二の一
二
景行三七年初夏、ヤマトタケルの一行は大井川の河縁に辿り着いた。梅雨時ということもあり川は増水している。辺りは広大な芒と葦の生い茂る湿原で、その中を幾筋にも切り裂いて川が流れている。ひと際幅の広いのが主流で、幅五百メートル余もある川だけに水深は浅い。そのやや上流に砂州が見える。
あいにくと川舟も見つからず、水に浸かって渡渉するしかない。
横立と知立は馬に跨り、そのほかは薄着になって渡り出そうとしたが、
「おい、三太夫、この広い川を渡るのか」
と、タケルが渋った。
「主、どうかしなすったのか。幅は広いが割に浅い川ですぞ、早く渡ってひと休みしましょうや」
「いや、吾は通れん、この川だけはいかん」
「若、いったいどうしたんです。川を渡らな、先に行けまへんがな」
久米八もせっついた。
「そうだ、もっと幅の狭いところを通ろうじゃないか。ほら、上流に砂州があるだろ、あそこならすぐに渡れるのではないか」
「主、分かっていませんな、幅の狭いところは深くて流れも速いのですぞ。丸太でも架けられるほど狭いのなら別ですが、あの幅ではあきまへんわ。さあ、いい加減に渡りましょうや」
三太夫は無理にタケルの腕を掴んで川に入ろうとした。
「ま、待てよ、吾は動けんのだ」
タケルは尚も尻込みした。大井川の風景を見て海神の夢を鮮明に思い出していたのである。遠津淡海(浜名湖)や暴れ川の麁玉川(天竜川)を通過するときは何も感じることはなかったのだが、ここに来てタケルは進むことを強く拒んだ。
「一体どうしたというのです、主らしくもない。いい加減に駄々をこねないで下せぇな」
「分かっているが、体が言う事を聞かぬ。御河で大水のあった夜、あの時の夢に出てきた川がまさにここにそっくりなのだ。きっと災いがあるに違いない、吾は嫌だ」
「おやおや、若ともあろうお方が、夢などを恐れていては先が思いやられますぞ。そうだ、横立はんにお祓いをして貰いましょ。そんなら通れますわな、ね」
「そうですな、ここは久米八どんの言う通りにしましょう、その間にわいらは丸太を探してきますわ、簡単な筏でも作って渡りましょうや。弟、行くぞ」
三太夫と弟彦は近くに手頃な丸太を探しに行った。横立と知立もにこにこしながらお祓いに使う手頃な木の枝を探しに行った。
「あはは、タケルったら、水が怖いだって、面白いわねぇ」
アルテミスにはタケルの見た夢の内容までは知る由もない。
「ついこないだまでは全く平気だったのに、おかしいわね、ふふふ」
「(ポーン)そのようですね」
くるっと頭を回転させてハデスが答えた。
「倭姫の占いで水難の相が出ていましたから、ずいぶん気にしているようで御座います」
「珍しいわね、タケルが聞分けのないこと言うなんて。どうも時間が掛かりそうだからミーはひと泳ぎしてこよう、続き頼むわね、ハデス」
「はい、行ってらっしゃい」
アルテミスはこのところ温泉で泳ぐのが大層好きになってしまい、日に何度も泳ぎに行くのであった。
横立と知立がお祓い用の枝を見つけて戻って来ると、二人揃って川に正対し、枝を振りながら大きな声で祝詞をあげ始めた。後ろにはきまり悪そうにタケルがしょぼんとして祈っている。その姿を後ろから見ながら皆が何かくすくす含み笑いをしている。
祈りも終わり、三太夫達も簡易の筏を作り終えていた。その筏を二頭の馬で挟むように据え付けてその上にタケル、横立、知立が乗り、ついでにほかの者の荷も載せた。三太夫と弟彦が馬の轡を取って皆で水に入って行った。タケルは未だに青ざめた貌をして震えているが、川は至って穏やかで、心配したこともなくどうにか無事に渡り終えた。
こんなこともあってか、タケルはすっかり水を怖がるようになっていた。とんだ道草になってしまい、辺りはもう西日が射している。仕方なく一行は手頃な林を見つけて野宿と決め込んだ。夏が近いとはいえ、獣が怖いので火を焚いて、四隅を囲むように篝を置いた。
この先の道中は海沿いを辿って東の外れの常陸まで行き、折り返して科野廻りで尾張に戻る、そんな道行きである。当時は常陸が日の本の北と東の外れと思われていた。
そんな夜の事、タケルはこれからの道筋を考えるに、伊勢に滞在中にあらかじめ倭姫に聞いていた昔話を皆にも聴かせることにした。事に依ると何かの役に立つかもしれないと思ったのである。
これまで聞いている猿田彦口伝については暇を見つけては皆にも話して聞かせていたが、今回はその締めくくりとなる話である。
おもむろにヤマトタケルが語り出す。
――神武大王の倭の国興しの終わりの段だ。東の果てに住む毛人と呼ばれる者達に関係することだと思うゆえ、心して聴くがよい。
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猿田彦口伝、その四
わっちは宇受売と申す女将軍、道士カゥハォの弟子じゃ。
蓬莱(和歌山県新宮市)の東の地に貫頭衣姿の種族が住んでいる。出雲族とはまた違う言葉を話す種族じゃ。彼らは海に生きる民草で、その仲間が西の大きな島々(淡路や四国)にも住んでいるという。
自らを海族と呼び、同じように海での生業を得意とするわっちら倭族とは不思議と仲がよい。海族は明るくておおらかな民草じゃ、言葉の響きがそう感じさせるのじゃ。お互いに違った漁のやり方を得意としていたから競合することがなく、装飾品や食料の交易も交わすようになり、言葉も通じるようになった。
ある秋のこと、わっちは再び使者に遣わされ、この海族を仲間に引き入れようと試みた。朝早く船出して、昼過ぎには海族の拠点、大久米邑(尾鷲市付近)の港に着いた。陸沿いでも行けないこともないが、道もなく、険し過ぎて時がかかる。
浜辺には五、六人乗りの舟がずらっと並べられているが、人影は全くない。浜のすぐ側まで森が迫り、一見して原生林のように感じるが、木々の間隔などを見れば人の手が入っていると分かる。
物見によれば、この深い森の中に隠れるように転々と伏屋根の家が見えるという。邑はひっそりと静まり返っている、皆寝静まっているのじゃ。刺激しないように港で夜を待って村おさに面会することにした。
わっちらは狩猟採集や畑作、稲作以外に捕鯨やマグロ、カツオ漁などをする。そして彼ら海族は夜行動するらしく、ホタルイカ、カニやサザエなどを獲っている。月読命という祖神を仰ぎ、崇めている民草じゃ。木々が生い茂り、雨が多くて蒸し暑い地域に住むためか、暑い昼間は木陰に隠れた家や穴倉で寝て、涼しい夜にのそのそ出てくるという変わった習性を持つ。夜目が利き、強い日差しに弱い。
夜になり村おさの家を訪ねた。わっちの必死の熱弁に、村おさは一々頷き感心し、危機感を共有出来た。
しかるに村おさは、
「われら海の者は戦いを好まん、どうすべきかは益荒様(益荒神)が決めることじゃ。どうか神猿田彦命に訊いて下され。われらはただ益荒様、猿田彦命に従うだけじゃ」
と、おかしなことを言う。
「神に訊けと申されるのか」
「益荒様はここよりずっと東の檜山(現神宮の南西の山、八禰宜山)に住む」
と、申した。どうやら生き神様のようじゃ。
わっちらは船に戻り港で一泊し、翌日再び東に向かった。
この辺りでは入り江が多く良港がたくさんある。大久米の村おさに聞いた港に停泊し、わっちは屈強の者五人を連れて山に向かった。良質の檜の巨木が生い茂る山じゃという。尾根伝いの獣道は木々に日差しを遮られ、昼でも薄暗い。
「大久米の村おさは山に入れば居場所はすぐに分かると言ったが、一体この山のどこに住んでいると言うのか・・・えらく険しい道じゃのぉ」
薄暗い獣道を、山刀で小枝を払いながらひたすら奥地へと進むが、一向に檜の巨木は現れない。遠くに見える林の空地で鹿の親子が下草を食んでいる。一方ではヤマゲラが古木をつついて心地の良い音を立てている。
ふた刻余りも登ってきた頃、谷川のせせらぎが聞こえてきた。木々が途切れ、カッと日差しが目に入った。谷川の縁に突き当たった、見ると遥か下に澤がある。すると前方左手に細い吊り橋が見えた。この断崖上に、如何にして橋を架けたものか?
「この吊り橋の先に仙人は住むとみたぞ。いったい猿田彦とはどんな神なのじゃ」
独り言を言いながら、吊り橋に向かおうと一歩踏み出した瞬間じゃった。どこから現れたのか恐ろしく背の高い、痩せた人間らしき者が目の前にフワッと舞い降りた。
わっちは仰天して後ろの二人を巻きぞいにして倒れてしまった。あとの三人が慌てて刀を抜いて身構えた。
「て、天狗じゃ、天狗じゃ」
わっちは突如現れた異様な姿の者に驚き、慄いた。
七尺を超える体躯で、七咫(直径五十三センチの半円)もある鼻が鳩尾の辺りまで垂れている、そんな怪人が背丈以上に長い杖を片手に持ち、吊り橋を塞いだ。木の実で作った首飾りが、一見すると鼻管に見える。顔中皺だらけで、かなりの高齢と見た。頭は半分禿げあがり、僅かばかり残った後ろ側の白髪で頭頂部に丸髷を作り黄金色の布で縛り、耳の後ろで顎を覆うふっくらとした白い髭と繋がっている。白っぽい水干に膝丈褌、蔓の腰紐、手首と膝下を紐ですぼめてとめている。
…この髷に使った不釣り合いな布はのちの世に伝説の鳥鳳凰の羽で出来ているとされ、髷の形が鳳凰の鶏冠に似ていることから鳥兜といわれた。鳳凰の羽は天女の羽衣の材料にも使われた代物で、空を飛ぶ材料である。猿田彦の身軽さから言われた伝承である。…
巨木の如く聳え、足下のわっちらをギョロっとした大きな目で睨み付けた怪人が、
「誰が天狗じゃと? うぬらは何者じゃ。ここから先は神域じゃ、むやみに入ってはならん、帰れ」
と、宣わった。
「お前様は誰じゃ、海族の言葉を話しているな」
わっちは言葉を聞いてひと安心し、起き上った。
「吾は猿田彦じゃ。この山の主じゃ、檜を守っておるものじゃ」
「なんと、お前様が猿田彦命か、それは有り難や。わたくしは倭の宇受売と申す者。お前様に会うためにここまで参ったのじゃ」
「何じゃと、吾に会いに来ただと・・ふふふ、こんな山深い所まで、もの好きなことじゃ」
猿田彦はじろじろとわっちを睨め付けた。
「気に入ったわい、付いて参れ」
と言って、わっちの手首を掴むと、自分の背に放り上げた。
「しっかり掴まれ。ほかの者はここで待て」
言うが早いか、杖を放りあげ、ヒューと空高く飛び上がり、杖から変化した蔓を掴んで猿の如く木から木へと飛んで移る。わっちはしがみ付くのに精いっぱいで、どこをどう通っているのか皆目分からない。
やがて猿田彦はひと際大きな檜の高みの大枝に舞い降りた。まさに天狗である。そこは高さ六丈(十八メートル)ほどの位置にある樹上の家だった。五間(九メートル)四方ぐらいの所に、枝や草などで床と屋根を造り、下からは見ても分からないようにしてある。
猿田彦は未だに震えてしがみ付いているわっちを見て、
「着いたぞ、降りろ」
こともあろうに、体を揺すってわっちを床に落としやがった。
奥に進むと、一段高い所にどさっと座った。
「ここが吾の家じゃ。話を聞こうか」
わっちは恐々と辺りを見回す。そして一つ深呼吸して居ずまいを正し、
「改めて申します、わたくしは倭の道士カゥハォの使いでやってきた宇受売と申します。実はこの日の本はいずれ遠くない日に、大陸を制覇した強大な支那国に攻め込まれることが必定と思われます。支那国の王始皇帝は民を道具としか見ておらず、役に立つ者は酷使し、役に立たぬものは平気で贄にするような王で御座います。今のままでは日の本の全ての民は奴婢にされてしまうことでしょう。一刻も早く結束して国を興し、戦に備えねばなりません」
猿田彦はわっちの品定めでもしているようだ、飛び出た右目が忙しなく上下に動く。益荒と言われるだけあって年齢を感じさせない身のこなし、この異形の男が海族の神だというのは、一体どういう訳であろうか・・
わっちは尚も続けた。
「残念ながら出雲族では纏まりがなくて対抗しえない。道士カゥハォこそ良く支那国を知り抜き、この危機を切り抜けられる器量人でありましょう。どうかわれらと共に、出雲族の民を鎮め、国を創りましょうぞ」
わっちは哀願する如く熱弁を奮った。
猿田彦は薄気味悪く笑っている。もの驚きのしないわっちではあったが、語り終えてさすがにこの猿田彦の気味の悪さに冷や汗が滴る。
意外にも、猿田彦は良かろうと言った。
「ただし、二つ条件がある。一つはわが海族を先鋒とすること。倭の者共がどれほどのものか分からぬが、知れておる。海の者は戦を好まぬが、いざという時には十人力の力を出す。とろくさい者に先を行かれては、力を出せぬでな」
これは願ってもないことだ。
「そして、二つ目じゃ。宇受売は吾の妻となれ、体を差し出せ」
ぬけぬけと言い放った。
これにはわっちも驚いた。自分で言うのも可笑しいが、わっちはまだ三十に満たない見目良き女将軍、猿田彦はどう見ても六十を下らない、しかも化け物のような容姿じゃ。
「相分かった」
わっちは立ち上がり、潔く服を脱ぎ捨てた。




