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南条翔は其の狐の如く  作者: つゆのあめ/梅野歩
【第二幕ノ壱】少年神主の日々
109/158

<十四>少年神主、対と語り合う



 ※ ※



 丸一日気を失うように眠りに就いていた翔は、三日目の夕方に目を覚ます。


 久遠と激しい手合わせをした代償は大きく、瞼を持ち上げて最初に思ったことは両腕が鉛のように重い、であった。

 けれども負った火傷の痛みは殆ど感じられない。手の甲から腕まで巻かれた包帯を長め、持ち上げていた両腕を下ろす。


 上体を起こすと傍らで身を丸めるように眠っていた銀狐が耳を立て、そっと顔を持ち上げてきた。翔が目覚めると気付くや千切れんばかりに尾を振り顔を舐めてくる。それはそれは体で喜びと安堵を露わにし、ぺろぺろと何度も舌で頬を舐めた。

 ギンコの身を抱き寄せて頭を撫でやる。気持ちが良さそうに手の平に頭をこすりつける銀狐を目にしているだけで気持ちが癒された。


 程なくして部屋に青葉が入って来る。

 彼女は己のために薬草を貰いに行っていたようだ。腕に抱えている笊には似たような草が束ねられている。


「気が付かれましたか」


 ホッと息をつく青葉に腕が鉛のように重く、額がひりつくと訴える。

 最悪の目覚めだと顔を顰める翔に苦笑し、そりゃそうだろうと巫女は両膝を折る。脇に笊を置いて右手を取った。


「とても酷い火傷を負っていたのですよ。十六夜さまにお薬を調合してもらったので、炎症は治まっていると思うのですが。西の神主の調合はどの神主さまより腕が立ちますので。おでこの方は痣になっていますね」


「あ、やっぱり? まーじで痛いんだけど」


 前髪が額を撫でるだけで小さな疼きを感じる。

 両腕の火傷は身に覚えがあるのだが、額の痣は記憶にない。

 一つ呻いた後、翔はハッと思い出す。手合わせの行方はどうなった? 見たところ気を失っていたようだが、やはり自分は負けたのだろうか。

 疑問を投げると青葉の口が閉じてしまう。不安を煽る反応だ。俯く彼女の顔を覗き込み、改めて結果を尋ねる。

 次の瞬間、抱きつかれてしまい翔は驚きかえった。腕にいたギンコまでべったりと体に貼りついてくるため、混乱に混乱である。


「え、なに? どうした? 俺、そんなに酷い負け方をした?」


 狼狽える翔に青葉が「馬鹿」、ギンコが強く一鳴き。ますます困惑してしまう。

 取り敢えず三尾を彼女達の体に回して抱擁を返す。心配を掛けたのだろう。ごめんごめん、詫びを口にして背や胴を尾でさすってやる。

 落ち着いたところで話を聞くことができた。手合わせの勝敗は個々人の判断に委ねられた、と。


 オオミタマ自身、手合わせに勝ち負けを決めなかったらしい。


 よって翔は己が負けたのか、それとも勝ったのかが分からずにいる。嫌々ながらも手合わせをしたのだから、勝敗は気になるもの。

 早速青葉とギンコの判断を聞くが、彼女達は自分が無事であればそれで良いの一点張り。勝ち負けなど拘っていないようだ。

 執拗に聞けば睨まれてしまいそうなので、二人の前ではこの話を仕舞にする。

 ただ一つ、翔は勝敗以上に気になっていたことがあった。


「青葉。手合わせで誰も傷付いていないよな?」


 聡い巫女は“誰も”の意味を理解したのだろう。

 梅の精を含めた傍観者達は誰も怪我を負っていないと返事した。


 そうか、力なく頬を崩した翔は己の両腕を見つめ、本当に良かったと気持ちを零す。

 ネズ坊達から貰ったツユクサは燃えてしまい、心を痛めてしまうが、それは帰って謝れば良い。しかし謝って済まされない事態もある。嗚呼、最悪の結末を迎えなくて良かった。


 暮夜、翔の体はある程度動けるまでに回復した。

 これも十六夜の薬のおかげだろう。彼は約束通り、己の傷を癒してくれた。後で礼を告げなければ。


 浄衣に袖を通し、身支度を整える。

 青葉から時間ぎりぎりまで体を休めておくよう注意されたが、散歩をするだけだと返事をして一室を出る。今宵は神主舞を踊らなければならないため、解す程度に体を動かしておかなければ。

 青葉も同行しないかと誘ったのだが、彼女は薬草の片づけがあると言っていた。手伝おうとしたのだが、寧ろ邪魔になるようだったので申し出は控えておく。

 代わりにギンコがひょこひょことついて来た。よって銀狐と散歩を楽しむ。


 広い御魂の社は立派な本殿、拝殿、参道に紅梅。

 梅の精達が奏でる紅梅の宴は耳にする者すべてを魅了する。照らす月と五重奏が雰囲気を作り、より一層心を奪うと翔は思った。


 しかしながら“月輪の社”のように妖の民が出店を開くことはない。此処は神域。神に身を捧げた者達のみ入れる社。ゆえに賑わいはなかった。

 来た当初は何処も立派で圧倒されていた“御魂の社”だったが、民達の賑わいに慣れていると活気ある声がないのは何処か物寂しい。

 ギンコに同調を求めると、銀狐はうんうんと頷いてくれた。自分達は庶民染みた空気の方が好きなようだ。


 梅の木を観賞しようと、鎮守の森ならぬ鎮守の梅に足を踏み入れる。

 だが出入り口である鳥居に寄りかかり、待ち人となっている妖を見つけてしまい、つい踵返してしまった。

 気付かれないうちに立ち去りたい。その一心でギンコを手招き、早足で歩く。


「狐。気付いているんだよ阿呆が」


 見つかっていたようだ。

 ぎこちなく足を止め、翔はギンコに視線を落とす。

 見上げてくる銀狐が首を横に振ると、「だよなぁ」関わるだけ馬鹿を見るのは自分だよな、おどけて諸手を挙げた。


「ギンコ。先に樹齢三千年の梅を見てみないか? オオミタマさまが教えてくれたんだけど」


 うんうん、ギンコが快く頷いた。

 じゃあ決まりだと手を叩き、歩みを再開する。

 瞬く間に突風が脇を通り過ぎた。風かと思いきや、イダテンのような足で久遠が道を塞いでくる。

 不機嫌に眉をつり上げる彼の額には痣らしきもの。自分と額をぶつけた時にできたものだろう。そこの記憶はなんとなくある。なんとなく。


「ギンコ。先に梅の森に行くか」


 やっぱり関わりたくない翔は、銀狐に予定変更をしても良いかと尋ねる。

 勿論だと頷くギンコに綻んで踵返した直後のこと。

 三尾の一本を踏まれ、翔は獣の悲鳴を上げる。これによってギンコが犯人に向かって体当たり。翔は残りの二尾で犯人を力いっぱい叩くと、踏まれた一尾を引っこ抜いて己の腕に抱き優しく撫でた。

 可哀想に、踏まれた一尾はしゅんと萎れている。よしよしと尾を撫でながら、涙目のまま翔は相手を睨む。


「何するんだよ! 尻尾はなっ、獣の命なんだよ! 踏まれたら泣きたいくらい痛いんだぞ!」


「もう泣いてんじゃねえか。軟だな」


「お前には尻尾がないからそんなことが言えるんだよ! この痛みは股間を蹴られたものに匹敵するんだ。ああもう、こんなに萎れちまって……」


 しなっと垂れている尾を相手に見せ、どうしてくれるのだと唸る。


「無視するお前が悪い」


 訴えを一蹴する久遠が腕を組んで、此方を見据えた。

 仕方がなしに用件を尋ねる。相手をしなければまた尾を踏まれかねない。


「手合わせの件か? ならお前の勝ちだろ」


 南の神主がどれほど未熟なのか、他の者達に知らしめることができただろう。途中まで一方的にやられていたのだから、無様な姿を見せたと翔は自覚している。

 しかし、だからといって久遠が押し付けてきた、彼の勝った時の条件を受け入れることはできない。酷評は受け入れるが、勝負事で神主をどうこうすることなど言語道断。己の務める立場は軽いものではないのだから。

 久遠の表情が険しくなる。間を置き、彼は質問を飛ばした。


「お前。なんで大麻を使わなかった」


「え、使ったけど」


 竜巻を裂く時に使用した記憶がある。


「最初から使わなかった理由を聞いているんだ」


 まどろっこしい奴だと舌打ちを鳴らす久遠に、翔は首を傾げた。彼の苛立っている理由が見い出せない。


「オオミタマさまの条件に従ったまでだけど。俺なりに“神主”として手合わせをしようとした。それだけなんだけど」


「じゃあ何か? お前は大麻を使わず、俺に勝てたとでも?」


 だったら舐めてやがる、久遠が殺気立つ。

 このままでは手合わせ第二幕が始まりそうなので、翔は彼の言葉を否定した。


「使用してもしなくても俺は負けていたよ。俺さ、妖になってまだ一年余りなんだって。勝てるわけないじゃんかよ。三十年も神主修行をしている鬼にさ」


 大層な火傷も負ってしまったし、翔は己の両腕を見て吐息をつく。

 「使える自信がなかっただけだろう?」「いや、同胞に使うことが怖かった」食い下がってくる久遠の言葉を遮る。

 拍子抜けした顔を作る鬼に同胞に使うことが怖かったと繰り返す。


 翔は代行として修行する際、比良利に使用法と戒めの二つを教えてもらった。

 大麻は諸刃の剣。守るべき者の盾となり、敵を打ち砕く刃となる。しかし取り扱いを誤れば、身を滅ぼし、民も巻き添えにしてしまう。


 久遠ほど熟練した者であれば力を制御し、大麻を使いこなすことができるかもしれない。

 だが自分は未熟な妖狐、力を制御することなど到底できないと判断した。

 仮に熟練で者あっても己は使えなかっただろう。大麻の怖さは幾度も痛感している。同胞の命を奪ってしまうかもしれない、その恐怖心が胸の内に秘めているのだ。


「お前は性格がめちゃくちゃ悪いし、口も悪いし、俺様だし。腹立つくらい餓鬼だし」


「俺様ってなんだよ。しかも餓鬼だと? 俺のどこが餓鬼なんだよ!」



「世界はなんでも俺中心に回っているって態度が餓鬼なんだよ。まさか百も年上の先輩が餓鬼だなんてねぇ……けどお前を敵として見た覚えはない。あくまであれは手合わせだ。大麻をお前に使用するのはお門違いだと俺は判断した」



 これが自分の答えだと言い放つ。

 弱いくせに、悪態をつかれると翔は大きく頷いて自分は弱いと認めた。


 それについては久遠に感謝したい。

 彼の傍若無人な手合わせのおかげさまで自分の未熟さを再確認することができたのだから。何をすべきか、見つめなおすことができる。

 強くなる目的も見い出せた。自分は強くならなければいけない。民を守るために。


「梅の精に守ってもらった奴がよく言うぜ」


 ケッと悪態をつく久遠は、梅の精が邪魔をしなければ自分の勝利は確実だったと声音を張った。

 それによって翔は梅の精に礼を告げなければ、と思い立つ。


「俺はお前を認めねぇからな! 一人じゃ何もできねぇ餓鬼が神主なんて」


「一人じゃ何もできない、ご尤も。俺は一人じゃ何もできない。だから誰かに頼って生きている。ギンコに助けられることもあるし、昨日のように梅の精に助けられることもある」


 足元に戻って来た銀狐を見下ろし一笑を零す。


「俺一人はちっぽけだ。お前一人もちっぽけだ。そして神様一人もきっとちっぽけだ。弱い生き物だよ」


 弱いと称されたことに頭に血がのぼったのだろう。

 地を蹴った久遠が懐に飛び込んで拳を振り下ろしてくる。微動だにせずに佇む翔の視界が紅梅で一杯となる。梅の壁が彼の拳を止めてくれたのだろう。


「また梅の精が邪魔をする」


 手の平を握り締める鬼に目を細め、「力が欲しいんだろう?」なら、神主道を辞退して武者修行でもすれば良いと助言する。

 その方がより個人の強さを得ることができるだろう。西の神主も、理由を言えばきっと分かってくれる。


「神主は民を統べ導く者。けれど、ついてきてくれる民がいなければ、導くことすらできない口だけの与太者。皆がついてきてくれるからこそ、神主でいられる」


 ひらり、ひらりと舞い落ちる梅の花弁を見送り、翔は鬼の瞳を捉えた。驚くことに、己の瞳に怖じる相手がそこにはいる。

 頬を崩し、己の心情を吐露する。



「お前が羨ましい。当代神主の下で修行ができるのだから。俺も、先代の下で修行をしてみたかった。そして先代の御魂と想いを直接受け継ぎたかったよ」



 溺愛している銀狐を呼び、浄衣の袖を翻して鎮守の梅に向かう。

 己の周りを散る梅の花弁は心なしか、風に乗って後をついて来てくれる。歩めば歩むだけ梅の香りが鼻孔を擽り、いつまでも紅梅の宴が鼓膜を打った。嗚呼、愛おしい気持ちに駆られる。



 残された久遠は小さくなる南の神主の背を見送ると、荒々しく頭部を掻いて唸った。

 罵声の一つでも飛ばそうと思っていたのに、それすらできずに見送ってしまうなんて。

 己の誇りを一々砕いていく嫌な妖狐だ。

 大麻を己に使用せず対等に渡り合ったところも、己を同胞と思って気遣ったところも、梅の精を従えてしまうところも、何もかも嫌な奴だ。


 齢十八の餓鬼のくせに。

 百も下の餓鬼のくせに。

 汚い世界も知らず、生温い世界で生きてきたであろう世間知らずの餓鬼のくせに。


 格の違いを十二分に見せてもなお、己の未熟な点を見つめ、勝利を口にしなかった態度が一番気に食わない。まったくもって気に食わない。

 弱いあの妖狐に自分は勝ったと言うこともできなかった。寧ろ、そう、寧ろ。


「趣味悪いぞ。十六夜」


 途中から覗き見をしていたであろう己の師に毒を吐き、振り返って睨みを飛ばす。

 諸共せずに綻ぶ彼は肩を竦め、久遠に歩んだ。

 微笑んだまま己を見つめてくる忌々しい十六夜に「罵ればいいだろう」自分から勝負を吹っ掛けておいて、こんな有様なのだから。

 すると相手はお望み通りにと返事し、己の中の評価を久遠にぶつける。



「貴方は“勝負”にも、“神主”としても、齢十八の南の神主に完敗でしたね。一年余りの彼に。何より、南の神主は宝珠の御魂と共鳴していた。勝てる筈がない。久遠に託した三十年の修行の年月は一体なんだったのか、心身成長しなければこのような事態を招くことがよく分かりました。これが某の見解でしょうか」



 ギッと十六夜を見つめるが、彼はふっと真顔になって冷然と言い放つ。

 普段から己に甘い性格をしている師にしては珍しい表情だった。


「久遠。貴方がこのままであるのならば、いずれ某も宝珠も見切りをつけなければあるまい。神主道は高く険しいもの。独り善がりでは成り立たない職なのだから」


 そして表情を戻し、十六夜は眦を下げる。


「信じていますよ。貴方が今以上に成長してくれることを」


「……なんで、あんたはいつもそうなんだよ。俺を傍に置きたがる。俺にその気もねぇと分かっているのに、なんで傍に置くんだ。宝珠に見定められたからか?」


「それだけの理由なら、さっさと社から追い出していますよ。こんな横着な子供」


 他にも理由があるから、傍に置いているに決まっているではないか。


 十六夜は鬼の少年に一笑し、彼に選択肢を与える。

 南の神主の言うように“強さ”だけでは通じない神主道を進むか、それとも“強さ”を求めて武者修行の旅に出るか。それは久遠の自由だと十六夜。

 さすがに三十年以上、世話をしているのだから修行の旅に出る際は挨拶くらいして欲しいものだと、しっかり釘を刺した。


 すると間髪容れず、久遠は舌を鳴らして怒声を張るのだ。



「あんな餓鬼に負けたままでいられっかよ。次は、次は大麻なしでやりあってやる。宝珠の共鳴だか何だか知らねぇが、俺は引き下がってやらねぇ! 強くなって村の仇を取るって決めているんだからな!」



 鬼の子は南の神主とは正反対の方角へ駆けてしまう。

 そうだ、自分はこんなところでもたもたしている場合ではない。強くならなければならないのだ。強くなって、もっと強くなって、そしていつか神主の地位を十六夜から奪い、村を襲った賊の妖を見つけると心に誓った。

 だからこんなところで、敗北を味わっている場合ではない。


「――瀧久遠。第七代目西の神主の名をいずれ、受け継いでくれると信じていますよ」 


 まるで鬼を避けるように梅の花が左右に散っている。

 梅の精は久遠に怯えているのだろう。仕方がない、手合わせにて傍若無人な振る舞いを見せたのだから。


 去ってしまう出仕に思いを寄せ、十六夜は瞼をそっと閉じる。

 今は力ばかり求め、仇を取ることに情熱を注いでいる子供。彼の憎しみを癒してやることは決してできないだろう。


 それでも痛いほど理解できる、彼の憎しみ。



「十六夜の名に懸けて、其の憎しみに駆られている久遠の御魂を守ります。それが師である某の務め。次の御魂を託す、当代神主の務め。子供を信じることが某の務めなのですから」




 ※




 見事な花を咲かせる梅の森をギンコと散歩していると、向こう側から己の師が歩んで来る。此処を通ることを予期していたように、顔を上げた比良利が綻ぶ。


 彼の足元には金狐の姿。

 何処となく不機嫌な面持ちをしているのは、自分がギンコと共にいるからだろう。彼等も散歩をしていたのだろうか。

 足を止めた比良利達に近付くため、ギンコを呼んで足を動かす。


 早速ツネキが銀狐に吠えて、向こうへ行こうと駆け出した。

 二人きりで散歩をしたいギンコは気乗りしない様子のようだが、比良利がいる時点で二人きりは叶わない。仕方がなしに己に一声鳴いて、ゆっくりとツネキの後を追い駆けた。

 ギンコは少しの間、彼と散歩してくる。帰って来るまで此処にいて欲しいと告げたらしい。優秀な通訳者により、翔は二匹にいってらっしゃいと挨拶を送ることができた。


 比良利と二人きりになる。

 揃って梅の木を観賞するが、手合わせの翌日ともあって気持ちが落ち着かない。己の無様な姿を曝け出したことには違いないのだから。

 右頬を掻きながら梅の木から視線を外し、対の顔をそっと盗み見る。

 瞬く間に相手の手刀が額を小突いた。腫れた痣を叩くのは卑怯である。悲鳴にならない悲鳴を上げて三尾を丸める。


「この戯け者」


 開口一番に聞かせてくれた言葉は罵声だった。

 反応をする前に、「大麻を使わぬとは何事じゃ」比良利は言葉を重ねてくる。

 てっきり手合わせのことでこっ酷くやれた無様な姿を罵っているかと思いきや、そうではないらしい。彼の怒りは大麻を使用しなかった己にあった。

 弁解の余地も与えてくれず、師は続ける。


「大麻は同胞を守り、悪しき者を祓う諸刃の剣。使用を誤れば身を滅ぼしかねぬ。しかし、使用によっては身を守る剣とも盾となる。お主はそれを忘れておった」


 だから大層な火傷を負うのだ、彼は怒りを露わにした。

 同胞に大麻を向けずとも、術を遮る盾として十二分に役立てた筈。

 なのに白狐は守りを怠り、身を守ることを忘れた。結果、必要以上の怪我を負ったのだと比良利。


「わしは幾度お主に説いたであろうか。己を蔑ろにすることによって、十代目を頼る妖がどれほど悲しむか、そして不安に煽られるのかを。お主は頭領。民を導く者。些細なことで彼等を惑わせてはならぬ」


 猛省すべき点だと厳しく諌めてくる対に反論することはできない。すべて本当のことだった。

 首を引っ込め、身を小さくして謝罪を口にする。師の怒りほど堪えるものはない。今度からはもっと考えて手合わせをすると小声で返す。


 沈黙。

 息苦しい空気が漂い始めた最中、突如比良利から乱暴に頭を撫でられる。

 目を白黒させて俯いていた顔を上げれば、「見事じゃった」梅の木に視線を戻した彼からこのような言葉を頂戴する。


「わしですら、ハナから負けを予想していたというのに、お主はそれを覆した。あの手合わせは見事じゃったよ。此方の寿命を縮ませる戦い方ではあったがのう」


 比良利は翔の勝利だと判定してくれたようだ。

 やんわりと褒めを口にしてくれる対に翔はじんわりと胸の内が熱くなる。認められた気がして嬉しくなった。自然と三尾が揺れ、口元が緩んでしまう。

 調子に乗るなと諌められそうだが、溢れる喜びは留まることを知らない。


「俺は比良利さんを真似たところがある」


 弾かれたように視線を合わせてくる彼に満面の笑顔を作る。


「手合わせの際、オオミタマさまに条件を付けられた。それは“神主”として戦え、というもの。俺は真っ先に比良利さんを考えた。俺の手本は常に師匠だから」


 もしも比良利ならば、それを考えた時、真っ先に大麻の使用について考えた。

 大麻の恐ろしさを知っている彼ならば、同胞に向けることなどしないだろう。愛用の和傘で応対するに違いない。

 次に周囲に目を配るだろう。手合わせとはいえ、周りを巻き込む可能性がある。勝負より周りの者達の安全性を取るだろう。

 そして術を分散させないよう、己に術を集中させるだろう。


 だから翔は真似た。

 彼ならこうするだろうと真似たのだ。


「真似ばっかりじゃ駄目だと思うんだけどさ。何もかもが初めての俺にはどうしてもお手本がいるんだ。オオミタマさま達も凄い妖だろうけど、俺にとって尊敬している妖はいつも一人だから」


 真摯に気持ちを伝えると、相手が苦虫を噛み潰したように顔を顰める。


「千峰殿の言う通りか」


 独り言を呟く彼を観察するように見つめた。何か悪いことを言っただろうか?


「翔よ、わしとて時に過ちを犯す未熟な若造。師としても未熟であり、対としても未熟な妖狐よ。お主達に迷惑を掛けることもあろう」


 ひらり、はらり、梅の花が静かに散る。

 桜ほど華やかではないが、その散り際は優美。視界に入れながら、翔は師の言葉を静聴する。


「此度とて師でありながら、主の敗北ばかり胸に占めておった。師が思うことであろうか? いや、思うべきではあるまい。師ならば信ずることが最優先だったであろうに。翔、わし等はいずれ師弟と呼べぬ関係になろう」


 自分達は十六夜と久遠のような当代次代関係ではない。

 双子と称された対であり、対等な関係なのだ。本当の意味で師弟にはなれないだろう。


 語り部が力なく笑う。

 そして胸の内を教えてくれた。自分は再び対を失うことを恐れている。時に先代と翔を重ねることがある。だから口やかましいことを言うこともあるだろう、と。

 まさか比良利からこのような弱弱しい本音が聞けるとは思わず、微かに眼を見開いてしまう。

 すぐに表情を戻し、翔は珍しいと肩を竦めた。


「比良利さんが俺にそんなことを言うなんて。小僧には絶対見せてくれない一面だと思っていたのに」


「申したであろう。我等は師弟ではなく、本来は対等である“対”じゃと。わしが過ちを犯しそうになったら、容赦なくお主が正すが良い」


 うん、小さく頷き、翔は約束すると返す。

 赤狐と肩を並べて梅の木を眺め続ける。齢二百余りの歳の差がある自分達はまぎれもなく“対”。

 夢物語のように思えるが、これはなんびとも変えられない真の現実。


「社に帰ったら、俺、武術を学びたいな。今回の手合わせを通じて、もっと強くなりたいと思ったんだ」


「それは、なにゆえに?」


「妖を守るため、さっきまでそう思ったけど……まずは自分を守るために学ぼうと思う。俺、千年は長生きするって決めているんだ。二百年の間に必ず比良利さんの隣に立つからさ。待っててよ」


 でも、二百年の間は己の師匠でいて欲しい。自分には学ぶべき当代神主がいないのだから。

 翔は比良利が胸の内を明かしてくれたお礼に、久遠に羨望を抱いている旨を伝える。

 今の現状に不満を持っているわけではないが、自分も先代から直接学び、想いと御魂を受け継ぎたかった。

 十六夜からすべてを学べる久遠がとても羨ましいと零す。


「だけど、俺はちゃんと惣七さんの御魂を受け継いでいる。宝珠を通して先代達の御魂を受け継いでいるんだ。そう思うと気持ちが熱くなるよ」


 そっと己の頭に手が置かれた。それによって耳が静かに折り畳む。

 払うこともせず翔は時間が許す限り、赤狐と梅の木を見つめ続ける。其の香る梅の花は優しい。嗚呼、色も、香りも、すべて優しく愛おしい。



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