三の一
三
景行四二年春、常陸国河内の港から舟で内海を南に向かい、相模の川崎に上陸した。
天気の良い流れの穏やかな日を選んでの船路だった。不思議な事に走水での事故以来、タケルは短時間であれば水の怖さを忘れることが出来た。弟橘姫のくれたお守りがタケルの心を穏やかにさせるのかもしれない。
川崎という地名はおそらく太古から存在する川(多摩川)の先に在る土地の意味から川崎と呼ばれたものと思える。本来ならば河口の村(府中)から、甲斐に向かう道(江戸時代の中山道)を通った方がずっと近かった。しかし、ここまで来てタケルは、今一度走水に心が動いた。
「主、どうして川崎などに・・」
歩きながら三太夫が問いかけた。
「碓水は水を泳ぐ魚のように泳ぎが得意だった。事に依るとあの嵐の中でも助かって、御浦の地で吾の帰りを待っているかもしれない」
そんな微かな希望がタケルの歩みを南に向けた。皆は未だに死んだ弟橘姫に思いの残るタケルを見て、一抹の不安を覚えた。
御所ヶ崎の地に入ると、否応なくタケルは胸が高鳴った。
野良仕事をしている民草がタケル達に気付き、走り寄って来た。しかし、すぐに民の顔色が曇り、事態を察した。民が淋しげに話しだす。
「船の禍を噂で聞きやした。御子様は御無事で何よりでした」
ほかの者も懐かしそうな顔をして集まってきた。
「船出して数日後、姫様の御櫛がこの御所ヶ崎の岬に流れ着いたので御座います」
「わしらは皆、深く悲しみに暮れました。そこで皆で姫様を偲んで社を造ったので御座います」
「社はあの岬の近くで御座います。お参りしていって下され」
民達は口々に語った。
一縷の望みも潰えた今、タケルは社に赴き、弟橘姫に再び別れを告げ、一泊してこの地を去った。
小由留木(小田原)の地まで戻ってきた。旅の疲れをゆっくり落として行きなされと語る造だったが、急かれるように二泊だけして旅立った。走水から少しでも遠くに移動したかったからかもしれない。不二の煙もだいぶ治まり花曇りといった空模様、木々の青さが眩しい。そのため険しい南の山道(箱根の道)ではなく北側の足柄山の道を選んだ。
後世の東海道の難所、箱根の道は越すに越されぬというように急峻な山道である、しかも当時は道が整備されておらず、人一人がやっと通れる杣道がずっと続く。整備された道の登場は源頼朝の時代を待たねばならない。
足柄山の道も険しさはさほど変わりはないが、整備される前の箱根の道よりは幾分ましであった。タケルには、山頂から見える景色の良い森に囲まれた湖(芦ノ湖)のことなど知る由もない。塩の無い箱根の山には、当時人など住めるものではなかったのである。
足柄山の麓の小さな村に差し掛かり、背負子を下ろして岩角に座って休んでいると、腰の曲がった媼が通り掛かった。山菜採りの帰りらしく竹で編んだ籠を背負って、手拭いで頬かむりをしている。
「旅の方か、どこまで行くだね」
「山を越えて甲斐国まで行こうと思う。婆さんはここらのものだな」
と、三太夫が応じた。
「左様じゃ、麓の村のもんじゃ。山越えとは偉いことだな。そんならひとついい話しば、聞かせてやろうかの」
人懐こそうな媼で、タケルや三太夫の座る岩の向い側に腰掛けて、勝手にべらべら話し出した。
「いつ頃からじゃったか、この山の神様方が白鹿に姿を変えて、わしらの村の、女子どもの所へ夜這に来るようになった。女子どもは忽ち神様の子を宿してしまい、数日もすると子が生まれよった。するとな、子は鹿の子だと思ったら、小指ほどのこんまい白蛇なのじゃ。なんとのぉ、これで丈夫に育つのかなぁ、と思っておったが、要らぬお世話じゃった。毎日飯をたんと食うて、見る見る大きゅうなってな、一年もすると四尺を超える大きさになりおった。神の子じゃ、このまま一緒に住む訳にもならんでな、汝の棲む場所は山じゃ、山に行くがよい、と言って放してやったのじゃ」
「ほほぉ、で、それから」
乳返稲置が身をのりだして聞きいっている。
「でな、神様のお手付きの女子は尊いとされたものじゃろ。皆に大事にされても罰は当たらぬ。ところがじゃ、人の心など分からぬものじゃ、気味悪がってそんな女子どもを娶ろうとせんがな。じゃからな、わしらの村は、男に飢えた年寄りの媼が干物にするほどおるのじゃ」
と言って、ひひひと笑った。媼は乳返稲置をじろじろ見ては、
「どうだなあんた、わしの好みだ。わしの家に泊まってけや」
と摺り寄って、乳返稲置の手を握った。
「か、勘弁して下され」
乳返稲置は媼の手を振り払うと、立ち上がって、
「み、みなさん、さあ行きましょう」
皆も笑いながら立ち上がった。真剣に聞いていた乳返稲置の姿がおかしかったので、媼がからかったのかもしれない。
「婆さんや、おもしろい話を有り難う。わいらは先を急ぐで、またな」
と、三太夫が別れを告げた。
媼は何故か恨めしそうな顔をして一行の後姿を見つめている。
…『常陸国風土記・くれふし山』を参考。…
佐竹毛人の不思議な術を見てからは、どんな事でも起こりうる、そんな気がしていたから、神様の子が蛇だというおかしな話を頭から否定は出来ないぞとタケルは思った。
漁村の河内村から付き添っている道案内の古老の野老澤が、
「この先の足柄山は一ヶ所だけ険しいところがある。その一合目付近で一泊し、朝早くから登るのが良いでしょう」
と道を示した。一行は日のあるうちに予定の場所に到着し野宿に入った。
「へーくしょー・・」
自分がした大きなくしゃみの音でタケルは目を覚ました。まだ夜は明けきっていない。ぶるると震え、焚き火の側に近寄り熾火を掻き廻し、薪を足した。草木に朝露が溜まり瑞々しい朝である。皆も起き出してきた。
焚き火の中に置いた石の上に乾し肉が並べられている。脇には皆で摘んできた野蒜がどっさり置いてある。今日の朝餉である。皆が手を伸ばし焼けた干し肉を食べ始めた。
その時、不思議なことに行く手に見える坂道の茂みから不意に白鹿が現れ、タケルに向かってペコペコお辞儀をするようにゆっくりと近づいてきた。角の無い女鹿である。
昨日の媼の話が頭を過ぎった。野生の生き物が斯様に人間に慣れ親しんで近づいてくるという経験のないタケルは、何気なく食べていた野の蒜を口の中で捏ねくり、尖らせながら白鹿を見つめている。
すると白鹿がさらに間近まで近づいてきた。
「中々に可愛いもので御座るな」
傍らで稲目が見つめている。
瞬間、タケルは咥えていた野蒜を指で挟んでピッと投げつけた。餌を与えるつもりで投げたのだが、野蒜は尖った矢の如く真っ直ぐに鹿に向かって飛んでいった。
ところが白鹿が口で受けそこなって、尖った野蒜は鹿の右目を直撃してしまった。鹿は痛みに鳴き暴れ、飛び跳ねては倒れ、のたうち回る。そして、ついには大木に激突して首の骨を折り、死んでしまった。
皆が立ち上がり、呆気にとられて見ていると、突然、死骸は白煙をあげて燻ぶり、辺りが掻き曇った。
「な、何だ、何が・・」
三太夫が身構えた。皆も警戒して腰の刀に手がゆく。
煙が薄れてよく見ると、白い神巫の服を着た女が倒れていた。
タケルは事の顛末に卒倒するほど驚いた。
「これは何としたことだ、か弱き娘が白鹿に化けておったのか。それともこの女は神なのか・・(まさかとは思うが、琴姫の仕業ではあるまいか)」
タケルはそう思って近づこうとすると、危険と思ったのか三太夫が制して、三太夫一人が小刀を構えながら女の死骸ににじり寄った。
「主、この女子は・・・確か猿投村にいた女子」
と言って、三太夫は小刀を懐に戻した。
「なんという名だったか・・そうだ、さつきとか申す女子で御座る。しかし何ゆえにさつきがこんなところにおるのか」
タケルも近づいて行く。
「タケル、三太夫、気を付けて。誰かいるわよ」
アルテミスが叫んだ。
その瞬間、空気を切り裂くような音を感じた三太夫は、
「はっ、危ない、主」
咄嗟にタケルに飛びかかるようにして伏せさせた。
しかし、アルテミスの矢も一歩遅かった。三太夫は、ぐふっと咳き込み、タケルの上に前のめりに倒れ込んだ。
「三太夫・・」
タケルが大柄な三太夫を抱きかかえたまま起き上がると、三太夫の背に深深と矢が刺さっている事に気が付いた。
振り仰げば遥か遠くの梢から、男が弓を構えているのが見えた。
「気を付けろ、曲者だ」
と叫んで、タケルは遠くの梢を指差した。
弦が撓って二の矢が飛んでくる。皆は慌てて避けた。この弓の腕を見て、死んだはずの小猿だと皆が気付いた。
弟彦がすかさず応射するが、小猿はスルスルっと木を下りて、早くも逃げにかかる。
「三太夫、しっかりしろ、起きてくれ」
「あ、主・・」
虫の息の三太夫。タケルは三太夫の背から暖かい血がドクドクと流れ下るのを感じた。矢は背中から丈夫な着込みを貫いて心の臓に達するほど深く食い込んでいる。ひと目見てどうにも手の施しようもない事を悟った。
「死ぬな、三太夫。おまえは不死身であろう、こんな矢如きに負けるでない」
「兄者・・」
弟彦も駆け寄ってきた。
朦朧としながらタケルと弟彦を交互に見つめる三太夫。




