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控室に入ると女性秘書がすっくと立ち上がって軽く頭を下げる。
彼女の名前は忘れた。かつては真奈美の下で私のために働いていたが、社長職と一緒に前橋にくれてやった。丸顔に垂れた目じりがどうも頭の鈍そうな感じがしていたが、今もその印象は変わらない。
「社長、今、大丈夫?」
本来なら誰に伺いを立てることなくズカズカと入ってやれば良いのだ。ここは私が建てた城なのだから。しかし、私も一人の企業人。前橋の立場もある。
「確認してまいります」
秘書はこともあろうに私に椅子を勧めるでもなく奥の社長室へ入って行った。
なめられている。きっと前橋が私のことを軽んじているから秘書も気が回らないのだ。
私は左胸に手を当てて歯がみした。
忍耐。忍耐。
私は黙ってソファに腰を下ろした。
会長に退いてから初めて入ったが社長室控室の様子はガラッと変わっていた。
抽象的で何を描いているのかさっぱり理解が及ばない絵が壁にかかっている。天井からは重さで今にも落ちてくるのではないかと思うような派手なシャンデリア。部屋の隅には南国をイメージさせる葉が長くて尖った観葉植物。その脇に前知事からもらった「不惜身命」の揮毫。
統一感のなさと言ったらない。あいつのセンスはこの程度のものなのか。
ここは小売業界ではまずまず名の通った企業の社長室だ。客もそれなりの人間が来る。それなのにこんな構えでは会社全体のイメージが悪くなるというものだ。
しかし、ここでも忍の一文字。
何でもかんでも気の向くまま思い通りにやっていた頃とは違うのだ。あの頃は周りも自分の身体も私の意思に従順についてきてくれていた。
今は周りに気を遣い、自分の身体に気を遣ってやっと人としての生活を送っている。それが世間の当り前なのだ。みんなそうやって生きている。
「どうぞお入りください」
社長室から出てきた秘書はドアの奥に手を示した。
私は一つ頷いて鷹揚に彼女の前を通り過ぎ社長室に足を踏み入れた。
前橋は私に背を向けて窓辺に立っていた。窓から何を見下ろしているのか。
「彼岸は一か月も前だというのに暑い日が続きますね」
どういう風に切り出そうかと考えていたところだから天気の話から始まるのは気が楽だった。
私はソファに腰を沈め肌触りのよい肘掛けの皮を軽く叩いた。
「全くだ。そろそろ涼しくなってくれないと身体がもたん」
もうすぐ十月も終わりだが秋の気配はどこにも見当たらない。昨日はまた三十度を超えたという。いつまで経ってもクーラーなしでは暑くて眠れない。
「今年はビール類の売り上げが過去最高となりそうです。今週に入っても引き続き好調で」
「ほう。暑さが続くのも悪いことばかりではないんだな。確かに暑いと冷えたビールが美味い」
「しかし、今回はその美味さが罪でしたか」
そう言って振り返った前橋の顔は窓からの逆光で良く見えない。
前橋の言葉は何を指しているのか。私は懸命に頭を巡らせた。そして一つの答えにたどり着いた時には前橋は私の向かい側に立っていた。
前橋の目からは何の色も読み取れなかった。
こいつはいつからこんなに冷淡な顔つきになったのだろうか。その不気味な無表情が作り出す雰囲気で二人の間の空気の密度が一瞬にして濃くなった気がした。肺の奥にうまく酸素を取り込めない。陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと無様に口を動かすだけだ。
「先ほどある契約農家の方が私のところに電話を掛けてきましてね」契約農家という言葉が私の心臓を鷲掴みにした。おそらく私の表情の変化を悟ったのだろう。前橋は自信に満ちた動きで深々とソファに腰掛けた。「それはそれはすごい剣幕で、いやはや私もまいりました。それで慌てて事実の調査を命じたところです」
やはり前橋は知っている。
既に時機を逸していることを私は痛感した。調査が進行しているということはこの問題が公に処理されていくことになるということだ。前橋が指示した調査を私が前橋を超えたところから取りやめさせることはできない。事実確認も事後処理も前橋主導で行われていくことになるだろう。
「申し訳ない。洋がへまをやらかしたようだ」
私は気づけば腰を折って頭を下げていた。色々権謀術数巡らせようにも事態はもう私にできることはこれしかないというところまで悪化しているようだ。本来なら調査を始める前に私に一言相談があってしかるべきではないかという思いが兆したが、とてもそんなことを口にする気にはなれない。
「会長が謝られることではありません」
「しかし……」
「会長」前橋の目は憐みを示しているように見えた。愚かな息子を持った親への同情か。それとも往年の力を失った過去の人間に対する蔑みか。「会長。息子さんも立派な社会人、一人の企業人です。組織の中で私情は禁物。私は今回の件で企業のトップとして相応の対応をしなくてはなりません」
「それはそうだ」
前橋の言うことは正論過ぎてこちらとしては絞り出す声に錆びが浮く。
「常務は契約農家との会食に出席して食事中に嘔吐した」
私は力なく頷いた。
「前日にかなり遅くまで酒を飲んでいて、体調がすぐれなかった」
前橋は体内のベルトコンベアから運び出すように同じペースで淡々と事実を口にした。
「出席した契約農家から二日酔いを指摘する声が上がり、縁切りという言葉も飛び交った」
「そのようだ」
私は首を持ち上げることもできない。
「常務は『ブロッコリーが苦手だから』と言い訳をした」
私はサッと顔を上げた。「それは本当か?」
その情報は洋からも田之上からも知らされていない。どうして私が掴んでいない情報を前橋が手にしているのか。ガセかもしれない。しかし何と稚拙な言い訳なのだろう。そのレベルが息子には似つかわしいと思ってしまうのが親として情けない。
確かに洋は小さい頃ブロッコリーが嫌いだった気がする。ただでさえ二日酔いで体調が悪い時に追い打ちをかけるように苦手のブロッコリー。出されたものを嫌とも言えず半ば自棄気味に目を閉じて口に放り込もうとして……。当時の様子を簡単に想像できてしまうところが悲しい。
「ただいま事実関係を確認中ですが、どちらにせよ」私の動揺の振幅を大きくするように前橋が一際大きな声を上げる。「会長の息子だから手心を加えたと内外から揶揄されるような処分では絆や信用を大切にしてこられた会長ご自身も耐えられないところがあるでしょう。公平性を期すためにここは私に全てお任せいただきたい」
私の手元に前橋に反撃する材料はない。こんなに惨めな想いで社長室の扉を辞する日が来るとは思いもよらなかった。




