<九>少年神主、色恋沙汰に巻き込まれる
※ ※
彼、米倉聖司は霊気を持たない人間であるために容易に室内に上がることができる。妖気や霊気を持っていれば、五重結界に拒まれ、室内に入ることすら儘ならない。
青葉の淹れた茶を啜り、悪友は翔に悪いと再び謝罪を口にする。
既に疲れ切っている翔は吐息を漏らし、テーブルに頬杖をつく。
「お前な。明け方から人様の家に来るなんて、昼夜逆転している俺だから許されるんだぜ」
「まだ治らないんだな。お前のそれ。薬で体質の改善治療はしているんだろう?」
表向きでは改善のための治療を行っていると説明しているが、一切合財そのようなことはしていない。
高校の時は親に病院へ連行され、薬を頂戴したがそれを口にすることはなかった。改善できないと分かっていたから。
「まじで同居しているんだな」
翔の隣に腰掛ける青葉を熟視し、米倉は湯飲みを置く。
ギンコ達はオイチの部屋へ避難させたが、青葉の姿は見られている上に諸事情で寝食を共にしていると暴露した。よって部屋にいてもらわなければ不自然である。
完全にカレカノだと勘違いしている米倉は、青葉に突然の訪問を謝罪した。愛想笑いを浮かべる彼女に一笑を向けた後、彼は翔に視線を戻す。
「彼女、お前の体質とよく付き合えるな」
当然の疑問である。翔は機転を利かせ、息を吐くように嘘をつく。
「青葉は俺と同じ体質だからな」
半分は真のことだ。彼女も妖狐、昼夜逆転の体質である。
瞠目する米倉が真偽を確かめるべく青葉に視線を流す。聡い彼女は小さく頷き、自分達は朝昼に眠り、夕夜に活動すると返事した。
「私は席を外した方がよろしいでしょうか?」
気を利かせてくる青葉に、米倉は大丈夫だと告げる。
聞いてもらっても構わないことだと苦笑し、神妙に宙を見つめる。
らしくない、米倉は悩みを抱えているようだ。先ほど電話を掛けてきた飛鳥といい、喧嘩したらしい朔夜といい、米倉の態度といい、何らかの事情がありそうだが。
「南条。俺、楢崎のことが好きっぽい、んだけどさ」
畏まった口調で話を切り出す。
遠慮を見せるのは翔に気を遣ってだろう。かつて翔も飛鳥に恋をしていた男。諦めたとはいえ、彼等の恋愛事情には複雑である。
けれど微笑ましく見守ると決めているため、知っているとおどけてやった。
力なく笑う米倉は落ち着きなく湯飲みに手を伸ばし、小声で呟く。
「小悪魔のくせに一途でさ、誰かさんに振り向いて欲しいから一生懸命に努力して。ほんっと、昔のお前みたいだよ。南条の場合は馬鹿正直な一途なんだろうけど」
「俺のことはいいだろうよ」
不機嫌にあしらい、続けるよう促す。
「最近、楢崎が悩んでいる様子だった。勉強のことかと思って聞いてみれば、進路のことだとあいつは答えた。国立大学をやめて、和泉のいる私立大学に行くべきか、楢崎は悩んでいたんだ」
目を丸くしてしまう。
飛鳥は米倉のいる国立大学を目指していた筈だ。
神主を目指す自分、妖祓長を目指す朔夜に感化され、自分も何か大きな目標を見出したいと決めたのが国立大学だった。偶然、行きたい学科と米倉のいる大学が一致したため、彼のいる国立大学を目指し努力している筈なのだが。
応援していた米倉は当然驚き、今までの努力を水の泡にする気なのかと質問をしたそうだ。
「そしたら楢崎、“朔夜くんは自分の宿命を知っている。私はそれから逃げている。なんか悪いと思って”だって。だけど、泣きそうな顔で普通の女の子になりたいと思う自分もいるとか、言いやがってさ」
飛鳥のことだ。
“人災風魔”の一件で己の道が揺らいでいるのだろう。
命を張って南の地を統べる幼馴染と、命を張って妖と向き合う幼馴染に、焦燥感を抱いたのだろう。人にはない力を持っていながら、普通の生活を望む己は不誠実なのではないかと感じたのだろう。
「楢崎はそれ以上のことを話してくれなかった。それが悔しかった。幼馴染になら言えた悩みなのかと、馬鹿みたいに腹を立てた」
むしゃくしゃした気持ちを抱えた結果、それを吐き出すために翔の家を訪れたのだと米倉は白状する。
「率直に聞きたい」米倉が空になった湯飲みを握り締め、翔を見つめる。
「楢崎は、和泉は、そしてお前は何者だ?」
静聴している此方に構わず、米倉は語り部に立ち続ける。
高校の時から感じていた。ある日を境に三人の空気が、他の者と違うような気がする。違和感を抱いた。具体的にそれが何かと問われれば説明し難いが、三人は何かが違う。違うのだと米倉。
卒業してその違和感は膨張する一方だった。
この際だから聞く。三人は何者なのかと。
真剣な瞳と面持ち、緊張を宿した眼光を見据え、しばし沈黙。その空気を裂くように翔は肩を震わせた。
「なんだよ」こっちは真剣なのだといきり立つ彼に、「何者、か」米倉は聡い人間だと台詞を吐きだしそうになり、どうにか嚥下することに成功する。
くつくつと笑い、翔は口角を持ち上げた。
「俺は化け物だよ」
呼吸を忘れて動きを止める悪友に、そう言ったら自分はどうするのだと肩を竦めた。
考える素振りを見せる米倉は、「食べられるんじゃねえかと思う」真摯に答えた。
なら人間が煮込めるほどの大鍋を用意しなければいけない。翔は戯言を口にした。
「人は誰しも自分が何者か、なんて明確に証言できない。第三者の評価を得て、初めて自分が何者か悟ることができる。お前が俺を化け物と思うなら、お前の中の俺はそうだろうし、悪友と思うなら俺は悪友、変人と思うなら俺は変人なんだろう。
ただ一つ言えるのは、どう評価されようと俺は俺だということ。同じように飛鳥や朔夜も如何なる評価されど、あいつ等はあいつ等。何者なのかはお前が見極めたらいいさ」
すると米倉が厨二病くせぇ説教だと一蹴りしてきた。
それでこそ悪友だ。眦を和らげると、彼が本当に同い年かと訝しげな眼を向けてきた。語り口調が頑固ジジイっぽいと鼻を鳴らしてくる。
ジジイ、とはまた酷い言い草である。
しかし精神年齢的には老いたかもしれない。百年も上の妖達と接しているのだ。老いてしまうのも当然だろう。
「俺はお前がやけに若く思えるよ。幼馴染の関係に嫉妬してくれちゃてさ。若いねぇ」
「南条。お前はぜってぇ枯れただろう? それともあれか、リア充の余裕って奴か?」
睨みを飛ばしてくる米倉にシッシと手で払う。
側らで笑声を噛みしめる青葉が茶のおかわりはどうかと客人に尋ねた。彼女がいることを忘れていたのだろう。決まり悪そうに湯飲みを差し出した。
「ま、飛鳥を落とすのは大変だろうけど、本気でぶつかってみろよ。そんくらいしねぇと朔夜くんラブは振り向かないぞ」
「わーってるよ。もういい。俺は俺のやり方で、あいつのことを知ってやらぁ」
熱々の茶を受け取った米倉が、それに息を吹きかける。
自分もおかわりをもらおうと残りの茶を飲み干した、その時だった。
「俺。さっきお前に言っていなかったけど、泣きそうになっている楢崎にキスしちまったんだ。どうせ泣くなら俺のせいで泣けばいいと思って」
含んでいた茶を盛大に噴き出してしまう。
「か、翔殿」涙目になってむせ返る翔の背を、青葉が大慌てで擦る。
だが相手の発言はこれだけに留まらなかった。
「そしたら偶然なのか、必然なのか、通りかかった和泉に見られちまった。そして勘違いしたあいつに殴られた」
キスした場所が公園だったから悪かったのだろうと彼。
「あーあ、あいつ、ムカつくんだよ。楢崎が好きかどうか、それすらもハッキリしねぇ態度を取りやがって」
気道に茶が入ったせいなのか、それとも爆弾発言をされたせいなのか、目の前がくらくらしてきた。
「うそだろ」相手に真偽を確かめれば、「南条。殴っていいぜ」お前に殴られるなら許せる、と返ってきた。本当のことなのだろう。
幼馴染二人の喧嘩の原因の一つが見えてくる。嗚呼、これはかなり面倒なことになっているに違いない。
※
時は巳の正刻。
天高く昇っているお日様の下、翔は眠気と闘いながらLッテの二階席に赴いていた。
本来なら就寝しているこの時間。日差しの眩しさに唸りつつ、二人席に腰掛けてポテトを口元に運ぶ。疲労が増しているのは米倉と話した後だからだろう。
だが、問題を知った以上、行動は早い方が良い。今ならばテスト期間といって最小限までに修行を控えている。体力的に考えても、立場を考えても今会うしかない。
「待たせたね。ショウ」
ポテトを咀嚼していると、トレイを片手に階段を上ってきた親友が歩んで来る。
力ない笑みには陰りがあった。それに反応することなく、翔は片手を挙げて席に着くよう指示した。
向かい側に腰掛ける朔夜に大学は良かったのかと尋ねる。テスト前の講義は特に大切だと翔は知っていた。
一日くらい休んでも平気だと綻ぶ彼は、注文したチーズバーガーを手に取るとラップを剥き始める。
「悪いね。今のショウの立場上、妖祓の僕と会うことは好ましくないのに」
「まあな。比良利さんに見られたらカミナリだろうけど幸い、妖の活動時間は夕夜だ。朔夜が告げ口しなければ大丈夫さ」
冗談を口にしてコーラの入ったカップに手を伸ばす。
「それでさ」早速翔は本題に入った。敢えて知らないを振りし、会いたい事情は尋ねる。本当は朔夜の前に飛鳥と会う予定だったが、電話をかけ直すと彼女は少し寝て落ち着きたいと返して来たため、親友を優先にした。
相手は黙ってしまう。説明するための言葉を選んでいるようにも思えた。
コーラで喉を潤し、ポテトを頬張って気長に待つ。
「ショウ、僕は君達が好きだ」
危うく口内のポテトを噴き出すところだった。
「待て待て待て」どうにか食べ物を嚥下し、いきなりなんだと引き攣り笑いを浮かべる。気持ち悪いと返してやれば、失礼だと相手が眉を寄せた。
「君だって僕達のことを大好きだと言うじゃないか」
「時と場合を考えろって。二人席で真顔のガチ告白とかビビるだろ。俺はちゃんと幼馴染の関係が好きと言っているじゃないか。せめてショウと飛鳥が好き、にしとけ。なんか別の意味に聞こえるから」
飛鳥の名を耳にした相手の表情が曇る。
じれったくなった翔は単刀直入に彼女と何か遭ったのか、と問う。
そういう表情をしていると指摘すれば、反対に朔夜が質問を返した。
「ショウは飛鳥のことをいつから幼馴染を異性として見るようになった?」
いたく真面目に見つめてくるため、翔は己の過去を顧みて目を伏せる。
「小学校高学年くらいだったと思う。きっかけなんて忘れたけど、気付いたら意識していた。お前は意識をしたことがないのか?」
静かに頷き、異性として見ることはなかったと苦笑する。
物心ついた頃から隣にいて、同じ修行をし、苦楽を分かち合ってきた。共通の家業と悩みを持つ相棒であり家族だったのだと朔夜は答える。
相棒や親友が異性を意識する中、自分はその思考を超えることはなかったと彼。疎らな二階フロアに視線を送る。
「昨晩、飛鳥と大喧嘩したんだ。初めてだったよ、あんな喧嘩」
米倉が語ったように、朔夜も公園のキス事件を翔に経緯を説明する。
その晩は彼女と会う約束をしていた。相談したいことがあるのだと言われたためだ。
けれど前の晩、今夜の約束を後日に回して欲しいと頼まれた。
自分から誘っておいてキャンセルしてしまったことについて、何度も謝罪をされたが、それ以上に心配が脳裏を過ぎった。“人災風魔”事件以来、何かと思い悩んでいる相棒を見ていたからだ。
心配になり、様子を見に地元へ戻った矢先の出来事だったと朔夜。
頭に血がのぼって相手を殴り飛ばしてしまったと吐露する。
彼女が触れられていることに怒れたのか、それとも泣かせていることに怒れたのか、自身にもよく分からないのだという。
「そしたら米倉に言われた。“お前は楢崎をなんだと思っているんだ”ってさ。期待させるような曖昧な態度は止めろ、と返されたよ」
飛鳥が仲裁に入ったことで、彼との口論に終止符が打たれたのだが問題はこの後。
米倉の前で二人は口論となった。
飛鳥は米倉を殴ることはなかったのではないかと咎め、朔夜は嫌ならどうして抵抗しないのだと言い返した。
今日も本当は自分と約束していた。
そのことを責めれば、大学の進路変更について相談に乗ってもらっていたのだと飛鳥に怒鳴られ、その場は修羅場と化したそうだ。
今度は見かねた米倉が仲裁に入ってきたが、自分達の口論は白熱するばかり。
彼女から朔夜と同じ大学に進もうと思ったことを告げられ、それについて相談していたのだと主張されたが、どうしても聞く耳が持てず、こう言ってしまったという。
「“飛鳥は本気で妖祓を目指していない。半端者が傍にいても邪魔なだけ。だから僕等の和泉と楢崎の関係は今日限りだよ。”そう彼女に言ってしまってね」
語り部の顔に後悔が滲んでいる。翔はひたすら聞き手に回った。
「傷付いた飛鳥は泣きながら走り去ってしまった。僕は後を追うことをしなかった。いや、できなかった。だけど、片隅でこれでいいのだと何処かで安堵してしまった」
大切な相棒を傷付けておきながら、離れて行く飛鳥を見て安心している自分がいるのだと親友は苦笑する。
喪失は大きいが、彼女は無理をして自分の隣に立とうとする節がある。
妖祓の道を極めると覚悟した己とは反比例な感情を抱いている。飛鳥には無理だろう。普通の女の子になる夢を捨てる、など。
「飛鳥は予備校で猛勉強し始めてから、本当に楽しそうでね。修行している時よりも活き活きとしている。米倉に勉強を見てもらった話をする時なんて特に。それを見て、ああそうか、飛鳥は“女の子”なんだなぁって思った」
「朔夜……」
「妖も修行もない、自分の人生を切り拓くための受験勉強。来年、大学に入ったら絶対にサークルに入るんだって笑っていたよ。飛鳥はそっちの世界の方が性に合っているんだと思った。僕と彼女はいずれ相棒でいられなくなると察したね」
卒業してからその思いは募るばかりだった、朔夜は寂しそうに笑う。
「僕は君と対等でありたい」人と妖が共存し合う理想の世界を、親友と叶えたい。それは己の夢だ。そのために妖祓長にならなければいけないのなら、喜んで努力しよう。
けれど飛鳥は違う。
彼女は自分の隣にいるべきではないのだと親友は感情的になった。自分の隣にいれば、相棒だからと己の感情を抑え、妖祓の道を真っ当する。
折角国立大学を目指す夢ができたのに、自分の隣に立たなければいけない、その義務感が彼女を苦しめている。
「彼女に向けた言葉を撤回するつもりなんてないんだ。半端な気持ちじゃ、いずれ飛鳥が傷付く。だから、これでいいんだと思う。でも、ああ、殴ったのは大人げなかったなぁ。キスに対しては祝福でもしてやれば良かったのかな」
「朔夜……」
「馬鹿みたいだよ。大喧嘩するつもりなんて、毛頭もなかったのに。傷付けるつもりだって、本当は」
頬杖をついて視線を逸らしてしまう親友に、「お前は昔から不器用だもんな」翔は率直な感想を述べた。
三人の中で一番物腰が柔らかそうに見えて、一番感情下手だと目を細める。
もっと別の形で飛鳥に気持ちを伝えることもできただろうに。
「なのに人三倍、心配性なんだよな。俺の親友って」
「君には負けるけどね」
「一つ、俺から聞いていいか。お前は飛鳥のことを異性として見たか?」
彼の視線が戻る。
「分からない。僕は飛鳥を、どこか兄弟のように見ているから。曖昧な態度しか取れない自分が狡く思えるよ」
「けど、他の男には取られたくない。そうだろ?」
「独占欲なんて安っぽい感情だ。常々思うよ。どこかで不変を望む馬鹿なんだ、僕って」
未だに感情の整理がついていない親友は不器用だ、本当に不器用だ。
「これから、どうするつもりだ」
「どうすることもしないよ。僕が声を掛ければ、また妖祓の扉を開いてしまう。謝ることも、連絡もしない最低人間を貫こうと思う。ショウはどうするつもりなの?」
「それこそ、どうもしねぇよ。気が向けばお前や飛鳥に電話を掛けて、会いたいと予約を入れたり、私生活に問題が出来たら相談したり。これはお前と飛鳥と米倉の問題だ。部外者が口を出すなんておかしいだろう?」
接し方を変えるつもりはないと翔。
朔夜も、飛鳥も、そして米倉も自分にとって大切な幼馴染であり、悪友なのだから。
何かあれば連絡してきたらいいし、此方から何かあれば連絡をすると返事した。
初めて朔夜の表情が和らぐ。「君らしいね」それだけで救われると一笑を零した。それは、いつも目にする彼の素の顔だった。
※
朔夜と別れ、一度帰宅した翔は仮眠を取って夕方前に家を発つ。
待ち合わせ場所は地元の公園。
ハプニングとしては、いつも一緒に寝ているギンコが起きてひょこひょことついて来てしまったことだろうか。
帰れと強く言えば、黙って家を出て来たことがばれてしまうため、仕方がなしにギンコを連れて目的地へ。
しかし予定が崩れてしまう。
驚いたことに飛鳥がアパートの外壁前で膝を抱えていたのだ。
そっと声を掛けてやれば、目を腫らした彼女が翔の顔を見るや堰切ったように声を上げた。恐る恐るギンコが彼女に近寄ると、その身を抱きしめて赤子のように泣きじゃくってしまう。
必死に涙を堪えて此処まで来たのだろう。
翔は飛鳥を落ち着かせていると、泣き声を聞きつけた大家のオイチが自分の部屋においでと手招いたため、彼女を連れて一階の大家の部屋へ。
自分の部屋は五重結界が張られているため、申し出は有り難かった。
オイチは妖祓の少女と知っていても、彼女のために温かなココアを差し出し、どうしたのだと慰めてくれる。
しかし部屋に入っても飛鳥は火が点いたように泣きじゃくり、落ち着かせるのに時間を要した。その内、おばばが窓から部屋に入って来る。祖母もまた泣き声を聞きつけたのだろう。
『どうしたんだいお嬢ちゃん』
おばばが歩むと、また涙が溢れ、大声で泣いてしまう始末。
ようやく落ち着きを見せたのは小一時間後。冷めてしまったココアをオイチが温め直し、彼女に差し出すと美味しそうに飲んでいた。
頃合いを見計らって二人の老婆が事情を尋ねると、飛鳥は掠れた声で事を説明。彼女も誰かの優しさに縋りたいのだろう。大喧嘩やキスのことを話していた。
こういう場合、男の自分より、同性の方が飛鳥の気持ちに理解を示し、的確な助言をしてくれるだろう。翔は黙って様子を見守る。
事を知ったおばばは『それは辛かったねぇ』と慰め、「傷付いたのう」オイチが頭を撫でた。
「わ、私は、朔夜くん……が、ほ、ほんとうに……あんな言い方……キスされた私も、悪いけど」
『お嬢ちゃんは彼のことが好きなんだねぇ』
うん、うん、二度も三度も頷き、飛鳥は好きなのだと返した。
半ば無理やり抱いていたギンコと目を合うと、「オツネちゃん。私」本当に彼が好きだったのだと大粒の涙を落とす。
気持ちが分かるのだろう。いつも喧嘩している彼女の頬を舐め、銀狐は飛鳥を慰めていた。
「んまぁ、こんなめんこい女の子を泣かすなんて。どんな男かねぇ。不器用さんなことには違いねぇけんど」
『男は一つのことにしか集中できない不器用な生き物だからねぇ』
見守っている男の翔としては耳が痛い。席を立つべきだろうか。
「私、もう、どうすればいいか……」
『お嬢ちゃん、まずは落ち着きなさい。自棄は何も生まないよ』
おばばが助言した。
思い切り泣くだけ泣いたら、心を落ち着かせるためによく食べなさい。よく寝なさい。よく体を動かしなさい。そして冷静な自分を取り戻しなさい。
立ち直れとは言わない。
けれど自暴自棄になりそうな己は捨てなさいと猫婆。飛鳥の今後の行動を見据えた助言だった。
『お前さんが今、やるべきことは道を探すことだよ』
「道?」
「んだぁ。おめぇさんは何処か人に流されて、道を定めようとしている節があるんよぉ。その男の子達さは、随分と大人げねぇことしたけんどぉ、ふたりとも自分で道を決めて欲しいと思ったんでねぇか」
国立大学から私立大学への変更と、その理由。
米倉は努力している飛鳥を陰ながら支え、常に応援していた。だからこそ“和泉朔夜”を理由に進路を変更して欲しくない。
朔夜は望まぬ道に進めないよう、相棒を突き放した。片隅で意識し始めた彼女を危険な目に遭わせないように。普通の女の子になれるように。
『他人と同じ道を歩くことはできない。お嬢ちゃんにしか歩めない道なんだ。恋もそうだし、生きる道もそうだよ』
「好いた男の子と同じように生きなくてええんだと思うよ。道が定まっていないことが、おめぇさんの焦りになってっかもしれねぇけんど、おめぇさんの好きに生きたらええ。おめぇさんの人生はおめぇさんのものだ」
今の飛鳥は昔の己のようだと翔は微苦笑を零した。
何処となく人に流され、自分のことを自分で考えようとしない。そういったところが二人に執着していた自分だと思う。
鼻を啜る幼馴染が銀狐に視線を落とした。
小悪魔らしく生きなさいよ、と言わんばかりに尾で胴を叩いている。なんとなくだがそう言っているような気がした。
今しばらく呆けていた彼女だが、「またおばあちゃん達に会いに来ていい?」と泣き笑い。勿論だと返す妖の老婆達にまた一つ泣きそうな笑みを浮かべ、彼女はぽつりと吐露した。
「妖のおばあちゃん達、大好き」
外に出るとすっかり日が暮れていた。
落ち着きを取り戻した飛鳥を送るためにアパートを出た翔は、ゆっくりとした歩調で彼女と並ぶ。
結局自分は何もせず、老婆達に彼女を任せっきりだったが、それで良かったのだと翔は思う。異性に慰められるよりかは、ずっと良い薬だと思えた。
途中コンビニに寄る。
飛鳥を外で待たせ、手早く買い物を済ませると彼女の手を引いてこっちだと誘導。戸惑う飛鳥を無視して向かった先は、大きなマンションの植木。その縁に腰掛け、「ほら」大好物のシュークリームを差し出してやる。
落ち込んだ時は甘いものだと、飛鳥は口癖のように言っていた。今がその時だろう。
「私、ショウくんを好きになれたら良かった」
それまで無言でシュークリームを食べていた飛鳥がこのようなことを発言するため、翔はシュー皮を押し潰し、カスタードを飛び出させてしまう。
服に落ちそうになるカスタードを必死に舐め取っている最中、彼女は語りを続ける。
「この前、ショウくんと青葉さんに会った時、青葉さんがとても幸せそうに見えたの。勿論、二人はその気なんて無いんだろうけど……二人でお買い物したり、ケーキを買ったり、時に甘えさせてもらったり。女の子のして欲しい望みをショウくんはさり気なく叶えていた。それが羨ましかった。朔夜くん、鈍ちんだから誘ってもこっちの気持ちに気付いてもくれないし」
どうして自分は和泉朔夜という男の子を好きになったのだろう。隣には自分を慕ってくれていた男の子がいたというのに。
今だってこうしてさり気ない優しさを向けて、自分を慰めてくれている。
一方で、片恋を抱いている彼は自分にその気があるのかどうか分からない態度ばかり。曖昧な態度が狡い。自分の恋は損ばかりだ。恋なんてしなければ良かったと飛鳥。
聞き手に回っていた翔は一思案し、そっと口を開く。
「けど恋するお前は何より輝いていた。恋焦がれるお前ひっくるめて、飛鳥に惹かれていた男がいたのは確かなんだ。だからそんなこと言うなって。俺はお前が損得関係なく一途に朔夜を慕っていると知っている」
空いた手で幼馴染の頭を撫でてやれば、再び相手の泣き顔が浮かぶ。
「ショウくん」「ん?」「私、朔夜くんを嫌いになりたい」「ん。そだな」「米倉くんに乗り換えたい」「あいつ、ちと助兵衛だけどな」「分かる。胸ばっか見てくるもん」「……あいつシバいたろうか」「でも」「朔夜を嫌いになれないんだろ?」「うん」「好きなんだろう?」「今はショウくん」「嘘つけ」
ぽんぽんと頭を軽く叩き、泣き不貞腐れ顔を作る飛鳥の鼻先を指で弾いた。
「朔夜は不器用だからさ。ああいう形でしか、お前を突き離せなかったんだろうな。今、妖と妖祓は対峙している。俺と朔夜は傷付け合うと思う。それにお前を巻き込みたくなかったんだろう」
「それとキスと殴ると米倉くんは別物だと思う」
「だから言っただろう? 朔夜は不器用だって。お前を突き放す理由にしちまったんだよ」
相手の気持ちを蔑ろにしてまで、相棒の望む道を進ませようとした結果だと翔。
代償は相棒の喪失、幼馴染の関係崩壊と大きいものだが、それを引き換えにしてでも突き放したかったのだろう。朔夜は“自分”という存在を枷にしたくなかったのだ。
「飛鳥は妖祓を辞めたいんだろう?」翔が問うと、「怖いの」大好きな人と傷付け合う未来が怖いのだと彼女。
普通の女の子になりたい願望もあるが、一番は以前のように妖と化した幼馴染と対峙する未来が来るのでは、と懸念を抱いてしまう。
翔は同調した。自分も同じ思いを抱いている。
「妖と人が共存できる世界が出来上がったら、そんな憂慮も抱かずに済む。だから俺は、朔夜は、理想のために奔走するんだ」
「慰めてくれた妖のおばあちゃん達、私は大好きだよ」
「そういう人間、妖が増えれば、万々歳なのにな」
食べ終わったゴミをビニール袋に入れていると、足元に妖気を感じた。
見下ろせば、指を銜えて物欲しそうにジーパンの裾を掴んでいる小人の姿。葉の蓑を羽織っている。
背後に生えている植木の精のようだと飛鳥。シュークリームが食べたいようだ。妖狐の翔に目でせがんでくる。
弱った、自分の分はもうないのだ。
頬を掻いていると、飛鳥がしゃがんで己のシュークリームを千切り、相手に差し出した。驚いて翔の靴の陰に隠れてしまうが、「ほら」彼女が泣きっ面のまま笑みを零すと遠慮がちに手を伸ばし、それを受け取った。
目が合えば恥ずかしそうにシュークリームを抱えて、植木まで飛躍してしまう。程なくして、一本の枝が飛鳥の前に落ちてくる。
「あいつのお礼だな。受け取ってやってくれ」
青々とした葉を付けた枝を拾い、飛鳥がすくりと立ち上がる。心なしか彼女の表情は柔らかかった。
「私ね、ショウくん。妖祓のせいで、いつも妖に命を狙われていたの。妖祓の血や胆は妖を強くすると伝承もあるから。だから妖から身を守るために、私と朔夜くんは幼少から修行をしてきたんだ」
食べかけのシュークリームを口に押し込み、咀嚼。
それを呑み込んだ彼女が顧みて、そっと翔に歩む。
「昔は妖が怖くて憎くて。でも今は仲良くしたくてしょうがない種族なの」
いつの間にか耳と尾が出ていたようだ。背伸びした飛鳥が己の耳に触れるまで、変化が解けていることに気付かなかった。
刹那、体に衝撃が走る。目を落とせば、胴に手を回して背に顔を埋めている幼馴染の姿。
「やっぱり私は朔夜くんとは、同じ道を歩めないよ。もう妖を祓いたくない。ショウくんやおばあちゃん達のように優しい妖がいると知ったから」
「あすっ」
「普通の女の子になりたいけど、この視える力は大切にしたい。妖と繋がっていたいの」
目を泳がせ、唸り声を漏らし、首を左右に捻った後、正面に視線を戻してジーパンのポケットに手を突っ込む。
代わりに三尾で相手の背中を摩り、慰めてやった。
「五分。それ以上は勘弁しろよ」
ぶっきら棒に言うと、飛鳥の腕の力が強くなる。
聞こえてくる嗚咽に気付かない振りをし、「お前は負い目を感じるな」望まぬ道を突き進まなくていい。自分の決めた道に胸を張って進めばいい。
幼馴染達が危険な道を歩もうとしているから、だから、そんな理由で道を定めないで欲しい。飛鳥はもっと自由で良いのだ。自分も朔夜もそれを望んでいる。
「だけど、忘れるな。お前が別の道に進もうと、飛鳥は俺や朔夜の大切な幼馴染だ」
抱きしめたい気持ちが芽生えたが、翔は気のせいだと己に言い聞かせる。
憮然と息をつき、天を仰ぐ。
もう空は殆ど暗い。これから妖の時間だ。そう、自分は妖、彼女は人間。ぬくもりを共有することはできようと、自分達は異なる種族。人間だった頃の感情はすべて思い出として妖の世界に持っていくと決意した。
恋愛感情を捨て神主になると決めたあの日から、妖の自分に恋心は宿っていない。そう願いたいし信じたい。
蛇足になるが二日後の明け方、翔は飛鳥から電話をもらった。
ただでは折れない小悪魔は一日あの日のことを整理した後、米倉と朔夜を個々人で呼び出し、キスした彼には問答無用で張り手と説教。
思わせぶりな態度をした彼には、無言で脛を蹴ってやったそうだ。
あの朔夜くんラブだった飛鳥が朔夜に脛蹴りをお見舞いするとは、彼女は相当怒っているのだろう。
うじうじと引きずらないところは飛鳥の長所だが、女とは怒ると怖い生き物である。
千行の汗を流す翔は、ぺらぺらと当時のことや進路変更はしないと喋る飛鳥に畏怖の念を抱いた。
相棒解消した飛鳥と朔夜がこれから、どう転ぶか分からないし、米倉の恋心が実るのかも翔には予想がつかない。
ただどのような展開になっても自分は彼等を見守るのだろう。変わりゆく人間達の関係を、己は変わらない姿で、いつまでも。