。
妖は血液型に他に妖気型があるため、一致することは大変難しい。幸いなことに翔は銀狐を媒体に妖狐化した。そのためギンコの血液と妖気型が一致する。
緊急に血が要るとのことで、ギンコが呼ばれたのだ。
「左様か」
比良利は何とも言い難い顔を浮かべた。
「あの方なら乗り越えて下さいますよ。お強い方ですから」
紀緒の慰めに空笑いを零してみせる。
脳裏にちらつく過去の悲劇のせいで、心は曇るばかり。何故だろうか、胸騒ぎがする。
満月が空を支配する。
その頃には青葉も社に帰り、大間に戻ってきたギンコと傷薬となる薬草を擂っていた。待ちくたびれた旧鼠達もそれを手伝い、十代目の縫合の終わりを待つ。
比良利は常世結界が破られた経緯、そして来斬の存在について紀緒やツネキ、おばばと話していた。
当時、来斬がいかにして社の様子を窺い、どのようにして"玉葛の神鏡"を使用したのか。鏡面を通して、銃弾を放つにはそれ相応の術や準備が必要だろう。
また何らかの形で奇襲を受けないとも限らない。
疑問を話し合うことで、知恵を出す。手術を手伝えない自分達には、待つことしかできなかった。
「失礼致します」
月明りを浴びる障子に人影が映る。
静かにそこを開き、大間に入ったのは一聴の助手であるお歯黒べったりのお有紀。目も鼻も無い顔ながらも、お歯黒を付けた大きな口が手術の終わりを教えてくれた。
「ならば縫合は」
青葉の問いに、成功したとお有紀。
それによって居ても立っても居られない青葉とギンコが先に一室を飛び出す。
「お待ちください、まだ入室許可は」
お有紀の制する声は廊下の走り去る音にかき消されてしまう。
彼女と共に、遅れて二之間に向かうと、一聴が部屋の前に立っていた。
中を覗き込めば、高熱に魘された重症人が荒い呼吸を繰り返して床に就いている。手足の包帯も、青白い肌も、苦痛帯びた表情も痛々しい。
また一室は何処となく臭う。これは薬の臭い、だろうか。
「翔殿」枕元に膝ついた青葉が声を掛けても、ギンコが鳴いても、反応はない。意識はないようだ。
ネズ坊達が小さな駆け足で、白狐に向かう姿を見つめ、一聴は静かに障子を閉める。
『一聴。手術は』
廊下に残った者を代表し、おばばが経過を尋ねる。
気が気ではないのだろう。心なしか、老婆の声は上擦っていた。
「成功致しました。今晩は満月。翔さまの“祝の夜”にございます。持ち前の妖力が最も上がる日だからにございましょう。手術には耐えて下さいました」
ぎょろっとした四つ目を庭のヒガンバナに向け、語り部は手術の成功を繰り返す。
「ならば、もう安心なのですね」
紀緒が胸を撫で下ろす。
一聴は視線をヒガンバナから逸らすことなく、「二週間にございます」翳りある声で伝えてくる。
「手術により、翔さまの寿命は二週間となりました。ひと月持つかは、翔さま次第にございます」
余命宣告は廊下にいる者達の声を失わせる。
ようやく言葉を振り絞ることに成功した比良利は、詳しい説明を求めた。
一聴の腕は指折りである。縫合手術は成功し、足りない血はギンコで補った。彼は医師としてすべての術を対に注ぎ込んだに違いない。
なのに、何故二週間なのか。
視線を戻した一聴が比良利を見つめる。
「確かに縫合手術は成功致しました。血を多く流しており、受けた刃傷は多かったものの、左腹部を除く急所は大した傷ではございませんでした。それが救いとなり、一命を取り留めることができたかと。急所を刺されていればそれこそ取り返しのならない事態になっていたことでしょう」
"刃傷"だけで済んでいれば、間違いなく助かっていた。一聴は熱弁する。
「これをご覧下さい」
懐紙に包まれた鉄の塊のようなものを比良利に差し出す。
伸ばした尾で紙ごと受け取る。まじまじとそれを見つめて観察した。米粒ほどの大きさしかないが、見たところ球体をした鉛のようだ。
一聴は言う。それは翔の肩から出てきたものであり、鉛弾だと。銃痕の大きさから、当時はビー玉ほどあったのだろうと推測される。
しかし体温で溶けてしまい、それほどの大きさになったのだ。
「それは瘴気を吸ったであろう妖の骨粉と鉛で完成されたもの。翔さまは高い熱を出されており、その症状は“人災風魔”に似ております」
三拍ほど置き、医師の厳かな声が耳に通り抜ける。
「なんと?」
比良利は思わず聞き返してしまう。
繰り返し“人災風魔”を口にする一聴は症状が似ているのだと苦言した。
“人災風魔”は瘴気を吸った妖の骨粉と霊気と人間によって発動される災いの術。出てきた鉛弾には術に使用される一部の素材が使用されている。
ゆえに妖の子供達を苦しめた、あの忌まわしき高熱を出しているのだと一聴は語る。
「しかしながら、これは術ではなく、一種の毒として用いられているのだと思われます。つまり翔さまは毒に侵されているのです」
これを使用した輩は非道な性格をしていると一聴。
刃で殺せずとも、毒でじわりじわりと命を削り、結果的に標的とした十代目を弱らせる策略を取っていたのだから。
一聴がそっと障子を開け、隙間から中の様子を窺う。
「正直なところ、こうして翔さまの御命が取り留めているだけでも奇跡と言えます。我等の目からすれば、とっくに命尽きてもおかしくない」
悔しそうに障子を閉め、瞼を下ろした。
「強い生命力で命が繋ぎ止められているのは、宝珠の御魂の力と本人の生きたい意志なのかもしれません。なんとしても、その想いに報いたい。そうは思えど、翔さまの体を蝕む毒は進行を続けるばかりなのです」
鉛弾を早急に取り出していれば、命を脅かす毒の量は軽減されていたことだろう。
一聴は医師として、命と携わる務めの者として、残酷な現実を言い放つ。
「十代目南の神主、三尾の妖狐、白狐の南条翔さまはひと月足らずの御命にございます。このままでは、あの方は助かりませぬ」
比良利は眩暈を覚えた。
北の神主と南の神主にかけられている呪詛が、今ここで立ち塞がってくる。
長寿の北、短命の南、この呪詛によって己は既にひとりの対を見送っている。今度はあの少年を見送らなければならないのか。
百年前と同じ輩の手によって、対を失わければならないのか。
肌を刺すような、冷たく痛々しい空気が廊下を包み込む。
呼吸をする度に胸を締め付けられるのは、この空気のせいなのだろう。ただただ息苦しい。
「なにか手はないのか、一聴よ。翔は本当に助からぬのか」
容易く絶望に暮れるほど、北の神主も軟な胆は持っていない。
たとえ匙ほどの希望しかなくとも、そこに可能性があるのならば八方塞がりだと判断するには早い。何もせず、手をこまねくだけなど到底できやしない。
三拍ほど間を置いた後、
「使いたくない手ではありますが……ひとつだけございます」
一聴が体ごと比良利に向く。
「翔さまの意識が戻られた後、と前置きをさせて頂きます。昏睡状態で施すには、あまりにも危険ゆえ。比良利さま、"人災風魔"に侵された子供達への対処を憶えておりますか?」
「無論。鬼火草の薫物による気体治療のことは、昨日のことのように憶えておる」
「現在、翔さまのお傍で鬼火草を練り込んだ薫物を焚いております」
部屋の異様な臭いは鬼火草の練り物だったらしい。
「あれは端的に己の妖気を高め、自己治癒を促します。また気体にすることで劇薬と呼ばれる鬼火草の効力を制限しております」
"人災風魔"と呼ばれる気体の術は、気体による治療で対応した。
同じように"人災風魔"の毒を体内に取り入れた翔に、鬼火草を直接投与する。これが一聴の救える手だと言う。
理屈は分かる。
けれども、比良利は物申したかった。
「じゃがあれは劇薬ぞよ。弱っている翔に使用すれば」
そこまで口にした時、これが一聴の躊躇する問題点なのだと比良利は察する。
健全な妖に劇薬を使用しても命を落とす可能性がある。それを負傷している白狐に使用してしまえばどうなる? 未来は視えているではないか。
「気体治療で対処はできないのでございましょうか」
紀緒が意見した。
かぶりを振り、あれは子供だましであり、気休め程度だと辛辣に伝える。
「気体治療では到底間に合わないのです。翔さまは毒を体内に取り入れられてしまった。解毒剤も直接体内に投与しなければ、とてもではありませんが……比良利さま。気体治療をしている今、“人災風魔”の毒の進行は緩やかとなっています」
一聴は深く頭を下げ、鬼火草の投与について考えて欲しいと意見を仰いだ。
負傷した傷や足りない血に関しては解決の目途が立った。
後は“人災風魔”に類似した毒だけだ。
このまま何もしなければ十代目南の神主は黄泉の国に旅立ってしまう。かと言って鬼火草は劇薬。必ず助かるとも限らず、投与されている間は患者に凄まじい苦しみを与えることは免れない。
別の手を探せと言うのならば医師として、全力で手を探す。
けれども、患者の容態は重くなるばかりだろう。他に手を探す時間すら、本当は惜しい。
患者の意識が戻り次第、鬼火草を投与するか、それとも別の手を暗中模索しながら探すかは賭けだ。
「我々は選択しなければなりませぬ。そして、どの選択肢にしろ御覚悟が必要でございます。どうぞ御考え下さいませ」
比良利は珍しく妖の民の前で顔色を変えた。懐紙を握り締めて血の気を引かせる。
劇薬である鬼火草を投与して賭けに出るか。はたまた患者の体力ぎりぎりまで別の手を考えて賭けに出るか。
どちらにしても百の確率で助かる道ではない。五分とも言い難い賭け。どの道も救済には程遠く、黄泉の道がより近い。
あの来斬が言っていた“助からない”の意味を、ここにきてようやく理解した比良利は何も言えずにいる。
短命と呼ばれる南の神主は先代で最後にすると誓ったのにも関わらず、この事態はなんだ。またしても対が命の危機に局面しているではないか。
「一聴殿、翔殿の容態が!」
青葉が二之間から飛び出してきた。
急いで一聴は呼吸を乱す患者の下に行き、右手の脈を測る。
「いかん、不整脈を起こしている。妖力値が異常なまでに下がっている。お有紀、急いで薫物を増やせ。このままでは毒の回りが早まる」
十代目南の神主の容態の変化により、二之間は騒然となる。
医師の指示の下、焚いている鬼火草の薫物を増やし、体温が下がって行く患者のために湯たんぽを用意。
麻酔が切れ、痛みに声を上げる患者のために青葉の摘んだ薬草を擂って使用する。
それでもなお容態が変わらないため、一聴はひとまず比良利達を二之間から退室するよう促した。
これから先は医師と助手の持久戦となる。自分達がいては邪魔になるだけだ。
比良利は彼の指示を素直に聞き、皆を連れて退室する。
廊下に出るや異常な空気に、とうとう旧鼠の子供達が恐怖して泣き始めた。
特に末子は翔を慕っていたため、両親のように死ぬのではないか、自分達を置いて行くのではないか、怖じる気持ちを吐き出しては泣き叫んでおばばに縋った。
すると伝染したかのように、子供達が次から次に泣き、老婆に飛びついて甘える。
『大丈夫だよ。お前さん達の兄さんは強い。置いて行きやしないさ』
猫又は気の利いた言葉を送れず、ありふれた慰めを紡いでいる。
子供は常に感情に敏感な生き物だ。此処にいる者達の気持ちを代弁してくれる。
「比良利さま、何処へ?」
皆から離れ、廊下を歩く比良利に気付いた紀緒が声を掛けた。
「暫し文殿に身を置く。後のことは任せたぞよ。何かあれば、そこに参れ」
浄衣の袖を靡かせ、駆け足とも取れる歩調で文殿に入る。
戸を閉め、まず口から出るのは悔しさから生まれる唸り声だった。
危機に間に合わず、対を助けることのできなかった己に対する怒り。そして因縁の妖狐が起こした行動に、比良利は固く結んだ手の平に爪を立てた。
「あやつの筋書き通りにはさせぬ。それだけはさせぬ」
対は決して死なせやしない。比良利は文殿の書物を片っ端から取り出した。
丑の刻、何も知らされていない烏天狗の名張天馬が指導のためにやって来る。
彼は白狐の容態を聴き、無の表情が見事に崩れた。翔と対面すると言葉を失っていたが、そんな彼に比良利は感謝の言葉を述べる。
翔は窮地に追い込まれた中、天馬に教わったことを活かし急所を守り抜いた。よって一命を取り留めている。指導の賜物だろう。
しかし天馬は感謝を受け取らず、「それは翔さまの努力の賜物です」と返された。
自分に何かできることはないか。
そう尋ねられたため、比良利は“玉葛の神社”まで使いに言って欲しいと頼む。彼等はきっと報告を待っている筈だ。彼に文を渡し、“玉葛の神社”の者達に現状報告した。
引き続き文殿に籠り、鬼火草に代わる薬草はないか、徹底的に書物を見て回る。
劇薬を体に投与すれば、間違いなく死に至らしめる。来斬の筋書きどおりになってしまう。対を死なせることだけはできない。机に書物を積み上げては、用済みの書物を床に放る。
だが見つからない。
分かっていた、“人災風魔”事件で嫌というほど薬草については調べていた。
その結果が鬼火草を用いた薫物による気体治療。“人災風魔”と類似した症状を持つ白狐には鬼火草しかない。
「翔を失うわけにはいかぬ、今失うわけには……しかし、しかしじゃ」
比良利は決断しなければならなかった。劇薬である鬼火草を投与するべきかどうかを。
投与の判断、その先には先代の死に顔が脳裏を過ぎる。思わず目元を右の手で覆う。己の手が震えていたが、気のせいだと思い込んだ。
「できぬ。鬼火草の投与などすれば、あやつは……あやつは」
また対を失う、なんて思いをもうしたくはない。したくはなかった。
「比良利さま。夕餉にしてくださいませ。昨晩から何も口にしていませぬ」
文殿に籠って早四時間。
盆を持った紀緒が部屋を訪れ、握り飯と茶を机上に置く。後で食べると返事して、彼女に見向きもしない比良利は懸命に書物の頁を捲っていた。
少しでも助かる道はないか、見落とさぬよう目を文面に滑らせていく。
なかなか去ろうとしない紀緒に如何したと声を掛ければ、「わたくしが見ていないと貴方様はずっとそうしますから」食べるまで傍にいると苦笑。
ようやく視線を持ち上げ、比良利は紀緒を見つめる。
「放っておくと、比良利さまは三日も食を抜かすことがございます。それでは良き判断もできませぬ」
良き判断、か。
書物を閉じて重々しい息を零す。
「紀緒よ。何故わしはいつも、こうなのじゃろうか。惣七を救うことができず百年、ようやく新たな対を見つけるも救うことができずにおる。わしは翔を救えずにおる」
「……比良利さま」
「あやつは単純な妖狐よ。喜怒哀楽に素直で、神主としてはまだまだ未熟。しかし、想う心は立派。妖の民に対しても、人間に対しても……翔はわしを懸命に敬愛してくれる」
将来は立派な神主となり、比良利の隣に立つと明言した翔。
尊敬している妖は即答で赤狐の比良利だと言える。赤狐は自分の兄であり父であり師なのだ、と民の前で惜しみもなく言うものだから、何度赤っ恥を掻いたことか。
兄弟神主と言われることもあれば、親子神主と呼ばれることもあった。
せめて兄と言って欲しい。皆に言って回りながらも、あの時間は楽しかった。
自分は嬉しかったのだ。新たな対ができたことが。
本当は可愛くて仕方がなかったのだ。己の背を懸命に追って来る子供が。
将来が楽しみでならないのだ。いつか立派に成長してくれるであろう白狐のこれからが。
ゆえに何か遭ったら、と惣七の死と照らし合わせてしまうこともあった。己はどこかで臆病だった。
それが今回悲劇を生んでしまった。あの時、同行させておけば、悔やまれてならない。
弱い心を曝け出し、本音を吐露する。
静聴していた紀緒は間を置き、遅かれ早かれこうなっていたのかもしれないと返す。あの時同行をさせても、別の場面で白狐は黒狐に狙われていたことだろう。そして同じような事態に追い込まれたに違いない。
比良利の悔やみは分かるが、いつまでもあの時を引き摺っては事態を乗り越えられない。紀緒は厳しい口調で物申す。
「貴方様が今するべきことは後悔を味わうことではございません。翔さまをお救いする道を探し出すことであり、来斬をどうするかお考えになることです。お気をしっかりお持ち下さい」
「手厳しいおなごじゃのう。少しは慰めてもよかろう。じゃが、主の言う通りじゃ」
小さな笑声を零し、想像以上に思い詰めて己がいたことに気付く。
気を休めるため、湯飲みを尾で掴むと口元に運んで一息つく。
その光景に紀緒の眼が和らいだことが分かった。彼女との付き合いは長い。己のことは己以上に何でもお見通しなのだ。
ふと“月輪の社”の者達について尋ねる。青葉とギンコも怪我を負っていたが、彼女達は大丈夫なのだろうか。精神面が気掛かりだ。
「大丈夫、とは言い難いですが、彼女達はツネキと共に翔さまのために薫物を作っております。わたくしも先程まで手伝っておりました」
「そうか。ぼんの容態は?」
「オツネの輸血が効いていると一聴から聞いております。まだ意識は」
言葉を濁す紀緒に比良利は一つ頷き、皆まで言うなと目を伏せる。
意識が戻らないまま鬼火草を投与することは極めて危険だが、目が覚めたところで鬼火草を投与できるかと言えば、そうではない。
彼は衰弱しきっている。
劇薬は誤った使い道をすれば毒薬である。毒に侵されている翔の体に、新たな毒を入れるようなもの。それだけは避けたいのだが。
「比良利さま。一つ気掛かりを申して宜しいでしょうか?」
「よい。申せ」比良利が許可を下す。紀緒は来斬のことについて疑問点を述べた。
「何故、来斬は翔さまを狙ったのでございましょう。比良利さまとお繋がりがあるから、と考えるだけでは小さい気が致します」
「うむ。それについてはもう一つ。あやつは翔の死体を狙うと申しておった。青葉の話によれば“依り代”と口にしておったそうじゃが……まさか翔を何かの“依り代”にするつもりだったか」
依り代は何かの物に神霊、霊魂等が憑くもののことだ。
翔が寄越した形代も、依り代の一部である。紙のほかにも、人形や岩といったものが憑依物として挙げられる。
死体にしてでも狙うと言うことは、来斬は翔の中の宝珠の御魂を狙ったのではなく翔の体を狙ったと言うことになる。
輩は死体に何かを憑依させようとしているのか。
しかも、それは翔ではならない理由があると比良利は判断する。
「来斬は昔から食わせ者であった。あの惣七すら出し抜くほどなのじゃからのう」
「腕はお二方と並ぶ猛者。厄介ですね」
「なにより戦と血が好きな妖狐。野放しにしておけば、また誰かが血を流そう。あやつの首は必ずやわしが討つ」
決意を表す語気には確かな怒りが含まれていた。