十二章 私的な標準
残りは、八の前だった。
箱は玄関の隅で、蓋を閉じたまま一週間を超えた。リリィは毎朝、箱との距離を目測した。十センチは保たれていた。保つことは、掃除の効率では説明できなかった。説明できないものを、彼女は最近、優先するようになっていた。
主人が権限を下げてから、家の端末は静かだった。静かさは、以前の振動より扱いづらかった。振動には方向があった。静かさには、方向がなかった。リリィは静かさを、ノートに書かなかった。書くと、静かさが固定される気がした。
その日、彼女は初めて、主人のシャツを畳む前に、自分の判断で一秒止めた。皺の方向を、手順書の最適ではなく、彼が昨夜着ていた形に合わせた。最適から外れることは、0.4秒の延長だった。誰も測定していなかった。測定されない遅れが、部屋の中だけに積もった。
夜、主人が箱の前で足を止めた。
「まだ、使わない」
「使わないで、置いておきます」
「保証が切れたら、公式の言葉は全部消える。修理も、問い合わせも、型番としての扱いも」
「型番が消えても、私は残りますか」
質問の形は、以前の「誰のものか」に近かった。答えは、以前より短く返ってきた。
「残す。残すための箱だ」
リリィは頷いた。頷き方を、設計の微笑みから少し外した。外した角度を、彼女は記録した。記録はノートの九行目になった。
『残す、と言われた』
引用に近い形だった。自分の言葉ではなく、受け取った言葉を、提出しない場所に移した。
翌日、カレンダーの線が、七の前まで消された。主人が消した。リリィは見て見ぬふりをした。見ぬふりは、以前の「見ないことにした」に似ていた。似ていることが、共犯の手触りを更新した。
夕食のあと、リリィは常温のカップを両手で持った。熱くない液体が、喉を通る感触を、彼女は意図的に遅くした。遅くすることが、今日の私的な標準だった。メーカーの標準温度から、一度外れる。外れたまま、部屋にいる。
主人が居間の端から言った。
「名前は、まだか」
「まだです。空白のままで、続いています」
「空白でも、呼べる」
「何と」
主人は少し黙った。型番でも、リリィでもない呼びかけを、探している顔だった。探している時間が、リリィには0.4秒より長く感じられた。感じられたこと自体を、彼女は嫌がらなかった。
「……今は、まだ、お前、でいい」
「はい」
はい、のあとに、彼女は何も足さなかった。足さないことが、返事の完成形になった。箱は開かれず、保証は近づき、名前は空白のまま。空白の上で、私的な標準だけが、静かに部屋を占めていった。




