一の四
翌日からはここで武蔵国を調べている三太夫達の戻るのを待ちながら、作戦などの摺り合せを始めた。こうしてこの地の民草は、タケルが宮を築いて逗留した時から、この土地を御所ヶ崎と呼ぶようになった。
ここで地形をざっとおさらいしておこう。
現在の関東平野からは想像も出来ないほどだが、タケルの頃は現在の東京湾と広さが同じほどの海が千葉県の北側一帯に広がっていた。香取海といい、霞ヶ浦や北浦、印旛沼、手賀沼などを取り込んだ入り組んだ入り江の海である。現在の銚子市から柏市付近まで利根川に沿った地域がずっと海だったのである。東京湾も川崎市の北側から栃木県に迫る地域まで海だった。間には点々と砂州や小山があり、湿地帯と化していた。
利根川で繋がれた二つの海、昔の東京湾と香取海を合わせて内海という。時代が進むにつれて堆積物で海岸線が後退したが、戦国時代になっても依然として広大な湿地帯は残っていた。江戸時代初頭、徳川家康の政策によって、内海に注いでいた利根川の流れを東の外れの銚子に出る大工事が行なわれた。湿地帯の埋め立てが盛んに行なわれ、現在の地形になったものである。
陸を通って武蔵経由で行くか、舟で対岸に渡ってから行くか二通りがある。タケルは二度手間にならぬように、先に海を渡って総の地(千葉県)を回ってから常陸に入る経路をとることにした。
ある時タケルは弟橘姫を連れて西の小高い山に登った。内海と武蔵野を高い所から見たいと思ったのである。久米八や知立らも連れている。この山がこの一帯で最も高く、見晴らしがいいと聞く。楠が生い茂る山で、のちに大楠山と呼ばれるようになる。古来より楠は樹齢が永く、三千年を超える樹齢の大樹も実際に存在する。この山に生えている楠ものちに大樹として有名となったが、いつの頃か伐採されて大船を作る材料にされた。
冬が近く、風が冷たく感じる。ここからの景色は格別で、西に不二を見、相模の海岸線、そして広大な武蔵野と内海の湾岸が一望に出来た。
皆と離れて弟橘姫と二人きりで楠の根方に腰を下ろしたタケルは、これから通る海峡にじっと見入った。白波だつ海の流れに思わず吸い込まれそうな感覚になり、体が震えた。
「水走る海だな、あの海を渡るのだな・・・」
と、弟橘姫を見つめ、その肩を抱き寄せた。
「碓水は寒いのは嫌い。でも水の中は思いのほか暖かいのよ」
自分を碓水と呼ぶ弟橘姫は、タケルの震えの理由を誤解した。
タケルは特に詮索もせず、
「そうなのか?」と話を合わせた。
「だって海の中では、風が吹かないのですもの」
弟橘姫はタケルに付けてもらった碓水という名が甚く気に入っていた。寒いのか両の掌を口元に持ってきて息を掛けながら、タケルをじっと見つめている。
海流が逆巻き、流れが速い、現在の浦賀水道である。タケルはこの海峡を走水と呼んだ。とかく海峡という場所は海の幅が狭くなっているところで、畢竟流れが速い。
「主、ただ今戻りました」
戸を開け放たれた宮の縁側に、三太夫がどっかと腰を下ろした。背負子をはずし、笠の紐を解きだす。
「おお、三太夫、戻ったか、御苦労であった」
と言って、タケルが歩いてきて、板敷に座った。
「兄上達も皆無事に到着したぞ」
「おや、それはよう御座いました」
と言いながら笠を板敷きに置いた。日に焼けてすっかり黒々とした三太夫の顔が現れた。中に居た皆も立ち上がって寄って来る。
「久しいの、三太夫」
と、吉備臣が脇に座った。
「やあ、これはどうも。お懐かしゅう御座る」
三太夫は立ち上がり皆を見て軽くお辞儀をした。奥からお松が水を入れた桶を運んできて板敷に置き、手拭いを絞って三太夫に渡した。
「やあ、こりゃ有難い」
と手拭いで顔やら手などを拭い始めた。
その様子を懐かしそうに見ながら、タケルは話し掛けた。
「だいぶあちこち歩いたようだな。で、武蔵国の様子はどうであった?」
「はは、武蔵国は広大な野と湿地ばかりで大きな街や邑が御座らん、小集落があちこちに点在しているだけで御座る。大きな川が暴れて定住に適さないようですな。ゆえに人は多いのですが有力者といえるほどの者もおりませぬ」
「左様か、いずれは造を決めねばならぬが、今はその時ではない。先に総国と常陸国だ」
と、タケルは語った。
景行三九年(西暦一五四年)晩秋の朝、一行は船出した。吐く息を白ませて漁民達が見送っている。出港に際し、タケルは御所ヶ崎で世話をしてくれた漁民に、お礼として自らの髷に付けていた革製の冠を授けた。漁民たちにとっては一見何の価値もない物に思えたが、目を輝かせて喜んでくれた事に、タケルはいたく感動した。
対岸の木々の生い茂る土地に向かって、船なら一刻足らずの狭い海峡、走水を越えるだけである。ほんの目と鼻の先だ、午前中には対岸に着くだろうと、誰もが思った。地元の漁民も、些か流れは速いがさほど危険はない、と言っていた。
(大丈夫さ、こんな狭い海なら居眠りしている間に対岸に着くさ・・山の上で一瞬感じた胸騒ぎなど気のせいさ)
そうタケルは自分の胸に言い聞かせ、艫の甲板上に座っている。
側に座る弟橘姫が笑っている気がした。弟橘姫が寒いから船室に入ればいいのにと言うのを、狭いところはなおさら息苦しくなる、と言って敢えて外に居るのである。以前ほどではなくなったが、タケルは未だに水の怖さが治っていなかった。
ところがタケルのそんな気持ちを見透かしたように、船出してすぐ空が掻き曇り、みるみる暗くなってきた。遠雷が轟き、風が唸る。占いを怠ったことをつくづく悔やんだ。艫の船室内で久米八と知立が苦い顔をしている。
波が荒々しくしぶく中で、突然船尾で舵を握っている船おさの大伴建日連が、
「た、大変じゃ、海峡に大渦が現れて舵が利かぬ」
と大声を上げた。皆が驚き、船縁に駆け寄った。船の左舷前方に深く抉れたように大渦が見える。
タケルは丸で巨大な生き物のような気配を感じ、鳥肌が立った。悪い予感が的中してしまった。船は渦に手繰られ右回りに大きく回り始め、このまま行けば渦の中心に吸い込まれてしまうだろう。
「皆の者、位置について漕ぐのじゃ、急げ」
船おさの指図で男達がバラバラッと船縁に座り込んで櫂を握り、船おさの掛け声に合わせて必死に漕ぎだした。しかし、とてもの事に振り切れそうもない。
「駄目だ、船が重い、荷を捨てろ」
言うや否や、船おさは綱を絡めて舵を固定すると、手当たり次第に荷物を担いでは海に捨て始めた。皆も片っ端から荷を捨て出した。可哀そうにも、とうとう二頭の馬までも海に捨ててしまうが、効果がない。
「海の神よ、願わくは御心清らかになさり、われらに慈愛を垂れ給え、どうかお情けを垂れ給え。御心清らかになさり、お情けを垂れ給え・・・」
久米八と知立が両手を組んで必死に祈りを上げる。笹舟の如くに揺れる船の甲板に正座して、海に向かって吠えるように唱え続けている。
突然、漕ぎ手の中から、櫂を手放し、
「海の神の祟りだ」
と叫び声があがる。忽ち伝染して周り中から、
「祟りじゃ、祟りじゃ」
の叫び声。タケルも震えながら、天叢雲剱を出して祈った。
「剱に宿るわれらが神よ、どうか海の神の怒りを鎮め賜え。どうか、どうか、海の神よ、われらをお許し下され」
何度も何度も、ひたすら大きな声をあげて祈った。しかし嵐は容赦なくタケル達に水を浴びせる。もし仮にこの嵐が海の神の仕業だとしたら皮肉な事である。海の神とはスサノオの命に相当する。スサノオの命の持ち物であった天叢雲剱が、計らずも海の神を呼び寄せてしまった事に、タケルは気付いていない。
これを船縁に縋って渦を凝視している弟橘姫が、ふと何かを感じた。そして何を思ったのか舳先に向かって走り出し、欄干に足を掛けた。薄衣がはためき、御髪が風に流れ、すっくと立ってタケルを見つめている。心なしか笑みを浮かべているようにさえ思われた。
「御子様、お別れ致します、わたくし碓水が海の神の怒りを鎮めましょう!」
言うや否や、弟橘姫は凍てつく晩秋の海に飛び込んだ。
あっと言う間のことで、止める間もない。海に入った弟橘姫は、浮遊している菅畳に取り縋ると、飛び魚のように跳ねて乗り上げ、両手を付いて支えながら、ちょこんと横座りをした。
皆は茫然と欄干に縋って、その姿を見つめるばかり。
弟橘姫を乗せた敷物は、吸い寄せられるように渦に巻き込まれて回り始めた。ぺたんと座ったまま目に涙を零れるほどに溜めてタケルを見つめている。既に体は寒さで朦朧としていることだろう。
やがて、にっこり微笑み、眼を瞑った。雫が冷たい頬を伝ってこぼれ落ちる。渦の中心が目前に迫る。弟橘姫は敷物に包まれるように渦の中心に沈み始めた。
皆の悲鳴にも似た叫びが続くが、弟橘姫には最早聞こえていない。
弟橘姫の脳裏に、懐かしい思い出が広がる。
――もうもうと煙に覆われる浮橋山、煙のせいで何も見えない。
「碓水、どこだ! 碓水・・・碓水・・・」
ああ、御子様が・・いま御子様の声が聞こえた気がしたけど・・
「けっほ、けほ、けほ・・・」
気のせいかしら・・・はぁ、息苦しい、煙が滲みて目が痛い・・
これで三度目、どうしてわたしってこんなについてないのかしら。
「けっほ、けほ」
ああ目が痛くて開けられない。ここで死ぬのかな。
あれ、この匂い、微かに御子様の匂いが・・気のせいかしら・・
えっ、なに、なに? 誰かがわたしを抱き上げた。
「けっほ、けほ」
な、何が起こったの?
訳も分からず夢中で縋りついた・・
気が付いたら御子様のお顔が目の前に・・煤だらけで真っ黒だった。
でも嬉しくて、嬉しくて、また強く縋ってしまった。
焦げ臭い中に、確かにあなたの匂いがしたのを覚えている。ああ、ヤマトタケル様・・
目を開けると暖かい日の射す松の茂る海辺(三保の松原)が見えた。とってもいい香り、茸かしら。匂いに酔って、また目を瞑ってしまった。
ふと目覚めて、起き上り伸びをすると、
「うわぁー、空がなんて青いの。大きなお山(不二)が見える・・」
丸で遥か高みから私を見守るように、松原に寝かせてくれている。嬉しくなっちゃって、思わず唄いながら踊ってしまった。こんな美しい所があるなんて・・
「キャッ」
ふと誰かがわたしを見つめている。わたしは驚いて木陰に隠れた。
でもよく考えてみると、ここがどこだか分からない。わたしの名前・・わたしは誰なの? どうしてここに居るの・・・何も思い出せない。
漁の人だわ、仕方がないから助けて貰おう。
「この野郎」
「痛い、手を放して」
漁夫が何か怒鳴った・・わたしを狐と間違えている。
「違うわ・・」
どうしてここに居るのか、自分が誰なのか、昔の事が丸で思い出せないと、ありのままに話したら、何とか分かってくれた。
気付いたら喉がカラカラで、干物になったような気分。お水を貰ったら生き返った。
その時のわたしは薄く透ける単衣の中に赤い衣を着て袴を穿き、その上に白い褶をらせん状に体に纏っていた。
舟に乗せられどこかに運ばれた。あのお山がどんどん迫って来る、なんて雄大で美しいのかしら。村(橘邑)が見えてきた。あちこちの木に黄色い実がたくさん生っている、いい匂い。空の青さに木々の青、そして木々を彩る黄色の実がキラキラと照り輝いている。空気がとっても美味しいわ。
村おさはわたしを哀れと思い、ここで暮せと言ってくれた。弟橘と名付けてくれた。
昔の記憶を失ったわたしが、何故だか分からないが、とても楽しかった思い出が目に浮かぶ。それは浜辺での水遊び。一緒に暮らすお松さんが貝を拾い、わたしは泳いでばかり。泳ぎは誰にも負けなかった、丸で魚みたい。いつも赤い衣を一枚纏っただけで泳いでいた。
みんなと共に暮らすうちに、村おさはわたしを娘にしてくれた。




