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 テーブルの向かい側に腰を下ろした洋の顔面が蒼白なのは自分の犯した失態のあまりの大きさに恐れたじろいでいるのだろうか。いや、そんなことはあるまい。ただこの時間になっても二日酔いが癒えず悪心に苦しんでいるだけだろう。

「他に付けたすことはないか?」

 私がそう訊ねると洋は崩れ落ちるように力なく頷いた。

 この阿呆が。

 今は口を開けば呪詛しか出てこない。

 先ほどは社長室前で岩倉に会って前橋と対峙する気が急速に萎えてしまい水一杯飲んで会長室に戻ってきてしまった。それからはまず洋からの経過報告を受けてから考えようと待っていたのだが、当の本人の口から聞けたのは、昨晩フィギュアの件で世話になった人がなかなか帰してくれなかった、ということだけだった。この期に及んでも言い訳がましい息子はさらに私の神経を逆撫でた。

 私は今さら迷っていた。

 どうすれば洋への処分が穏便になるか、についてではもうない。洋が今後自分の足で生きていくには今回私はどういう風に振る舞えば良いかについてだった。

 ここは厳しく接した方が本人のためだという思いは今になってかなり強くなっている。社会人が頭の下げ方一つ知らないようでは組織の中では生きていけない。ましてや卓越した能力や人格が備わっているわけでもない洋では今回の事がなくても創業者の私がいなくなってからは私のあとを継ぐどころか今の役員の地位を保つことすら非常に危うく甚だ心もとない。

 社長のところに謝りに行って来い。包み隠さず己の不始末を説明し衷心から詫びを述べてあとは自室で待っていろ。

 そう告げれば済むことだ。しかし、私はそれが言えないでいる。

 それは何故か。答えは明確だった。洋が不憫だからだ。何歳になっても親と子なのだ。目の前でしょんぼりしている我が子を見ていると、もう良い、と思ってしまう。反省しているならもう二度としないと約束して今日はもう寝ろ。まるで洋が中学校の授業をさぼっているのを見つけた時のような生ぬるい言葉が口をついて出そうになる。

 きっと、あの時から洋は何も変わっていない。そして洋に対しては私も親として成長していないのだろう。そんな不甲斐ない自分に嫌気がさす。

「常務、今から社長室へ参りましょう」

 洋の隣に腰かけていた田之上が私の代わりに優しい口調だがはっきりと当然のことを投げかける。

 しかし、洋は常識というものを理解していない。恐ろしいものを見るように腰のひけた眼差しを田之上に向ける。

「行ってどうする?」

 ぬるま湯につかった公家のような洋のひ弱な声に思わずこめかみがピクリと動く。田之上がいなければ私は怒鳴りつけていただろう。

「事実を報告し、お詫びするのです。こういうことは早ければ早いほどよろしい」

「嫌だよ。叱られる」

 こいつは単に前橋の怒りに触れることを怖がっているだけだ。目先のちょっとした苦難を避けることに必死で、会社のため、組織のため、そして自分の将来のためという発想に全く至らない。

 小刻みに震える血色の悪い唇。楽な道だけを探している卑屈な眼差し。弱々しいが耳にうるさく響く甲高い声。

 事ここに至って私は我慢を捨てた。このままでは洋は唯一の援護者である田之上にも愛想をつかされかねない。

「全てお前がやったことだろう!自分の始末ぐらい自分でつけろっ!」

 感情が一気に高ぶり拳でテーブルを叩きつける。心臓に熱い血が流れ込んでは吐き出される動きの様が目の前で見ているかのように分かる。

 まずい。

 急激で不規則な心筋の収縮はすなわち心臓の破たんを招く。

 目の前がチカチカと光りだした。後頭部からすうっと何かが抜けていくような感覚がある。身体の平衡感覚が危うい。

 私は前のめりになっていた上体を思い切り背もたれに預けた。息を深く吸い、軽く止めてからゆっくり吐き出す。鼻から吸って腹を膨らませる。小さく口を開いてゆっくり空気を吐き切る。右手の親指と人差し指を両のまぶたに当てて強く揉む。

「社長。お加減がよろしくないのでは?」

 田之上が心配そうに訊ねてくれる。しかし訊ねなくても分かるだろう。明らかに私は加減がよろしくない。

 きっと洋は、こんな親父早く死ねば良い、ぐらいにしか思っていないだろう。最後に力になってくれるのはやはり長年苦楽を共にした部下だ。

「洋。後から連絡する。部屋に帰っていろ」

 お前の顔など見たくもない。私は目を閉じたまま妙に重い右手を動かして、この場から出ていけ、と示した。

 見なくても洋が、待っていました、とばかりに素早く立ち上がるのが分かる。神妙なふりをして「失礼します」と蚊の鳴くような声を出す小賢しさ。

「どんな処分も甘んじて受けるように」

 私は獅子身中の虫の背中に言葉のナイフを投げつけた。

 洋は一瞬足を止めたがすぐに脱兎のごとく去っていった。

「田之上。私はもう社長じゃない」

 私は田之上の先ほどの間違いを指摘した。しかし、社長と呼ばれるのは何とも懐かしく心地良い。ゆっくり目を開けて頬を緩める。

「あ、いや、これは、失礼いたしました。私も歳ですな」

 確かに歳を取った。田之上の潤いのない粉をふいたような褐色の肌は私のために来る日も来る日も愚直に外を駆けずり回って営業を重ねた証拠だ。

 何も言わなくても田之上とは視線を交わせば事は済む。

「すまんが、中谷君を呼んでくれ」

 田之上が席を立つ気配と同時にドア越しに「失礼いたします」という真奈美の声が聞こえる。ドアが開き彼女が部屋に入ってくる音がする。

「お呼びでしょうか?」

 真奈美はどんな指示を出しても完璧に対応してくれるだろう。彼女の受け答えにはそんな安心感を抱かせる。

「水を一杯。それと冷たいおしぼりを」

 承知しました、と残して彼女が去ってから三十秒と経っていないだろう。私の目の前にはグラスにはいった水と、硬く絞られたおしぼりが用意されている。

 私はおしぼりを顔全体に当てた。

 ひんやりとした冷気に私は息を吹き返す。首筋を拭い、グラスの水を口に含むと気持ちが大分しゃんとしてくる。

 私はゆっくりと立ち上がった。「社長室へ行ってくる」

 私を見上げる田之上は唇を真一文字に結んで深々と頭を下げた。


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