<十二>待宵の月、玉響に散る(参)
※
表社の社殿に籠城を始めて、どれほどの時間が経ったのだろうか。
幾度も扉に銃弾が衝突しては、大きな振動が社殿を包み込む。ギンコ一人では衝撃に耐えられなくなっているため、青葉が加担して結界を張っている。
翔も参戦したいが生憎、五方結界の術しか張れず、それは一人で成功させた例はない。特殊な術ゆえ安易に使用することもできず、悔しさを噛みしめながら止血を施された肩を掴む。
肩に弾は残っているものの、それは深いところまで食い込んでおり、取り出す刃がないため、止血を優先させてもらった。
これが正しい判断なのかは分からない。が、今はそうも言っていられない。
「比良利さんっ、まだか」
奥の壁に凭れて座る翔は、そろそろ限界だと状況に唸る。
自分の容態もそうだが、彼女達の妖力も危うい。また観音開きの扉も所詮木造。いくら結界を張ろうと、劣化が進んでいる扉だ。丈夫とは言い切れない。
厄介なのは扉だけでなく、来斬は社殿を包囲して仲間であろう妖に攻撃をさせていることだ。
第一あの黒い狐達は本当に妖だろうか。
祓った時の手応えを思い出す。妖を祓ったことは幾度もあるが、あの黒狐達は初めての感触がした。説明しにくいのだが他の妖とは違うのだ。
扉を押さえ、結界を張っているギンコと青葉が唸り声を上げる。
向こうが総攻撃をしてきたのだろう。今までになく社殿が振動している。扉にぶつかる衝撃も大きく、今にも破られてしまいそうだ。
すると社殿に祀られている小さな仏像が発光。結界を張る彼女達に力を与え、妖力尽きそうな妖狐達に救済の手を伸ばしてくれた。
不法侵入しているにも関わらず、神様はいつも正しく見てくれているようだ。
必ずこの礼はすると仏像に一礼。翔は大麻を召喚すると、壁に手を添えてゆっくり立ち上がった。
「青葉。ギンコ。まだ持ちそうか?」
霞む視界を振り払うようにかぶりを振り、彼女達に状況を確認する。
そう持たないだろうと青葉。此の神に力を授けられても、結界に全力を注いでいるため尽きるのは時間の問題だという。
「何をするつもりで?」彼女の疑問に、「舞う」翔は社殿の中央に立ち、最悪の事態に備えると返事した。
「しかし翔殿! 今、闘志の神主舞を踊れば貴方様の体が」
大麻使用の舞、即ち神の闘志を燃やす舞。妖に烈火の道を示す舞。神に捧げる闘志の神主舞。
これを舞えば格段に妖力が上がる。反面、その代償も体力の消耗も大きい。
負傷した翔がその術を使用すればどうなるか、青葉が苦言する。
「そう。これを使用すれば多分、俺は十分足らずで倒れる。けど突破口を開くにはこれしかない。青葉、俺達はなんとしても逃げ切らないといけないんだ」
あくまで相手を倒すのではなく、宝珠を守るため。手段を選ばずにはいられない。
突破口を作ったら皆で人の世界を回り、敵を撒いて“日輪の社”に飛び込もう。そしてギンコに常世結界を張りなおしてもらおう。
その頃にはきっと比良利達が来てくれている。
「青葉! ギンコ! 俺が道を作るっ、後は頼んでいいか!」
彼女達に確認を取ると、強い眼差しが返された。十分な返事だ。
輩が何者なのかは知らないが好きにはさせない。
今、南北を統べるはこの白狐。宝珠が欲しいのか、我が身が欲しいのか、どちらにせよ思い通りにはさせない。
翔は大麻をゆっくり構えると、浮つく足に叱咤して飛躍。狭い社殿で闘志の神主舞を舞い始める。
目は霞み、肩の痛み、体は震え。悪寒は増すばかり。
だがこれを乗り切るために気合と根性を振り絞る。そういう無茶ぶりは得意だ。
此処で果てるわけにはいかない。宝珠を守るためにも、体に鞭を打って舞を踊る。動きはぎこちなくとも、その神に捧げる気持ちは昂るばかり。
翔の額に二つ巴の証。
床に現る白と黒の勾玉が組み合わさった陰陽勾玉巴。
黄金に輝く大麻の紙垂が闘志を宿したように紅に染まる。連動するように陰陽勾玉巴の輪郭も紅に染まり、舞い手に同色の光を宿した。
寒気が吹き飛び、体中の妖力が沸騰するように熱帯びる。
「くっ、もう、破られまする」
限界だと声を張った青葉、そしてクオンと鳴くギンコ。
勾玉の目となる中央の点へと優美に着地し、終幕を示すため、右手に持つ大麻を掲げた。
神々しく輝いていた陰陽勾玉巴がゆるやかに弾けると、翔の取り巻いていた光も弾ける。
同時に結界の砕ける音が轟いた。
青葉とギンコは、飛躍してその場から後退する。
扉が開かれた瞬間、「散れ」翔は左手で大麻を振った。風の斬撃が飛び込んでくる狐達の身を八つ裂きにし道を作る。
妖型の二匹と共に素早く社殿を飛び出すと、取り囲む妖魔達を燃え盛る炎で焼き払う。
隠れることもせず、堂々正面にいた来斬は翔の姿を見て玩具を見つけた子供のように口角を持ち上げる。
籠城している間に呼んだのか、はたまた召喚したのか、無数の黒い妖狐達が彼の周りを囲んでいた。
「貴様等は小娘達を相手にしろ。俺は小僧を相手にする。滾ってきたじゃねえか」
瞬く間に翔達の下に走ると輩は持ち前の長巻を振るい、三人を散り散りしてしまう。頭の切れる奴だ。
「退け!」
突破口を作ろうと大麻を振るい、来斬の身を吹き飛ばすが鞘で受け止められ失敗に終わった。
しかし向こうも翔が長巻の刃を素早く避けることにより互角の一線を辿る。
至近距離で火縄銃の銃口を向けられると、三尾で払い退け、もう片手に握られている短筒を蹴り上げる。
膝が鳩尾を狙ってくると大麻と右手で庇い、忠実に天馬の教えを守った。
「調子に乗るなよ」
来斬の黒々した狐火。不気味な色で燃えるそれは大麻を地面に叩きつけることで、土の壁を作り上げた。
仕返しに狐火を放つ。
糸も容易く回避することを見越し、翔は来斬が妖術を尾で払ったところを頭上からもう一度狐火を放つ。これも回避されると分かっていたので、彼の背後に着地したと同時に足払いならぬ尾払い。
些少ながらも体勢が崩れたところで背に蹴りを入れ、大麻で雷撃を呼ぶと、それで相手を射抜く。
さすがに対処しきれなかったようだ。
雷撃をまともに食らった来斬が瞠目をした。
(今のうちに)
青葉とギンコの下に駆けるが、輩はすぐに追いついて前に回って来る。
宝珠と彼女達を守りたい一心で突破口を作ろうと躍起になる翔に対し、「いいじゃねえか貴様」相手の感情が昂り始める。
「この俺に一発かますなんざ、楽しい餓鬼だな。貴様のような奴は万全な状態で手合わせしてぇ餓鬼だ」
歓喜の興奮を見せる来斬は、こんなことなら正面からぶつかってみるのだった、と舌打ち。餓鬼だと思って適当に仕事をこなしていたが、これは盲点だった。ああ、殺りたい。殺り合いたい。
舌なめずりをする来斬は、火縄銃を放って長巻の柄を両手で握る。
「小僧、貴様の血が拝みたくなってきた。長巻に赤い花を咲かせてくれよ」
その台詞に祓っても祓っても湧く黒狐達を相手取っていた青葉が、そしてギンコが逃げろと吠えた。
「紅花繚乱」
だが来斬の方が動きが早かった。
長巻を構えたと思ったら今までにない速度で疾走、翔の懐に入るや刃を振るう。その太刀さばきが一抹も捉えることができない。神主舞で妖気を昂らせているのにも関わらず太刀が見えない。
大麻を振る左腕が斬られたと思ったら、身が天高く投げられた。
思考が追いつかない。
満目一杯の夜空を目にした翔は、それを覆いかぶさるように現れる黒い狐に恐怖した。死を悟った瞬間だった。
だからだろうか。
気付けば、本能のまま大麻を振るって相手の長巻に対抗した。
(死ぬな。絶対に、死ぬなっ)
ここで果てるわけにはいかない。
おばばと約束したのだ、必ず自分が看取ると。青葉やギンコと約束したのだ、千年長生きして此の地を見守ると。比良利と約束したのだ、必ず隣に立つと。
例え相手に負けると分かっていても、無様にやられると分かっていても、惨めでも生き延びなければ。
(っ、めが、霞む)
いきろ、それでもいきろ。
餓鬼でも頭領として迎え入れてくれた者達のために。待ってくれている者達のために。遺される痛みを知る者達のために。
生きるための抵抗を。
反対側の肩が、頬が、尾が、斬られる。
けれど忘れるな。急所だけは何が何でも守り抜け。守れ、守り抜け。
天馬に教えてもらったではないか。武術ど素人の自分にできる対抗は守り、何が何でも護身を貫き通せと。
「咲き散れ“依り代”」
長巻を振り下ろす来斬に、大麻で刀の軌道を微かに変える。
刹那、すべての世界に色が消える。歪んだ。世界が見事に歪んだ。
(――ごめん。おれ)
左腹部を貫く長巻が引き抜かれ、翔は大麻を手放す。
向こうで青葉とギンコの悲鳴が、鳴き声が、嗚呼、遠い。彼女達だけ異世界にいるのだろうか。声が遠い。
(まけ、ちまった)
嘲笑する来斬が霞んで見える。
星瞬く夜の空の下、待宵の月の明かりを浴びながら翔は浄衣の袖を靡かせて散っていく。南の神主が纏いし白き浄衣は美しく紅い花が咲き、そして儚い姿で散っていく。
「あ……あぁ」
凄惨な光景を目にした青葉の脳裏に、少年神主と交わした約束が過ぎた。
九十九年、神主が不在で大変な思いをしていた巫女と神使に、自分は誰よりも長生きする。だから共に生きようと綻んでくれた、あの約束。
いつか、自分達の手で“月輪の社”を盛り上げよう。対の社を支えられるよう、成長しよう。
夢を語る翔の笑顔が、青葉は心から好きだった。
『青葉、俺はずっとお前達の傍にいる。だから安心しろ。悪運だけは強いんだ。長生きするって』
なのに、約束が黒ずんでいく。
ひとりの黒き狐によって、約束が霞んでいく。
無音に包まれた世界。
身を地に叩きつける家族の詰まる息。
いやに鼻につく硝煙の臭い。
それらを把握する前に、気付けば走っていた。
「おのれっ、来斬っ!」
闇と同化し群れをなす禍々しい黒狐が邪魔立てしようものなら、声を上げ、感情のまま狐火を放つ。
瞬く間に消し炭になる輩に目もくれず、痛む太腿も無視し、己の膝を来斬の頭部目掛けた。
反射神経の良い輩が紙一重に避ける。余裕綽々で嘲笑する輩に悔し涙が出る。
「巫女の娘、貴様じゃ俺に勝てん」
青葉の足首を掴み、来斬は己目掛けて突進してくる銀狐に向かって投げる。
比較的青葉には衝撃がこなかったものの、体重に押しつぶされ、下敷きとなったギンコには大きな衝撃が走ったようだ。その場で体勢を崩してしまう。
「あーあ、依り代にでっけぇ穴をあけちまった。熱くなるとこれだ」
目を放した隙に、来斬は少年神主の前で片膝をつく。
重い瞼をおろし微動だにしない翔の腹部を、輩が軽く指でなぞる。痛みに呻くことで、彼はまだ生きているのだと安心させられた。
「縫ったら使えるだろうが、ちと支障が出るか?」
ぞんざいな手つきで翔の身を脇に抱える。
連れて行こうとする来斬に気付き、青葉は立ち上がった。
この狐に、また家族を奪われるわけにはいかないのだ。百年前は、己が本当に未熟で太刀打ちもできなかった。
今もあの頃と変わらないままかもしれない。けれど、あの頃と違う心が此処にはある。
「まだ向かってくるか、娘。神使」
おびただしい黒狐の群れが周りを囲んでくる。
自分が相手をするとギンコが吠え、背を踏み台にしろと指示。青葉は頷いて、銀狐の背を使い、群れの輪を飛び越えて来斬に癇癪玉を投げる。
小賢しい手だと白煙を四尾で払う黒狐の懐に入り、彼を返せと声を張った。
「翔殿を返せ、今すぐ返せ!」
何度蹴り飛ばされようと、銃で撃たれようと、長巻で斬られようと、青葉は体勢を立て直して輩から家族を奪い返そうとする。
諦めの悪さは翔から嫌というほど学んだのだ。
何があってもめげない、喰らったら放さない、執拗に追う。それを彼から学んだのだ。其の心は彼が教えてくれた。
「もう手遅れの餓鬼を取り戻したいか」
「まだ翔殿は生きている」
息も絶え絶えになる青葉の髪の結びがほどけ、長髪が垂れる。
「まあ。死を受け入れられず、目を背けるのは勝手だがな」
「だまれ。翔殿はこの程度で死ぬようなお方ではない。お前は許さないっ!」
来斬の皮肉を聞き流し、必ず首を討つと声音を張る。百年前も、今も、家族を奪おうとする来斬だけは、来斬だけは決して許さない。
翔は家族だ、己の大切な家族だ。何にも変えられない大切な狐なのだ。それはギンコにとっても同じ。
「いつだって我らの心配を無視して、無茶をして、叱られてばかりで……まこと手の掛かる殿方ですが、約束だけは絶対に破らない方です」
死にはしない、そう、彼は死にはしない。
青葉は己に言い聞かせ、覚束ない足取りに喝を入れて地を蹴る。
「怪我した娘の相手なんざ、赤子の腕を捻るより容易いもんだ」
脇に翔を抱えたまま来斬は素早く移動し、青葉の背中に回ると、火縄銃の柄で身を薙ぐ。
大柄な体躯が持ち前の力を発揮したせいで、小柄な身が宙を飛ぶ。
朦朧とする意識の中、青葉は早く彼を助けねばと自分に叱咤した。翔は腹部を切られ、大量出血している。血を流し過ぎたら死んでしまう。早く、助けなければ。
向こうに飛ぶ体は表社の鳥居に叩きつけられる。
しかし、紅い風が割って入ったことにより、青葉の体は衝撃を喰らわずに済んだ。
「すまぬ、まことにすまぬ青葉。遅くなった」
視線を持ち上げると、待ち望んでいた狐が己の身を抱いていた。
声にならない泣き声を上げたくなったが、グッと堪え、代わりに気丈な言葉を返す。
「お待ちしていました。比良利さま」
※
時間は遡り、“玉葛の神社”を発った比良利達は急いで“月輪の社”に向かっていた。
“玉葛の神社”は南の地から遥か東に位置しており“日輪の社”よりも、“月輪の社”の方が場所的に近いのだ。
「まだ見えぬか。ツネキ」
消えた形代の異変。
黒き狐の使いを出した輩の正体。
記憶に残る術者ではないと信じたいが、胸騒ぎが止まらない。
己の留守中に何が起きている。
対の目に見えぬ異変に畏怖の念を抱いた比良利は、ツネキにもっと急いでくれるよう頼んだ。
夜を翔るツネキは最高の速度で社に向かってくれるものの、どうしても遅く感じてしまう。
比良利は腹部を押さえ、「宝珠がざわついておる」あの時と同じだと顔を顰めた。
落ち着くよう促す紀緒に分かっていると素っ気なく返事するが、紅の宝珠は双子の白の宝珠に呼応するばかり。
このざわつきは対の死を予期したものに近い。
「頼む、ぼんよ。わしが来るまで無事でおれ。わしが来るまで」
指先が白くなるまで手を握り締めていると、ツネキがクンと鳴いて振り向いてくる。“月輪の社”がある表社が見えてきた。
高度を下げる金狐は鳥居を時計回りに8の字に回り、自分達が守護する“日輪の社”に飛び込む。
驚愕した。常世結界が破られている。鳥居前に張られている筈の常世結界が消えている。
参道にはおばばとネズ坊達がいた。
急いでツネキから飛び下り、皆は無事かと声を掛ける。何が遭ったのだ、矢継ぎ早に質問すると、老猫が早く表社に行くよう促した。
そこで“月輪の社”の者達が闘っている。かつて、天城惣七の命を奪った獰猛な来斬がいる、と。
『坊やの命を狙っているみたいなんだ。比良利、早く翔の坊やの下へ』
四尾の妖狐、黒狐の来斬が今世にいる。
百年前に討った筈の狐が生きているというのか。
比良利は混乱する頭を振り払うと、誰よりも早く鳥居を潜り、“日輪の社”を隠している表社へ。
人の世界に飛び出した先、目の前に広がった光景。
群れをなす禍々しい黒狐、妖型のギンコがそれらを一匹で相手取っている。
それ以上に目を引いたのは四尾を持つ妖狐と、宙を舞う巫女の姿。鳥居の石柱にぶつかる同胞の危機に比良利は駆けた。
熱が含まれる夜風に乗り、小さな体躯を受け止める。
青葉は大層な傷を負っていた。
自慢の黒髪は乱れ、巫女装束は血に塗れている。傷付いた四肢はさながら、頬も青く腫れている。輩と幾度もぶつかったのだろう。
けれども彼女は自分のことなど二の次三の次、白狐を助けて欲しいと懇願した。
「翔殿が、このままでは翔殿が」
上擦った声を出す巫女を優しく地におろし、比良利は輩と向かい合う。
「お、大将のお出ましか。こりゃあ厄介だな」
嬉々する耳障りな声音、口調、妖気、忘れもしない。
怒りに震える体を抑えることもなく相手を睨めば憎き四尾の妖狐、黒狐の来斬の姿が瞳に映った。忌々しい狐がそこにいる。
「来斬っ、貴様」
百年ぶりの再会。
二度と会うことはないだろうと思っていた黒狐は夢か幻か。この手で葬った筈なのに、何故この狐は生きている。
殺気立つ比良利にくつり、と喉を鳴らす。
「今日は貴様の面を拝む予定はなかったんだがな。ま、これはこれで楽しい余興か」
「相変わらず、無駄口の多い奴よ」
来斬が抱えている対を一瞥。
黒狐の足元まで伸びている彼の鮮血、雪のように白い浄衣は腹部を中心に赤く染まっている。一刻の猶予もない。
口で言って聞くような相手ではないため、比良利は大麻を召喚して黒狐に向かう。
来斬の顔面を炎帯びる紙垂で当てに行くが、輩は首を反らして避ける。まるで楽しむように後ろへ跳躍する。
攻める側に回った比良利に対し、徹底的に守りに入る来斬の口は動く。
「ついに貴様も六尾か。えらくなったもんだぜ。しかも、百年の間におもれぇ奴を対にしたもんだ。まさか、惣七の後継者がこんな餓鬼とはな。弱いっちゃ弱いが俺の勘が疼く。こいつはおもれぇ」
面白いと知っていたら、小細工など使用しなかったのに。
遺憾なことをしてしまったと肩を竦める来斬は、屍にする前に真正面から挑んでみたかったと落胆。
そして比良利の内なる心を知っている輩は、続け様に言うのだ。虫の息となっている餓鬼は時期に死ぬ。もう助からないと。
「餓鬼はお前の言葉を忠実に守り、日輪の社に籠っていた。お前と同行してぇ気持ちも抑えてな。にも拘らず、これじゃあ報われねぇな。比良利、これは貴様の過信ゆえの失態だ」
総身の毛を逆立てる比良利に、「また間に合わなかったな」俺の勝ちだと来斬。
「惣七を見殺したように、その餓鬼も見殺しにするしかない。貴様は対を救えない。さあて“人災風魔”を起こし、白狐を亡き者にした後はどうしてやろうか」
「“人災風魔”……まさか、あれは貴様の仕業か」
「さあな。どうだったか忘れちまった。今世に舞い戻ってきたばかりで“物覚え”が悪いんだよ。白狐の餓鬼は出血ゆえに死ぬか、それとも“別の手”によって死ぬか」
下劣な戯言など、もう聞きたくなかった。
「もう良い。貴様とこれ以上、話したところで徒話。耳が腐るわ」
どのように復活したのか、生き延びていたのか、事件と関わったのか、今はどうでもいい。百年前のヨシミを懐かしむ気もない。
再会したところで輩が墜ちるのは奈落だ。
「いずれ、貴様には左目を潰された借りを返さないとな」
大きく飛躍して社殿の屋根に飛び移る来斬が、冷然と見下ろしてくる。
まさか、逃げられると思ったのだろうか。比良利はすり足で二、三歩、右に寄った。
刹那の刻で来斬の背後に回ると、炎を纏った大麻を相手の肩目掛けて振り下ろした。これには輩も驚いたようだ。顧みてくる黒狐に、比良利は冷たく返す。
「案ずるな。次は右目を頂戴する――百年前のわしと思うでない」
対の身を輩から引き剥がそうとするが、機転を利かせた来斬が指笛を吹いたため、目の前に彼の妖気を具現化させた黒狐達が現る。
本人は比良利から距離を置くため、数匹の黒狐を呼ぶと、それらに乗って天に昇る。
何が何でも白狐だけは連れて行く予定らしい。
人質として取られているため、比良利も下手に術を使うことは儘ならない。大術を使用すれば、翔にまで当たってしまう。
しかしながら、目の前でむざむざと対を連れて行かれるなど北の神主の恥。翔には少しばかり熱い思いをしてもらうが、我慢して欲しい。
大麻を振るい、肉も骨も焼き尽くす火炎の龍を来斬に放つ。
立ち昇る炎は瞬く間に炎が黒狐達を呑み込み、来斬にも猛威を振るう。
これしきのことでくたばる男ではないと知っている比良利は、炎の中に飛び込むと片手で長巻を振り下ろす来斬を捉え、大麻で太刀を受け止める。
残忍と歓喜の笑みを浮かべる好戦的な黒狐が、「紅花繚乱」一度長巻を引いて水平に構えた。
煌びやかな銀の筋を描きながら太刀の乱れが身を斬ろうと猛威を振るう。
流れるように長巻の刃を避け、
「宝珠の主である我が声を聞け」
額に二つ巴を浮かべた比良利が大麻に火の粉を纏せると、
「篠突く紅蓮」
次から次に炎を飛ばす。
太刀が炎を切り裂き、大麻が長巻の刃を流す一進一退の攻防。
先に隙を見せたのは来斬だった。
片手で長巻を振るっているせいだろう。体勢を立て直すために足を後退する、その瞬間を見逃さず、比良利は大麻で回して火炎の渦を作る。
「行け!」
放たれた渦は比良利を軸に回り、先程生んだ炎たちを喰らうことで次第に巨大化していく。
こうして輩の逃げ道は塞ぐことに成功した比良利は、相手の心の臓を貫くために大麻で突く。
だが、その手が途中で止まってしまった。狡い黒狐は対の体を盾にしてきたのだ。
「なんと小癪な」
「こいつが荷物でしゃあねぇ。これくれぇの仕事はしてくれねぇと」
だが白狐の鼓動が止まろうと、体が穴だらけになろうと、屍だけはどうしても必要なのだと来斬。
ぐったりと頭を垂らしている白狐の首に腕を回し、こいつの首の骨を折ったところで、さほど支障はないと嘲笑う。
「比良利、貴様は対を失くすことによって強くなる。惣七と同格だった俺を討った貴様は、当時格下だった筈。なのに俺を討つことができたのは、まごうことなき対の存在だ」
一歩たりとも動けず、比良利は奥歯を噛みしめる。
今、動けば来斬は迷うことなく対の首をへし折る。残虐非道な一面を知っているからこそ動けない。
足元では来斬が生んだ狐が足を食もうとしてくる。
六尾を叩きつけることによって、彼等の牙を回避しているが、それもいつまで持つか。
「時に凡才は鬼才を超えるもんだ。比良利、てめぇはもっと強くなる。同胞の死を目にすればするほどな。特に身近な妖の死は貴様の糧となる。それは対であったり、巫女であったり、神使であったり。俺は見てみてぇんだよ。貴様の限界の先を」
それこそ、六尾の妖狐、赤狐の比良利は凡才を長けた才にする出でた持ち主なのだと来斬。
赤狐は凡才のようで凡才ではない。宝珠に見初められた紛れもない天才を秘めし持ち主。でなければ、宝珠は赤狐という妖狐を選びはしなかった。
左目を潰された憎しみと復讐心も当然宿っているが、上回る好奇心が己を突きあげるのだと黒狐は剣呑とした面持ちで語る。
それを目にするためなら、日月の社の者達を皆殺しすることも厭わない。強くなった赤狐を己が討つことにより、自身も更なる高みを目指すことが出来るだろう。
「だから惣七を死に追いやったというのか」
「ハッ、ありゃ誤算だと貴様も知っているだろうが。あの時、死ぬべき狐はお前だった。まあ、今となっちゃあれで良かったと思うがな」
逞しい腕に絞められ、翔が息苦しそうに血を吐く。
無意識に昂揚する比良利の妖気が上がったため、それだと来斬がせせら笑った。
さあ見せろ、もっと見せろ。格下だった凡才のお前が、鬼才すらも上回るであろうその姿を!
「……さっきから、うる、さい」
瞬く間のこと、重たい瞼を持ち上げた翔が手中に和傘を召喚する。
気が付いたようだ。勝手に人を殺すな、かすれ声を振り絞ったと同時に傘の柄を来斬の鳩尾に入れた。
「おれは、死なない……雑草みてぇな奴だから」
僅かに緩んだ腕の隙間を活かし、対が膝を折って来斬の手から逃れる。
もう遠慮はいらなかった。
比良利は取り巻く火炎の渦を大麻に集約した。
そして今度こそ黒狐に放つと、翔の身を抱いて地上に避難する。
火炎は黒狐を包み込み、輩の身も骨も焼き尽くす勢いだった。
けれども、来斬は大術を喰らっても尚、炎から抜け出していた。
待宵の月夜を仰げば、輩は天に逃れ、妖型となって自分達を見下ろしている。
黒狐は大層不気味な姿だった。四本の尾は蛇のように曲がりくねり、剥きだす牙は薄汚く黄ばみ、潰れた左目は肉を抉ったような形跡がある。
歪な狐の姿と化す賊は強くなったじゃないかと笑い、ますます殺り甲斐があると喉を鳴らす。
『今宵はこれで引き下がってやる。せいぜい白狐の最期でも看取って百年前の苦痛を味わえ。白狐の身はいずれ我が手中にする、そして左目の怨みを必ず晴らす』
不気味な笑声を轟かせると、吹き抜ける夜風に乗って姿を晦ませてしまう。追う間もなかった。
何が最期、何が百年前。
宙を睨んでいた比良利は大麻を握り締め、
「ぬかせ!」
行き場のない怒りを吐き捨てる。それは来斬に対する怒りであり、間に合わなかった己に対する怒りであった。
さりとて、咳き込む声により、比良利は我に返る。
「ぼん。翔よ、今帰ったぞよ。待たせたのう、随分待たせたのう。ようやった。ここまでよう持った」
ぜぇぜぇと息をついて左腹部を押さえる翔は、虚ろな目をするばかりで比良利の声に反応しない。
それでも一生懸命に呼吸を整えようと肩で息をしている姿は、まことに痛々しい。
比良利はその場に翔を寝かせると、傷を診るために持ち前の爪で浄衣を裂く。
(なんて傷の深さじゃ)
おびただしい血を流している腹部からは、生々しい臓器が見えていた。ああ言葉にならない。
止血をするために己の浄衣を裂いて患部に当てるが、こんなもの一時しのぎにもならないだろう。一刻も憩殿に連れて行きたいが、このままでは動かすに動かせない。
「紀緒。こちらに来て手を貸してくれ。ツネキは急いで一聴を。オツネ、青葉を連れて手当てを。あやつの傷も軽傷とは言い難い。またコタマに手術の用意と湯を沸かすよう告げておくれ」
比良利の指示の下、神職狐らは走り出す。
その間にも比良利は浄衣の袖を四つに裂いて、紀緒と力を合わせて止血に挑むも、それはすぐに血を吸って赤く染まってしまった。ありあわせの布きれでは到底間に合わない。
「比良利さま。清潔な布を十枚ほど持ってまいりますゆえ、傷を押さえておいて下さいまし」
「頼む紀緒」
紀緒を見送ると、比良利は翔を見下ろして、懸命に声を掛けた。
「ぼん。もうしばらくの辛抱じゃ。すぐに一聴が来る」
ぜぇぜぇ、と息をするばかりで、やはり翔から返事はない。
嗚呼、力なく四肢を、三尾を投げている白狐は大層抵抗をしたのだろう。手も足も肩も胴も血にまみれている。鮮血も目につけば、既に凝血しているものもあった。
生きるために死に物狂いで足掻いた姿が目に浮かぶ。もっと早く帰っていれば。
「さ、ぃ……さむぃ」
ふと、聞こえてきたうわごとは「さむい」。
それは血が失われているから寒いのか、はたまた傷の痛みによるものなのか。翔は指先を丸めて、寒いと繰り返した。比良利は尾っぽに狐火を灯すと、翔の傍にそれを置いてやる。
それでも身を震わせているため、片手で体をさすってやった。
(体がつめたい。顔から血の気もなくなっておる……)
冷たい体に白い頬、青い唇。
重なる、かつての対の死に顔と、今の対の死に顔が。
過去の残像を振り払うように頭を振ったところで、翔の視線がこちらに向いていることに気づいた。意識を取り戻したようだ。
「ぼん、わしが分かるか。すまぬ、帰ったぞ。いま帰ったぞ」
翔は何度か瞬きした後、宝珠の声が聞こえると呟いた。
それが白の宝珠の御魂なのか、紅の宝珠の御魂なのか、それは定かではない。
ただその声はとても細く、弱々しく、まるで泣いているよう。もう眠りたくない、まだ眠ってほしくない、そのような声が交差している、と翔は言った。
その口からおびただしい量の血が吐き出されたことで、比良利は血相を変えて、もうしゃべってくれるな、と懇願する。
「今のお主は深手を負っている。言葉を発することすら、体に障るゆえ。もう無理をして」
「あり、がと」
遮るように感謝を述べられた。
まるで己の死を予期したかのように、思い残すことのないように比良利を見つめ、力なく笑ってくる翔は繰り返し、ありがとう、を告げた。
やめてくれ。
そのような言葉は聞きたくない。
残される者の身にもなれ。
心から叫びたくなったが、翔はうつらうつら瞼を閉じては持ち上げて言葉を紡ぐ。
「おれを、助けて、くれてありがとう。おれ、あいつに負けちまってさ……なさけなくて……」
情けないのはきっと間に合わなかった比良利だろう。
また繰り返そうとしている。自分は対を、失おうとしている。そんなの、そんなの「おれは比良利さんみたいになりたい」
翔が比良利を真っ直ぐ見つめ、今度は力の限り笑ってみせた。
「おれの憧れの狐は間に合った。ちんちくりん狐を助けてくれた。比良利さんの、かちだ」
けれど自分が死ねば、きっとその勝ちは消えてしまう。
ゆえに、翔は絶対に死なないし、死ねない、と言い切った。
これで死んでしまえば、自分は情けない狐のまま終わってしまうから。助けてくれた比良利にも申し訳ないから。
なにより、自分は誓った。必ず比良利の隣に立つ、と。
末永く南北の地を見守る、と。
あれをうそにしたくない。
「うそに、したくない。生きなきゃ……おれは千年生きるって……青葉達にもやくそくしたんだから」
ああ、まったくもって、この狐ときたら。
こんな場面になっても、己の道を貪欲に求め、誰かの想いに寄り添おうとする。
他人の顔色で相手の心を読む狐のことだから、比良利の顔を見て思うことがあったのだろう。何度も間に合った、と……勝ちだと繰り返す。
「くぅ、はぁ、はぁ……ひらり、さん。宝珠も、取り出さないっ、でな」
「ああ」
「ぎんこ、がまた不自由になっちまう……そんなの、耐えられっ、げほっ」
「安心せえ。取り出さぬ、宝珠は決して取り出さぬ。オツネの中に入れぬようなことはせぬよ」
その言葉を聞いた翔は安堵したのだろう。
ゆるりと瞼を下ろし、気を失ってしまう。未だ苦痛に眉を寄せ、荒呼吸を繰り返しているが、それでも翔は懸命に生きようともがいていた。
そんな幼き対に目を伏せ、比良利は懇願するのだ。先代の対の死を思い出し、それを咀嚼しながら、
「誰が宝珠を取り出そうか。お主はまだ死んでおらぬ。取り出す必要なんぞなかろう――翔、死んではならぬぞ」