第1話:21世紀の檻と、鉄の肉体
鏡の向こうの私は、どこにでもいる、少し背伸びをしたい年頃の18歳だった。
髪は、先月自分でカラー剤を買ってきて明るめのライトブラウンに染めたショートヘア。頭を振るたびに、両耳のたぶんに開けた軟骨ピアスとイヤーカフが、シャラリと小さな金属音を立てる。プチプラのファンデーションを丁寧に伸ばし、リップティントで唇にほんのり赤みを差したナチュラルメイクも、毎朝欠かさずルーティンとしてこなしている。
部屋着として着込んでいるのは、SNSのインフルエンサーが勧めていた、ルーズなシルエットの黒の上下スウェット。本当はおしゃれが大好きだし、人一倍、可愛い自分でいたいというプライドはある。
だけど、このメイクも、お気に入りの黒スウェットも、誰かに見せるためのものじゃない。
私の名前は、如月 紬。
都内在住の、通信制高校に通う3年生だ。
自室のドアを一歩でも出れば、そこは私にとって「敵地」だった。
中学時代に受けた、あの陰湿で執拗ないじめの記憶が、今でも私の脳髄にべっとりと張り付いて離れない。上履きを隠されるなんて可愛いもので、すれ違いざまに聞こえる「うわ、キモい」「生きてて恥ずかしくないの?」という悪意に満ちた囁き。私の机の上にだけ置かれた、宛名のない誹謗中傷のメモ。クラス全員の冷ややかな視線と、廊下を歩くたびに背後から聞こえるヒソヒソ話の靴音。
あの瞬間に私のメンタルは完全に破壊された。他人の視線が、笑い声が、ただの足音が、肉体を切り裂く凶器に変わった。不登校になり、自宅に引きこもるようになってからも、他人の悪意への恐怖心から神経が過敏になり、突然の大きな音を聞くだけで心臓が破裂しそうになるほどすくみ上がる。
そんな私の唯一のシェルターが、この薄暗い六畳間のベッドの上だった。
21世紀の最先端のゲーム機。コントローラーの冷たいプラスチックの感触だけが、私と世界を繋ぐ細い糸だ。大好きな中世西洋風のダークRPGゲームや、重厚な歴史マンガの世界に没頭している時間だけが、現実の生きづらさを忘れられる唯一の聖域だった。画面の向こうの、西洋の頑丈な鉄鎧に身を包み、鋭い大剣を掲げて孤独にダンジョンへ挑む、気高きエルフの戦士。私はゲームの主人公に、自分の魂を重ね合わせるように感情移入していた。
(もし私が、この人みたいに誰も寄せ付けないくらい強くて、完璧な鉄の身体を持っていたら……もう誰も私を傷つけたり、バカにしたりしないのに……)
窓の外では、10月の冷たい秋雨がベランダを叩いている。
明日から始まる通信制高校の数少ないスクーリング(登校日)への猛烈な憂鬱と予期不安で、私の胃は夕方からキリキリと不快な悲鳴をあげていた。学校に行けば、またあの「他人の視線」に晒される。それだけで吐き気がした。
現実から逃げるようにコントローラーを握り締め、画面の中のエルフの戦士を凝視した、その瞬間だった。
――バチチチッッ!!!
「え……っ!?」
突如、テレビの液晶画面が、狂ったような爆発的な発光を見せた。
21世紀の最先端テクノロジーが、物理的にバグを起こしたかのような凄まじい光量。それは瞬時に私の両目の網膜を真っ白に焼き、視神経を通じて脳髄へと直接突き刺さった。
甘いファンタジーの転生なんかじゃない。それは、肉体を強引に引き裂かれるような圧倒的な衝撃だった。激しい目眩とともに、頭蓋骨の裏側がぐにゃりと裏返るような感覚。部屋に漂っていた柔軟剤の匂いも、専門学校のパンフレットが置かれたデスクの景色も、一瞬にして猛烈な遠心力で消し去られ、私は五感が完全に麻痺した深い闇の底へと、文字通り「墜落」していった。
激しい雨音と、鼻腔を突く強烈な泥と、鉄錆の匂いで、私は目を覚ました。
「がほっ……ゲホッ、ゲホッ!」
激しく咳き込みながら起き上がろうとした瞬間、私の全身に、これまでに経験したことのないような凄まじい『物理的な重量』がのしかかった。
ズドォォン、とコンクリートのように硬い泥の地面に、身体のバランスを完全に崩して激しく突っ伏す。
「冷たっ……痛い、なに、これ……っ!」
自分の顔を触ろうとして、私は息を呑んだ。手のひらに触れた指先は、人間のものではない、白く細い、異常なほどにしなやかなエルフの指。ハッとして耳のあたりを弄ると、ライトブラウンのショートヘアの隙間から、上に向かって長く尖った皮膚の感触が指先に伝わる。両耳の軟骨ピアスとイヤーカフは、どういう不条理か、その尖ったエルフの耳の根元にそのまま冷たく残っていた。
何より私の自由を奪っていたのは、全身をがんじがらめに締め付けている「鉄の塊」だった。
さっきまで着ていたはずの、あの柔らかな黒の上下スウェットは跡形もなく消え失せていた。厚い牛革のベルトと真鍮のバックルで、私の華奢な身体に強制的に密着させられているのは、装飾性をいっさい削ぎ落とした、実用性全振りの重厚な鉄製「全身プレートアーマー(西洋全身鉄鎧)」。
具足や籠手が動くたびに、ギチ、ギチ、と重々しい金属音を立てて肉体を圧迫する。そして左腰には、鈍い銀光りを放つ鋼鉄の「ロングソード(両刃の長剣)」が一振、私の細い腰に信じられないほどの重量感を伴って帯びられていた。
「うそ、嘘でしょ……私、ゲームのあのエルフの身体に、なってる……!?」
メンタルが弱く、他人の視線に怯え続けていた18歳の女子高生の声が、世界の果てに浮かぶ荒涼とした小さな島に、冷たい雨の音とともに虚しく響き渡る。
私は、現実の恐怖から逃れるために憧れ続けた、無敵のエルフの女戦士の肉体に閉じ込められてしまったのだ。
しかし、転生して最強の能力で無双するような都合の良い時間は、この過酷な異世界には1秒たりとも用意されていなかった。
オォォォォォォォォォォンッッッ!!!!!
突如、上空の分厚い雨雲を物理的に爆破したかのような、凄まじい咆哮が島全体を激しく震わせた。地響きが、鉄の具足を通じて私の足の裏から全身へと伝わり、恐怖で筋肉をカチコチに硬直させる。中学時代のいじめの記憶、あの大きな物音へのトラウマが、最悪な形でフラッシュバックする。
私が恐る恐る、絶望に涙を滲ませた眼差しで遥か上空を見上げると、そこには、島そのものを一撃で焼き尽くさんとする、圧倒的な物量と神の如き巨体を持った「巨大なドラゴン」の影が、爛々と眼光を輝かせながら、こちらへ向かって猛烈な速度で飛来してくるのが見えた。
「いや、無理無理無理! 私、通信制のただの女子高生だよ!? 人前に出るのだって怖いのに、こんな化け物と戦えるわけないじゃん!!」
ずっしりと重い鋼鉄の剣の柄を、いじめの恐怖と冷たい雨でガタガタと激しく震えるエルフの指先で握り締めながら、如月紬の、あまりにも不条理で過酷すぎる異世界サバイバル戦線の火蓋が、いま切って落とされるのだった。
(第1話・了)




