<間>北の神主と烏天狗の密約
そう日を置かず十代目から返事が来る。
それは対と話し合った結果、名張天馬を師として迎え入れるという喜ばしい内容。
こうもあっさり決まるとは思わずにいたのか、本当に息子で良いのか、自分が行くべきではなかったのか、と当主が血相を変えてしまったことは余談にしておく。
返事を頂戴したその日に呼び出しがあったため、天馬は指定の時間に合わせ“日輪の社”へ向かった。その際、天狗の正装として山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履いておく。
さすがに教えるとなれば正装は必須だと思ったからだ。
さて“日輪の社”に向かったのは、幾度も記しているように“月輪の社”の家屋を改装しているからである。
修行の間も家屋内にあったようで、場所を“日輪の社”で借りてやるとのこと。
別段そこに言うことはなかったのだが、天馬は“日輪の社”の行集殿を訪れ、まず驚いてしまった。
既に十代目は修行をしていた。しかも、かなり激しい修行を。
神主舞を対から学んでいたようで、彼は手厳しく指導されていた。足が遅い。手のひねりが甘い。動きが雑になっている。飛躍が足りない。
玉のような汗を掻いている十代目に容赦ない言葉を投げ、比良利は眉根を寄せていた。
自分の番まで見学させてもらっていたのだが、ぽたぽたと彼の汗が床に落ちている。扇を靡かせる行為すら辛そうなほど、十代目は体力を消耗していた。
けれど決して弱音を吐こうとはしない。休みを取ろうともせず、直向きに稽古に打ち込んでいる。
これが修行する十代目の姿なのか。天馬は恍惚に妖狐を見つめた。
「それまで。ぼん、水と塩を摂るが良い」
合図と共に、彼がその場で膝をつく。
肩で息をしている十代目が動けそうにないので、代わりに自分が水の入った容器と塩の塊を持って差し出せば、「ああ。悪い」力なく彼は笑い、それを受け取る。
到底、次の稽古に入れるような体ではなさそうだったのだが、二十分の休憩の後に十代目は立ち上がって天馬に武術を教えてくれるよう頭を下げた。あの十代目が平民の自分に頭を下げたのだ。
頭領らしからぬことだが、相手は今の立場を考え、頭を下げたのだろう。
「まだ休憩が必要なのでは」
相手を気遣えば、もう予定より十分も遅れていると翔。
折角天馬が来てくれたのだから、早速修行に入りたいと気丈に笑ってみせる。
約束は約束なので、容赦はしないつもりだ。天馬は翔の気持ちを汲み、武術の基礎を教えるべく彼と向き合った。
十代目は本当に武術の基礎も知らないど素人。
その道の者から見たら、お粗末極まりない。お世辞にも強いとは言い難い妖狐だった。
自身も自覚しているのだろう。
基礎を学ぶために姿勢から、その振る舞いの意味から、受け身から必死に学ぼうと食らいついてくる。雪之介の言う通り、食らいついたら放さない男だった。
二日と時間を空けているが、三回目に入れば、全身筋肉痛になったそうで動きが鈍くなっていた。それでも容赦ない指導を望む姿勢なのだから、大した根性だと天馬は感心してしまう。
強くなりたいのだろう。本当に強くなりたいのだろう。
彼は武術だけではない。
大麻や神主舞も学ばなければならない。並行して神主としての立ち振る舞い、執務も覚えなければならない。
“月輪の社”が開けば妖達と交流し、開かなければ“日輪の社”で民と接する。
一方で大学で勉学に勤しんでいる。
授業中、睡魔と必死に闘う彼を何度も目にした。疲れて眠ってしまうこともあり、隣でノートを取っていた雪之介がさり気なくルーズリーフに彼の分を書き取っている一面も目撃する。
以前の天馬ならば、居眠りを見かけた頭領に呆れと落胆の二つを抱くだろう。
だが頭領の一面を知ってしまった今、同じ授業でかぶった彼が居眠りを目にすると、ややホッとしてしまう。それだけ彼の修行は過酷だった。
稽古の途中に休憩を挟めばうたた寝する姿を目にする。
稽古が終われば、自分を見送るまで気丈に振る舞うものの、姿が見えなくなるや気絶するようにその場に倒れて寝てしまう。
心配で様子を見に行った天馬は幾度もそういう場面に出くわした。並の覚悟で神主に就任したのではないのだと分かってしまう。
何がそこまで彼を駆り立てるのだろう。
頭領の翔と接していくうちに、天馬は南条翔という妖に興味を持った。他人に無頓着な自分がこうして興味を示すのも珍しい。
聞いてみようかと目論みを立てていたある日、講義を終えた天馬は第三体育館に向かう翔の姿を見つける。
今宵は稽古の呼び出しをもらっていない。ゆえに彼と関わる必要はないのだが、気付けば足が勝手に彼の背を追い駆けていた。
静寂が包む大学の敷地を進んでいると夜風に乗って笛の音が聞こえてきた。
甲高い音が目立つその音を追う。段差に腰掛けて龍笛を吹いている十代目を見つける。上手くいかないのだろう、吹いては口を離して龍笛と睨めっこしている。
邪魔しては悪い。
片隅では分かっていたが、天馬は相手に声を掛けていた。十代目は恥ずかしそうに龍笛を鞄で隠してしまう。
演奏を聞かれたくなかったのだろう。顔を紅潮させている。
隣に腰掛け、理由を聞けば彼は下手くそ過ぎるのだとしかめっ面を作った。
「神主舞も大麻も、それなりにできるようになったけど、笛だけは半人前以下でさ。なるべく人に聞かれない場所で練習しようと思ったんだよ」
夜の大学ならば講義が終わり次第、皆、帰っていく。
研究室に籠っている生徒もいるだろうが、大学は広い。此処は恰好の練習場なのだと十代目。神主は龍笛もできて当たり前、だが自分は人生の中で深く楽器に触れた試しがない。そのため苦労しているのだと溜息をつく。
神主舞、大麻、武術、執務、そして笛。十代目は本当に多忙な日々を送っている。
「翔さまはお疲れにならないのですか? 毎日修行では、息も詰まるでしょう。自分の時間が持てないのは辛いと思います」
「覚悟の上で神主の道を選んだんだ。我儘は言えないさ。だけど、そうだな。本音を言えば、同世代の奴等がサークルや遊びの約束を交わしているの目にすると羨ましくなる、かな」
今まで自分がどれだけ恵まれた環境にいるのかが分かる。彼は苦笑いを零した。
言葉の端々に“普通の生活”に対する憧れが含まれている。自分が彼なら、同じように羨望を抱くだろう。
そして、こう思うに違いない。何故自分ばかり、このような苦労を負わなければならないのか、と。
此処には彼と同世代の生徒がいる。人だけではない、妖がいる。苦労を負わない者達がいる。
「後悔、したことはありませんか?」
失礼な問いかもしれない。
けれど聞かずにはいられない。
「俺の成長を待つ“対”や“同胞”がいると分かっているのに、後悔なんて口にしていられないさ」
素の笑顔を見せる十代目に目を見開いてしまうが、すぐに表情を戻す。
神主に対しても、修行に対しても、本当に真摯で直向きな妖狐。大学では決して見せない一面。稽古をつける度に感謝を向けてくる素直な頭領。
そんな彼に自分は真摯な気持ちで接近したとは言えない。芽生えていた罪悪は大きくなる一方だ。
「自分は翔さまほど、誠実な妖とは言えません。貴方の名を利用する自分がいますので」
後先考えず、考えなしに感情を吐露してしまう。
利用と聞けばすぐにでも師を解雇すると命じられるかもしれないのに、天馬は言わずにはいられなかった。
相手の誠実な気持ちに当てられてしまったのかもしれない。
笑声を上げたのは十代目だった。頭を小突き、彼は今更何を言っているのだと肩を竦めてくる。
「お前が十代目に落胆しているのも知っていたし、指導とは別に気持ちがあることも知っていたよ」
凝視、固唾を呑んでしまう。
声すら上げられない天馬に、十代目は悪戯っぽく綻ぶ。
「だけどさ。俺はお前に指導してもらいたかった。頭領としてお前と対面した時、天馬は本気だった。何が何でも俺に食らいつこうとしていた」
ちょっとやそっとじゃ引き下がらない、その目が気に入ったのだと翔。
「天馬が何を思い、俺を利用していると思っているのかは知らない。でも、悪く言えば俺もお前を利用している。指導してもらっている俺はお前に何かしてやれているだろうか? 何もしてやれていないだろう」
「……自分と貴方は思いが違います」
「思惑は誰にだってある。俺は強くなりたい。強くならなければ、自分の身を守ることもできず、周囲の妖達の足も引っ張る。だからお前に指導してもらっている。俺はお前に支えてもらっている」
支え、反芻すると自分はそう思っていると十代目は一笑。
思惑はさておき、神主は、巫女は、神使は民の支えがなければ、先導する力もない。頭領達は民に支えられ、助けられて生きているのだ。
民達が支えてくれているから、此方は先導する力を持つことができる。皆を導くことができる。持ちつ持たれつの関係だと十代目は龍笛に目を落とした。
「私利私欲に利用されているのなら、話は別だけど、天馬はそういう妖じゃないだろう? 俺の身分で何かしらお前の野望が叶うのなら、それでいいじゃないか。俺だってお前の指導で野望を叶えようとしているんだぜ? 互い様だよ」
「貴方様の、野望とは?」
「人と妖の共存。二世界が許し合えるような関係を作りたいんだよ。それには俺が強くならなくっちゃな。まじヤになっちゃうんだよ。九代目が鬼才だと、俺は必要以上の努力をしないといけないんだからさ」
龍笛と鞄を傍らに置き、勢いよく立ち上がった十代目は体を反らして綺麗な曲線を描いて飛躍。無意識に神主舞の音頭を取っている。
壮大過ぎる理想を持つ妖狐。密かに九代目を意識して、努力を重ねる十代目。そして過去の清算を計らい、全盛期以上の繁栄を求める自分。
何かしら過去に面影のある自分達は、それを拭うため、上回るため、今の自分達を見てもらうために努力をしている。
天馬は微かに表情を崩した。
やっと十代目が頭領の卵なのだと思えるようになる。
頭領と認めるまでにはいかない。けれど素質があることは確かだ。もっと関わってみたいという気持ちが膨らむ。
「此処で笛の練習をしていることは、他の奴等には内緒にしてくれ。何か奢るからさ」
白い狐は音頭を取って優美に地を蹴る。大きな動きが目立つ十代目の舞。それは荒々しくも、何処か人を魅せる。いや妖を魅せた。
目を細めて、そっと膝を立たせる。
「奢りの代わりに、今ここで貴方の舞を見たい、では駄目でしょうか?」
本就任では、その観衆の多さに神主舞が豆粒だった。
月明りが強い今宵。惹かれるように己は十代目の後を追い、彼と秘密を交わす。これが縁と呼ぶのならば機会を大切にしたい。目の前で神の舞を天馬は観たかった。どうしても瞳に焼き付けたかった。
彼の足が止まる。夜風は攫う、彼の闇にまみれた髪の色を。色抜けた髪は月光によく映える。
「さてもこれは夢であり幻、今宵見たことは貴殿だけの胸の中に」
吹き抜ける風は狐の衣類を浄衣に変え、長い三尾の体毛を靡かせ、生える耳を優しく揺らす。
天馬に向かって深くお辞儀する白き狐。懐から銀の扇子を取り出すと、それを開いて、大きく飛躍した。
月の光が優しい夜の舞台、観客は一人、それでも狐は舞う。たった一人のために。
修行に対して貪欲で並々ならぬ気迫を見せる白狐。彼は妖一人のために、その足で走るのだろう。見返りなど求めず、ただひたすらに。目前の演舞のように、一人のために全力を注ぐのだ。
穏やかな気持ちに包まれる。今宵の舞を決して忘れることはないだろう、そう天馬は深く胸に刻んだ。
心境の変化に伴い、帰宅すると己の武の時間が増えたものだ。
相手が本気で喰らいに掛かっている。ならば本気で受け止めなければ、いつか喰われてしまう。
張り切り過ぎているのではないかと当主に苦笑いされると、ついこう答えてしまった。
「生半可な気持ちで、翔さまに武術を教えることはできません。彼の本気に自分も応えたい。何より、手を抜けば喰われてしまいます」
師が喰われるなど情けない話ではないか。
天馬はいつか、本当の意味で十代目の目に、この存在を留めてもらおうと目論んでいる。己は神職の道に進むことはないけれど、先祖が山の守護を名張家に任せたように、自分も何かを任せられるような男となりたい。
「自分の力が十代目の糧となり、支えとなるのならば、努力は惜しみません」
己の決意に当主が瞠目していたことなど知る由もない。
十代目ではなく、南条翔に仕えたいと思い始める己に天馬は気付かない。
※
天馬が比良利個人から呼び出されたのは、指導後の夜だった。
体を動かした後だったため、恐れ多くも“日輪の社”で風呂を借り、その汗を流して衣類に袖を通すと客間に案内される。
白狐の対であり師である赤狐に呼び出されるとは、よっぽどのこと。
自分の指導に問題でもあるのだろうか。不安を抱えていた天馬だったが、意外にも彼は相談を持ち掛けてきた。
「名張天馬よ。我が対、三尾の妖狐、白狐の南条翔の“護影”をしてはくれぬか」
「護影、でございますか?」
護影とは“人の世界”でいう用心棒、文字違いの護衛のことである。
「左様」彼は一つ頷いて愛用している煙管を食む。
「知っての通り、白狐は未熟の身。強い要望により人の世界に身を置いてはおるものの、あやつに宿した宝珠の御魂を狙う輩は多い。百年は戻って来るつもりはないようじゃが、未熟の腕で何処までその我儘が通用するか」
気を回してやりたい気持ちはあれど、赤狐は一頭領として葛藤している毎日のようだ。
「白狐が学びの場でどのように過ごしているのか、わしには想像もつかぬ。安全な場と聞いてはおるが、油断は命すら危ぶまれる」
静かに紫煙を吐き、四代目北の神主は脇息に凭れる。
「天馬よ、其方に危険な役割を与えているのは重々承知。無理を申しているのは分かっておる。じゃがお主の腕を見込んだ上の頼み、この赤狐の願いを聞いてはくれぬじゃろうか。学びの場のみで良い。“護影”をしてはくれぬじゃろうか」
つまるところ、赤狐の目の届かない“人の世界”にいる間は、未熟な白狐のお守をして欲しいとのこと。
突然の申し出に混乱。自分で良いのかと聞き返してしまうが、比良利は天馬にしかできないことなのだと返事する。
「あやつの師を務めてくれるお主にしか成しえぬ。天五郎から、その出でた才も聞いておる。わし自身幾度も主の腕を目にしてきた。あの無鉄砲狐を止められるのは、わしの他にお主しかおらぬじゃろう」
「無鉄砲……確かにそうですね。組手の際、翔さまは猪突猛進に当たっていくことが多く、己を顧みない。それが最強の強みであり、最大の欠点です」
己を守るために始めた武術のわりに、彼は此方が繰り出す攻撃に恐怖していないのか、痛みより相手を伸そうという意思が垣間見せる。
素手だからできる行為だが、もし相手が剣でも持っていたら、危険極まりない行為だ。あれでは腸を切り裂かれる可能性がある。
「主にも見せたか」
額に手を当て、比良利は唸り声を上げた。
「翔の悪い癖じゃ。あやつは理想や目的に貪欲ゆえ後先を考えぬ」
「食らいついたら放さない。その気迫が相手側に恐怖を与えるのは間違いないでしょうが、武道をしている身として言わせて頂きます。あれでは長生きしません」
あのままでは近未来、悪しき妖と遭遇した際、刺し違えることがあるやもしれない。
そんなの、惜しいと天馬は思う。
稽古や大学の休み時間、彼は楽しそうに修行について語っている。
どのようなことをすればもっと強くなれるのか、天馬はどんな修行をしているのか、好奇心旺盛に話す彼を知っている。
修行は成果を出さなければ意味がない。過程で努力しても、命が散れば水の泡なのだ。教えた此方側としても、教わった白狐としても、それでは無意味だ。
天馬は一歩分、下がると両手を添えて比良利に頭を下げた。
「その役目、有り難くお引き受け致します。学びの場にいる間は、名張天馬が責任もって守護致しますのでご安心下さい。その代わり」
上体を立て、北の神主に条件を付けた。
「他言無用でお願い致します。特に翔さまには御内密に。知れば、きっとお止めになられると思いますので。貴方様が気掛かりとする人の世界にいる翔さまのご様子は、自分がお伝えしましょう」
「すまぬ天馬。お主に要らぬ仕事を増やした。この恩は必ずや比良利が返すと約束しよう」
天馬はかぶりを振る。
純粋にその役目を与えられ、嬉しいのだと告げた。自分に回ってきた役目が十代目を守護するもの、誰にもできないことが成せると思うと嬉々する。
自分は十代目の名を利用させてもらう。名張家のため、汚名返上のために。それは今も昔も変わらない。
ただ“利用”という言葉を“支え”と換言してくれた妖狐に、何かしら仕えたいと思ったのも確か。
「翔さまは良い目をしております。あの目は民を動かすことでしょう。自分のように」
比良利と視線が交わる。天馬の乏しい表情に笑みが滲んだ。
「お約束して下さるのならば、一つだけ。自分達にお見せ下さい。立派になられた翔さまと貴方様が、我々妖を先導する姿を」
北の神主と呼ばれた赤狐が脇息に肘をつく。
子供の成長を聞く親のように綻ぶ彼は固い結びを交わしてくれた。必ずや対と南北の地を安寧秩序に導いてみせよう、と。
そんな比良利に、今度は天馬から話題を振る。
「比良利さま。翔さまの師をしている貴方様にお尋ねしたいのですが」
相手が瞬きをする。彼は言葉を待っていた。
「翔さまにハラハラさせられることはございませんか? 特に翔さまの“もう一回”。あれは恐ろしいです。稽古で倒れそうになっても、それを忘れるほど、もう一回と繰り返すのですから。指導する此方の寿命が縮まりそうです」
「我等の寿命が縮まってしまったのならば、十中八九、翔のせいじゃのう。あやつのしつこさは南北全土探しても、右に出る者はおらぬ」
もう二百年は寿命が縮んでいる、比良利は六尾を左右に振った。
笑声を噛み殺してしまう。お互い弟子のしつこさには苦労をしているようだ。
頭領の南条翔を知れば、必然的に大学の南条翔も知りたくなる。
まるで、この好奇心は方程式のようだ。
答えを知りたいがために、手探りで数字を当てはめていく。xが頭領ならば、yは大学生の彼。これらが揃って初めて南条翔の人物像が浮かび上がる。
「……翔、包帯は正しく巻かなければ、筋がおかしくなると何度言えば分かるのですか」
天馬は彼の要望に応えるため、人の世界にいる彼は平民扱いしている。
よって周囲の妖達に度肝を抜かれているのだが、雪童子が既に平民扱いしているため、言うほど驚かれてはいない。
如いて言えば、名張家に良い印象を持っていない一部の妖が媚びているのではないかと陰口を囁く程度。いつものことなのでこれは放っておくことにする。
「いや、ちょっと解けちまって。ちゃんと後で巻き直すから」
右手首の包帯を押さえる翔が、いそいそと第三食堂から逃げようとするので、首根っこを引っ掴み、無理やり席に戻す。
よれた包帯を奪うと、鞄から新たな包帯を取り出した。
自分でできると片意地を張る十代目の扱いにも慣れたもの。
「今宵の稽古を延期しても良いのなら、身を引きますが」
「天馬先生。弟子の包帯を巻いて下さい」
素直に右腕を差し出す、生傷だらけのそれ。
皮膚が再生する前に稽古で怪我を負い、かさぶたが剥がれて、新たな傷を負う。短く切り揃えられている爪も指先も乾き切って痛々しい。
「あー! な、な、名張くん! また翔さまのお世話をっ」
食堂に轟く悲鳴を上げるは、ファンを自負している蝶化身。
ずるいと連呼する彼女と鼻を鳴らす己の間で、翔が周囲の目を気にし、おろおろしているが会話は流れていく。
「翔の世話をする。師として仕えている身分なのだから当然だ」
「おぉお俺が教えてもらっている身分だからね! 師が仕えるって日本語おかしくね?!」
「十代目のお世話は夕立にだってできます。名張くんよりは、ずっとマシなお世話ができますから、そこを退いて下さい!」
「夕立やめて! 俺を大声で十代目と呼ばないでくれ!」
大袈裟に嘆いている妖狐の姿も、また彼の一面。
誰も知らない十代目の努力、おくびにも出さない白狐。それを知る一部の者は何を言うわけでもなく支えようとするのだ。彼を利用しようとしている自分も、その一人でありたい。
都合の良い傲慢だろう。罵られても良い、これは自分で定めた新たな夢であり目標だ。
「……翔くん。天馬くんと仲良くなったはいいけど、そのおかげで環境が悪化したね」
「俺ぜってぇ勘違いされているよ。どっかの危ない子息だって思われているよ。天馬や夕立が側近だと思われているよ。人間の同学年の生徒が俺を敬遠している気がする。いや気のせいじゃない。知人すらいなくなりそう。まじ泣きしそうなんだけど!」
余談として、白狐の夢見る“普通の大学生活”がまた一つ、遠のいたことを此処に記しておく。