9.大王だって凹む時は凹む
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トントントントン。ラザルが組んだ腕の肘を反対の手の指先が叩く神経質な音が、鬱蒼とした執務室に響く。
本当ならば今すぐにでも怒鳴りつけてやりたいところだが、今のアレクサンドルにはその気力が湧かなかった。
眉間に皺を寄せたまま黙り込むことしかできない。
お茶などではなく、今こそアルコールが、欲しかった。
エールではなくワインでもなく、喉を灼き思考を奪うほど強い火酒を浴びるほど飲めば、この胸を騒がす焦燥を遠くへ押しやることができる気がするのに。
だが、アレクサンドルはこの国の王として、魔族との戦争の爪跡が濃く残る国のために尽くさなければならない。
それを投げ出してしまうことはできなかった。なによりゴルドの挺身に背くことになる。それだけはできない。
そこまで考えて、またゴルド・ドルバガという特異な男に、自分のためにまたしてもすべてを捨てさせてしまったのだと再び思いが至り、落ち込む。
これをもう何度も繰り返している。
「それで貴方様は、団長が言うから快く見送った、と?」
「快くなど見送ってない」
「でも大王としての権限を揮うこともせずに見送ったんですよね」
「っ、……そ、ういうことに、なる、な」
言葉の端々からラザルの批難が突き刺さるようだった。
本当は誰よりもアレクサンドル自身が、ゴルドのことを引き止めたかった。だが、できなかった。
できなかったアレクサンドルを許さない部下の視線が、痛い。
「なんでですか!」
「仕方がないだろう。あいつがそう決めたんだ。漢が決めてしまった事を、外野に覆せる訳がない」
「あなたは外野ではないでしょう!」
「外野じゃないからこそだ。あいつの意志を、無視することができなかった」
まっすぐ伸ばされた背筋。アレクサンドルの声に振り向いてはくれたものの、すべてを振り切るように、美しい礼を残して去っていく足取りには一切のためらいはなかった。
「俺だって、ゴルドを引き止めたかった。あんな馬鹿なことを受け入れさせたくなど……」
「アレクサンドル大王……」
ぎりりと握りしめられたその拳から血が滴る。
「あぁー!」
ラザルの悲鳴に視線を動かす。今も、ぼたぼたと、赤い沁みが書類を汚していく。
「舐めておけば治る。だがこの書類はもう駄目だな。すまない、書き直して貰ってきてくれ」
「私は騎士団の人間で、大王付きじゃないんですけどね!」
ぷりぷりと怒りながらもラザルは文書科へと書類を貰いに行ってくれた。
執務室からうるさいラザルを追い払うと、ようやく息がつけそうな気がした。
部屋には静寂が訪れた。
……。…………。
「やばい。キツイ」
大きなため息が出た。
目を閉じると、最後に見たゴルドの後姿が頭に浮かぶ。
ちいさな頭。銀色の流れのような髪。薄い肩と腰がまっすぐ歩いていく。
遠ざかる背中が振り返ることはない。
「クソッ」
ガンッと机を叩きつけた。
頑丈なチーク材の平机がたわんで震える。
「失敗した。痛ぇ」
止まったばかりの血がまた滲んでくるのを見つめる。
静寂より、責められている方がずっとマシだった。
そう思うと、更に凹んだ。
「駄目だな、仕事しよう」
腐っていてもなんにもならない。
ゴルドが信じた道を、自分は選び取れているのか、歩いて行けるのか。
正直今のアレクサンドルにはまるで自信はなかった。
「あいつ、どれだけ高尚な理想の王を思い描いてるんだろうなぁ」
アレクサンドルに、そんなお偉いモノになった記憶はない。
王族としての務めというより、気に入らないモノ・不愉快すぎて我慢できないモノを叩き潰して排除してきただけだ。弱いモノを守るためというより、ただ自分が納得できなかったから。それだけ。
果たして自分はそこまで忠義を尽くされるほどの人物だったろうかと思ってしまう。
だが、無理だと口に出す訳にはいかない。
「やれやれだ。俺の進む道がお前の理想と違っていても、許せよゴルド」
苦しさは変わらない。けれど、ゴルドが指差す道を思い描くと、すこしだけ心が軽くなった気がした。
「さて。仕事の続きでもするかな」
開いた傷跡へ舌を伸ばし、ぺろりと血を舐め取る。
アレクサンドルは気持ちを切り替え、山になっている決裁待ちの書類の山から次の書類束を取りそこに書かれている文字を目で追った。
「ちょっと! どうなってるのよ? どういうことなの!!」
バァンと激しく執務室の扉が押し開かれて、アレクサンドルはまたしてもため息をついた。
「……面倒臭いのが来た」
「面倒臭くだってなってやるわよ! それで? なんでゴルドおねえさまが教会に行くなんてことになったのよ! なんの為におにいさまみたいなのにみたいなのにゴルドおねえさまとの婚約を許したと思ってるのよ、この役立たず!!」
一気に叫んだ女を、アレクサンドルはげんなりとしながら諫める。
近衛程度では確かにこの女は抑えられないだろう。
「クラウディア・ヴァリトゥーリ。うるさいぞ」
ふうふうと息を荒げて仁王立ちになり、怒り狂った様子でアレクサンドルを見下ろしていたのは、 クラウディア・ヴァリトゥーリ。この国の公爵令嬢だった。




