第3話 才上くんと隼汰くんのその裏側
珠莉の名前を初めて呼んだのは、最初の告白から二日目の1限目の授業が始まる1分前。
ここまで正確に覚えてるところは自分でも気持ち悪いと思うけど、俺にとってはそれくらい印象的な思い出。
「珠莉、悪い! 数学の教科書忘れたから貸して!」
入学してまだ数日しか経ってないのに、教科書を忘れてくるその男を俺は冷めた目で見ていた。
何せ、そいつは珠莉にとって、特別な人間だから。
珠莉は困ったように笑いながら、そいつ……笹川に教科書を持って歩み寄った。
「私も2限目は数学だから返してね?」
「了解。マジ助かる」
そう言って笹川は珠莉の頭に手を乗せて優しく撫でた。
あ、これは牽制か? と瞬時に考えた俺は、たぶん最初から笹川のことが嫌いだった。
「もうっ、隼汰くん子供扱いしないで。私が貸す側なんだからね?」
ポコポコと笹川の胸を叩く珠莉は、それはそれはかわいいのに、相手が自分ではないから見ていてどうしようもなく居心地が悪かった。
その様子を見て、まるでカップルみたい、なんて少しでも思ってしまった自分が嫌で。
珠莉が好きなのは俺なんだよって今すぐにでも口から出てしまいそうで。
「教科書、次の時間に返ってこなかったら俺の見せるよ」
席に帰ってきた珠莉にそう告げた。できれば本当に返ってこなくて、珠莉と席をくっつけたいなんて思ったのは秘密。
でもそれを聞いた珠莉もなんとなく嬉しそうな顔をしていて……(俺の都合のいい思い込みではないと思う)。
「ありがとう、才上くん。でも隼汰くんもそこまで無責任なことはしないはずだから大丈夫だと思うよ。……あ、今のは私の幼なじみの笹川隼汰くん。隣のクラスなんだよ?」
笹川の話を楽しそうにする珠莉が。
笹川を信頼してる珠莉が。
そして、その呼び方が気に入らなくて。
「……珠莉」
そう口にした。
珠莉は一瞬俺がなんて言ったのか理解してなかったみたいで、理解した途端顔を真っ赤にした。
それがあまりにもかわいくて。やっと俺のためにかわいい顔をしてくれたって思って。
「って、呼んでいい? 俺も」
何気ないふうを装って、心臓は早鐘を打っていた。
でも珠莉が「もちろん!」って心からの笑顔で言うから、緊張も喜びに変わってた。
当然、この流れですぐに珠莉も俺のことを名前で呼ぶようになるんだろうな、なんて。
この頃の俺はまだ甘い考えを浮かばせていた。
▽▽▽
授業が終わって教科書を鞄にしまおうとしたら前の席の女子が声をかけてきた。
「才上くん、さっき先生が言ったことメモしてる?」
授業の最後に先生がテストに出す内容を伝えていた。別にメモはしていなかったけど、何を言っていたかは覚えているから教えてあげることにした。
「ありがとう! さすが才上くん!」
笑顔の女の子を前に、これが珠莉だったら……なんて比べて、想像するのは最低のことなんだと思うけど。
でもこれが珠莉なら、俺はここで会話を終わらせるなんて絶対に思わなくて。珠莉が話しかけてきたことをチャンスだ、なんて受け取って次のテストの話題を振ったり、別の教科のテスト範囲を聞いたりして、自然に会話を続けようとしたんだろうなって。
そんなことを考えていたら、嫌いな声が俺の耳にやけに大きく聞こえてきた。
「よ、珠莉。どーした? 才上に用?」
まさかと思って、クラスの扉付近を見れば珠莉の姿。
俺より先に笹川が珠莉に気づいたことに腹立たしさを感じつつ。俺に用なら、と思って機嫌を取り直し、席を立ち上がろうとしていた。
「珠莉? どうしたの?」
「あ、ううん。用があるのは隼汰くん」
まさかそんな答えが返ってくると思わなくて、俺は中腰のまま自分の席で止まった。
珠莉の目の前にいる笹川は肩を揺らしている。間違いなく珠莉に否定された俺を嘲笑っている。
「隼汰くん?」
「あーめっちゃいい気分。ささっ、場所変えようぜ。後でめんどくせーから」
「え? うん、いいけど」
そんなやり取りをして、二人は廊下に消えていった。
一連の行動にかなり苛立ってるのに、さらに拍車をかけるのがこいつ。
「ちょっと才上! 何やってんのよ! 止めなさいよバカ!」
「……うるさい」
志倉が俺の席に歩み寄って文句を言ってくる。どうせ言うなら笹川本人に言って、二人きりになるのを阻止してくれればいいものを。
「笹川の行動を監視するのはお前の役目だろ」
「それはこっちのセリフよ。珠莉エットちゃんの行動くらいどうにかしなさいよ」
珠莉を俺がどうにかできるなら、最初からこうなってないっていうのに、なんでこいつは気づかないんだろう。
「……やっぱり珠莉エットちゃん、実は笹川のことが好きなのかしら」
「珠莉が好きなのは俺だから」
「はいキモい。笹川のほうがかっこいい。珠莉エットちゃんの趣味悪い」
本当にこいつの口の悪さは、笹川に好かれないのも当然だと思う。
▽▽▽
そんな志倉の暴言を無視して、俺は二人の尾行をした。
最初は少し後ろを歩いていたけど、それじゃあ話が聞こえないから少し歩みを進めた。そしたら……。
「……珠莉って才上とめちゃくちゃ仲良いのに才上のこと名前で呼ばないよな」
唐突の話題に、俺は少しだけ驚いた。
え、そんな会話のために笹川のところに来たわけ?
俺の名前なんていつだって呼んでくれてかまわないけど。なんだったら笹川のこと名前で呼ぶのやめて俺のことを名前で呼んでくれていいんだけど?
なんて、対抗精神で心の中で饒舌になっていたら。
「うん。緊張するから」
珠莉の可愛い一言が聞けて、尾行してよかったなんて思ってたのに。
「でも俺のことは昔から『隼汰くん』だよな」
本当に、笹川という男は俺にとっての起爆剤か何かなんだと思う。
「だって隼汰くんは隼汰くんだもん」
「なんだそれ」
笹川は気のないフリして笑ってるけど、俺には分かる。その堪えきれてないニヤケ面が。
「というか、私が名前で呼ぶ男子は隼汰くんだけだよ」
「あー……たしかにそうな。やば、俺めっちゃ特別じゃん」
冗談っぽく言ったけど、こいつは絶対本気で特別と思ってる。
そしてそろそろ笹川は俺の存在に気づいてる。
笹川の横顔だけさっきからやけにはっきり見えるから。後方にいる俺のことを気にしてるんだと思う。
こういう、なんだかんだ聡いところがこいつの嫌いなところの一つでもある。
「で、珠莉の話は?」
「えっとね、……隼汰くんって志倉さんと仲良いの?」
「え?」
仲良いも何も、志倉がストーカーよろしく笹川につきまとってるって声を大にして言ってやりたい。もちろんそんなことを言ったら協定関係が崩れて面倒ではあるんだけど。
珠莉ほどではないけど、志倉も結構笹川に告ってる。
「んーと……なんで?」
「このあいだ一緒に帰ってるの見かけたから」
「いや、あれは一緒に帰ったっつーか……そのー……あー……でもそれがどうかした?」
誤魔化したな。
珠莉が見たのは、志倉が笹川に質問責めをして「また明日」を言わせるタイミングを消して一緒に帰る戦法を繰り出したある放課後の一部始終。
もちろん珠莉と一緒に下校してる俺もばっちりその様子は確認した。
「志倉さんって、やっぱり才上くんのことが好きなのかな」
ないないないない。むしろ好かれたくない。コワイ。
誰がどう見てもあのときの志倉は笹川しか見えてませんって顔に書いてたのにどうしてあいつが俺を好きという思考回路になるのか、まったく理解できないけど。
さらに理解できないのが……。
「さー、どうだろうな。あいつとそーいう話しないから」
と、まあこんな嘘を平然とした顔で言ってのける笹川にさすがにイラっとして。
俺以外の人間が、俺に関することで珠莉に誤解を生むような発言をするのは断じて許さない。
この発言自体もうアウトなのかもしれないけど、それならもう笹川も一緒に退場させればいいって気持ちで。
「そっかぁ」
「そうそう……っつ、たぁ!!」
気づいたら、手が出てて。
思いっきり笹川の頭を払ったら。
あろうことか珠莉が笹川に寄り添おうとした。
それはまずいと思って、咄嗟に俺は珠莉の肩を抱いていた。
「え……わっ、才上くん」
……やわらかい。
頬が緩むのを我慢しつつ、その感触を噛みしめる。
「才上……何すんだよ」
でも俺の幸福を余計な声が邪魔した。
頭を抑える笹川が恨めしそうに俺を睨む。
今のは、完全に自業自得だろ。胸に手を当てて考えろ。
「身に覚えはあるだろ。……5分経ったから珠莉は回収する」
「誰が5分って決めたんだよ!」
「俺だけど?」
「はー。才上、お前ほんと頭おかしい」
「結構。それでもお前よりマシな頭してるからな」
それだけ言い放って、俺は珠莉の首ごと抱いて引きずるように廊下を歩き始めた。
一刻も早く珠莉を笹川から離したくて。
「うわわっ、才上くん、待って」
「待たない」
「ええっ、ちょ……あっ、隼汰くんごめんね!?」
こんなときまで笹川の心配しないでって、言えたら楽なんだけど。
言う資格なんてないから……歩くスピードを上げるしかなかった。
廊下を少し歩いた先、非常階段に通じる扉を開けて外に出た。そして俺は外からその鍵を閉める。
誰にも珠莉との時間を邪魔されないように。
「才上くん、もうすぐ授業始まるよ?」
「うん」
そんなことは分かってる。
このまま珠莉と離れるのは嫌で。
渦巻いてる感情は嫉妬以外のなんでもないけど。
俺はこの狭い階段スペースで珠莉と向き合ったまま。
「……才上くんが隼汰くんの頭叩いたの?」
「目障りな塊があったから払っただけ」
屁理屈だってことは分かってる。
でも珠莉が笹川をかばうような発言は絶対聞きたくない。
「笹川は特別?」
自分が傷つくことが目に見えてる質問をした俺は、Mだったんだろうか。
そんなことを思うくらいにはその発言を後悔していて。
珠莉の顔を見たら余計に死にたくなった。
「……。……聞いてた?」
「別に」
あぁ……声が低くなる。
聞いてたし、知ってた。
それだけは、珠莉のことを好きになる前から。
「隼汰くんは幼なじみだから」
「でも俺は『才上くん』?」
やっぱりそれだけは納得いかない。
俺だって珠莉の特別だろ?
だったら呼んでほしいって。そう思って見つめたら、珠莉が顔をそらそうとするから。
「そらさない」
頰を取り押さえたのに目までそらそうとするから念押した。
本当こんなの子どもじみててバカげてるって分かってるけど。でもさ。
「俺の名前は言えない?」
「……本当に緊張するの」
「緊張していいから」
「えぇっ」
俺の名前を呼ぶだけ。
好きって告白するほうがよっぽど緊張するはずだから。
俺だって珠莉の名前を最初に呼んだときはめちゃくちゃ緊張したけど。
でも今は俺が呼べって言ってるんだから。
「か……」
「うん」
珠莉の口から聞きたい。
そう、思ったのに。
やっぱりそれも、身勝手を通し続けた俺には贅沢だったみたいで。
「付き合ってくれたら……呼びます」
珠莉自身がそう言って、俺に苦行を重ねた。
別にさ、付き合うなんて簡単なんだよ。
俺たちの場合。
でもそうじゃなくて……ただ、珠莉に名前を呼んでほしいって、そんな願いすら俺は叶えられないのかな。
笹川に、俺はやっぱり勝てないのかな。
「……珠莉」
「だってそうじゃないと、この緊張につりあわないよぉ」
珠莉の目から涙が溢れて、さすがにやりすぎたって思ったけど。
「うわ……ごめんごめん。俺が悪かった」
「ごめんって言わないで」
「ああ、ほらこっち来い」
俺の胸で泣く珠莉がそれはそれでとてもかわいくて。
俺を責めるくせに、俺の胸で泣く珠莉がやっぱりどうしようもなく愛おしくて。
「才上くんのバカぁ」
子どもみたいに泣く珠莉を、あやすふりをして俺は幸せを噛み締めた。
二人そろって次の授業に遅刻してしまったけど、俺はそれだって大切な思い出。
まあ、その後に続くのは思い出にしたくないムカつく話だけど。
▽▽▽
「才上、授業サボるのに珠莉を巻き込むなよ」
部活に向かおうとしたら、笹川が人気のない廊下でそんなふうに声をかけてきた。
俺にそれを伝える前に周囲をしっかり確認したところは、少なからず認めてやろうと思う。
あらぬ火種が珠莉に向かわないよう配慮してることは伝わる。ただそれすら気に食わないというのは俺の個人的意見。
「笹川には関係ない」
なんでこいつが『隼汰くん』で、俺は『才上くん』なんだろうか。おかしくないか?
珠莉が好きなのは俺なのに。
なんて、理由はちゃんと分かってるけど。
やっぱり認めたくないんだよ。
こいつが、珠莉の特別だって。
「関係ないことはねーだろ」
「好きだから?」
「そう、好きだから。真面目な珠莉が、誰かさんに振り回されてるのを見てると心配になる」
あえて挑発的な態度をとってみせるけど、笹川はその挑発には乗らない。
だからといって、無難な肯定をして下手な否定をしない。
そういうところが本当に嫌いだ。
「笹川が珠莉に近づかなければ、こんなことにはならなかったんだけど?」
「はあ? 意味わかんねーし。つーか珠莉に好かれてる上にフッておいて、そのくせに余裕がねーとかお前本当頭おかしいよ」
「それはどうも。……でも志倉の好きな人を知らないフリしたお前も頭おかしいよ」
あのとき志倉の好きな人が自分だとは言わないとしても、俺じゃないことくらい伝えてやればいいのに。
それを伝えないのは、珠莉の不安を煽って俺を諦めさせようとしたからだろう。
能天気そうな雰囲気を出してるくせに、考えてることは結構性悪な男。本当志倉はこんなやつのどこがいいんだか。
「お前に珠莉はもったいねーよ」
「それは否定しないけど。お前にも珠莉はもったいないよ」
珠莉にふさわしい男なんていない。
だったら、やっぱり珠莉の隣にいるのは俺じゃなきゃイヤだ。
だから、珠莉にも俺しか見てほしくないし、俺だけを特別にしてほしい。
そう思ったらやっぱり『隼汰くん』の特別を疎ましく思うことしかできなかった。