<十五>梅、いつまでも薫る
五方神集最終日。
ようやく家に帰れるのだから、翔のテンションはハイになっていた。
ネズ坊達に土産の約束をしているのだが、御魂の社には買えるものがなさそうなので、向こうで適当に菓子を買う予定である。
だが、まだ油断をしてはいけない。
今宵は自分達にとってトリを飾る大切な行事があるのだから。
やたらめったら緊張をしながら、本殿に集った翔は幾度も扇があることを確認。そわそわそと落ち着かない気持ちを何度も宥める。
本殿にてオオミタマが長いながい大祓詞と呼ばれる祝詞を読み、サキミタマが祈祷の舞を踊り、アラミタマが神使を集わせて各々妖気を鏡に捧げる。
終盤に差し掛かった頃、祭壇の前で鎮座するオオミタマが翔と比良利を呼ぶ。
神の化身の前で片膝をつくと、
「日月の双子よ。準備をいたせ」
前触れもなく命じる。
すっかり忘れていたが比良利は事を知らされていない。翔もオオミタマに口止めをされていたため対に知らせることができず。よって彼は呆けた顔を作っている。何を準備するのか、まったく分かっていない様子。哀れである。
愉快そうに口角を持ち上げるオオミタマは腰を上げ、「皆。下がるが良い」笏で前方を指す。
「これより神に捧げる“日月の舞”を始めてもらう。百年ぶりに揃った日月の双子の舞をしかと目に焼き付けよ」
深く一礼する翔に対し、比良利は頭を下げることも忘れて絶句していた。寝耳に水だと言いたげな表情である。オオミタマの言った通り、不意打ちには弱い男らしい。
一同が下がっていく中、大変満足げに綻んでいる神の化身は楽しみにしていると比良利に追い撃ちをかける。
可哀想なので翔が代わりに返事した。
「有り難き幸せ。日月の双子、全身全霊で神に舞を捧げさせて頂きます」
ようやく比良利が我に返り、翔と共に立ち上がる。
あらかじめ準備していた扇を手渡す際、「何故教えぬ」彼は事前に知っていた翔に唸った。小声で経緯を説明すると、比良利はげんなりと六尾と耳を垂らして脱力してしまう。
「オオミタマさまらしいのう……してやられたわい」
「比良利殿。嘆きは後にして、準備を致しましょう――我々双子の舞をお見せしないと」
緊張を拭ってニッと口角を持ち上げる。
生意気だと言わんばかりに額を小突く比良利も素で笑い、舞に対する戸惑いを消していた。
彼と違い神主舞も未熟でお粗末だが、捧げる気持ちだけは常に一丁前を気取っていると自負している。並んで赤狐の対だと自負している。
だから本殿の中央に立ち、彼と向かい合うと不思議と緊張の震えは止まった。
オオミタマ達に一礼し、五方の宝珠の神職達に一礼し、最後に対に一礼して床を蹴る。優美な比良利の舞と違い、粗い舞になるだろうが神様にはきっと届いている。自分達の捧げる気持ち。
神の化身が微笑ましそうに見守っているのだ。必ず届いている。
日月の舞でトリを飾り、これにて五方神集は幕を引く。
かれこれ十年ぶりの五方神集だったそうだが、五方が揃った今、来年にでもまた開くかもしれないとオオミタマ。
愛い子達の顔を見たい、それだけのために開くかもしれないと冗談を口にしていた。否、冗談ではないのかもしれない。彼のお茶目な一面を知った今なら、冗談で流せる話ではないのかもしれない。
ちなみに比良利は五方神集が終わった後、オオミタマに今後は事前に知らせておいて欲しいと直談判をしていた。神に捧げる舞ならば尚更心構えと準備が必要なのだと主張。
すると彼の返答は以下のとおりである。
「何を申すか。それでは私の楽しみがなくなるだろう。私は愛い子達の様々な顔を見たいのだ」
決定、オオミタマはお茶目な性格をしているに違いない。比良利は始終口元を引き攣らせていた。
余所で千峰が十六夜に今度は自分達かもしれないと嘆息を零していたことは余談としておく。オオミタマの悪戯はわりと皆を困らせている模様。
閑話休題。
“御魂の社”の鳥居前にて五方の宝珠の神職達は別れの挨拶を交わす。
年功順に発つようで、最初に出発したのは東の神主だった。彼は見送りに立つオオミタマ達に頭を下げた後、翔に声を掛けくる。
「この三晩は楽しませてもらった。おめぇが南の神主に選ばれた理由も見れて満足だ。次会う時までには、すぐ緊張するちっせぇ肝を鍛えておけよ。仔狐」
相変わらず何処までも人をからかうことが好きな犬神である。脹れ面で相手を見据えた。
大笑いする彼は人の鼻先を指で弾き、片手を挙げて言葉を残す。
「楽しみにしてっぜ。仔狐の南条翔」
不意を突かれてしまい、翔は目を真ん丸に見開いた。
そして卑怯だと一笑する。最後の最後で名前を呼んでくれるなんて本当に卑怯だ。仕方がないから、仔狐呼ばわりする一面はご愛嬌だと思って目を瞑っておこう。
次に発ったのは西の神主だった。
彼は嫌がる久遠の頭を無理やり下げ、「此度は出仕がご迷惑をお掛けしました」己も頭を下げてくる。もう何度目の詫びだろうか。翔は気にしていないと苦笑する。
だが十六夜の気が済まないのだろう。手中に塗り薬の入った巾着袋を置く。
「これは火傷の炎症を抑える塗り薬。痛みが出ればすぐにご使用ください」
二つ目の巾着袋が置かれる。
「これは皮膚の再生を早める塗り薬。痕が残りそうな際はぜひこれを」
さらに三つ目の巾着袋が差し出される。片手では受け止めきれないので両手を出した。
「この薬は疲労回復を促す漢方薬でして、飲めば胃のもたつきが改善します」
つまるところ、これは胃薬なのだろう。
果たしてこれは火傷と関係があるのか、遠目を作る翔の手中にまた巾着袋が置かれる。このようなやり取りを繰り返した結果、計七つの薬を頂戴する。まだ十六夜が薬を差し出そうとしたので、もう十分だと告げ、気持ちだけ受け取っておいた。
翔に食いついてきたのは久遠である。
彼はじっとりと己を睨んだ後、「お相子だからな!」前触れもなしにあの時の勝負についてそう主張してきた。
「油断した俺にも非はあったが、お前も梅の精に守られ、挙句気絶したんだ。あれ相子だ!」
自分の敗北で良いのだが。
返事をすると、彼は繰り返し相子だと怒鳴り散らした。勝ちを譲ると言っているのに、何様だろうか。その態度。
餓鬼だなぁ。心中で呆れ返っていると久遠は両手で握り拳を作り、このようなことをのたまってくる。
「今度は手前に必ず勝つ。大麻なしでな。ッハ、餓鬼相手に大麻なんて要らないんだよ馬鹿が」
本当に餓鬼である。彼が己の百上の少年だとは思えないのだが。
「だから今すぐ手合わせしろ! 大麻なしで俺はお前を」
「いい加減になさい。久遠、帰りますよ」
「あ゛! 十六夜っ、放せ! 俺は狐の餓鬼と決着をつけるんだ! 放せー! くそ、憶えとけよ白狐! 俺は手前を神主だなんて認めねぇからな! 認めさせたきゃ俺と手合わせして勝ちやがれ!」
大変血の気の多い鬼は十六夜に首根っこを掴まれて引きずられていく。
最初から最後まで嵐のような鬼である。姿が見えなくなるまで、自分と手合わせをするよう主張している久遠に溜息。あの鬼とはもう二度と会いたくない。
最後は自分達が発つ。
翔はオオミタマに歩み、深く頭を下げて三晩世話になった礼を告げる。
柔和に綻ぶ御魂の神主は気を付けて帰るよう気遣いを見せた後、また会える日を楽しみにしていると言葉を重ねた。
「我々は梅の木と共に愛い子達の帰りを待っておる。さあ、役目を果たしてくるが良い。其の地で其方を待つ者達がいる」
オオミタマの姿が九尾を持つ妖狐に変化する。
部族を持たない神の化身は旅立つ我が子に合わせて姿を変えているようだ。慈悲溢れたオオミタマに綻び、翔はもう一度一礼すると比良利達の下へ駆ける。
「三尾の妖狐、白狐の南条翔よ」
足を止める。
顧みると月明りを浴びた九尾が梅の風を一身に受け、其の長い尾を揺らす。
「あの幼き梅の木はいずれ蕾の付け方を覚え、見事な花を咲かす。忘れるな、其方も梅の木であることを」
己の成長を真摯に信じてくれるオオミタマに元気よく返事して、今度こそ皆の下に駆ける。
次、此処を訪れるのはいつになるだろう。
半年、一年、十年、五十年、それとも百年、ぐるぐると年月を思い浮かべる。
いずれにせよ、次回此処を訪れる時は今以上に成長をしておこう。
それは目に見えない成長かもしれない。けれどオオミタマならば、見えずとも成長していると分かってくれる。
だから小僧なりに成長しておきたい。しておきたいのだ。
帰宅した翔は食事や風呂を抜き、簡単に家族と会話した後、ベッドに転がって眠りに就く。
帰りの道中で三日間二尾の妖狸太吉が“御魂の社”と“日輪の社”を結ぶ空間で彷徨っていたところを見つけたとか。太吉が泣きついてきたとか。彼が“御魂の社”に忍び込み、金目のものを狙っていたとか。それを知った比良利が烈火の如く怒ったとか。可哀想になって仲裁に入ったとか。
実は家に辿り着くまで濃い騒動があったのだが、疲労していた翔はそれをひっくるめた語りは明日にしようと決めている。
今は余韻に浸ったまま眠りたかった。
素晴らしい梅の森に囲まれた“御魂の社”で過ごした三晩。五方宝珠の者達との出逢い。オオミタマと見た梅の大木。どれも翔にとって味わい深い時間だった。
なにより比良利と“対”としてまた一歩距離を縮められたような気がした。それが何より喜ばしいことだった。
『坊や、毛布も掛けずよく眠っているね。まあまあ火傷まで負って。どんな無茶をしたのやら』
「あの三晩は翔殿にとって休む間もない時間でした。緊張ばかりでなく、手合わせや舞を踊っていましたから。オツネ、毛布を頼みます」
そっと掛けられる毛布。
腕に潜り込んでくる柔らかいものを抱え、翔は寝返りを打って毛布に身を包めた。
梅の薫りがする。優しい優しい梅の薫りがいつまでも鼻孔を擽っている。
※
「行ってしまったな。愛い子達の旅立ちはいつ見送っても寂しいものだ」
『お前の場合はからかう相手がいないから寂しいのだろう』
オオミタマのぼやきに神使アラミタマが口を挟む。もう何千年の付き合いとなる彼等に嘘は通用しない。無言の笑みで肯定を示す。
巫女サキミタマが会話の輪に入る。
「驚きましたね。齢十八の少年を宝珠が選ぶとは。五方宝珠の歴史においても初めてでしょう」
「ああ。だが、素直で真っ直ぐな子だったよ。あの正直さが誰よりも宝珠と共鳴しているのだろうな。なにより気持ちが強い。理想に対して貪欲だ。それが吉と出るか凶と出るかは分からないが」
『対がいる。大丈夫だろう』
まったくだ。
誤った道に進もうとすれば、対であり師を買って出ている比良利が止めるだろう。月輪の社の者達も全力で止めに入るとオオミタマには分かっていた。
静けさを取り戻す“御魂の社”の前に佇み、神の化身は漆黒の浄衣を靡かせて瞼を伏せる。
「時は流れる。生まれる命あれば、沈む命もあり。かくも儚きさだめを歩む愛い子達よ。我等はいつも見守ろう。四方で役目を果たす其方達を――この燃ゆる命が尽きるまで」
そして、いつまでも待とう。
また愛い子達が此処に帰って来るその日まで、梅の薫りと共に。