表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/22

13

 新聞を畳み、茶を啜る。

 熱い茶を口の中で転がしながら少しずつ冷まし、頃合いのところで喉の奥へ押しやる。何度も繰り返す。毎日のルーティンだ。暑い夏ならだらだら汗を流しながら、寒い冬なら飲み込んだ熱い流れが隅々に行き渡るのを身体全体で感じながら。

 今日は二日酔いでカラカラに乾いた老体には何よりの薬になっている。

 茶は毎朝幸子が両手で持たないと落としてしまいそうなほど大きい湯飲みになみなみと注いでくれる。その日の調子に合わせて口にする量はまちまちだが今日は全部飲んでも足りないかもしれない。

「あなた」

 幸子が甲高い声で私を呼ぶ。どうやら何か気に入らないことがあったようだ。

 妻の癇癪を朝から相手にしなくてはいけないとはついてない。せっかくの昨日の満ち足りた時間の余韻もパーだ。酒の残った少々重い身体ではなおさら真面目に応える気にはなれない。

「ん?どうした?」

 一応聞こえていることだけは明確にアピールしておかなくてはいけない。そうでないと幸子のヒステリーはボルテージが瞬時に最高潮まで高まり、しかも辟易とするぐらいに長時間それが持続する。下手をすると私にがみがみ言いながら会社までついてきかねない。

 私が会社を辞めない理由の一つがこれだ。引退して楽隠居と化してしまったらどこにも逃げ場がなくなってしまうからだ。私にとってこれは実に深刻な問題だった。

「洋が起きてこないんですよ」

「ああ、そうか。あいつは昨日帰ってきてたのか」

「そうですよ。何か、あなたとお話したいことがあったみたいでしたけど」

 昨晩はあなたのお帰りが遅かったですから、と暗に嫌味を言っているつもりらしい。

 不思議なほど罪悪感はない。真奈美と過ごした時間は何にも代えがたい清らかなものだ。思い返すだけで体内に活力を漲らせる無尽のエネルギー源となる。

 所詮洋のくだらない話の中身は昨日の電話でもう分かっている。今回の件は良い薬だ。せいぜい前橋に苛められて苦しんだら良い。

 再び茶を啜る。泰然と、平然と。私がどんな時も失ってはならないのは冷静さと平常心だ。外的要因で心拍のリズムを狂わせるのが一番私の身体にこたえる。

「行ってくる」

 私は茶を飲み干したのを契機に立ち上がった。もう少し身体が欲しているしいつもの出社時間よりはまだ早いが、これ以上ここにいると幸子の毒気に冒されそうだ。

 真奈美が出社したときに熱い茶をお願いすれば良い。何故だか味は幸子には敵わないのだが、真奈美が淹れてくれる茶はそれはそれで格別だ。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

「洋なら昨日電話で話したからもういいんだ」

 きっとどれだけ待っても私がここにいる限り洋は降りてくるまい。電話であれだけ突き放されては今日もう一度縋ってみようという気力もないだろう。だとすれば顔も合わせたくないに決まっている。寝たふりはあいつの常とう手段。ふりをしている間に今頃本当にまた寝入ってしまっているだろう。

「そうやって、また私をのけものにして」

「ん?」

「私にも何があったか話してくださってもいいじゃありませんか。会社で洋が何かしでかしちゃったんでしょ?あの子は、もう終わりだ、なんて言ってましたけど終わりのはずがありませんよね?」

 私は醜く目を吊り上げる幸子を見て、フンと鼻から息を漏らした。

 くだらない。会社でのことはその会社に勤めている者にしか分からない問題だ。幸子に説明しようとしてもその全てが伝わるわけがない。伝わらなければ正確に理解することも無理だ。正しい理解がなければ焦点のずれた感情を抱くことになる。

 それでおさまれば良いが幸子はそういう人間ではない。今度はその負のエネルギーを全て私にぶつけてくるだろう。想像するだけで煩わしい。

「あいつも一社員だ。自分の不始末は自分で背負わなくてはならん」

 そもそも結婚してすぐに「会社のことを家に持ち込まないで」と私の仕事の愚痴に耳を覆って叫んだのは幸子の方だ。だからそれ以後私はどんなに苦しくても仕事の話を妻にしないようにしてきた。それが何を今さら「何があったか話して」だ。都合の良いことを。

 私は幸子に背を向け玄関に向かった。靴をはきドアを開こうとすると幸子の声だけが私を追ってきた。

「あれはあなたの会社でしょ。自分の会社なら何とかしてくださいよ。ここで息子一人守れないでは、蛯名の海老屋がすたるってものですよ。馬車馬のように働いて、いろんなものを犠牲にしてここまで大きくしたんですからね」

 耳にだけではない。心にも不快にキンキン響いた。

 犠牲とは何だ。大きくしたのはお前じゃない。

 振り返ると見たことのない女が立っていた。生え際に、目じりに、眉根に、小鼻の際に、口元に、首筋に二度と戻ることのない深く刻まれた皺。夜叉のように吊り上がった目は白く濁った膜に覆われているように見える。粉をふいたような乾いた肌を化粧で覆うこともしない。血のように赤い口紅の色に鳥肌が立つ。ぞっとするほど醜い女だ。

「何を言ってるんだ。私がどれだけ」

 そこで私は努めてぐっと口を噤んだ。止めることができるうちに止めておかないと何を吐きだすか自分でも分からないぐらいに頭に血が上っていた。

 唇を噛みしめてドアに手を掛ける。怒りをこらえ、無駄な心拍の上昇を抑える。

 愚かな女だ。少しは分かっていてくれていると思っていたが全くの見当違いだった。あいつとは何を話しても分かりあえることはないだろう。

「会社が何だって言うんです!」私が言葉を飲み込んだのを口ごもったと見たのか幸子はここぞとばかりに仕掛けてきた。「私はまだあの子のことを許したわけではありませんからね!もう、うんざり!私にも限界ってものが……」

 私は幸子を遠ざけるように力いっぱい叩きつけるようにドアを閉めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ