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 二年前。

 私は何をしていたか。アルコールに毒されつつある脳をフル回転させ急いで記憶を辿る。

 当時は丁度新設した会長職に私が就いた頃だ。予期せぬ前橋のハイクラス店の成功で自分の判断力と商売勘に自信が持てなくなり次世代の若い感覚に道を譲り社長から降りた時分。急に毎日が暇になり、時間を持て余し、身の回りの様々なことが色あせ始めた。ぼんやりと窓の外の季節の移ろいに目を休めるだけの張りのない安穏とした生活。

 その頃の真奈美はどんな様子だったか。

 私は心の中でかぶりを振った。どれだけ記憶を呼び戻そうとしても何もヒットしない。

 彼女が病気を疑わせるような変化を見せていればいくらなんでも気づくはずだ。毎日顔を合わせているのに私は何も気に留めることなくのほほんと毎日を過ごしていたのだから、きっと彼女の方で普段の自分を崩すまいと懸命に努力したのだろう。

 それでも目を凝らせば何かしらの綻びはあったはずだが私の記憶回路に何も思い当たる節がないのは私がたるんだ生活を送っていたということに他ならない。

 そしてそれは今日まで続いていたのだ。

 私はこの二年間の記憶が非常に薄っぺらいという事に思い至った。振り返ってみて初めて自覚したが、真奈美に対してだけでなくその他もろもろについて特に思い起こせるようなことがない。それだけ私は社長職から外れて隠居生活を送っている今の自分に興味がないということなのだろう。

「すまない。私は何も気づいてあげられていなかったようだ」

 企業のトップに立つ人間にとって秘書の存在は非常に重要だ。それは経営者の能力を生かすも殺すも秘書の手腕にかかるところが大だからである。

 いくら企業の社長が優秀でも社長は一人であり、一人に出来ることには自ずと限界がある。従って社内で最も身近に存在する秘書が作り出す環境がどれだけ社長にとって自分が持つ能力を最大限に発揮できる状況になっているかということが大きな意味を持つのだ。

 事実我が社は私が秘書に真奈美を迎えてから大いに躍進した。それは彼女が私のスケジュールや体調に始まり性格や癖、果ては趣味嗜好まで的確に把握してくれて、無駄なストレスなく私が自分の仕事に集中しやすい環境づくりに腐心してくれたからに他ならない。

 タイミングから推し量ると私の退任が真奈美の自律神経に影響を与えた可能性が高い。それほど真奈美は社長秘書の職務に一意専心励んでくれていた。朝昼晩問わず彼女は私の無理難題に全身全霊で応えてくれた。

 私の言ったことに彼女が否定的な言葉を口にしたことはない。申し訳ない、と思いつつ私は彼女のその姿勢に甘え切っていた。

 社長時代を思い返せば彼女に無理をさせたことは枚挙に暇がない。病気になって当然と言えば当然だと思った。私が彼女を壊してしまったのだ。「本当にすまない」

 私はカウンターに額をつけて彼女に詫びた。

「やめてください、社長。私、そんなつもりで言ったんじゃないんです。ただ、何て言うか、つい、ぽろっと……」

 真奈美はハンカチで涙を拭きつつ慌てたような仕草で私の腕に手を触れた。

 私は力なく首をもたげる。「今日は二回目だな、社長と呼ばれるのは」

 それは田之上や真奈美が私を慕ってくれていることの証のように思えた。こんな風に無意識に社長と呼んでしまったという感じが正直言って嬉しいのは私にまだ社長職に未練があるからなのかもしれない。

 真奈美は「あっ」と叫ぶような声を上げた。

「すいません、会長。どうしちゃったんだろ、私」

「いや、そう呼ばれて悪い気はしないんだ」私はそう言って崩した表情をすぐに引き締めた。「原因は日々の激務による過労なんだろうね」

 真奈美は、ちょっと違うかな、と首を捻った。

「きっと見失っちゃったからなんです」

「見失った?」

「私は社長秘書として私なりに蛯名社長を全力で支えてきたつもりです」

「それは重々承知している」

「その間、私は蛯名社長の背中だけを追って無心で走り続けていました」私は次を促すように頷いた。「ところが蛯名社長は突然会長に退かれました。私の知らないところにゴールテープを見つけて一人で切ってしまわれた。私は困惑しました。私という人間にとってのゴールがどこなのか、どこへ向かって走れば良いのか分からなくなったんです。私は取りあえず自分にブレーキを掛けました。その場で足踏みをし、懸命に振っていた腕を下ろし、息を整えようとしました。そうしたら……」

「そうしたら?」

「動けなくなっちゃったんです」再び真奈美の瞳に涙が浮かんできた。私は何も言うべき言葉が見つからず、しかし何も言えないことを嫌って分かったような顔で壊れた機械のようにただ頷くだけだった。「今まで背中しか見えていなかった蛯名社長は会長となられて私の前に現れゆっくり面と向かってお話ししてくださいます。それはそれで嬉しいのですが、私は……。私は何かを見失ってしまったような感じがしたんです。気持ちのやり場が分からないと言うか」

 それは私への恋心の吐露のようにも聞こえた。縋るような、怯えているような面差しが愛しく迫り私はこの場で彼女を腕に搔き抱いて唇を奪いたい強い欲求が募るのをこらえるのが難しかった。

「やっぱり、私が無理をさせていたのは間違いないな」

 そして私だけが真奈美を救ってあげることができる、私以外に真奈美を幸せにすることはできないという思いが確信として私の胸にせり上がってきた。

 他に誰がいる。私しかいない。

 彼女は一度首を横に振ったが、やがて目を細めて俯いた。

「きっとそれまでがすごく楽しかったんです。もちろん今のゆったりした感じも好きですけど」

「ありがとう。中谷君には本当に世話になった」私は心から礼を言った。「今、体調はどうなんだ?しんどかったら少し休んでもらっても構わないが」

 会長室前の控室に真奈美がいないのは想像するだけでも身を捩りたくなるような寂しさを覚えるが、退職されてしまうことだけは何としても避けたかった。全てにおいて真奈美の身体のことを最優先に考えてあげたいが、永遠に真奈美と顔を合わすことができなくなるという事態は私の出勤のモチベーションの大部分を損なうことにつながる。

 大げさでも何でもなく真奈美が辞めれば、そのときは私も一緒だ。こんな会社に未練はない。欲しけりゃ前橋にくれてやる。

「そうですね。眠れないとつらいんです。翌日は頭はぼーっとするし、胃腸の調子が崩れるし、化粧ノリも悪いし。だから睡眠には気を遣うようになりました。お風呂でゆっくり身体を温めたり、間接照明を使ったり。眠りに効く足つぼも押しますし、アロマもたきます。あとあれもやってるな。マイナスイオン発生器。気分がリラックスするらしいんですよ。そういうのを使いながら布団に入るまでの生活リズムを毎日一定にして徐々に身体を眠りに向かわせるようにしています」

「なるほど。何だかすごいね」

 そうは言ってみたものの、それぞれがどれだけ効果があるのか良く分からなかった。

 真奈美本人も一つ一つの効果に自信があるわけではなく、良いと見知ったものを手当たり次第試してみているような口ぶりだった。

 そしてそれを聞いている私には眠りに対して彼女が神経過敏になりすぎて逆効果をもたらしているように思えてならなかった。こういう人が詐欺商法に引っかかってつまらない商品に手を出してしまうのではないか。そんな懸念が胸に影を落としたが口には出せなかった。眠りについての口調がどこか病的に熱く必死な真奈美に対してそれを否定するような発言は危うい気がした。

 今はまだ彼女のやりたいようにやらせておかなくてはならない時期なのだろう。私の下手な横槍は彼女が何とか保っている心身のバランスを根底から崩しかねない。

「でも、結局は薬に頼るしかないところもあります」

「薬?」

「抗不安薬とか睡眠導入剤」

「そうなのか」

 私には心療内科に関する知識は全くないが、真奈美のような若い世代が日常的に薬を飲んでいることに不安と違和感を覚えてしまう。しかしそれは薬に頼ることが是とされなかった時代に育った人間の無知から来る偏見なのだろう。かく言う私も心臓やら高血圧やらで薬を飲まない日はないわけなのだから。

 現代社会では薬剤は昔よりも身近なところに存在していて、高齢者に限らず上手に薬と付き合っていくことが賢く生きていくことにつながるのかもしれない。

「あと、更年期障害の薬も」

 真奈美はハンカチで瞳以外を隠して恥ずかしそうに言った。

「更年期?」

 私は思いもよらぬ言葉に私は真奈美の顔を見つめた。

「そんな見ないで下さいよ、恥ずかしい」

「いや、しかし。君はまだ若いし、更年期だなんて」

「そんなことないです。私ももうすぐ四十のおばさんですよ。実際血液検査の結果をみるとホルモンバランスがおかしくなってるみたいで」

 真奈美は外見的にはまだ三十そこそこにしか見えないが、身体の内部のことは他人には分からない。

 そう言えば異性との関係がないと人間の老化は早まるというようなことは耳にしたことがある。真奈美はまだ結婚していない。振り返ってみても彼女から異性の相談を受けたことはない。男性の影を匂わせるような言動を目にしたこともやはりない。

 真奈美の性格からして「仕事は仕事」と勤務時間中にプライベートに関することは表に出さないようにしていたのかもしれないが、毎日顔を合わせているのに付き合っている男性の存在を私の目から完全に隠すということは可能なのだろうか。

 秘書業務はその日にならないと何時に帰れるか分からないような面があり急に会社に泊り込みになるというときもあったのにもかかわらず、彼女が誰かに電話で「ごめん、帰れなくなった」みたいなことを言ってそこに相手がいるかのように頭を下げているという場面に遭遇したことはない。

 つまり、この十数年の間全くいなかったということはないにしても私に感づかれる程度にまで深まった男性は存在しなかったのではないか。それは何故か。

「君は、結婚はどう考えてるのかな?」

「会長、やめてくださいよ。私が更年期になったのは異性関係が足りないからなんじゃないかみたいな発想で無理やり結婚させようっていうのは」

 彼女はまだ涙の余韻を漂わせる薄紅に染まった眼で私を睨むように見る。

「無理やりさせようなんて思わないが、やっぱり君だって支えてくれる男性に傍にいてほしいとは思うだろ?」

「そりゃ、ほしいですよ」

「そうか、ほしいか」

「ええ、そりゃもう、喉から手が出るぐらい」

 フフフ。ハハハ。

 真奈美と笑いあいながら私は自分の肺の中の空気が弛緩するのを感じていた。

 男が欲しい。真奈美にはおよそ似合わない言葉だが、彼女の裡の女としての性が素直に表現されているようで好ましく思えた。

「だからってやめてくださいよ。息子さんの世話を私に押し付けるような真似は」

「どうしても駄目か」

 私がわざと落胆してみせると、真奈美は怒ったように「もう、会長」と言って私の肩を叩いて揺すった。

「会長こそ、体調はどうなんですか?心臓のお薬の量は減ってないようですけど」

「医者には薬は気休めでしかないと言われている。それよりも毎日ストレスを心臓に与えないようにすることの方が大事なんだとさ。しかし、それが難しい。あまり怒るなと言われても……」

 そのとき私の左胸で何かが小刻みに振動しだした。探ってみると馬鹿息子からの着信だった。

 通話ボタンを押すと洋の半泣きの声がこだまする。同じ涙声でも真奈美と比べると聞くに堪えない。

「前橋から電話があって、明日査問があるんだってさ」

 どうしようどうしよう、とヒステリックに洋が喚く上から私は叱りつけた。「馬鹿もん!社長をつかまえて前橋とは何だ!」

「ひぃ」

「自業自得だ。全て正直に答えるんだな」

「やだよ。もう辞めたい」

「何を馬鹿なことを。うちの会社以外にお前が生きていく場所なんかどこにもないんだぞ!石に齧りついてでも辞めちゃならん」

 電話を切ると真奈美が優しいいつもの声で「大変ですね」と慰めてくれた。私は水割りを喉に流し込んだ。

「本当に困った奴だ。簡単に、辞めたい、だなんて」

 洋と喋っているとどうしても苛立ちが募ってしまう。いつまで経ってもあいつは考え方が子供じみている。無意識にグラスを握る手に力が入る。

 私には会社を辞めるなんて選択肢はなかった。どれだけ苦しくても自分のため社員のため耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで何とかやり繰りしてきたのだ。

 洋には創業者の息子として取締役として私と同じとまではいかなくても同類の覚悟を持って日々の職務に当たらなくてはならない責務がある。

 私のこれまでの血を吐くような努力の積み重ねのうえにあくびをこらえるような気楽さで胡坐し、気に入らなければ辞めたいと言い出す社会をなめた思考回路はこちらも性根を据えて叩き直しにかからないといつか本当に取り返しがつかないことになる。

 その手に不意に柔らかい温度が重なった。真奈美の手だった。

 触れられたところから蕩けてしまいそうな甘い痺れに身体の力が抜けていく。

「あまり怒らないでください。会長」

 真奈美の瞳がいつになく潤んでいるように見える。

 真奈美が私の手を取って自分の両手で包み祈るように目を閉じる。私の手はさらに彼女に引き寄せられやがてその甲が彼女の頬に触れることを許された。再び開かれた彼女の物言いたげな瞳が私にもっと奥まで触れてほしいと求めている。

 どこかで何かのタガが外れる音が大きく私の鼓膜を震わせた。十数年押さえ続けてきた感情だ。一度流れ出せばもう誰にも留めようがない。

 私と真奈美は目を見合わせ口を開くことなくバーを出た。

 言葉なく静かに歩を進めるが胸は張り裂けそうに高鳴っている。

 フロントで部屋の鍵を受け取り無人のエレベーターに乗るとドアが閉まるや否や真奈美が身体を強く預けてきた。私をエレベーターの壁に押し当てしがみついてくる。

 狭い箱の中で真奈美の荒い呼吸が響く。

 私は身体を入れ替え真奈美の自由を奪った。彼女の瞳が私の次の行動を求めて強く訴えてくる。薄く開いた唇に唇を重ねると甘い嘆息と共に彼女の柔らかい舌が絡みついてきた。


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