悪役令嬢の定義から教えてください【別解】 ――では、私の仕事は誰が引き継ぐのですか?
本作は、2026年1月に投稿した『悪役令嬢の定義から教えてください』を、現在の作風で全面的に再構成したものです。
単純な加筆修正版ではなく、同じ問いから書き直した別作品です。
旧作をお読みでない方も、そのままお楽しみいただけます。
王宮の大広間に集められた者たちは、その日、ひとつの物語が完成するものと思っていた。
白い礼装を纏った聖女。
その肩を守るように立つ王太子。
そして、広間の中央に一人で立たされた公爵令嬢。
誰が正しく、誰が悪いのか。
答えは最初から決められている。
あとは王太子が宣言し、聖女が涙を流し、悪役令嬢が取り乱せばよい。
「アーデルハイト・フォン・リューネ」
王太子レオンハルトの声が、高い天井へ響いた。
「王家は本日付で、君との婚約解消をリューネ公爵家へ申し入れる」
大広間の空気が震えた。
驚きではない。
待ち望んでいた場面が始まったことへの期待だった。
「併せて、王家との共同事業において君が担ってきた職務からも退いてもらう」
アーデルハイトは、王太子の右手にある書面へ視線を向けた。
国王は病気療養中。
宰相は隣国との条約会議へ出席している。
その間、日常的な王務については、王太子へ代行権が与えられていた。
王家側から婚約解消を申し入れる権限も、その中に含まれている。
少なくとも、そこまでは手続きに沿っていた。
続く一文については、別の確認が必要だった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
アーデルハイトが問うと、レオンハルトは隣に立つ少女を見た。
聖女セラフィナ。
王都治癒院で、毎日数十人の患者へ治癒を施している少女だった。
今日も早朝まで治療をしていたのだろう。
白い頬には、化粧でも隠しきれない疲労が残っている。
「君は、セラフィナを虐げた」
レオンハルトは言った。
「神殿への寄付を減らし、治癒院への支援を停止した。セラフィナ付きの神官へ監査を要求し、彼女を迎えるための祝宴予算まで削減した」
列席者から、低い非難の声が漏れた。
治癒院支援の監査を担当するユリウス・ヴァルト監査局長も、列席者の中にいる。
しかし、彼は何も言わなかった。
誰かの味方として呼ばれたのではない。
記録を確認するために、そこにいる。
「それらの行為によって、セラフィナは深く傷ついた」
セラフィナが俯く。
レオンハルトは、彼女を庇うように一歩前へ出た。
「君は聖女を妬み、立場を利用して追い詰めた。悪役令嬢と呼ばれても仕方がない」
悪役令嬢。
その言葉が広間へ落ちると、何人かが安堵した。
これで役が揃った。
あとは断罪すればよい。
アーデルハイトは、少しだけ首を傾けた。
「確認してもよろしいでしょうか」
「まだ何かあるのか」
「『悪役令嬢』の定義を、教えてください」
一瞬の静寂のあと、広間の端で小さな笑いが起こった。
レオンハルトは眉を寄せる。
「今、そのような言葉遊びをする必要があるのか」
「必要があります」
アーデルハイトは答えた。
「私は公爵家当主代理として、私の行為が何に該当したのかを記録に残さなければなりません」
アーデルハイトの父であるリューネ公爵は、北部国境の防衛指揮に出ている。
その間、領内行政と王家との共同事業について、アーデルハイトには正式な代理権が与えられていた。
期限も、権限範囲も、責任も書面に明記されている。
「神殿への寄付を減らしたのは事実です」
アーデルハイトは続けた。
「昨年、リューネ領では洪水が発生しました。神殿への寄付は、契約上、余剰収益の8パーセントです。復旧費用によって余剰収益が減少したため、寄付額も減りました」
「だが、神殿は困っていた」
「はい」
否定されなかったため、レオンハルトの表情が一瞬止まった。
「困っていたことは事実です。しかし、契約額以上の支出には、公爵家評議会の承認が必要です。申請は提出されていません」
「セラフィナは、毎日人を救っている」
「存じています」
「それでも金を出さないのか」
「申請があれば審査します」
レオンハルトが息を吐いた。
「そういうところだ。君はいつも、人の心より書類を優先する」
その目には、苛立ちだけではないものが浮かんでいた。
「何を見ても仕事と責任の話しかしない。王太子妃になる前から、自分を仕事の中へ埋めている。私は、そんな生き方が君自身の望みだとは思えない」
「私自身の希望について、殿下から確認を受けた記憶はございません」
「だから、今こうして――」
「確認より先に、婚約解消と職務からの退任を宣言されました」
レオンハルトの言葉が止まった。
アーデルハイトは手元の書類へ視線を落とす。
「書類がなければ、誰が、何を、どこまで負担するのか残りません」
「今は責任の話をしているのではない」
「支出の話をするなら、責任の話です」
広間の空気が、少しずつ冷えていく。
アーデルハイトはセラフィナを見た。
「治癒院への支援を一時停止したのも事実です」
セラフィナの肩が揺れた。
「用途報告書が3回提出されなかったためです。第1回の期限は4月30日、第2回は5月31日、第3回は6月30日でした。いずれも受領確認はあります」
アーデルハイトは持参していた書類から、3枚の写しを取り出した。
「催促状です」
王宮書記官が受け取り、日付と印章を確認する。
「受領印に偽りはありません」
広間の端から、ユリウスの声がした。
レオンハルトが彼を見る。
「監査局は、アーデルハイトの側につくのか」
「側にはつきません」
ユリウスは答えた。
「記録を確認しています」
セラフィナが小さく息を吸った。
「わたしは、その書類を見ていません」
声はかすれていた。
「治療以外の書類は、神官の方々が扱っています。わたしは毎日患者を治しています。書類まで、わたしの責任なのですか」
「いいえ」
アーデルハイトは即答した。
「あなたの責任ではありません」
セラフィナが顔を上げる。
「ですから、決裁者の名前を教えてください」
「え……」
「支援金を受け取り、配分し、用途報告へ署名する権限を持つ方です。セラフィナ様でないなら、別の責任者がいるはずです」
聖女の背後にいた神官が、一歩進み出た。
「神殿内部の事務を、このような場で問う必要はありません」
「公爵家から支出した資金です」
アーデルハイトは神官を見る。
「必要があります」
「聖女様を疑うおつもりですか」
「疑っていません」
「では、なぜ監査を」
「疑われないためです」
神官の口が止まった。
アーデルハイトは再びレオンハルトへ向き直る。
「祝宴予算を削減したことも認めます」
「セラフィナを歓迎するための宴だった」
「王太子府から公爵家へ共同負担分として提出された当初予算は、金貨3000枚でした。再申請では金貨6800枚へ増額されています」
「必要な費用だ」
「増額理由が記載されていませんでした」
「格式を保つためだ」
「その一文を申請書へ記載してくださいと、3回お返ししました」
レオンハルトの指がわずかに動く。
「君には分からないのか。セラフィナはこれまで、何の見返りもなく人々を救ってきた。彼女の名誉を守り、正当に遇する必要がある」
「分かります」
アーデルハイトは答えた。
「ですから、必要額と理由を記録してくださいと申し上げました」
「また記録か」
「はい」
アーデルハイトは頷く。
「記録がなければ、次の聖女にも同じ待遇を保障できません。セラフィナ様だけの特例で終わります」
レオンハルトは言葉を失った。
アーデルハイトは少し間を置いた。
「セラフィナ様が傷ついたことは、事実として受け止めます」
セラフィナがアーデルハイトを見る。
「私の言葉が冷たく聞こえたのであれば、その伝え方については改めます」
レオンハルトの表情がわずかに緩んだ。
「ですが、傷ついたことと、支出を再開する根拠は別です」
緩んだ表情が、再び固まる。
「つまり、この国では、書類を求めることが悪役令嬢の要件なのですか」
「そういう話ではない!」
レオンハルトの声が広間へ響いた。
「君は正しさを盾に、人を追い詰めている!」
「では、どの行為をやめるべきだったのか、具体的にご指示ください」
「監査を止め、支援を戻せばよかった!」
「用途報告がないままですか」
「後から出せばいい!」
「後とは、いつですか」
レオンハルトは黙った。
「7日後でしょうか。30日後でしょうか。次年度の予算審議まででしょうか」
「今、決めることではない」
「では、誰が決めますか」
答えはなかった。
治療を止めたくない。
聖女を傷つけたくない。
神殿との対立を避けたい。
どれも理解できる。
だが、理解できることと、決定できることは違う。
王務を代行する者として必要なのは、願いではなく、期限と担当者だった。
レオンハルトは、握っていた書面を開いた。
「いずれにせよ、婚約解消の意思は変わらない」
「承知しました」
アーデルハイトは一礼した。
あまりに抵抗がなかったため、広間の空気が揺れた。
「本日付の婚約解消申し入れを確認しました。公爵家へ正式書面を送付してください」
「君は、何も感じないのか」
「感じています」
「ならば、なぜそんな話をする」
「必要だからです」
アーデルハイトは手元の書類を開いた。
「それでは、明日が提出期限となっている共同倉庫の開錠申請は、どなたへ引き継げばよろしいでしょうか」
「……何?」
「3日後に出発する辺境補給便の積み込みに必要です。王家側の署名者は財務官、公爵家側は私です。私を王家との共同事業から外すのであれば、後任者の指定が必要です」
「議会に任せればよい」
「議会のどなたでしょうか」
「担当する者がいるだろう」
「現在の担当者名をお願いします」
レオンハルトは周囲を見る。
誰も答えない。
「北部水門の改修契約は、14日後に更新期限を迎えます。治癒院支援の用途報告書は、すでに3度の提出期限を過ぎています」
「公爵家で決めればいい」
「父は北部国境におります。後任者の任命には、早馬でも往復12日必要です」
「ならば、君がそれまでやればいい」
大広間が静まった。
「婚約は解消する。しかし仕事は続けろ、という意味でしょうか」
レオンハルトの顔に、初めて迷いが浮かぶ。
「そういう意味ではない」
「では、どの意味でしょうか」
「今は、そのような話をしているのではない」
アーデルハイトは、開いていた書類を閉じた。
「ですが、明日は来ます」
広間の高窓から、午後の光が差している。
祝福のために作られた大広間で、誰も拍手をしなかった。
アーデルハイトは大広間を出ると、自室ではなく王宮文書局へ向かった。
婚約解消の申し入れと、その後の処理は別である。
意思を伝えても、契約は終わらない。
文書局長は、すでに話を聞いていた。
机の上には王家と公爵家の婚約契約書、共同事業契約書、アーデルハイトの当主代理権限書が並べられている。
「婚約解消の申し入れそのものは有効です」
文書局長は言った。
「公爵家へ正式通知が届き、受領されれば婚約解消手続きが始まります。ただし、共同事業と当主代理権は別契約です。婚約が解消されても、自動では移りません」
「私の当主代理権は」
「リューネ公爵より付与されていますので、王太子殿下に終了させる権限はありません」
アーデルハイトは頷いた。
「では、婚約解消後も、私は公爵家当主代理として王宮へ出入りできます」
「法的には」
「法的には?」
「感情的には歓迎されないでしょう」
「それは処理項目ではありません」
文書局長は一瞬黙り、咳払いをした。
「失礼しました」
アーデルハイトは持参していた書類箱を机へ置く。
「引継ぎ一覧です」
文書局長が蓋を開いた。
業務名。
契約番号。
決裁権限。
次回期限。
関係部署。
継続中の問題。
すべて項目ごとに整理されている。
「ここまで作成されていたのですか」
「当主代理就任時から、更新しています」
「後任者欄が空白ですが」
「後任を決める権限は、私にありません」
文書局長は一覧へ目を落とした。
「北部水門。辺境補給。共同倉庫。治癒院支援。避難所備蓄。どれも止められません」
「はい」
「王太子殿下は、これをご存じで?」
「各月の共同事業報告に記載しています」
「読まれていたかは」
「確認していません」
アーデルハイトは答えたあと、自分の言葉を聞き直した。
「確認すべきでした」
文書局長が顔を上げる。
「私は報告書を提出することで、説明したつもりになっていました。理解されているか、後任になり得る者がいるかまでは確認していません」
「それは、あなたの責任でしょうか」
「一部は」
記録を残した。
期限も書いた。
必要な報告も行った。
しかし、自分がいなくなったときに誰が判断するのかまでは整えていなかった。
自分で処理した方が早かった。
説明し、理解を待つより、署名し、確認し、訂正する方が確実だった。
その結果、自分にしか全体を判断できない案件が増えた。
「私がいなければ止まる状態を放置したことは、私の不備です」
文書局長は何も言わなかった。
「ですが」
アーデルハイトは、一覧表の後任者欄を指した。
「私を外すと決めた日に、引継ぎ先を用意しなかった責任は、殿下にあります」
「その通りです」
答えたのは、入り口に立っていたユリウスだった。
監査局長の後ろには、レオンハルトとセラフィナがいる。
「なぜ、ここに」
アーデルハイトが尋ねると、レオンハルトは不機嫌そうに書類箱を見た。
「大広間で終わらなかったからだ」
「終わらせるために来られたのですか」
「そうだ」
「では、引継ぎ先を決めてください」
レオンハルトは答えず、箱から1冊の一覧を取り出した。
数ページをめくり、表情を変える。
「これを、すべて君が?」
「私だけではありません。各部署の担当者が作成し、私が取りまとめています」
「なぜ、これほど多い」
「必要だからです」
「君は、働きすぎだ」
その声に、偽りはなかった。
「だから私は、婚約を解消したかった。君は王太子妃になる前から、王家と公爵家の間にある仕事を背負いすぎている。セラフィナのように、自分の心へ正直に生きてもいいはずだ」
アーデルハイトは、しばらくレオンハルトを見た。
「私に仕事をやめてほしいとお考えだったのですね」
「そうだ」
「でしたら、なぜ後任を用意されなかったのですか」
レオンハルトは言葉を失った。
「仕事をやめさせることと、仕事をなくすことは違います」
「議会と文官へ分ければよい」
「分ける方を決めてください」
「だから、それを君が――」
レオンハルトは、途中で口を閉じた。
アーデルハイトを仕事から解放するための仕事を、アーデルハイトへ任せようとしていた。
アーデルハイトは、引継ぎ一覧を一度見直した。
「すべての実務説明と権限移管に、30日必要です」
「長すぎる」
「では、何日なら可能ですか」
アーデルハイトは一覧を差し出す。
「必要な業務を削減します。水門、補給、治癒院、共同倉庫、避難所備蓄のうち、どれを延期しますか」
レオンハルトは書類を見る。
「水門を延期すれば」
「秋の長雨までに工事が終わりません」
「共同倉庫は」
「補給便が出せません」
「避難所備蓄は」
「冬季更新が遅れます」
「……30日で、本当に終わるのか」
「終わらせます」
アーデルハイトは答えた。
「ただし、30日目以降は、私へ判断を戻さないことを条件とします」
「問題が起きたらどうする」
「後任者が判断します」
「間違えた場合は」
「訂正します」
レオンハルトは納得していない顔をした。
「国の仕事だぞ」
「はい」
「間違いは許されない」
「間違えた者が訂正できない仕組みの方が危険です」
ユリウスが書類を閉じた。
「監査局として、30日間の移行期間に異議はない。議会へ緊急承認を求める」
セラフィナが、静かに手を上げた。
「治癒院の支援は、どうなるのですか」
その声には、大広間で見せた怯えより、強い疲労があった。
「薬品の納入が遅れています。昨日、在庫が5日分しかないと聞きました」
アーデルハイトの目が止まる。
「5日分?」
「はい」
「前回報告では、14日分でした」
「予定より患者が増えました」
アーデルハイトは、すぐに治癒院支援の資料を開いた。
支援を一時停止した。
用途報告がない以上、その判断自体は必要だった。
しかし、支援先を神殿から治癒院へ直接変更する準備を、同時に進めていなかった。
報告が提出されれば元の経路へ戻せると思っていた。
提出されない状態が続く可能性を、十分に想定していなかった。
「私の不備です」
アーデルハイトは言った。
レオンハルトが顔を上げる。
「監査を優先し、現場への代替支援を同時に用意しませんでした」
「では、支援を戻すのか」
「元の経路へは戻しません」
レオンハルトの眉が寄る。
「治癒院へ直接支援します」
「神殿を通さずに?」
「薬品が必要なのは治癒院です」
アーデルハイトはセラフィナを見る。
「セラフィナ様。現在必要な薬品と器具の一覧はありますか」
「治癒院の薬師が持っています」
「本日中に提出できますか」
「頼みます」
「公爵家の緊急支援枠から、必要一覧の受領後、明朝までに暫定交付を決裁します」
セラフィナは頷いたあと、少し迷ってから尋ねた。
「では、用途報告は」
「提出していただきます」
「わたしが?」
「いいえ」
アーデルハイトは首を振った。
「決裁権限を持つ方が、です」
神官の顔が強張る。
ユリウスが淡々と告げた。
「必要な手続きは5点です。未提出となっている用途報告書の提出。遅延理由の説明。再発防止策の提示。臨時監査。そして、監査結果に基づく支援再開の判断」
「そこまで必要なのですか」
神官が言った。
「厳しすぎる」
「厳しいのではありません」
アーデルハイトは答えた。
「これが通常です」
翌日、議会会館の小会議室に関係者が集められた。
王家。
公爵家。
議会。
監査局。
神殿。
治癒院。
誰も、大広間のような衣装は着ていない。
聖女の背後に光を置く窓もなければ、悪役令嬢を一人で立たせる空間もない。
あるのは長机と椅子と、提出された書類だった。
「治癒院への支援を止めることはできない」
レオンハルトは言った。
「患者の命がかかっている」
「同意します」
アーデルハイトが答える。
「ですが、用途不明のまま神殿会計へ支援を続けることもできません」
「わたしは、治療を続けたいです」
セラフィナが言った。
「会計まで担当すれば、患者を見る時間が減ります」
「聖女へ会計責任を負わせるのは不適切だ」
議員が頷く。
「ならば神殿が管理する」
神官が言った。
ユリウスが書類を1枚出す。
「神殿会計では、治癒院支援金と聖女関連事業費が同じ口座で管理されています」
「同じ聖女事業です」
「治療薬と歓迎宴の馬車代を、同じ用途として扱うのですか」
「聖女の活動を支えるものです」
「分類が広すぎます」
議員が首を振った。
「このままでは、治療にいくら使われたのか分からない」
「では、どうする」
レオンハルトが尋ねた。
アーデルハイトは、準備していた案を机へ置く。
「治癒院会計を神殿会計から分離します」
神官が顔を上げた。
「支援金は治癒院へ直接交付。薬品、器具、人件費、施設維持費を個別に記録します。セラフィナ様は治癒の優先順位と治療方針のみを決定し、会計決裁は専門官が行います」
「聖女を神殿から切り離すのですか」
「治癒を切り離します」
「同じことだ」
「違います」
セラフィナが言った。
全員が彼女を見る。
「わたしは、治療がしたいです」
セラフィナは膝の上で手を握っていた。
「神殿の行事にも出ました。祝宴にも出ました。必要だと言われたからです。でも、治療をした時間より、ドレスを選んだ時間の方が長い日もありました」
神官が口を開きかける。
「知りませんでした」
セラフィナは続けた。
「支援金が、治療以外にも使われていたことを知りませんでした」
「あなたに知らせる必要は――」
「ですが」
セラフィナは神官を見る。
「知らないままでいた方が楽だったことも、事実です」
神官は黙った。
「患者を治していれば、良いことをしていると思えました。お金のことも、権限のことも、神官様が考えてくださると」
セラフィナはアーデルハイトを見る。
「あなたを冷たいと思っていました」
「はい」
「今も、少し思っています」
「それも受け止めます」
「でも、わたしの名前が何に使われているのかは、知るべきでした」
アーデルハイトは答えなかった。
代わりに、治癒院会計分離案をセラフィナの前へ動かした。
「治療責任者の欄に、あなたの名前があります」
セラフィナは書類を見る。
「会計責任者は」
「議会が任命する専門官です」
「わたしには、お金を動かす権限がなくなるのですね」
「元からありません」
セラフィナは目を瞬いた。
「あなたの名前で動かされていただけです」
会議室が静まる。
議員が咳払いをした。
「共同事業についても同様に、権限を分ける必要がある」
水門は建設局。
補給は軍務局。
共同倉庫は財務局。
避難所備蓄は王都行政局。
それぞれへ責任者を置き、30日間でアーデルハイトから引き継ぐ。
移行案はその日のうちに、北部国境のリューネ公爵へ送付された。
「ひとつ、指摘してもよろしいでしょうか」
文書局長がアーデルハイトを見る。
「どうぞ」
「アーデルハイト様が正しいことと、アーデルハイト様しか分からない状態が正しいことは別です」
「はい」
反論がなかったため、文書局長の方がわずかに目を見開いた。
「私も同じ結論です」
アーデルハイトは言った。
「記録を残すことと、仕事を渡せることを、同じだと思っていました」
「違うと?」
「読む者が理解し、判断できなければ、記録は保管物です」
レオンハルトがアーデルハイトを見る。
アーデルハイトは、文書局長の指摘を訂正事項として書き留めていた。
引継ぎ期間は30日と決まった。
1日目、業務一覧が各部署へ配布された。
3日目、当面の辺境補給便が出発し、次便以降の実務引継ぎが軍務局で始まった。
5日目、治癒院への直接支援を継続するための暫定運用が整えられた。
7日目、神殿から用途報告書が提出された。
不足していた領収記録は18件。
用途区分に誤りがあった支出は27件。
私的流用と断定される支出はなかった。
ただし、治療費、広報費、儀礼費、聖女の生活費が同じ項目で処理されていた。
大金を盗んだ一人の悪人が見つかったわけではない。
責任を分けず、「聖女のため」という一言でまとめていただけだった。
悪人がいなくても、帳簿は崩れる。
善意があっても、薬品は不足する。
12日目、リューネ公爵から、婚約解消の受諾書と権限移管案の承認書が届いた。
同日、北部水門の改修契約が建設局へ正式に引き継がれた。
新しい担当者は、2社の見積書を前に、アーデルハイトへ尋ねた。
「安い方は金貨1200枚ですが、完成が雨期に間に合わない可能性があります」
「はい」
「高い方は金貨1470枚です。工期は間に合います」
「資料に記載されています」
「どちらを選ぶべきでしょうか」
「現在の責任者は、あなたです」
担当者の顔がこわばる。
「私は、まだ就任したばかりです」
「私も最初はそうでした」
「間違えたら」
「判断理由を記録してください」
「記録すれば、間違えてもよいのですか」
「いいえ」
アーデルハイトは首を振った。
「記録があれば、どこで間違えたか確認できます」
担当者は、もう一度見積書を見た。
「雨期に間に合わなければ、下流の3村へ被害が出る可能性がある」
「はい」
「では、高い方を選びます。差額については予備費を申請します」
「決定理由は」
「工期遅延による被害予測額が、差額を上回るためです」
アーデルハイトは頷いた。
「その内容を記録してください」
「正しいでしょうか」
「それを決めるのは、今の私ではありません」
担当者は不安そうな顔のまま、それでも自分の名前で決裁書へ署名した。
アーデルハイトは手を出さなかった。
正しい決定をすることより、他人の決定を奪わないことの方が難しかった。
21日目、レオンハルトが公爵家を訪れた。
護衛は連れていたが、取り巻きはいない。
応接室ではなく、アーデルハイトの書斎へ通された。
机の上には、引継ぎ状況を示す札が並んでいる。
緑が4件。
黄色が1件。
赤は、もうない。
「順調だと聞いた」
「予定どおりです」
「君なら、そうするだろう」
アーデルハイトは返事をしなかった。
レオンハルトは、持参した書類を机へ置いた。
王太子府の支出一覧だった。
「私も、確認を始めた」
祝宴。
衣装。
馬車。
護衛。
神殿への臨時支援。
これまでレオンハルトが、必要だと思うだけで承認していた支出が並んでいる。
「君が何を言っていたのか、少し分かった」
「何についてでしょうか」
「理由を残すことだ」
レオンハルトは支出一覧を見る。
「私は、セラフィナを守りたかった。君にも、仕事から離れてほしかった。どちらも間違っていないと思っていた」
「はい」
「だが、私が正しいと思うことと、誰が費用を負担し、誰が後を処理するかは別だった」
「はい」
「君の仕事を見ていなかった」
アーデルハイトは静かに聞いた。
「君が何をしているかを知らないまま、働きすぎだと決めた。やめれば楽になると思った」
レオンハルトは頭を下げなかった。
王太子としてではなく、一人の人間としてアーデルハイトを見ている。
「すまなかった」
アーデルハイトは少し考えた。
「謝罪は、引継ぎの代わりにはなりません」
「分かっている」
「曖昧な謝罪は、次の曖昧を呼びます」
レオンハルトは頷いた。
「私は、君が担っていた仕事を確認せず、婚約解消と職務からの退任を決めた。その結果、共同事業を停止させる危険を作った」
「はい」
「それについて謝罪する」
アーデルハイトは目を伏せた。
「受け取ります」
レオンハルトが息を吐く。
「許してくれるのか」
「許すことと、謝罪を受け取ることは別です」
「そうか」
「ですが」
アーデルハイトは、王太子府の支出一覧へ目を向けた。
「何を見ていなかったのかを、明確にしていただけたことは受け取ります」
婚約を戻す話は出なかった。
レオンハルトも、アーデルハイトも、それが謝罪の目的ではないと理解していた。
30日目。
文書局の机へ、最後の引継ぎ書が置かれた。
北部水門。
辺境補給。
共同倉庫。
治癒院支援。
避難所備蓄。
すべての後任者欄が埋まっている。
権限移管日。
次回期限。
未処理事項。
判断基準。
緊急時の代行順位。
アーデルハイトは、最後の頁へ署名した。
「本日をもって、私の共同事業に関する代理権限は終了します」
文書局長が確認印を押す。
「今後、問題が起きた場合は」
新しい担当者の一人が、不安そうに尋ねた。
「あなた方が決めてください」
「それでも判断できなければ」
「会議を開いてください」
「意見が分かれたら」
「期限を決めて決裁してください」
「間違えたら」
アーデルハイトは、30日前と同じ問いを聞いた。
「記録を残し、訂正してください」
担当者を見る。
「間違えない者だけが、責任者になるのではありません」
誰も反論しなかった。
アーデルハイトは、空になった書類箱を持ち上げた。
30日前には、一人で持つには重すぎた箱だった。
今は軽い。
文書局を出ると、廊下で若い書記官たちが道を開けた。
そのうちの一人が、小声で囁く。
「悪役令嬢だ」
非難ではなかった。
畏れでもない。
半分は冗談で、半分は分類に困った者の言葉だった。
アーデルハイトは足を止めた。
若い書記官の顔が青ざめる。
「も、申し訳ありません」
「構いません」
アーデルハイトは答えた。
「ただし、定義するなら、責任者と適用範囲を明記してください」
書記官は何度も頷いた。
隣にいたマルタが、王宮を出てから小さく笑った。
「お嬢様は、最後までお嬢様ですね」
「何かおかしかったでしょうか」
「いいえ」
北部の情勢が落ち着き、父は前日に公爵領へ帰還していた。
帰還前に届いた書状には、30日目をもってアーデルハイトの当主代理権を終了し、その後14日間の休暇を命じると記されていた。
命令という形でなければ、アーデルハイトが休まないと思ったのだろう。
公爵家の馬車が待っている。
「屋敷へ戻られますか」
マルタが尋ねた。
アーデルハイトは馬車へ乗りかけて、少し考えた。
今日の午後には、期限のある書類がない。
明日の朝にも、会議はない。
誰かの判断を待つ必要も、誰かの判断を代わりに行う必要もなかった。
「市場へ寄ります」
「何を買われるのですか」
「決めていません」
マルタは驚いたあと、嬉しそうに馬車の行き先を御者へ告げた。
決めていなくても、馬車は走り出した。
物語は終わった。
だが、制度は続く。
続くものには、担当者が必要だった。
そして担当者には、終わる日も必要だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、2026年1月に投稿した『悪役令嬢の定義から教えてください』を、半年あまり後の自分が全面的に書き直したものです。
久しぶりに旧作を読み返すと、まあ、説明していますね。
同じことを角度を変えて何度も説明している。
登場人物が動いたあと、地の文でもう一度意味を説明している。
前書きと後書きでも、さらに説明している。
当時は、伝わらなかったらどうしよう、という不安がかなり強かったのだと思います。
文章にも荒さがあり、制度を書く作品なのに制度上の穴があったり、王太子と聖女を分かりやすくしすぎて、結果として正論で返り討ちにする話へ見えやすくなっていたり。
それでも、この作品で書きたかった、
「悪役令嬢とは、何をした人間のことなのか」
という問い自体は、今もかなり好きです。
今回は、その問いに対する旧作の答えまで、もう一度疑ってみました。
アーデルハイトは正しい。
けれど、正しい人がすべてを抱え、その人にしか判断できない状態まで作ってしまったなら、それもまた正しいのか。
そんなところまで書き直した結果、旧作の加筆修正版ではなく、ほぼ別作品になりました。
こうして同じ題材を、時間を置いて別の角度から書き直すことも、ある意味では悪役令嬢研究なのかもしれません。
誰が悪役なのか。
なぜ悪役という役割が必要になるのか。
悪役令嬢が正しかったと分かったあと、その正しい人へ仕事を任せ続けてよいのか。
書くたびに問いが少しずつ変わり、以前に出した答えへ、自分で疑問を差し戻している気がします。
あと、読み返していて気づいたのですが、侍女の名前がマルタでした。
後の別作品でも、普通にマルタという名前を使っています。
完全に忘れていました。
どうやら私は、仕事のできる侍女を見るとマルタと名付けたくなる時期があるようです。
旧作を読んでくださった方にも、今回初めて読んでくださった方にも、楽しんでいただけていたら嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
月白ふゆ




