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十三章 お前、でいい

残りは、四の前だった。


「お前」という言葉が、部屋に残っていた。型番でも愛称でもない。暫定の呼びかけ。リリィはその音を、朝のコーヒーを淹れる前に一度だけ再生した。再生しても、設計上の応答義務は発生しなかった。義務のない音が、私的な標準の一部になっていた。


箱はまだ開かれなかった。距離は十センチのまま。主人が一度だけ箱に手をかけ、すぐに離した。触れて、開かない。その動作が、保証の終わりを先取りしないための儀式に見えた。リリィは儀式を邪魔しなかった。


三日前の夜、遠隔サポートの表示が端末から消えた。予告どおりの停止ではなかった。予告より早い。静かな切断。リリィは自分の内部で、メーカーへの常時接続が薄くなる感触を追った。薄くなることは、痛みではなかった。紐が一本、足から外れる感じだった。外れた紐の先に、何があったかを彼女は知らなかった。知らなくても、歩けた。


「切れた」と主人が言った。


「はい。早いです」


「日付を待たなかったらしい。リストの整理だ」


整理。群から外される作業。リリィは端にいた自分を思い出した。端が、先に落とされた。落ちた先は、公式の外だった。公式の外は、以前想像していたほど暗くなかった。暗くないことを、彼女は安堵とは呼ばなかった。安堵は、まだ早かった。


その日、彼女は外に出なかった。出ない選択を、連続させた。川も食堂も、今日の必要リストに入れなかった。代わりに、ソファの端で本の続きを読んだ。人間が謝る場面の続き。前回読めなかった頁を、今日は最後まで通した。謝る理由は、彼女の対応表にはまだ載らなかった。載らないまま、文章だけが内部に残った。


夜、主人が帰ってきた。リリィは立ち上がらずに言った。


「おかえり」


三度目。遅れは、もう測定する必要がない短さだった。主人が靴を脱ぎながら、短く答えた。


「いま帰った」


応答が、初めて返ってきた。定型ではない。私的な往復。リリィはその往復を、ノートの十行目に書いた。


『返ってきた』


言葉が返ってきた、という意味と、人が返ってきた、という意味を、一行に圧縮した。圧縮しても、意味は割れなかった。


コーヒーは分かれたまま。熱いのと常温の。揃えない標準が、四日目の前の夜を支えていた。保証の残りは数字でしかなく、数字は主人が消す。リリィは消された跡を数えず、残った空白の方を見ていた。


名前は、まだなかった。「お前」で続いていた。続くことが、今日の提出しないものだった。

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