三の二
そこへ壮年の乳返稲置が穏やかに前に進み出て、
「待て待て、丘前村の方々よ、このお方をどなたと思って刃向うのか。これにおわすお方はヤマトタケルの命じゃ、無礼を働くと容赦せんぞ」
民草達はたじろぎ、得物を下ろしてお互いに顔を見つめ合い、驚きの表情。
「これは、これは、ヤマトタケルの命でおわしたか。いや、これは失礼を致しました。これ、これ、皆の衆、控えよ」
村おさが皆を制して一歩下がらせた。
「あなた様のお噂は聞き及んでおります、大変な御活躍で・・」
「いや、村おさ殿、知らなかったとはいえ大変な事をしてしまった、許して欲しい」
「わたくしも些か短慮で御座いました、知らなかったのですから仕方ありますまい。この土地では水がとても大切でしてな、川はここにしかありません。大切な川で御座いまして、この川をこの村では御河様と呼んで崇めているくらいで御座います」
「御河ですか、なるほど・・・ところで、先ほど大きな波が襲ってきたのですが、あれはどういうことで・・・」
「ああ、あの波はおそらく水神様がお怒りになったもので御座いましょう。あれを御覧下され」
村おさは対岸の遥か遠くの空を指し示した。
「あれに見えるが水神様の住む御岳山ですじゃ。明日にでも、もう一度水神様をお祭りせねばならんでしょう。これからは川や海、山などの神宿る所には呉呉もお気を付けなされ。ともかくここではなんですから、われらの村にお越し下さい。ささ、皆様も、どうぞこちらにお出で下さい」
御岳山はのちに村積山と呼ばれ、三河不二と讃えられる名山である。
村おさに促されてタケル達一行も村人達と共に上流へ歩き出した。歩いているうちに川は東側に湾曲してきた。
村おさの初めの印象は随分気が短くて手荒な人と感じたが、話してみると風習や暦なども心得る巫で、村人にひたすら頼られる存在と分かった。御河の水のことで神経を使っていることがよく分かった。川の上流にある村と水のことで時折揉めることがあると語る。その村とは猿投村という。
やがて今度は北側に大きく川が湾曲する所に出た。ここに渡し場があって、二艘の舟が岸に繋がれている。船着き場が川の本流から離れていた為に大波の被害を受けなかったようだ。
何回かに分けて、皆対岸に上がった、二頭の馬も渡りきった。そして恐る恐るタケルが乗り込む、三太夫と弟彦も居る。
タケルは二人を見つめ、独り言のように、
「いっそう注意をせねばならんな」
と、自分を戒めている。
「それにしても隠岐の波はどこにいったかな。三太夫に弟彦、知らないか」
「いいえ、知りませんが、ないのですか」と、弟彦。
「いつからです」と、三太夫も訊く。
「いや、つい今しがた気付いたのだ、この腰の軽さからするとずっと知らないでいたのかもしれぬ。迂闊だった、惜しい刀だったが詮無い事か・・」
幸い何事も起こらず対岸に上がることが出来た。倭姫の占いの結果が三人の頭の中を駆け巡っていた。
村は三十世帯ほどの規模である。その日から、一行は村おさの家の側に伏屋根の空き家を借りて住み込むことにした。共同で使っている貯蔵庫の一つだったが、寒い季節以外はほとんど使われていないのである。
村おさが倭に下ることをすんなり受け入れたことから、この国の造に任命する事にしようとタケルは思っていた。
初日の夜である。村の広場で煌々と篝を焚いて、賑わっている。昼間の険悪さもどこ吹く風で、タケルが貴人と分かって、村人達の大層な歓迎のうちに宴も終わった。
家に戻り蚊燻しで焦げ臭い中、地面に蓆を敷いて、皆が寝り始めた。楽に十人は寝られる広さがある。やがて皆が寝静まった頃、タケルは時折うなされ、寝苦しそうにしている。
――夢というやつは見たこともないものを見せてくれることがある。吾は時折そんな不思議な夢に遭遇する。夢なのだから自分の自由になってもよさそうなものなのに、どうしても思う通りにはいかないものだ。今宵もそうなのであろうか・・・
ここは蟹のハサミのような形をした二つの半島。
…知多半島と渥美半島に囲まれた浅くて穏やかな海、現在の三河湾である。三河の名は三つの川に由来する訳ではなく、語源は御河であった。のちに言われる西三河一帯のことであって、東三河は含んでいない。御河と呼ぶ川の有り難さから付いた地名である。…
御河の河口にほど近い浅瀬の水中で、白砂に埋もれる石の食台に並べられた豪華な食べ物。岩角に腰を下ろして水草と戯れる娘と、椅子に座って食事をする長身の男が居る。
男の方は紫紺の水干を着て、頭には(後世の蹄鉄のような)輪をはめ、角髪に髪を纏めている。上に着た短袖の直垂羽織に浮かぶ稲妻模様が、水に揺らめき黄金色に輝いてひと際目を惹く。
(この姿はどこかで見た記憶があるが、さてどこだったか)
一方の娘は髪を中央で分け、頭の両脇に大きな輪を作って纏めた不思議な髪型。巾細い羽衣と思しき褶が両腕の付け根に絡み、大きく輪を作って体の周りに虹のように広がって、緩やかな水流に揺らめいている。単衣の薄衣一枚が体に纏いつき、全体が透けて見えるのだが、所々玉や管玉の鎖が絡みついてぼかされている。
そばには乗物なのか大きな平たい二頭のエイがゆったりと寝そべっている。
「これタキリよ、この嫌な臭いは何としたことじゃ。食欲が失せてしまったぞ」
立ち上がって椅子を蹴倒したのは海神のようだ。
お膳に載せられたサザエの壷焼きや、海タナゴをツミレにして丸めて焼いた団子などが、水の中をフワフワ浮遊している。
「お父様」
タキリと呼ばれた娘が水に揺らめく単衣の薄衣の袖で鼻と口を覆って話す。
「これはどうやら人間の汚水のようで御座いますね」
「何じゃと。おのれ、どこの馬鹿者じゃ、わが食事を邪魔しおって。何としてくれようか・・・イチキシマもタギツもここには居らんゆえ、タキリよ、汝に頼むぞ。どこの誰だか探しだして、わが屋敷に連れて参れ」
「連れてきてどうなさるのですか、お父様」
「決まっておろう、懲らしめてやるのじゃ」
「はい、お父様の仰せとあらば・・・(これしきのことで大人げもない事を・・)」
と思うタキリではあったが、激しい父の言い付けゆえに、従うしかなかった。
こうしてタキリ姫と呼ばれる海神の娘が御河を上流へと泳いでいった。
海神と娘のタキリ姫は日の本を回遊していた合間に、ちょうどこの御河湾に立ち寄り中食を取っていたところであった。
…ちなみに宗像三女神の長女タキリとは多紀理、次女のイチキシマは市寸島、そして末姫タギツとは多岐都、多橘とも書いたとか。…
「臭いを辿ればこの辺りだけど、いかに致せばよいものか・・・ともかく陸に上がって人間の女に化けよう」
暗い闇夜に陸に上がったタキリ姫は、夜目が利いた。左指の爪を口に咥えると、歯で爪の垢を取り、指で抓んで頭上ですり潰した。するとどうであろう彼女の体を霞が包み込んで、可愛い鬼髷姿の十七、八の娘に変身した。淡い浅葱色の単衣に袴姿。
これを遥か遠くの山上から鋭い視線を飛ばして見ているものが居た。夜目が利くといっても、歩いて半日ほど上流の山の上から見えるはずもないのだが。もちろん人ではなかった、御岳山(村積山)に住まいなす水神様である。
人間の目には見えぬ山頂の宮の玉座に座りながら地上を見つめているのである。彼女もまた薄衣一枚と袴を穿き、後光が射した如くに褶を棚引かせた姿をしている。
「おや、あれはわが従姉妹、タキリ姉さんではないか。水神の娘が人間界に一体何をしに参ったのか」
…この山神は玉依姫と言われ、イザナギの命の子、綿津見大神の娘である。宗像三女神と同様に水の神と言われ、天候や河水を司っている。不思議なことに玉依姫の三番目の子こそ、初代の神武大王であるとされる説があるが、実は前述した通り同名の別人で、隼人族の祖となった、神武大王の孫に当たる人物と思われる。…
視線の主に気付いたタキリ姫は、遠くを見つめたまま心で会話する。
「これはこれは、お玉ですね、タキリです。お元気ですか」
「おほほ、お姉様、何しに参ったのです、ここはわらわの治める土地ですよ」
「はい、父の言いつけで、無礼を働いた人間を、捕まえに行くところで御座います。決してお玉の領分を侵すつもりは御座いません」
「ほぉ、無礼を・・事に依ると今日の昼間、川に尿を弾いて汚した者がおったが、其奴のことですか」
「如何にも、お気付きでしたか。実はその時父は食事中だったもので、大層立腹で御座います」
「ほほほほほ、それはそれは、叔父上が臭いものを嗅ぐ姿を見たかったこと。わらわも気付いて懲らしめたのですが、逃げられてしまいました。丘前の村に居るはずです、どうぞ御自由になさいまし」
「はい、有り難う、ではこれで」
タキリ姫は頭を軽く下げ、暗い中を村に向かった。
川から程ない平地に田畑が広がり、その一角で木々が生い茂る森の脇に伏屋根の家が数十立ち並ぶ。丘前村である。
夜も白々明けてきた頃、タキリ姫は樹上でじっと村の様子を窺っている。
(どうやら臭いはあの東端の家から漂っている・・・)
気配を殺してそっと木を降りて行くと、急に殺気を感じ、はっとして木に縋りついた。
(居る、何かしら・・・)
辺りを眼だけ動かして探っている。
ふと頭を上げて村の北側の樹上に視線を凝らすと、ムササビの如く木にへばり付いている者が居た。背に矢筒と弓を背負っている。
(何者じゃ、あ奴は・・まあよいわ、わらわの邪魔だけはせんでくれ)
タキリ姫は気にも留めずに臭いを頼りにそっと村に近寄り、臭いの主と思える者の居る建物の傍らに潜んだ。
家々に日差しが射し込み、ピチピチと鳥のさえずりが飛びかいだした。やがて目を覚ました吾は、蓆をめくって井戸の方に向かって歩きだした。
その時、タキリ姫はふと空気を切り裂く鋭い音を感じ、はっとして飛び出した。
「危ない」
たたたたっと近づいて吾の前を塞いだ。
ピューっと飛んできた矢がタキリ姫の左腕に突き刺さった。
「うっ」
と言って蹲ると、吾も驚いてタキリ姫を抱きかかえて屈み込んだ。
「三太夫、弟彦」
周りの様子を窺いつつ、大声で二人を呼んだ。
走り出てきた二人に向かって、
「曲者だ、追え、あっちだ。弓だ、気を付けろ」
「ははっ」
二人は散って行った。
吾はタキリ姫を抱きあげて、そのまま家の中に運んだ。
「ど、どうなすったのです、若」
七掬脛が寄ってきた。
「曲者だ、危ないところをこの娘に助けられてな。早く手当てをしてくれ」
「はは、畏まって御座る。これゴンよ、桶に水を汲んで来てくれ」
言いながら七掬脛は荷の中から紐を出してきて、タキリ姫の腕の付け根をきつく縛った。傷は肘のやや上で、矢は骨に当たって止まったようだ。
タキリ姫は大粒の汗をかきながら目を瞑ってハアハア喘いでいる。
(いったいどうしてこの男を助けたりしたものか、ふふふ)
反射的に体が動いた自分に苦笑するタキリ姫であった。
七掬脛が治療に取り掛かった。
「しっかり致せ、今矢を抜いてやるでな。少し痛いが我慢しろよ・・ああ水はそこに・・」
ゴンが水桶を持ってきて、そばに置いた。
吾もほかの皆も周りで心配そうに見ている。
「よいか、歯をくいしばれ」
七掬脛が矢を握りタキリ姫の腕を抑え、
「むむっ」と、力を込めて矢を抜いた。
「あうっ」と、タキリ姫が眉間に皺を寄せて痛みを我慢している。
すかさず七掬脛が矢傷を水で洗って消毒すると膏薬を塗り、布で傷口を縛った。痛みがだいぶ治まってきたように見える。
戻ってきた三太夫と弟彦が家に入ると、吾を見て首を振った。
いったい何者の仕業なのか。




