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「泣いているのか?」

 包み込む腕がゆっくりと動いて縮み込んだ体をころんと転がし、そして覆い被さるように男が体勢を変える。

 ファンティーヌの顔の両脇に男の鍛えられた腕が見えた。

 覆い被さる男の顔が降りてきて、その唇がファンティーヌのまなじりへと落とされる。

 彼女の小さな体がびくりと震えた。

 いくらギスランが細身といっても、ファンティーヌが見上げるほどの長身の男である。肩幅も、胸板の厚さも、こうして覆い被さってこられれば驚くほどに大きい。

 まなじりから唇の感触が遠のくと、直後、生あたたかなざらりとした感触が、涙をぬぐうようにまなじりを濡らした。

「ギスラン……!」

 涙を舐め取られたことに驚いた彼女はおもわず男の顔へと視線を向けた。

「俺は、お前に興味がないと言った事はない」

「言ったもの! あなたからすると些細な会話だったのかもしれないけれど、私にとっては重要なことだったから、間違えません!」

 かっとなって言い返した物の、あの日の傷みがよみがえり、ファンティーヌは再び目を逸らして唇を噛み締めた。

「あぁ。あんたがそう勘違いしているのは知っていた」

「勘違い?」

 何を勘違いするというのか。あからさまに「ファンティーヌのような女に興味はない」という言葉に同意の言葉を返しておいて。

「俺は、『あなたのような女性に興味はない』という問いに是と答えた。だが、お前自身に興味がないと言ったことは一度たりともない」

 ふてぶてしくそんな事を言ってのけた男に、ファンティーヌは顔をゆがめた。

「なんですか、そんな、こと……」

 受け入れきれないと頑なになる彼女に、男がもう一度念を押すように視線を捉えて言い切る。

「お前に興味がないと言った事は、一度たりともないんだ」

「……うそです!!」

「覚えているというのなら、思いだしてみろ。俺がお前のようなお嬢様に興味はないのは事実だ。だからお前にも興味など持ちたくはなかった。だが俺はいつでもお前が欲しかった。お前の言葉や気持ちを躱したことは数え切れないほどある。お前が勘違いするように違う意図を臭わしたこともある。だがお前に俺の気持ちで嘘をついたことは一度もない。俺が、お前のことを何とも思っていないなどと言ったことが、一度でもあったか」

 畳みかける言葉がファンティーヌを追い詰める。

 信じたいけれど怖い。今まで信じていた物が崩壊していく不安。ふくれあがる期待と、その期待の行く末が分からないが為に打ち消してしまたい衝動。

 それらが高じてファンティーヌは男を責めた。苦しさを吐き出すようにくすぶっていた気持ちを男にぶつけずにはいられなかった。

「だったら、どうして! 私の気持ちに応えてくれなかったのですか! どうして私の気持ちを躱したりしたのですか! 私は! 私は、あなたとならば、家も捨てたのに。あなたさえいれば、他には何もいらなかったのに……」

 なじる彼女の言葉に覆い被さる男の顔が歪んだ。

「あの時、俺に何が言えたと言うんだ……! どんな気持ちでお前を諦めようとしていたか……!」

 ギリッと目の前の端正な顔が歯ぎしりをしたのを見て取る。

「諦めて欲しかったなどと思っていません!」

 ファンティーヌは負けじと睨むように男を見つめた。自分が言いはなった言葉の強さが信じられず、けれどついに言ったという興奮に近い感情が感覚を麻痺させる。ドクドクと耳に響くほど胸が強く打ち付けてくる。何を言われても今なら言い返してやろうという気持ちであった。

 なのにこわばっていた男の顔から、ふっと力が抜けた。悲しげにも見える弱さを思わせる表情を浮かべる。

「馬鹿を言うな。裕福に育ったお前が俺と逃げてどうやって生きていけると言うんだ。お前の父親に追われ、逃げながらの貧しい暮らしなどお前にはできない」

 彼らしくないその声と表情がファンティーヌの動揺を誘う。こわばっていた感情はぶつける先を失った。

「なぜそんな事を聞きもせずに決めるのですか。今と同じではないですか。さっき言ってくれたのは嘘なのですか。あなたがいれば大丈夫だと、そう言ったじゃないですか。今が大丈夫なら、あの時だって……」

 ファンティーヌの戸惑いがちの言葉を否定するように男が首を横に振る。

「あの時と今とが同じだと思う時点で、あんたの考えの甘さが分かる。全くあの時とは状況が違う。捨てるのと亡くすのでは全く違う。覚悟も、そして諦めも。一つしか残されてない道を必死で生きるのと、戻れる場所が存在し、それを自分で捨ててしまったと後悔しながら生きるのでは雲泥の差がある」

 淡々とした言葉は気落ちしているようにも、苦しさを堪えているようにも聞こえた。

「あんたは、どちらも経験したことがないから軽々しくそんな事が言える。明日食うメシもなく、ひもじさに腹を抱えた絶望の中で必死で生きることも知らない。落ち着くことなく、必死に生きることで毎日が終わる、そんな日々も知らない。先の見えない終わりなく思えるその苦しさを知らない。その絶望の中で人は必ず後悔をする。その状況に至った選択全てをだ。もし俺があんたを攫ったのなら、あんたは家を捨てたことを後悔する日を確実に迎えただろう。だが、今のあんたには俺しか残されていない。だからこそ……!!」

 違う、そんな事はない。

 そう思うが、ファンティーヌはそれを口にすることができなかった。男の言う通り、そんなぎりぎりの絶望などファンティーヌは知らない。思う事と現実では心の有り様は全く違うのだと、ファンティーヌはもう知っている。失うことを想像するのと、失ってしまった現実とでは似て非なる物だ。全てを失った絶望を見たからこそ、男の言う通り自分はその苦しみを知らないのだと分かってしまう。

 実際なってみないとどうなるかは分からない。

 だがファンティーヌの知らない現実を知っているギスランが、彼女に負わせたくないほどの物が確かに存在したのだろう。

 ファンティーヌは言いつのれないやりきれなさに唇を噛み締めた。

「私は、あなたにとって、どういう存在ですか」

 覆い被さっている男が、苦しげに微笑んだ。

「俺の全てを賭けてもいい存在だ」

「……賭けてくれなかったくせに」

 なじれば、男が切ない笑みのまま首を横に振った。

「賭けられなかったのは、お前の未来だ。俺が全てを賭けてお前を求めれば、お前の人生もまた道連れだ。俺が死ぬのはいい。お前は連れ戻され、後ろ指を指されながらの半生になっただろう。惚れた女をどん底に突き落とす趣味はない」

 惚れた女だと、当たり前のように言った男に、ファンティーヌは涙で視界を歪ませながら、男を見つめた。

 そっと手を伸ばし、のし掛かる男の頬に触れる。こんな時なのに、嬉しいと思ってしまう。こんな時だというのに、込み上げるのは、幸せだった。

「あの頃は、十分にどん底に突き落とされていました」

「同じ苦しみを分かち合っていた、それだけだろう?」

 そう言って苦く笑った男を見て、ファンティーヌは目がさめるような思いでその言葉を受け止める。自分一人が苦しんでいたと思っていた。もし、同じ痛みをギスランも感じていたのだとしたら?

 だとしたら、あの日々に抱えていた痛みは、苦しくて辛くとも甘い痛みだったのかもしれない。

「私は、あなたを頼っても良いのですか……?」

 覆い被さる男に、声を震わせながら尋ねれば、男が笑みを浮かべた。

「どん底のお前なら、引き上げるぐらいの力はあるつもりだ」

 その言葉にファンティーヌは笑う。

 まさしく、今のファンティーヌはどん底なのだろう。少なくとも、昨夜まではどん底にいた。上を見ることさえできない奈落の底に。けれど今は希望が見える。

「あなたに、私は必要ですか?」

 役立たずの女だ。それどころか足手まといの女だ。それでも、求められているのだと信じてもいいのだろうか。

「必要だ。お前を無くす人生など、意味がないほどに」

 男の言葉が胸に染み渡る。

「一緒にいても、いいのですね……?」

 もう尋ねはしない。それは確認だった。流れる涙を男の唇がぬぐってゆく。耳元で男の低い声がした。

「二度と、もう良いなどと言うな。未来を捨てるな。俺の側にいろ」

 男の体重が彼女の体全体にゆっくりと掛かってゆく。覆い被さるように包み込まれ、抱きしめられるその強さと、男の存在を感じられる重さに、ファンティーヌは幸せを感じる。腕をその鍛えられた背中に回し、込み上げる感情を噛み締めながら、何度も肯いた。


 間もなく夜が明ける。

 小さく粗末な小屋の中で二人は身支度を調える。

 旅装束に身を包んだ女は育ちの良さはうかがえるが、もう上流階級の女には見えなかった。

「ファンティーヌ。生きていこう」

 彼女を抱き寄せて、男が噛み締めるように呟いた。

「二人で、生きていこう」

 もう一度言い聞かせるように呟かれたその言葉に、ファンティーヌは何度も肯いた。

 一度は行く末を諦めていた彼女の胸に、男から紡がれたその言葉が強く、温かく響く。

 溢れる涙は、もう辛い物ではなく、希望と喜びに溢れた物だった。

 男から与えられる温もりが未来を拒んでいた心を最後の一欠片までくまなく溶かす。

 幸せになるのだと。彼を求めて良いのだと。信じて甘えても良いのだと。

 街の未来のために死んでいった者達のことを思えば、胸が軋み、絶望が襲う。亡くした父と母のことを思えば涙は留まることなく溢れる。苦しさとやり場のない憎しみにに叫び出しそうにすらなる。それからはきっと逃れられない。おそらくは一生抱え続ける痛みとなるだろう。

 けれど彼女の行く末の幸せを願った彼らのためにも、精一杯生き抜くことが報いることなのだと。

 ようやく、彼女はそう思えた。

 新しく始まる生活のために顔を上げた。

 扉を開けば夜明けの光が山の際から差し込んできていた。

「行こう」

 ファンティーヌは顔を上げると微笑んで、愛しい男が差し伸べてきた手を取った。






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