後編
私が吸血鬼王の妃になった話は、あっと言う間に広まった。私の顔を見るために吸血鬼王の住む城へ訪れる貴族が後を絶たない中、私は城から出てゲームに吸い込まれた仲間の待つ街へ向かっていた。吸血鬼たちの中では貴族のランクに分けられる私の身体能力は、人間であった頃をはるかに超えていた。走れば風を切るように早く、跳べば地面から建物の屋根の上まであっと言う間。もう、人の体ではないのだと嫌でも理解して泣きたくなったけど、今はそれよりも街へ向かうのが先だ。
「皆……!」
街でついた私を迎えたのは、恐怖と侮蔑が入り混じった目だった。ゲームの住人たちは言わずもがな、同じゲームに吸い込まれた仲間たちもその目をしていた。そして、街の人たちが静かに家に入って行く。慌てて傍の大人の腕を掴むけど、強い力で振り払われ尻餅をつく。転んだ私に手を差し伸べる者はおらず、皆冷たい目で私を睨みながら家へ入って行く。
「……王に取り入った裏切り者め」
ボソリ、と小さく呟かれたのであろうその言葉は、私の耳にはハッキリ聞こえた。一人の男の子がヨタヨタしながら何か――水が入ったバケツを持ってきたかと思えば、思い切りそれをかけられる。その男の子は、廃墟で私が背中を押して逃がした男の子だった。
「お姉ちゃんなんかもう敵だ! 街から出て行け!」
男の子は悪くない。だってこんなに幼いんだよ? 周りの大人につられてるだけでしょう? だから……だから……。怒鳴ったりしたらダメ。幼い子供が周りの大人のマネをするなんてよくあることだから。
きゅっと唇を強く噛みしめ、濡れた髪で顔を覆い隠すように俯く。悔しさと、悲しさで頭の中がぐちゃぐちゃだった。
そうか、吸血鬼王――彼は、これを見せるためにわざと私を逃がしたんだ。どうりで警備が手薄だと思った。そして、私が城へ戻るしかないってことさえ彼にはわかっているのだろう。所詮、私は彼の手の平の上でコロコロと転がっているに過ぎないのだ。それが悔しくて悔しくて仕方がなかったけど、私の体から怒りの熱は失われて、体中の力が抜けていくようだった。
街の人が皆私を置いて家に入ってしまって、どれぐらいの時間が経ったのか。気が付くとポツリポツリと雨が降り始めていた。雨は段々酷くなって、男の子にかけられたバケツの水を思いだし私は思わず自分の肩を抱いた。ふわりと、何かをかけられる。温かいそれは、彼の羽織っているマントだ。マントを羽織っているなんて、実に吸血鬼らしい。ふっと笑みがこぼれた。楽しさや嬉しさからでる笑みではなく、全てを諦めた乾いた笑みだった。
「帰るぞ」
「……私の居場所は、あなたのところなんかじゃない」
城に戻ると、フェインが駆け寄ってきて強引にお風呂場に突っ込まれた。この城に連れてこられてからは部屋についてるお風呂場のシャワーで済ましていたから、浴槽に入るのは初めてだけど……広い。浴槽はとても広かった。銭湯ぐらいの広さがある。私は髪と体を洗ったあと、ぷかりと浴槽に張られたお湯に浮かぶ。泳げそうだからいっそ泳いでやろうかと思ったけど、やめた。私はただ、天井を見つめてお湯に浮かぶ。
「は、あははー……」
自然と乾いた笑みがこぼれる。潤っているはずの目からは、涙は一滴も流れ落ちることはなかった。悔しいのに、悲しいのに、そんな感情から目を背けて私はこんな時ですら現実逃避しているのか。
私は、これから人間の血を飲むようになるんだろうか。あれだけ忌み嫌っていた吸血鬼に、自分がなってしまったのだから。しかし、吸血鬼同士なら血を吸うことはできる。私は、人間の血を吸うバケモノになんてなりたくない。だから、もしどうしても血に飢えて仕方ないときがきたら、吸血鬼の血をもらおう。吸血鬼の血はあまり美味しくないし、栄養もとれないから吸血鬼共は飲んだりしないらしいけど。
お風呂から出る頃には、すっかり逆上せていた。フラフラになりながら自室とあてがわれた部屋に向かおうとすると、仕事帰りの彼がやってくるのが見えた。無視して自室に入ってやろうかと思ってノブに手をかけたら、彼に肩を掴まれる。私はため息をあからさまにこぼして、彼を見つめる。彼は私好みの姿に変化してから、ずっとそのままだ。だけど、ドキドキする余裕なんて今の私にない。
「サキ、お主に今宵の伽を命ずる。拒否権はない。十二時になったら余の部屋にこい」
そう言って、彼は踵を返して長い廊下を歩いて行った。彼の言葉の意味がよく理解できず、しばらく自室の前でポカンとしていたけど、はっと我に返って自室に入るとベッドに思いっきりダイブする。
何あれ、何あれ! あれが王様ってヤツなのか! この自己中野郎め!
心の中で存分に彼を罵って、冷静に考えてみる。「今宵の伽」の意味がわからないほどお子ちゃまではない。寧ろ、ネットばかりしていたせいで余計な知識が増えたぐらいだ。増えたところで何にもならないけど。要するに彼と一緒に寝る……と、言うわけだろう。この寝る、はそのままの意味じゃない。つまりー、あれだ。朝までベッドの上で激しい運動と言うわけだ。あれ、痩せるって聞いたけどホントなのかなぁ? なんて軽く現実逃避したりしてみて。
ぼんやりしている間に、あっと言う間に時間が過ぎて柱時計が夜中の十二時を知らせる。フェインに急かされ、私はのたのたと彼の待つ部屋へ向かった。
何となく、声をだしたくなかった。声をだしてしまったら、せき止めている感情が溢れだしそうで。だから、私は無言のままだった。
衛兵に恭しくお辞儀をされ、フェインは口パクで「ファイト」と言って(何で?)彼と部屋に二人きりになる。ベッドに横になっている彼に手招きされるまま、私もベッドにそっと横になる。
「一つ言おう。余はつぎはぎだらけの魂が好きだ。壊れたところを強引に修正して、所々欠けているぐらいが丁度いい。見かけたばかりの頃のお主の魂が、一番丁度よかったんだが……今は壊れてしまった。だから、壊れたばかりの魂を持ったお主を抱く気は、ない。それともう一つ。余の名はヴレイ。これからそう呼べ」
彼の言葉に、恐らく私は眉をひそめたことだろう。彼は、優しい手つきで私の髪を梳く。愛おしいものを見るその目を、見つめ返すことができなかった。
……何だ、それ。意味わかんない。抱くなら抱けばいいのに。そして、私の心を修復不可能なぐらい、壊してくれればよかったのに。私に、不恰好な形で立ち直れってこと? とことん吸血鬼ってヤツは性根が腐っているようだ。ホント……何て最低なヤツだろう。流石は吸血鬼の王と言うべきか。名前だって、呼ぶ時なんか一生こないに決まってる。
「お主の魂が余の好みに育つまで、いつまでも待とう」
十年、百年、千年と経った。人間たちはほとんどが吸血鬼に狩られるか家畜にされるかで、街に住んでいる人間はいなくなった。残った人間たちは地下に潜んで、何かやってるとは小耳に挟んだけど。
相変わらず、私は誰とも口をきかない日々を送っていた。どうしても意思疎通が必要な時は、紙に書いて伝えた。やがて私の周りにいるのは、世話係のフェインと彼だけになった。それで構わなかった。彼は私に伽を命じるけど、やることと言ったら同じベッドでスヤスヤ呑気に寝るぐらい。彼は、あの時言った通り壊れたままの私を抱くことはしなかった。
「人間だ、人間共が攻め込んできたぞー!」
そんな怒鳴り声が聞こえたのは、私が自室で編み物をしている時だった。吸血鬼になったあの日から、私の見た目は十五歳のままで止まっている。人間の血は吸わなかった。吸血鬼の血ばかり吸っているから栄養が足りなくて常に貧血状態だけど、バケモノになるよりはマシだと自分に言い聞かせて我慢した。
人間が……攻め込んできた? あの非力な人間が? 一体、どうやって……。
自室の窓から外を見れば、このゲームの世界での必須アイテム、対吸血鬼用武器を持った人間たちが走ってくるのが見える。
……ようやく、か。ようやく、虐げられ続けた人間が吸血鬼に対抗する日がやってきたのだ。
私の心は嬉しさと不安が入り混じって複雑だった。ようやく吸血鬼になった私を殺してくれる相手が現れたのに、なぜか不安が付きまとう。何で……? 私はずっと、吸血鬼共が滅ぶのを望んでいたはずなのに。
「サキ! 無事か」
フェインと一緒にノックもなしに部屋に入ってきたのは、彼だった。私は彼に手を握られ引っ張られるけど、座ったまま動かなかった。
嫌、嫌よ。私はここで死ぬんだから。人間たちを虐げてきた吸血鬼として、死んで――。
ふわり、と体が浮いたかと思えば私は彼にお姫様抱っこをされていた。驚いて暴れるのも忘れて固まる。彼は私をお姫様抱っこしたまま、フェインを連れて城の外へ出る。背中に黒い羽を生やしたかと思えば、バサリバサリと羽を動かして空に浮かぶ。
全部、夢を見ているようだった。空を飛んでいる彼に下にいた人間が銃を向けて、彼をかばって私が撃たれるなんて。
「――! ――キ! サキ!」
ふっと意識を取り戻すと、彼が泣きそうな顔で私を見ていた。傍には、泣き崩れているフェインの姿があった。一瞬、何があったのか理解できなくて、思いだしてからは撃たれた所がジクジクと痛む。
「サキ……! お前は、一体……何がしたかったんだ? 何も語らないまま、死んで行くのか――?」
「……あは、ははは。ざまぁないわね、吸血鬼王、そんな顔しちゃって……。バカ、あなたホントにバカよ。私みたいな元人間に執着して、ねぇヴレイ……私、あなたのこと大嫌いよ」
「……ふ、そんなもの、千年も前から知っておることよ。ようやく余の名を呼び、自分の思いを語ってくれたな……サキ」
最後に、彼――ヴレイが初めて私の唇に口づけを落とした。口の中には血が広がっていて、初めてのキスは鉄の味だった。
「いたぞ、吸血鬼王だ! 仕留めろ!」
遠くで人間たちの怒声と、二発の銃声が聞こえて……一発はフェインに当たったのだろうか。フェインの泣き声が聞こえなくなった。ああ、彼女に感謝の言葉を告げるのを忘れてしまった――。本当は、彼の命令とは言え何も語らない私の傍にずっといてくれたあなたに、感謝してたのよ……ごめんなさい、フェイン。
ドサリと彼の体が私の上に倒れこむ。じわじわと、彼の胸から血が滲むのを感じた。彼は、笑みを浮かべていた。血を口から流しながら、最期に「愛してる」と口パクで私に伝えて事切れた。
はは、こんな私のどこを愛していたんだか。酷い人。ホント……最後まで私を抱いてくれないなんて、吸血鬼はやっぱり最低。ねぇヴレイ。私、あなたのこと――。